禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2002年7月&8月)


■□■2002年08月29日(金)■□■
今朝も曇天。しかし、めずらしく雨を伴っていないし、静かな空だ。
今回のカーブル行きはパーキスターン航空に乗るが、たった1時間足らずのフライトに260$もするので心が痛む。同行者がいれば経費上も絶対に陸路を走るが、今回は1人なのでお許し頂くとしよう…。
それでは行って来ます。

■□■2002年08月28日(水)■□■
今朝も雨の音で眼が覚めた。
高曇りの空から時たま陽射しが見えたり、雨が激しく落ちて来たりと目まぐるしい1日だ。例年より3週間も早いモンスーンの訪れに、明けるのも3週間ほど早いかと考えていたが、モンスーン明けは例年より長引いている。
雨に濡れたススキが重たげに頭を下げて時折の陽射しに光りを放って美しい。葉鶏頭も色鮮やかさを増して、遠くから眺めればそこだけが燃え上がっているようだ。明日からはまた、乾燥したアフガニスターン。色鮮やかなイスラマバードを焼き付けていく。
アフガニスターンでは食材に乏しく、気分的に餓えている友人(日本人)たちのために、明日は豆腐なども携えて行く予定。

最近のカーブルには外国からの援助団体スタッフや、多国籍軍の軍人、大使館員をターゲットにイタリア料理店、中華料理店も出現した。しかし、味の方はイマイチ、イマニで特に中華は値段の割には食べられるものではないというのがオバハンの実感。
市内では外国人向けのゲストハウスも林立、中にはジャパニーズ・ハウスというのまである。とにかく、僅かでも平和が続きさえすれば、小金持ちたちは自立自活に向けて走れるのに…。世界中からの援助団体はいずれも学校などの箱モノばかりに集中している。教育も凄く大切だが、その前に個々の生活は?と考えてしまう。
国連の難民帰還プロジェクトでアフガンへ還された元難民たちは、アフガンへ帰りついたものの住む所もなく仕事もなく、戦争で破壊された瓦礫の中に住みつき始めている。この冬を心配しながら毎日を送る彼らの心情はいかばかりか?

■□■2002年08月27日(火)■□■
飲まず食わずの活動で激減した体重が、イスラマバードへ帰りついてアッという間に回復、 飲んだだけの水分、食べただけの食事が身体に付いていく感じ。もしかしたら空気中の湿気までが身体に付いていくのかも。

昨夜は8時前に就寝、おかげで今朝は5時前から眼が覚めた。パソコンの前でノンビリとメールの整理をし、ゆっくり新聞に目を通す。朝からは炊き立ての白いごはん、日本から差し入れのタラコに塩鮭、幸せ!幸せ過ぎてアタマが働かない、パソコンの前でアタマが空白…。

■□■2002年08月26日(月)■□■
早いモノで911同時多発テロから1年になろうとしている。
各TV報道局、新聞社が何チームもアフガン入りをしつつあるが、新聞の外信やTV報道の解説というのは、どうしてあんなに小難しいのだろうか?もっと簡単に、かつ解かりやすく解説してもらえないものだろうかと、ついつい考えてしまう。現地にいるオバハンでさえ解かり難い報道解説を、日本でアフガニスターンやパーキスターンを見たこともないものに解かるか!と言いたい。

おまけにモノ(記事)によっては、過去の行きがかりを関係なく解説するから、「大いに違う!」と異議申し立てたいものまであって、報道に携わる賢い筈の人たちを最近では色眼鏡で見る癖までついてしまった。

■□■2002年08月25日(日)■□■
仕事で、いつものように陸路を揺られてアフガニスターン/パーキスターン国境まで来たら、めずらしく里心がついてイスラマバードまで帰って来てしまった。今月末の事務所の引越しが気にもかかっていたし、身体が休養を要求しているような気もした。29日にはアフガニスターンへ戻るが、それにしてもこの半年間は全力疾走だったかもしれない。
人間の限界は限られている。動ける間にできるだけのことをしておきたいという、オバハンの欲深い行動だが、欲もほどほどにするべきか!

