禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2002年02月)

■□■2002年02月28日(木)■□■
『アフガン難民を支える会』のカレンダーができました。
カレンダーは、パーキスターン北部の山岳地方(美しく雄大な山や河、桃源郷フンザ)の写真で、 2002年3月〜2003年3月まで。新年度にピッタリ!です。

詳しくは アフガン難民を支える会 の 『ご案内』 をご覧ください。

■□■2002年02月26日(火)■□■
前回、「NGOはエリを正せ」みたいなことを書いたが、昨夜イスラマバードへ到着された方から頂いた週刊誌文春には、「現地有力者が証言、パキスタンで飛び交う悪評」なる記事が載っていた。鈴木議員の圧力による嫌がらせの記事かと先入観を持って読んでみたら、田中元外相と外務次官を更迭したように、「真紀子・宗男対決 全深層」と週刊誌は題しながらも、今度は別口からの鈴木議員とピース・ウィンズ潰しか!といささかウンザリする。

ジャパン・プラットフォームや、その傘下?にあるピース・ウィンズ等は、オバハンなどの感覚ではNGOとは言いがたく、それらは日本政府御用達の援助団体であって、純然たる市民による支援団体とは遠いような気がする。そして、それは団体の上部スタッフが持つエリート意識からも感じられる、「我々はその辺のNGOとは異なるのだ!」と。
ピース・ウィンズに関しては、確かに一部には悪評もある。また代表の大西氏に対しても余り良い評判は聞かない。しかし全般的に見ると若いスタッフたちは頑張っているし、真面目に取り組んでいると言える。

また、滞在には高級ホテルに泊まっていると批判され、「現地では10月〜11月半ばまで日本人専用のホテルに安全上の事情で滞在しました」と広報担当者が答えているが、オバハンには取材記者が事実を少し捻じ曲げて表現しているとしか思えない。
日本人専用というからには、それは多分にオバハンの経営しているとされるハウスを指すのであろうが、この記事の印象では、あたかもピース・ウィンズのスタッフ、あるいは日本から来たNGOのスタッフ全員が泊まっていたように受け取れる。確かに1人が長期滞在をしていた、しかし、それとてもパキスタン人には高いが日本のビジネス・ホテルの半額にも満たない金額だとは書いていないし、事実関係の確認といいながらも日本人スタッフからの説明の前後左右が上手く切り落とされている。

現地に在住のパキスタン人は、彼等の活動を近くでつぶさに見ながら、多分にこのピース・ウィンズからの恩恵に預かれなかったということであろう。
911テロの余波で、一部のパキスタン人は大いに潤った。しかし潤いがもっと欲しい人たちは、あることないこと、他人の足を引っ張ることでこの4ヶ月を過ごしたようだし、これもそうしたパキスタン人のやっかみを上手く利用したという気がする。

■□■2002年02月24日(日)■□■
NGO問題は本来のことから外れ、議員さん同士や外務官僚のバトルになってますます混乱?を極めてしまった。普段は国会中継などを見ない人にも国会中継に興味を持たせ、高視聴率を稼いだというから、彼等のなした役割も満更ではない。
国会での茶番で大橋巨泉が、「やってらんねぇヨ!」とばかりに議員を辞職したが、大橋巨泉の気持ちはオバハンにも何だかとっても良く分かる。オバハンもしがらみのない一匹メス狼の頃にはいろいろ好き勝手が言えた。しかし、オバハンの言動で『アフガン難民を支える会』に迷惑がかかってはならないと思えば、ついつい遠慮が出てしまう。これには組織というものに属したことがないオバハンの大誤算だった……。

大橋元議員については、「無責任」という意見を言う人もあるが、言いたいことを言ってはいけない組織に身を置くよりは、個人に戻り言いたいことを言えば良いだろう。
しかし個人の意見なんぞは、どれほど国政に反映できるのか?
与党のエライ方たちは「国政選挙に出たまえ、国会議員になって国政を左右すればよいではないか?」とおっしゃっていたが、党の枠組みから外れた発言は許されないとか、アレやらコレやら、挙句の果てが低次元のバトルでは国会議員になる意味も薄れそうだ…。
大橋議員の代わりに、帰化された方が国会議員になられたが、日本の古き習慣に染まることがないようにと期待をしている。

