☆焼酎最古の文字
 昭和34年、鹿児島県北部に位置する大口市の郡山八幡神社が解体修理されたときに一枚の棟木札が発見されたのですが、それにはこう書かれていました。
 「其時座主ハ大キナこすでおちやりて 一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」(けちな施主は一度も焼酎をふるまわなかった。なんとも迷惑なことである)
 永禄二年(1559年)の日付があり、同神社の改築が行われたときにかりだされた大工の落書きとされていて、もっとも古い文字になります。時代は? というと翌年に織田信長と今川義元の桶狭間の戦いが行われた頃です。
 それより前の1546年、薩摩半島南端の山川港に来航したポルトガル船の船長が、フランシスコ・ザビエルに布教のための詳しい見聞記「日本報告」を書き送っているのですが、そのなかに「飲み物として、米からつくるオラーカ(蒸留酒)が飲まれていた」ことが記されていました。もっとも古い記録です。いずれにしても薩摩の南と北で焼酎が飲まれていたことは明らかなようです。
 そこで、焼酎の歴史は? というと当然、それ以前からつくられていたことになるので、およそ500年前という言い方がされている訳です。  





☆江戸時代の焼酎
 薩摩藩主の島津氏は焼酎を南蛮渡来の高価なものとして、室町時代から将軍家への献上品の一つにしていました。米焼酎です。
 また、時は江戸時代。島津家久は琉球王朝(奄美、沖縄)を侵攻の末に降伏させた後、駿府の徳川家康に琉球酒を献上しました。この琉球酒には奄美の黒糖焼酎も含まれていたようです。当時、米より貴重な黒砂糖が原料だったことなどもあって、これらは庶民が口にできない高級酒だったわけです。
 その頃は単に飲用としてだけでなく、薬用としても珍重されていたそうです。食中毒や暑気あたりの特効薬として飲んだり、刀傷の消毒に使われたり。浅野内匠頭に切りつけられた吉良上野介の額の傷の手当ても焼酎でされたとも言われています。
 このように焼酎が広く知られるようになると、大名が国元で刀傷の消毒などのために清酒粕(かす)を原料とした「粕取焼酎」をつくらせ始めるわけです。そして清酒業の副業として広く行われるようになるのですが、これは薩摩の焼酎や琉球酒のような「もろみ取り焼酎」とは違ったものでした。これらを区別するために、当初は「焼酒」と呼んでいたものを「泡盛」と後に薩摩が命名したという説もあるようです。尚、薩摩の焼酎も泡盛も明確な区別はされていなかったとも言われています。
 いずれにしても当時の京や江戸の知識人たちの認識不足も手伝って「焼酎とは清酒の粕を蒸留したもので、薩摩には焼酎に似た泡盛という強い酒がある」とされてしまいます。へき地でもあり、身近に観察できなかったんでしょうが、大いなる誤解だった訳です。  





☆カンショ伝来
 
<こがねせんがん>
 中南米生まれのサツマイモは中国、琉球を経て伝わってきました。南薩摩の漁師・前田利右衛門が琉球から持ち帰ったのが1705年のこと。その後に起きた飢饉の救荒作物として、また日照りや台風にも強く火山灰土壌のシラス台地にぴったりの作物として普及していきます。享保・天明年間に各地で頻発していた飢饉でも薩摩では一人の餓死者も出なかったといいますから利右衛門の果たした功績は大きいものでした。ちなみに「からいも」とは「唐」から伝わったということで、また、「さつまいも」とは本土においては薩摩から伝わったという理由でネーミングされたそうです。
 一方、種子島ではそれより前の1698年に琉球王・尚貞から領主・種子島久基に贈られ、石野寺に栽培したという島津藩の記録があるそうですが、久基が琉球から取り寄せ、試作させたとも言われています。いずれにしても島民に「藷(いも)殿様」と呼ばれ、親しまれたそうです。尚、1615年イギリス人ウィリアム・アダムスが平戸に持ち込んだものが記録の上では最初になりますが、普及までには至らなかったようです。
 その頃は、年貢として米の取り立てが厳しく、稗(ひえ)や粟(あわ)などの雑穀類からも焼酎をつくっていたので、それらが次第にサツマイモに取って代わっていく訳です。一方、米に恵まれた球磨地方では、米焼酎の伝統が残り、球磨焼酎を、また雑穀焼酎は宮崎県北部に伝わり、そば焼酎の基礎を築いていくことになります。
 当時の仕込みは麹、サツマイモ、水をかめや桶(おけ)に同時に入れる「どんぶり仕込み」だったため、その出来具合はまちまちだったようです。もともと南九州は清酒つくりは盛んではありませんでした。というのも温暖な気候のために麹が腐敗しやすかったから。焼酎もこの清酒つくりに使われる黄麹を使っていました。その上に水分が多くて、日保ちが悪いサツマイモを使う‥。
 そこで「こめん(米の)焼酎」は上等で、「からいもん焼酎」は下等とされていました。米焼酎はつくりやすいものの値段が高かった。いも焼酎は生産性が悪い上に出来不出来も激しかったという理由からだったのでしょう。