カラカラ乾燥、黄塵が舞いあがり目も口も開けていられないようなアフガニスターンから国境を越えると、地面には水溜りがここかしこ。カーブル川とインダス河が合流し、川幅が広くなる地点では湖が出現、小川は濁流となり、畑は冠水。アフガニスターンでは一滴の雨も降らないというのに、ペシャーワルやイスラマバードでは雨に洗われた樹木や、何処までも広がる緑の鮮やかなこと。車窓からは、里芋の葉の上にころがる露の光りまでが見えて、ちょっと絵に描いてみたいような気までがする。ホ〜ッとため息が出てしまうくらいに緑がやさしい。

アフガニスターンでも薄茶色に広がる丘陵のここかしこに緑が広がり、休日になると家族や友人たちがうち揃って緑を満喫しに行く。また、各町村には住人が手軽に緑を楽しむための緑地帯が設けられているし、彼ら自身が緑をとても大切にし、雑草一本にも心を寄せるのが伝わってくる。
パーキスターンに戻って来て、溢れる緑をジッと睨んでいると、神の為し賜う不公平さを感じるとともに、たまたま日本に生まれ落ちただけの幸せを改めて感謝する。

■□■2002年08月14日(水)■□■
パーキスターンの第55回目の独立記念日。
昨夜は10時近くになってから、フト思いつき外へ出る気になった。独立記念日を祝うネオンが美しい筈だし、マンゴーシェイク・ジュースも今シーズン最後になるので、何人かのお客様もお誘いすることにした。ハイエースを用意させて外に出ると、雨脚が強くたちまちワイパーは全開。
国会図書館、最高裁判所、国会議事堂、大統領官邸、内務省、パーキスターンTVやラジオ局。マリオット・ホテル等々名だたる建物はネオンで装いを凝らし、眼にも鮮やかな上に、雨で濡れた舗装路面にそれらが逆さまに映って、そのきれいなこと。
雨脚が強いにもかかわらず、結構な人出と車でオバハンたちもたちまち渋滞に巻き込まれてしまった。お巡りさん達はビショ濡れで交通整理。他にも首都イスラマバードのお巡りさん達は全員が出動しているかのように、商店街でも厳戒中。浮かれている時にテロリストが何かをしたら大変だし……。

バイクには2人3人4人と乗りあって大きな国旗をハタめかす若者達、乗用車のトランクにまで家族を満載し、中には箱乗りの人もたくさん。どの車にも鈴なりの人、小型トラックや中型トラックには立錐の余地もなく、ビショ濡れの若者達が旗をなびかせ熱気を放っている。パーキスターン愛国主義に燃えるオバハンも大きなパーキスターン国旗を風になびかせたいと、どれほど願望したことか。
一般のパーキスターン人が住む家にはエアコン等の冷房機がある筈もなく、雨に濡れながらその冷たさを楽しむ人々を、友人は「雪を見て喜ぶ子供達のようだ」と表現した。独立記念日は、大統領官邸前や大通りなどを濡れて歩く人々や、渋滞の車で最高潮に達しようとしていた。傘をさしている人は本当に稀で、2人見ただけだったように思う。
オバハンたちも「雨に濡れるのを楽しみましょう!」などと笑いさざめきながら、声高に祝う人々の中を悠々と歩き、美味しいマンゴーシェイクの店にたどり着く。

パーキスターンでは子供の時から、「パーキスターンが一番素晴らしい」と教えられる。 実際、パーキスターンはオバハンにとっても世界で一番素晴らしく思える。ここではパーキスターンに対する愛国心のない人間などいないのではないかとさえ、思えるくらいだ。たまに海外で暮らしたことのある半端なパーキスターン人に限って、「パーキスターン駄目ネ!」なんて、腹の立つ輩がいるが、まともなパーキスターン人であれば、その愛国心は素晴らしい。
愛する国、愛する家族、愛する人間を身近に持たない不幸を考えたことが、最近の日本人にはあるのだろうか?愛国心=右翼化でもなければ、戦争を肯定する思想でもない。自分の国を愛すればこそ、戦争の反対も声高に表現できると思うのだけれど。