それにしても、NGO問題は別の観点からも問い直さなければならないと思う。
現場で働く若い者が、何億という援助金や援助物資を右から左へ動かすことで、金銭的に麻痺し、また援助をしてやっているからエライんだと自分で勘違いしているのが、まず間違いをおかすモトかもしれない。
2〜3年ほど前に、一部NGOの酷さに呆れ、NGO活動を監視するためのNGOを作るべきだと喚いたことがあった。NGOの活動にはそれほど胡散臭いものが多い。
「お母さん、アンタ命が惜しくないのなら、NGOを監視するNGOを作っても良いヨ!」
そう息子に言われて考え直したが、うまい汁を吸っている悪いヤツ等は、汁が吸えなくなったら、本当に命を狙うだろう。

■□■2002年02月22日(金)■□■
アメリカ人、WSJの記者がカラチで誘拐されて1ヶ月。
ノドを掻き切り、殺す様子が映されているビデオが送りつけられたとかで、当地の新聞もトップで扱い、なんだか大騒ぎになっている。しかし、2週間ほど前(カルザイ議長が在パ中の時)現地英字新聞には(1社だけではなく)そのアメリカ人が(同姓同名かもしれないが)パキスタン航空の**便でイギリスを経由してアメリカに帰ったと報道されている。そのアメリカ人が買った航空券のナンバーまでが報道され、その後、同姓同名だったという報道もない。
相変わらずアメリカ(ブッシュ)はテロ国家を攻撃する理由を作りたいようだし、オサマ・ビンがテロに関与していたとして出してきた、ハリウッド製のビデオと同じで、このノドを掻き切るビデオもハリウッドあたりで作られたものではないか?とうがった見方をする人もいる。

「犠牲祭というのは動物を屠って神に捧げるのでしょう、この時期に、こんなビデオを出してくるというのは、アメリカ人も神に捧げられたと見られませんかねぇ?」
某大新聞社の大記者からのご質問だった。
「イヤァ…違うと思いますヨ。おぞましい記事に仕立てないで下さいネ」
本来は、神がイブラヒムの信仰心を試すために、「おまえの息子を捧げなさい」と言われ、今まさにイブラヒムが息子を殺そうとした時、息子は羊に変わった…という伝承によるもので、可愛がって大切に育てた家畜を屠るのが正しい行為とみなされる。それから言うと大記者の観点は少し違うような気がする。

■□■2002年02月21日(木)■□■
イスラマバードとラワルピンディの中間に広がる広大な元難民の定住地。
こちらも暖かくなったので、泥まみれの子供たち、水牛たちがノビノビしている。 子供たちの識字教室も、今日から24日まで
は犠牲祭休みになるというので、昨日は先生方の給料を前払いに行った。
諸式が値上りして生活が楽でないのは判る。
「UNの識字教室では先生方の給料が3000Rsも貰えると聞いている、私たちも…」
「あら!それではUNの識字教室へ移って下さってけっこうですヨ、ご遠慮なく!」
「子供たちが勉強に使っているモスクの有力者たちが、使用料の要求をしています。幾らか支払って頂けると……」
「まぁ!私の将来のために勉強しているンじゃないンですヨ、ご存知ですヨね。誰の子供なンでしょうネ?……。」

無料で使わせて頂いているモスクだが、何かをすれば何かを言う人もある。やっぱり教室を借りようかと考え始めている。

■□■2002年02月19日(火)■□■
黄色い連翹の花が満開になったと思ったら、隣家の大桑の木がみるみる芽吹いて、日増しに濃い色を見せ始めた。もう窓を開けていても冷たい風は感じられず、広い事務所に小さなストーブを入れて縮こまっていたのがウソのように、のびやかな空気に体までが軽い。 新聞を見たら、最低気温が10度を超えている、昼間は25度を超え外にいれば汗ばむくらいだし、今朝は起き抜けの室温19度にストーブも不要だった。久々の素足が心地良い。 本年の春を祝う賑やかなバサント(凧上げ)では6人が死亡、25人が負傷とあった。禁止されている金属糸を使い、高圧電電から感電死した若者もあったし、華やかで古都ラホールらしい風物詩の陰には平和な犠牲があった……。
インドは相変わらずパキスタン国境の直ぐ近くで陸軍と、航空機による演習を続けているが、国境に近いラホールの街では凧揚げ一色の3日間であり、今年は犠牲者が少し少なかったようだ。