☆自家用から営業用へ
 江戸時代には冥加金という税金を義務付けられ、許可制のもと、焼酎は製造されていました。明治時代になるとこの制度は廃止され、一定の免許料を納めれば、誰でも酒造経営ができるようになる一方で、自家用には税が免除されました。もっとも後に自家製造にも免許鑑札料なるものが徴収されるようになり、またその量も制限されることになって無免許でつくる者が増えていくのですが…。
 いずれにしても焼酎は買うものではなく、味噌や醤油と同じように家庭でつくるものだったわけです。その味の良し悪しは嫁さんの評価にもつながったそうです。
 その後、酒税制度の改革があり、税金の取り立てが厳しくなる一方で、業者からは自家用の製造禁止の要望が出され始めます。そして明治32年、酒類の自家製造が完全に禁止されてしまうわけです。ところが業者が少なかったために、需要を満たしきれず密造は増える一方だったようです。
 そこで税務当局は密造防止と不便を解消するために自家用の共同製造場をつくることを勧め、部落ごとにできていくわけなんですが、それでも不満は解消されずに、次第に販売目的の製造場が増えていくことになります。共同でつくるより酒屋で買って飲んだ方が経済的だということだったんでしょう。





☆本格焼酎つくりの変革
 明治の末に誕生した新式焼酎(甲類)が資本力を背景に台頭してきた。また大正3年には暖冬異変で全国的に清酒もろみが腐り、その措置として、蒸留した粕取焼酎が多くつくられ、出回ったために、焼酎価格が一気に暴落する”事件”が起こってしまう。そんな世相の向かい風を克服するためもあって、製造方法や設備の改善、改良が始まっていきます。
 その一つは麹菌がそれまでの黄麹から泡盛の黒麹に変わったことです。黄麹はもともと清酒つくりに使われるもので、でんぷん質の糖化力にはすぐれているものの、もろみの腐敗防止に役立つ有機酸の生成がない。もろみをしぼってそのまま飲む清酒には適していても、焼酎のように蒸留する酒では酸があれば雑菌に汚されず腐りにくい上に、香りも良いというわけです。その点、黒麹は多くのクエン酸を含んでいるので、もろみの酸敗を防ぎ、温暖地での酒つくりに適していました。黒麹を使うことでアルコール生成量も増えたわけです。
 もう一つは現在の製法の基本となっている二次仕込み法が始まったことです。それまでは麹、蒸イモ(米)、水を一度にかめに仕込んで発酵させる「どんぶり仕込み」だったわけですが、これだと大量に仕込む場合、酵母の活動が間に合わず、もろみが腐りやすかった。そこでまず一次仕込みとして麹と水でもろみ(一次もろみ)をつくり、その次に二次仕込みとして一次もろみにイモと水を加えて二次もろみをつくる方法が開発されたわけです。
 さらにこの黒麹菌から、突然変異で生じた白麹菌が後に発見されます。黒麹菌はその名の通り、真っ黒で黒い胞子が飛び散り、汚れるのが欠点だったわけですが、白麹菌はそのようなことはなく、麹つくりが容易で、品質も優れていました。その後多くの焼酎でこの白麹菌が使われるようになり、主流となっていきます。

参考図書:鹿児島の本格焼酎

(春苑堂出版)