禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2002年3月)


■□■2002年03月18日(月)■□■
日本って国を今までに増して面白いと思ったのは、オバハンがJR労組の『鬼』に招待されて、対談をしたこと。
さらに、『オバハンからの緊急レポート』は3月25日に出版だが、出版記念会を前倒しでして下さるなど、労組の歓待を受けたら、オバハンは世間一般の頭の悪い連中からアカだと思われたようだ。

某放送局から依頼があったインタヴューは、当日の朝になって、理由にもならないおかしな理由でキャンセルになった。国民の放送局だから『アカ』に偏っているのは不都合なのか?
時々、政府批判はする。批判しないではおられないようなことを起こすからだ。

某有名番組での対談という話しもあった。
「対談ではどんなことを話したいのか?」と言われ、思ったままを話したら、それもチャラになった。
「朝から晩まで報道は鈴木センセイのことばかり。鈴木センセイが、センセイになられる以前から自分のことを「センセイ」と呼ばせていたらしいこと、また、「歩く利権」などと呼ばれているのを霞ヶ関では知らぬ人はなかったろうに。それをあたかも今、知ったかのごとく、あるいは報道協定でも結んだのか「ソレ行け!」とばかり。横並びの報道をする報道陣に腹が立つ」と言いたい。

かつては、巨大な圧力を受けながらも果敢に政府や、政治と渡り合えるようなジャーナリストがたくさんいたのに、近頃はそんな気概のあるジャーナリストが本当に少なくなったような気がする。
結局、誰もが泥をかぶるようなことをしたがらなくなった、責任を取りたがらなくなったことが、『報道『のあり方を変えてしまったのかも。横並びの教育、協調性を求める現代の日本教育の弊害であろうか?などと、オバハンは久々に考え込んでしまった。

■□■2002年03月17日(日)■□■
今朝ほどは、救急車らしきサイレンが延々と続いていたと思ったら、外交官地区にある教会で爆弾破裂事故というではないか……。
ここのところ、しばらくイスラマバード市内は静かだったのに、またぞろ始まりか。
アメリカ人が5人も亡くなったことに、アメリカを初めとする欧米はどんな難癖をつけるのか?

■□■2002年03月17日(日)■□■
昨未明に引き続き、今朝ものびやかなアーザーン(朝の礼拝を呼びかけるモスクからの呼びかけ声)に目覚め、ベッドの中で夜気を楽しむべく全開にしてある窓から、裏庭に咲くみかんの花の香りを楽しみ、パーキスターンへ帰って来た幸せを噛み締めている。
日本から帰って来て体調も本格的に復活、従業員達に「檄」を飛ばすべく大きな声も出るようになったし、時間と約束に追われない生活は「自分自身のリスクの上」に確保したものであるものの、本当にパーキスターンはオバハンの居場所だという気がし、心身ともに自由で何でも出来そうな錯覚にすら陥る……。

そんなオバハンにとっては天国、地上の楽園パーキスターンなのに、成田空港では海外保険が摘要されなかった!
行き先をパーキスターンと言っただけで、「申しわけありません、海外保険の適要外です」だって。
保険会社の何と姑息なことヨ!海外にいるあいだ中の総てに摘要せよ!と言っているわけではない。単に飛行機に乗って、目的地へ到着する間だけ保証をして欲しい(我が家族はお守りのつもりで、いつも2日間だけの掛け捨てを移動のたびに習慣付けている)、「死んでナンボの死亡保険を」と依頼しているだけなのに……。
最近の、マニュアル的な受け答えしか習っていなくて、おまけにそれしか出来ないバカ共、責任を持たされていない日本社会の人たちは(本人たちは楽チンと喜んでいるのかもしれないが)本当に情けなく、悲しい現実だと思う。判断することを他人に預けて良く生きていられるなぁ!と呆れてならない。
「死ね!」と命令されたら「ハイ」と答えるようにと教えられたら、どう反応するのであろうか…などと、空港の保険屋さんカウンターの前で考えてしまった。