2002年、今年は国際登山年ということで、パキスタン観光省登山局では登山料を半額に値下げすることを決定、きょう通知が来た。パ政府も、観光省登山局にしても、まったくわかっていない!登山という遊びには長期にわたる準備が必要で、今、値下げが決まったからと言ってすぐさま登山隊を編成でき、出発できるものでもない。昨年から観光省に対して延々と要求していた結果が今頃ようやくで、いささかムカッ腹が立つ。
ちなみにパキスタンでの最高峰、世界で2番目のK2への登山料は1山あたり12000$が6000$になった。他の8000m峰は9000$から4500$へ。

■□■2002年02月17日(日)■□■
今回のカーブル行きには、JR労組の「子供平和基金」から650万円にも上る支援金を預かって行った。ハザラジャード(バーミアン)で子供たちのために使って欲しいということだったが、オバハンには運悪く(現地の人々には運良く)滞在中に2回も降雪をみたので、山岳部のハザラジャードへ行くことは断念した。
その代わりに、カーブルでの調査が充分にできたので…と、何時でもプラス思考のオバハンは後ろを振り返らない!否、振り返えれない。もし気弱になって振り返りでもしたら、オバハンなりに恥辱で倒れる。
2002年「アフガン難民を支える会」の事業計画予定(概要)は「…支える会」の項を見て頂ければ解かるので割愛する。

カーブルでは知り合いと話す以外は、ウルドゥ語を一切使わなかった……。
「ナニ!?日本人なのに、なんでウルドゥ語をしゃべるの??パーキスターンに20年も住んでいる?フ〜ン、パーキスターンからのスパイじゃないのか?」
そんなふうに思われているようで、いささか居心地が悪かった。パーキスターンの後ろを大国インドが突つきまわし、パーキスターン政府や国民を落ち着かなくさせるように、パーキスターンはアフガニスターンの後ろから自国の都合の良いように操作しようとして来た。そのパーキスターンに対して持っているような猜疑心、大国に対する恐怖心、パーキスターン嫌いをアフガン人からオバハンはひしひしと感じた。

かって、パーキスターンとアフガニスターンの関係を、戦前の日本と朝鮮のような関係と表現したことがあったが、アフガニスターン側からパーキスターンを見たことはなかった。オバハンがインドに対して持っているような不信感、不快感をアフガン人が持っていると解かったのも新たな収穫の一つ。 とにかく、良きにつけ悪しきにつけ、新しい発見はオバハンをドキドキさせる。

■□■2002年02月15日(金)■□■
夜気が急激に温んできた。2週間ほど前のキーンと冷たく張りつめた寒さがウソのようにほの暖かく、「気持ちの良い夜……」と言いたくて、運転手を待たせたまま、ついつい歩いてしまった。夜目にも連翹の黄色い花が浮いて見え、本格的な春になったようだ。
本日から3日間、ラホールではバサント(凧をあげて春が来たことを祝うお祭り)が始まる。夜になると空には、各家の屋上などから揚げられる何万という凧が、ライトアップされ乱舞する。この時期には、ラホール市内でホテルを確保するのは至難のワザで、部屋は何ヶ月も前からの予約で一杯だし、普段の何倍ものプレミアまでが付いて売り出される。バサントは若い男女の出会いの場でもあるらしく、普段は厳しいイスラーム教徒の彼等も「いいことが出来る期待感」に、高級ホテルは、特に金持の子弟など若い男女がイッパイだという。おおっぴらに2人で泊まってはいないが、女グループ男グループと別れてやって来て、なかなかお盛んだとか。
またバサントには、夢中になって屋上から落ちる人、糸が切れて流れる凧を追いかけ車にはねられる人、死人・怪我人のない年はない。