■□■2002年08月13日(火)■□■
アフガニスターンから帰って来て10日近く。
向こうはカラカラに乾燥しており、黄塵が舞う毎日で一滴の雨も降らなかったのに、イスラマバードでは毎朝のようにモンスーンの雨に見舞われている。しっとり、べったり肌にまとわりつく空気のやさしいこと、流れる汗までが愛しく感じられるほどに、アフガン帰りの身体が湿気を欲している。

降り続く雨のせいで埃にまみれていた街路樹をはじめ、イスラマバード中の庭木や芝生は生き生きとして緑色が鮮やか。緑色ってこんなに眼にやさしかったの?芝生の緑って、こんなに柔らかかったの?木の葉から滴りおちる水滴にも、雨で濡れて黒々とした木の幹にも感動できるところが、オバハンの中に残っている日本人らしいところかも。
今朝からは小気味良くドシャ降り。家の前の緩く傾斜した道路はチョットした早瀬のようになっていて濁流が下へ流れ落ちて行く。いよいよモンスーン明けかもしれない。

■□■2002年08月09日(金)■□■
昨日は、バザールで買い食いをしての食あたりだったが復活。
アフガニスターンでは井戸が枯れ、飲食の水にも事欠き、大概の汚さにも耐えられるオバハンですら、食器も洗えないゾッとするほど不潔な生活をしていたにもかかわらず、一度の下痢もしなかった…。なのに…。

カーブルの裁縫学校兼識字教室では、6月はじめから井戸が枯れ、支える会が使用している事務所の井戸も7月はじめには枯れた。手押しポンプに繋がっている水管が水面から離れてしまったので、ポンプを押しても水は汲み上げられず、ツルベで底に溜まった濁り水を汲み上げている。
沸騰させても消毒しきれず、飲食には適しない水(カーブルは標高が1800mあるので沸点が低い)だし、垂れ流しの糞尿がシッカリ沁み込んでいる濁り水だと思えば、食器を洗うにも及び腰となる。かってはミネラル・ウォーターの空きボトルに水を入れ、日向に置いて暖めた水をかぶって「今日は身体を洗うのに3本も使った!」「きょうは4本で贅沢した!」など笑い合っていたのに、その水浴びの真似事すら出来なくなっている。
「水が無くなったら事務所も撤退!パーキスターンへ避難!」なぁんて冗談を言い合いながら、毎日バザールの共同井戸へ水汲みに通っているところが、政府に後押しされて凄〜い家賃が払え、水に不便することもなく生活できる大NGOと、「支える会」の異なるところ。

■□■2002年08月08日(木)■□■
久々にバザールへ出掛け、買い食いをしたら食あたり。
昨夜は晩御飯を食べる時間もないほど大忙しだったが、事務所の大住とオバハン2人、今日は倒れた!

■□■2002年08月06日(火)■□■
「オバハンからの緊急レポート」が、JCJ(日本ジャーナリスト会議)賞を受賞したとの連絡を受けた。
たまたまパーキスターンに住み、911同時多発テロ事件に捲き込まれ、思ったままをHPで発信し続けて出版にまで至ったレポート。マスコミの報道に怒り狂って、「あてつけ」で放り出した報道手配で得た利益金1000万円余り。この1年足らずの目まぐるしかったこと。
アフガニスターンでの自立支援は、想像を絶するものがあるが、走り出してしまったオバハン。こだわりのオバハンは日本での授賞式に出る時間も惜しく、今月半ばからはまたまたアフガニスターンへ。