10日間という短い日本滞在中に、福山市(広島県)の先生方から「アフガニスターンのことを少し話せ」とお招きを受けた。その折に泊めて頂いた駅前の素敵なホテルでも同じようなことがあった。
朝食をオバハンとご一緒して下さろうという大先生に向かって、「外来の方は、ここで飲食が出来ません」だって。『きまぐれ亭』の向こうを張るヤツがあるのには感動しつつも、マニュアル的な受け答しか出来ない若者にはイライラした。第一、大先生に向かって何たることを言うのかと畏れ入った。ねばった挙句、ラチがあかないと、
「アナタで判らなければ、責任者の方にお尋ねいただけませんか?」
畏れ入ったのは、この若者の直ぐ隣にいて、オバハンたちの会話を黙ってズッと聞いていた人が支配人だというではないか!普通、そう言う時には支配人がすぐさま対応するものだと思うのだが、仕事熱心な支配人は、従業員がマニュアル通りの対応が出来るのか、どうか監督していたのかも。
各々の職分に熱心な日本人に大拍手!

インドで列車が燃やされ、たくさんの犠牲者を出した痛ましい事件が約2週間前。例によってイスラム教徒たちのしわざだと報道されたが、この痛ましい事件がどうして起こったのかを、10日付けの某紙が事件をまき戻し簡単に解説していた。久々に説得力のある解説だった。
インドの列車転覆事故に続き、今度も判で押したようにパーキスターンでの列車転覆事故。印パの憎悪は何時まで、どこまで続くのかと弱小国パーキスターンに身を置くものとしては実に切ない。

■□■2002年03月16日(土)■□■
JRの労組に、「鬼」が巣食っているというので、「どれどれ?」と日本までノコノコ見に行って、イスラマバードへ帰って来たら、10日の間にイスラマバードは初夏!なんと30度を超える気温。
春を彩るやさしい花はほぼ終りかけで、新緑が物凄い勢い。

反してオバハンは日本の汚い空気にノドを痛め、最終日には声も出ないありさま。おまけにコンクリートの上を毎日せっせと歩いて膝を痛め、情けないけれど意気上がらず散々。
さらに、日本では移動のたびに電車の乗車券を買うのに一苦労、携帯電話は常に不携帯。たまに緊張しながら電話を持っていても、電源が入れられなかったり、あっちにもこっちにも心配と迷惑をかけまくった11日間だった。

でも、イスラマバードへ帰って来たからにはもう大丈夫!裸足で歩けるし、手足のごとく痒いところに手の届くような従業員達に恵まれ、天国天国!
イスラマバードへ帰って来たというだけで元気が出て、今朝は(時差の加減もあって)パーキスターン時間の4時頃から仕事。オバハンは、パーキスターンやアフガニスターンの中でしか生息できないのを改めて実感した。

■□■2002年03月04日(月)■□■
寝る前に、大先輩たちへ日本到着の電話、挨拶を入れる。
「たいへんだなぁ、何があったンだい?聞いても詳しいことを教えて貰えないので、何も知らないンだが絶縁なんて……」
大先輩は、先輩からオバハンに対して出された『絶縁状』に困惑されている様子だった。
「オバハンが、パーキスターンの国粋主義者であるから絶縁した」との説明もなしで、オバハンのみならず『アフガン難民を支える会』とも、日・パ旅行社とも絶縁するとワザワザ明記するなんて(別にご利用は頂かなくとも良いので)、これって名誉毀損じゃないのかなぁ?
少なくとも絶縁の内容説明をする義務があると思う。
もし、『…支える会』の仕事で忙しくなかったら、名誉毀損の勝負を買っても良いと思ったオバハンだった。

■□■2002年03月03日(日)■□■
週に一度の日曜野外大バザールへ行くのに、お金がなくって電話料金箱などの小銭をかき集めていると、コックたちが
「その小額紙幣は、もう使えません」と言い出した。
忘れていた!昨年末に1ルピー、2ルピー札が使えなくなると言われていたのを。