カーブルから帰って来ると、イスラマバードが明るく近代的に見える。日本から来られた人は、「これで首都ですか?電気が少なくて暗いし、なんだか淋しいですネ」とおっしゃるが、数年前に比べると断然明るく美しく、モダーンになった。
ラホールは、このイスラマバードよりさらに近代的で垢抜けているので、カーブルから直接ラホールへたどり着いたら、オバハンなどは目が回るであろう。田舎者のオバハンにはイスラマバードのしっとりした静けさと、高いビルディングのない大きな空間、緑豊かなイスラマバードが一番。でも、20年以上も住んで慣れ過ぎた、刺激が少ないので、新しい刺激を求めてカーブルへ行く。

カーブルへ行く前にペルシャ(ダリ)語の先生を、と捜しに行ったら、結構アチコチで片付け物をし、引越しの用意をしているので驚いた。
「カーブルへ帰っても仕事はないでしょう?」
「でも、ここで家賃を払うのも大変だし…」
「帰っても、国連からの食料援助もないでしょう?子供たちの学校は?」
「そうなんだけれどネ……」
そうなると、アフガニスターンで急がれるのは、アフガン政府による失業対策だろう。

今のカーブルはまだ寒い。新しく防寒衣や布団・毛布を買ってまでは行く気にならないと人は言う。しかし、このまま安定が続きそうなら、新年のノールゥズ(春分の日)を前後に凄い数のアフガン人が帰国しそうだ。

敗戦後の日本でも失業対策が重要だった時期がある。最近は「失業対策」という表現が悪いとかで、公的雇用ナントカというらしいが、周囲の目ばかりを気にする日本人らしいと情けない。「格好付け」にアタマを悩まさず、何でもいいから対策を考えろ!働く方にも「格好かまうな!」と言いたいなぁ。まぁ、格好をかまえるあいだは、余裕があるということなンでしょう。結構、結構!

■□■2002年02月14日(木)■□■
国連機で到着後は、カーブル空港で「パスポート預かり」とされてしまったので、まるで丸腰の侍、被り物のないイスラーム女性のような不安感が伴う。
翌朝は、初雪で凍てついた道を滑らないようにしながら外務省や経済省、空港、さらに再び外務省と経済省をまわって許可証を貰いパスポート事務所へ。そこでようやくビザ申請書を貰って記入、半年間のマルティプル・ビザを取得。提出書類も書き込む書類も、ペルシャ語のものを要求されることがあるとかで興味津々だったが、英文だった。ペルシャ語の出来る者を連れていない時に限って、ペルシャ語書類なのかもしれない……。
暫定行政機構の中で唯一仕事らしい仕事をしている所はビザを許可するセクションのようだが、ヨソ
のセクションではすることもなく、大勢の人が日溜りでとりとめもなくおしゃべり。
「ゆった〜り優雅なお仕事ぶり」を拝見するかぎり、行政機構が整備されるのは何時になるのか?

カーブル市内では朝から夕方暗くなるまで廻りに廻った。不動産屋と事務所さがし、報道関係者たちNGO・関係者たち、生活困窮の未亡人たち、旧知の司令官や指揮官、元兵隊たちに会うこと、カーブル市内にある全ホテルの設備と値段のチェック、中古車センター、孤児院、学校、病院では空爆下でも逃げずに30年以上働いている知り合への差し入れに。どこの役所でもエレベーターは動かなくて通信省は12階まで歩いて上がった。そして頼まれていた土地捜しまで。
市内は特別だと思うので遠く地方の山の中にまで出掛け、コタツに足を突っ込み暖を取りながら老若男女の話しを何時間も、アクバルが面倒がって怒るまで聞きつづけた。

その中で人々を見ると、アフリカのような極度な飢餓状態の人間は見られず、また、感じられないということ……。アフガン国内の都市といわれているところには食料が溢れていると聞はいていた、国連や世界食料機構による活躍は目覚しいと言える。
確かに小麦粉100kgで少女を売るような話も、雑草を食べていることも、空の鍋に水を入れてかき回している話し、木の実を食べて飢えをしのいでいる話しも本当だと思う。
しかし、それらはパキスターン国内でのデモの報道と同じく、そこだけが突出して報道されているような気がしてならない。