それにしても……、日本のジャーナリズム界は、まだまだ捨てたものではないなどと、生意気なことを考え、素直に喜んでいる。

■□■2002年08月05日(月)■□■
今回のアフガニスターン滞在は1ヶ月を超えた。そのうちの13日間は、本職のTVコーディネイターとしてカーブル市内を走り廻っていたので、イスラマバードの事務所や従業員たちに対しても肩身の狭さがとれた。
NGO活動は、オバハンにとってはあくまでもボランティア活動(ヨソのNGOのように手当ては出ないし、食費ですらも自分持ち)なので、アフガニスターンでの取材コーディネイターが出来、その合間に支援活動が出来るというのが一番だ。月のうち10日〜15日くらいを本職で稼げると理想的なのだが……。

本職の傍らは、「カーブル市内やハザラジャード地方だけを見ていたのでは、アフガニスターンの現状に触れられない、真実が見えないのではないか?」と、最近思いはじめている。また、ヨソの支援活動や国連活動の実態なども知る必要があるような気がして、今回はアフガニスターン北部を中心に廻ってみた。
マザリシャリフを中心にした北部一帯は、悪名高き(粗野、独裁的、裏切り行為を平気でする、教養がない、田舎モン)ウズベク人のドスタム将軍が治めている。
しかし、道路は整備されているし、物価は安いし、カーブル紙幣で支払ったら「払い過ぎだよ!」と余分のお金は返してくれる(1ヶ所だけではなく、何ヶ所かでも返してもらった)人心の良さ。
バザールでは、「何処から来たンだぁ?座れ、座れ、茶を飲んで行け!」
両手に溢れるほどのアーモンドの実をアチコチでもらったり、オバハンは女の特権を利用して初めての家にも上がり込むし、「チョット!この人をラクダに乗せてあげてヨ!」と、バザールで屯しているラクダ使いと話し込むといったありさま。

カーブル市内で人間の悪さにウンザリしていたオバハンだが、北部には概して古き良き時代のアフガンが残っているのを発見、とても嬉しくなってしまった。

■□■2002年07月19日(金)■□■
本日も、朝6時半から村人が薬を求めて次々と訪れて来る。
前々回は、タイラシャック村を中心に122人の女性から個々に聞き取りをした。殆どの女性が頭、肩、腰、体の節々が痛いと訴えてくる。ナーンとヨーグルトが中心の食生活、3700mの高地には野菜の姿はどこにも見られず、栄養の偏りは被うべくもない。
80歳か?と見えるような歯が抜け落ち、皺だらけ、節くれだったガサガサの手を差し伸べて来る老婆たちへ、年齢を聞くと50歳だという。「まっさかぁ!」と思いながら、血圧を測るべく腕をまくりあげると、膚の張りはオバハンより遥かに若く、確かに50歳だと認識ができる。出産数と子供の死亡数も多く、女性への負担は計り知れない。

20数年前にパーキスターン北部で挫折したが、母子保健の大切さをこのハザラジャードの高地でも改めて感じている。母体、また生まれて来る子供の障害を出来ることなら少なくすること、生まれた子供を少しでもよりよく育てるために、ほんの少しの栄養剤を定期的に投与するだけで改善されるのではないかという気がする。
巡回医療チームが必要だ。

肩、腰などの痛みはチャードルやブルカを被って、前かがみで歩くせいもあると思う。
薬をもらいに来た30人ばかりの女性(部屋に入れる人数)を対象に、「痛み止めでは肩や腰の痛みは取れません!ハイ、みなさん立って下さい。肩の上げ下げをしましょう!」と肩凝り体操を教える。ついでに腰痛体操も。
30代の若い女性でも両腕がまっすぐ上に上げられない人が多く、ふだんチャードルを被っている姿勢に体が凝り固まっている感じ。30人ほどの中でオバハンの号令通り手が上げられる人は2人だけ。次の30人組でも似たようなありさまで、お節介オバハンもめげて、肩が凝ってしまった。

