18世紀後半のイギリスは数々の植民地獲得戦争の負債や
獲得した植民地維持のための費用によって、経済的に苦しい状態でした。
その費用捻出のためアメリカに対する課税を強化しました。
アメリカは、ピルグリム=ファーザー以後、経済・宗教・政治的自由を求めて、
数多くのイギリス人が渡米していました。
アメリカの自由を尊ぶ精神や自主独立の気運というのは、
この当時からはぐくまれていたのです。
当初は、イギリス本国のアメリカ支配は緩やかなものでした。
しかし、植民地獲得戦争後のイギリスのアメリカに対する政策の変更は、
イギリスの課税強化という現実的な経済的負担に対する反発だけでなく、
アメリカに渡ってきた人々の独立心・自由に対する侵害として
より重大な問題をはらんでいたのでした。
かくして、事件は起こるのです。
イギリスではジョージ三世の治世でした。
一連の課税強化策の中、1773年TeaAct(茶法)が発布されます。
これは、東インド会社に茶の販売の独占権を付与するもので、
もう少し詳しく言うと、イギリス本国は東インド会社救済のため、
本国での関税を免じ、タウンゼント関税のみを課した安い英国紅茶
の販売を計画しました。これは植民地人の茶税の受け入れと茶の密貿易
への打撃という一石二鳥を狙ったものでした。
1773年12月16日夜。
この東インド会社優遇策に反発した、愛国者サミュエル・アダムスが組織した
急進派グループ「自由の息子たち」はモホーク=インディアンに変装して、
東インド会社の船を襲撃しました。
50名の部隊を引き連れ、サミュエル・アダムスは、
ボストン港に停泊していた3隻の東インド会社船を襲い、
342箱(実に15000ポンド、海が紅茶で染まるほどだったという)の紅茶を
「ジョージ三世のお茶会だ」と揶揄しながら海中に投げ捨てました。
港で見守る人々も、誰もこれを止めようとはしなかったということです。
この事件によって、アメリカの人々が本国との対立を覚悟したのは、
明白であったといわれています。
この事件をきっかけに、アメリカと本国イギリスの関係は
一気に緊迫し、歴史の歯車は大きく回るのです。
ボストン港は封鎖され、イギリス軍が駐屯し、
やがて来たるアメリカ独立戦争に向けて、緊張が高まっていきます。
ボストン茶会事件は、独立戦争の直接の契機となった事件でした。
現在、ボストンでは、観光客に茶箱を海中に投げ込ませているそうです。
自由のための闘争も、今では観光名所となっているのです。