社会の最下層に属し、民族、宗教(シーア派)差別のゆえに、国連などからの援助物資が極端に少ないと言われているハザラ族でさえも、「食べるだけなら食べられる、バーミアンにまで食料は届いている、食料が届いていることで人々は安堵している」とバーミアンから来た人自身が言う。
「ハザラジャード(バーミアン)へ食料援助をしてくれれば、そういうNGOを持ってきたことで私への尊敬は深まり、政治家としての立場は固まりポイントは上がる。しかしそれでは我々は何時までたっても自立出来ない。今までハザラ族は虐げられてはいたが、それでも他人にすがることなく努力して生きて来た。しかし、今や国連などの援助により我々自身はスポイルされている。待っていれば援助が来るとわかり、細々とした田舎での手工業もなくなり我々は家畜と同じになっている。我々が自立して行けるための援助を考えて欲しい」というNGO長官の言葉が印象的。

■□■2002年02月13日(水)■□■
首都カーブルの狂奔は、外国人を相手にするところでは、今も留まることがない。
一昨年だったかにキルギスで日本人が誘拐された時も、現地で日本人が気前良く落とす大枚の金で、外国人にうまく取り入った現地人は4ヶ月間で豪邸が一軒。日本食モドキの食事が出せるレストランに至っては一生優雅に遊んで暮せるだけの財産を作ったという。今カーブルでも同じ現象がおこり、イスラマバードでも同じことが起こった。

某民放も某民放も、イスラマバードからカーブルへの国連機の値段が下がったにもかかわらず、元々の高い値段を払いつづけ、その差損はオバハンが推定するところによると1社につき7〜8万$にもおよぶ。北部同盟側のヘリコプターだって、料金の請求をするようになったのは、大量の報道陣が押しかけた10月からだ。それを知らずして無料にもかかわらず6000$もの料金を払っていたTV局もあるし、現地コーディネイターにしたら笑いが止まらない。
また、大手の旅行会社からガイドを引きぬき、2〜3割安に人件費を押さえたと鼻をうごめかせていたのだろうが、国連機だけで7〜8万$もの差損を出しているなら、他ではどんなに大損を出しているのかと、一度、ぜひ帳簿でも見せてもらいたいものだ。会社から派遣のコーディネイターを使えば、会社に責任を取らせることも出来るが、個人であれば誰が責任など取るものか!
TV局も新聞社も、経費節減を言い立てながら大損を出し、本社に分かれば始末書だけでは済むまい。


アフガン内戦によって壊された建物が死んだように延々と続き、迫害が酷かったというハザラたちが多く住む市内南西部は空家だらけ。反対に市内中心部での賑わいぶり活気には、やはり異常なものが感じられる。逞しいアフガン人の多くは儲けることに夢中で過去を振り返らない、今、儲けなくては、何時、儲けるのか!とばかりだ。
外国からのNGOや、これから増える外交官達の住居や事務所を対象に、高い家賃を臆面もなく請求する不動産屋はアチコチの目抜き通りに軒を並べるし、中古車センターもいつにない賑わいぶり。ガラス屋、ペンキ屋、、大工や木工屋の賑わい、長座布団とクッションはドンドン店先からはけて行くし、気持ちの良い活気だがやはり不自然。

外国人を対象とする女子供の物乞いも根性入りで、服を引っ張る。腕をつかみ車に乗せさせまいと邪魔をする。そのしつこいこと、厚かましいことはパーキスターンの5倍を下らない。断りでもしたなら罵詈雑言の雨が降り注ぎ、疾風怒濤のありさまだ。ブルカをかぶってはいるが、痩せこけて食うや食わずや生活に困って……という感じではない。確かに外国人相手の一部を除いては絶対的に貧しいが、腕を掴まれた感じ、出された手を見ると困窮者という感じからは遠い。

しかし、この現象がアフガンだけではないのを昨日、体験した。
久々に出掛けたラワルピンディの街でも、日用品を2〜3倍に吹っかける。元々の値段近くになるまでの面倒な交渉、それが何軒も何軒もでウンザリした。外国人相手の土産物屋では今までから、こうしたことはあった。しかし、日用品にまで及ぶこの現象は、やはり大枚の金を気前良く落とす外国人が来たからに他ならない。