日本円にして3万円以上の大きな金額は、どれでも全部大きな金額としてしか認識がないのに、小さな金額になら即反応のオバハン、1ルピーや2ルピーにはムッチャ拘ってしまう。ともあれ、パーキスターンの切手などと一緒に、マニアの方々にお土産として喜んで頂こうと頭を切り替え、ホッとする。

いよいよ日本、ユーウツ。

■□■2002年03月02日(土)■□■
この間の犠牲祭では、イスラマバードの識字教室で子供たち450人にお年玉を配った。
1月からお預かりしていたお金は、「黒板やモスクの床に敷くシート、文房具を買ってやって欲しい」ということだった。子供たちや先生方から「○○が欲しいと要求すれば」すぐさま何でも持って来てもらえると思われないように、犠牲祭になったら「お年玉」として渡そうと考えていたので、難民支援に来られているJR東労組の若い方たち、日本人学校の先生方や息子夫婦も連れて行った。

広い難民キャンプの中で配るのではなく、勉強しているモスクの中で配るから混乱しないと安心していたのだが、一つ目のモスクでは少なからず混乱した。貰った「お年玉」をいち早く自宅へ持って帰り、再び貰いに来るズルイ子供が何人も。また、自分の身内にだけ配ろうとするモスクの責任者、教室の子供たちとはまったく関係のない大人が「お年玉」の袋をシッカリ握っていたり、小さな子供が「お年玉」を取り落とした瞬間に、大きな子供がたちまち引っ手繰るようにして逃げていくもの。子供たちの右手にマジック・インクで渡した印を書いていくのだが、2回目は左手を出すものといろいろで、たちまち「お年玉」は足りなくなってしまった。
でも、初めから静かに座って待っている子もいるし、これは指導する先生によるものらしく、ズルッ子の多いクラスには罰として「お年玉」が追加で渡されなかったし、静かに待っていたクラスの子供たちの手には○印をつけ、印と交換に後ほど「お年玉」が届けられた。

夕方は、ナーン配り。
犠牲祭なのでナーンなどを貰いに来ている人は余りいないという予測だったが、夜気がゆるみ暖かくなったせいか、思ったより多くの人が待っていて、1400枚のナーンはたちまち配り終えることができた。
「オッ!?ナーンを配っているのか?それなら俺も分け前にあずかろう!」
ナーンを買いに来たらしい人までが、列の後ろに並んで座ってしばらく待っていたが、貧しい難民たちから非難がましい目をむけられて、コソコソ立ち去って行ったり、かってはアフガニスターンで豊かに暮していたらしい婦人が静かに座っているのは痛ましい。

■□■2002年03月01日(金)■□■
もう3月、隣家の大桑の木が日ごとに濃さを増し、小さな花までつけ始めた。
冬枯れで色変わりしていた芝生にも新芽が見え、ときおり滴り落ちる僅かな水道からの湿り気に、ミント(ハッカ)が大きく伸び出して来た。スイトピーはしばらく見ないあいだに莢をふくらませ種を作りかけているし、駆け足で初夏がやって来る。
日本も寒さが緩みかけ、ようやくオバハンも重い腰をあげ日本へ行く。
パーキスターンやアフガニスターン、僻地や辺境の地へなら、よろこんで何処へでも直ぐ腰を上げるオバハンだが、文明国と言われている日本へ行くとなったら腰は重い。いつも、いつも上手な言い訳を考え、日本行きを回避して来たが、今回はJR総連からのお招き。かっての労働運動のリーダー「鬼」がオバハンに会いたいという。
「鬼?」怖いもの見たさ、好奇心の趣くままに生きているオバハン、たちまち心を動かした。
「行く、行く!、鬼を見た〜い!」
そんなわけで日本には3月4日〜14日まで滞在する。

98年、99年にカラチやパーキスターンとアフガニスターンを挟む国境付近で流行ったコンゴ熱らしきものが、再び流行りそうな勢い。カシミールやラワルピンディの街では現在47人が治療中、すでに4人が亡くなっている。家畜などのダニを媒介としてコンゴ熱が発症するらしいが、アメリカのたんそ菌のように、何処かで意志を持った人が撒いていたらどうしよう!