8時半からはカレーズと井戸堀の道具を配布する予定になっていたが、10時半になっても責任者と称する人たちが全員集まらず、「誰のためのカレーズ堀りなのか!」とため息をつきつつ、村長宅に帰って来てパソコンの前に座っている。
発電機を回す時間も限られているので、もうやめる。

■□■2002年07月18日(木)■□■
ハザラジャードのタイラシャック村(バーミアンの南約70km)、標高3700mへJR労組アフガン支援チームと一緒に来ています。
最初のころは、タイラシャック村へはカーブルからジープで9時間もかかったものでしたが、最近は各地で道路工事が行われているせいもあり、7時間半で来られるようになりました。
カーブル市内にある『アフガン難民を支える会』の事務所にも電気がありませんから、地方に電気があるわけも無く、干ばつが酷いハザラジャード高地には飲み水にも事欠くありさまで、飲み水は村人が遠くまで汲みに行ってくれます。まぁ、たいへんなところです。
タイラシャック村では、カレーズと井戸を合計8箇所で掘る予定になっています。カーブル市内でカレーズ堀の道具を揃える大変さは言葉に表せず、道具や小麦を運ぶトラックは途中で壊れ、現地到着は2日遅れ、しょっぱなから山あり谷あり…。

■□■2002年07月02日(火)■□■
30日に放映された『ガイアの夜明け』を見た人たちから、「ややこしいことがあればある程、情熱を燃やすオバハン、エネルギーは何処から?」という質問が、山のようにあった。「ややこしいこと、困難を乗り越えた時の喜びにハマッテいる」のかもしれない。
TV東京による日経スペシャル『ガイアの夜明け』は、サッカーの決勝に祟られたのか??視聴率は2.8%だったとか。しかし、正直に言ってあの視聴率たるものが全く判らない。視聴率、視聴率とは聞くが、何処でどんな人をモニターとして視聴率が出ているのか皆目わからない不思議さ。摩訶不思議というより、ハッキリ言って一番胡散臭いのが「視聴率」とやらではないか!
視聴率のモニターをした人、名乗りを上げヨ!と言いたい。
世のディレクターは、あんな「胡散臭いもの」に惑わされず、スポンサーや会社のトップに気遣いをせず、これからの日本を考える上での指針となるものを作れ!
政府の顔色ばかりうかがっている会社のトップも最低だけれど、それに気兼ねをするプロデューサーやディレクターはまったく根性なしだと思う。報道に従事しているという自覚が本当にあるのなら、強いものには巻かれてはならない。

歩いて250mほど離れた別宅へ行くだけで大汗をかいてしまった。ウ〜ッ、暑いなぁ……と思っていたら、昨日は42度もあった上に湿気が高かった。
イスラマバードにいる間はイスラマバードで出来ることを!と、寸暇を惜しんで、モンスーン到来を聞くや早々と植え替えた植木にも元気がなく、皆へばり気味の夏。

■□■2002年07月02日(火)■□■
きょうは息子が、パーキスターン航空を利用してカーブルから帰ってくる。その同じフライトでオバハンはカーブルへ行こうと考えていたのだが、「申し送ることがあるので待機せよ」と、ワザワザ言われた。不気味な予感、怖いなぁ…。
「アフガンは上手く行かない、また直ぐに揉めるサ!」と、国内外の多くの人に言われながらも、アメリカ主導による格好だけのローヤ・ジルガは終わった。散発的な戦闘もあり、アメリカによる空爆は続いているものの、とりあえず暫定政権が出来、アフガンはよろめきながらも歩んでいる。
息子自身もアフガンの将来には疑問を感じながらも、「一番近いところに住んでいながら商機を逃したと笑われるのは悔しい」というだけの理由で時々アフガンへ通っているし、オバハンも『アフガン難民を支える会』の支援活動にカーブルまでの悪路を走り続けている。
明日未明にイスラマバードを出発すれば、夕方暗くなる前にはカーブルへ到着できるだろう。また、しばらくアフガンで、しごかれて来る。