■□■2002年02月13日(水)■□■
パーキスターン・アフガニスターンなどの雑貨展示即売会が開催されます。
昨年末は東京で開催いたしまいたが、今回は大阪です。関西在住の皆様、どうぞ遊びにいらしてください。

ヘラート地方特産のヘラートグラス(吹きガラス)、プリーツの流れが美しいブルカ、カルザイ議長が羽織っていたようなチャパン、今、流行のアフガン・スカーフ。その他、様々なアクセサリや帽子も。
また、薔薇の花色をした美味しい岩塩、ドライフルーツやナッツ類も販売予定です。

なお、収益の半分は、『アフガン難民を支える会』を通じて、難民に寄付されます。
詳しくは アフガン難民を支える会 のご案内をご覧ください。

■□■2002年02月11日(月)■□■
日本では、お忙しく仕事をなさっている方々に、お目にかかるのが中々難しく、ついつい相手の立場を考えて遠慮もしてしまう。しかし、パーキスターンに居ればこそ、イロイロと有名人や尊貴な方にもお会い出来るのがオバハンの余得。カーブルでも、一度お目にかかりたいと考えていた方にバッタリお会い出来た。
「いやぁ、初めまして!こんなところでお会い出来るなんて。ところでトクナガさんはどちらへお泊りだったのですか?」
「某所の某大臣宅にずっと泊めて頂いておりました。」
「エ〜ッ!あの大量虐殺で悪名高いハザラ出身の彼の家ですかぁ!凄く恐い人なンでしょう?一度は見てみたいけれど個人的には絶対に付き合いたくない人間ですネ。」
「エ〜ッ?違いますよ。そんなに恐い人ではありませんヨ。とってもやさしい顔をしていますし、是非、一度会ってみてください。それに彼はもう、兵隊を一人も持っておりません。司令官をしていた時も、若い者に頼られ慕われ、仕方なく悩んで悩んで、本当にやめたいと何年も悩んでいました。それを知っていますから私自身は付き合っていますし、今は政治家として国家再建に努力する決意をしていますから。」
「司令官だからと命令をしていただけではなく、彼自身が引き金を引いて人を殺していますからねぇ。そういう人とはお付き合いしかねますネェ」

日本人の一般的な考え方、あるいは世界中の平和主義者と称する人たちの平均的な考え方は、オバハン自身も日本で普通に暮していたなら同じような反応をするのだろうと思う。
しかし、現在のアフガニスターンには、暫定行政機構のカルザイ大統領を初め、人を殺していないリーダーなどいないのではないか(カルザイが実際に人を殺したか、どうかをオバハンは知らないが)。人を殺していないリーダーを捜す方が難しいとさえオバハンには思われる。
アメリカのブッシュ大統領や、イギリスのブレア首相がノーベル平和賞候補だという。しかし、彼等は自分自身で引き金を引かなかったが、どれほど多くの人を、戦闘とは関係のない一般人をも含めて殺して来たか!
国連の権威が失墜したのと同じように、ノーベル(平和)賞もブッシュ大統領とブレア首相が候補者に上ったというだけで、その権威が地に墜ちたものだと思うのはオバハンだけではあるまい。

オバハンの知り合いは、大臣ではなく大臣待遇の次官だった。悪名高き大量虐殺者ではなかったようだが、彼も当然のように人を殺している。オバハンのアシスタントをしているアクバルだって人を殺している。オバハン自身も息子も、自分が生きるか死ぬか、本当に殺されそうになったら、相手に敵意を持ち、殺そうと考えるかもしれない。人間の立場とはそうしたものだという気がする。しかし、だからといって許されるものではないと思う。自由主義諸国、西欧諸国、世界の安全を確保したとしても、ブッシュやブレアにノーベル(平和)賞が貰えるものなら……。大義名分さえつけば、どれだけ人を殺しても良いということになるではないか。

昼間のほの暖かさがウソのように消え、冷え込んで来たと思ったら、細かい風花のような雪がチラチラと舞い出した。厚く泥を固めた家、その家を取り囲む厚い泥塀、家も塀も人の手で作られたやさしい曲線がうねうねと続き、すぐそこに見えていたパグマンの緩やかな山並みも、紫色の夕闇とともに初雪の向こうに沈んでしまった。
電気はないので、近所も闇に沈んだまま、人の住んでいる気配らしきものもなく不思議な静けさが漂っている。

カーブル市内の南西部には、アフガニスターンで最下層に属するハザラ族が固まって住む。
1週間も滞在させて頂いた家は、オバハンが到着した夜からなんとか住めるようになり、室内には機械織りの大きなカーペットが2枚敷きつめられ、部屋の壁際には客用にと真新しく厚い綿の入った、幅70cmばかりの長座布団状の物と大きなクッションが5つずつで、それらは寝る時には敷き布団と枕の代わりにもなる。そして日一日と、泊まっているあいだにも家は修復が進み、調度が整い、井戸の水が汲めるようになり手洗いにも洗面台が入り、詰まっていたトイレは修理され、経済的に余裕がある家では発電機が運び込まれ、快適になって行く。近所にも、ボツボツ家を手入れする人が見られる。電話などほとんどないアフガン社会だが、口コミで情報が伝わるのだろう。平和への期待を胸に、人々が少しずつ戻って、僅かばかりの荷物を運び入れている。初めは人の住む気配が少なかった近所にも、1週間ばかりでところどころに炊煙が上がるようになっている……。2月の22日は、イスラームの大祭(家畜を屠って神に捧げる)。人々はその日を自宅で迎えたいと壊れた家を修復するのに余念がない。
オバハンのカーブル滞在最終日には、戸主が近辺に住む主だった人たちや、古い友人も呼んで久闊を叙すというので10人の男性が呼ばれた。その中では、辛うじて3人だけがアフガニスターン国内にとどまり、西欧から帰って来た者2人、イランから2人、ウズベキスターンから1人、パーキスターンから2人が戻って来たという。大きな灯油ストーブの心強い音にまもられながら、今までのこと今後のことに四方山話はつきない。しかし9時過ぎになれば、「外出禁止令が出ているので」と、真っ暗な路を客たちは帰り始める。
夜になれば本当に真っ暗で、「外出禁止令」が出ていなくとも、歩こうなどという気にはなれない。息子は、「外出禁止令」と、完全に破壊された建物が延々と続くのを見て、また、何年も空家になっている廃墟のような住宅(元住宅とでも言おうか)の連なりを前に、「これが戦争というものか……」と、大きなショックを受けている。

■□■2002年02月08日(金)■□■
ただいま!雪のカーブルから元気に帰って来ました。

結局、当初の予定通り1月31日の国連機に乗せて貰いカーブルに到着している筈が、アッラー(神)の御心か、「フライトの都合により、乗れない」と連絡があったのは30日の午後遅く。アクバルの「もう大丈夫、安心です」というウンコの夢は何だったのか?そう思いながらも、人間万事塞翁が馬だしなぁ…、きょう乗れなかったことで「良いこと」がきっとあるのだろうとアタマを切り替える。オバハンの思考回路は常に単純で前向き。

それなら、『オバハンからの緊急レポート』も予告通り、きょう31日中に最終稿をゆっくり書き上げよう、オバハンなりに気持ちのけじめがつく、ありがたい…と、ここまで書いて、急にヘンナ(メヘンディとも言う、西アジアからインド亜大陸、一部中国でも栽培されているミソハギ科の潅木。古来より黄色染料として使われており、髪染めとして使うと濃金茶色に染まる。また光線のあたり具合によっては濃い金赤茶色に見える。日本で染めてもらうと1万円近くするらしい)することを思いついた。考えてみたら忙しくて数日シャワーをしていないし、白髪も増えたので、ゆっくり気分転換をするつもりで溶いたヘンナをシャワー室で頭にべったり乗せ始めたら息子から電話がかかって来た。
「カーブル行きの国連機に乗せてもらえそう、30分以内に集合出来るのなら行けるけど、どうする?準備も出来ていないし今回は見送ろうか?」というようなことを、ケイコさんと話していると鋭く感じたオバハンは、話しの内容を確認することもなくシャワー室から叫んでいた。
「行く行く、乗ります!」
後は、もうシャワーどころではなく、洗面台で頭に乗せたヘナを温水に変る時間も惜しくて冷水で震えながら必死になって流し落とし、息子とアクバルに頼まれた防寒衣を手当たり次第に詰め、あまりの慌しさに全従業員がボーゼンと見送る中、洗い髪を振り乱し、靴も履かずに手に持ったままで車に飛び乗り国連事務所(フライト・オペレーション)へ向かった。
湯豆腐も鶏の水炊きも、「30分以内に集合!」の一言でブッ飛んだ。

イスラマバードは快晴、初夏まがいの暑い陽射しの中をフライトはアルカイダやオサマ・ビンが隠れていたとして一躍有名になったトラボラを眼下にしながら一路西へ。遠く雲海の上にアフガニスターンとの国境をなす、8000m近いティリッチミールやノッシャックの大きな山頂が抜き出て見えるのが印象的。

オバハンの気持ちの中では、カーブルは近すぎて『外国』という感覚が欠落していたが、ダリ語(ペルシャ語の古典語、宮廷語)を覚えなければ……、という気持ちだけはあった。わかってはいたが、生来のベンキョー嫌い、なんともはや不便なことの連続に遭遇し、あらためてカーブルは言葉の通じない外国だったことを認識した。挨拶以外は長いセンテンスの中に知っているウルドゥ語の単語が1つくらい解かって、後は数字が解かる程度で勝負をしなければならない辛さ。クッソー!次回は、もう少し憶えて行く。
悔しいが3日間だけ、ダリ語の家庭教師でも雇おう。常にベンキョーは3日坊主のオバハン、3日以上は続かない。しかし3日坊主も10回やれば30日間のベンキョーにはなる。また金を掛ければ日常会話くらいは何とかなる、いや、何とかしなければ。

カーブル市内の家賃は狂奔の状態、すぐさま使えるような家は皆無に近く、タリバン撤退前と今では20〜30倍という値上り具合。どこのNGOも大使館も3000〜1万$というのは常識らしい。空家はたくさんあるので使用できる家が出来れば家賃は下がる筈…、とは思いつつも、まだまだ値上りは続きそうで畏れ入る。
アフガン取材に強いフリー・レポーターを抱えている某民放は、タリバン陥落前後から新市街の1等地に175$で1軒屋を借りているというから先見の明ものだが、現在は平均して人件費もレストランでの食事もパーキスターンより高く、おまけにバカな外国人たち(多国籍軍を含む)は帽子や、パレスチナのアラファト議長が頭に巻いているようなスカーフ、みやげ物にまでパキスターン値段の平均5倍値を払っているので、「稼げる時に稼ごう」というアフガン人たちにとっては、ネギ鴨状態。言葉がイマイチなオバハンも、バカな外国人の仲間に何時でも混ざれる状況。

タリバンがカーブルから撤退した2日後、オサマ・ビンの妻(何番目かは知らない)が住んでいたという家に某大国の某民間企業(だという)が、入居した。外観はセメントと石造りの2階建て、南の角に銃撃の後が少し残っている以外はシッカリした立派なもので、内部はアフガニスターンとは思えない快適さに作られているという。
オサマ・ビンの妻がそこで住んでいる、オサマ自身も妻の家から直ぐ近い新市街の繁華街(カーブルの基準で)へジュースを飲みに来ているというような事実を近辺の住民も、某大国も知っていたであろうに何もせず、また、タリバン撤退直後にどんな手順でその家を某大国の民間企業が借りうけることが出来たのか?さらに、全体的にはカーブル市民が感心するような正確なピンポイント攻撃だったにもかかわらず、その家が攻撃の対象になっていないのは何故か?などなど、考えれば考えるほど、なんとも怪しい所業がイ〜ッパイのカーブルでオバハンの好奇心はかきたてられる。

アフガニスターンが世界中からの注目を浴びたのは、オサマ・ビンのお蔭?ある意味ではアフガニスターン再建のきっかけになった救世主のポスターは、カーブルでも地方でもただの1枚も見られなかったが、パーキスターンへ帰って来たら相変わらずの賑わいぶり。