◆ 旧・シャム猫亭 ◆


イタリア喫茶ボンゴレの思い出

それは何年か前の冬の日のこと。
映画までの時間が1時間くらいあったので、かねてから気になっていた喫茶店でお茶を飲むことにした。毎日通勤の途中見かける期待と謎の喫茶店、その名も看板もダイナミックな「イタリア喫茶ボンゴレ」である。

「すごい喫茶店を発見したから」と意気揚々、自信満々にその喫茶店に連れを案内した。 ・・・した、したが、入ったとたんに「ここは違う!」と、失望の風船が一気にぷーぅっと膨らんでいくのが分かった。
オシャレでモダンなイタリアーノのお店。一歩入ると、そこはダイナミックで底抜けに陽気なイタリアン・ワールド。だったはず。
それなのに、ここはあの力強く、「イタリア喫茶ボンゴレ」と書かれた看板からは想像もつかない、寒々しいお店だった。
いや、一言で簡単に言うと、なんだか辛気臭い定食屋さんという風体であった。
そしてまだ、できたばかりのそのお店には、メニューはなかった。
不安になる私たちに、お店のマスター(といってもしょんぼり影の薄そうな彼、ただ一人しかいないお店だが)は自らを鼓舞するように、力強く(しかし、彼の目は泳いでいた)、一言。
「まだ、オープンしたばかりですので、メニューは出来ていませんが、たいていのものは何でも作れますので。」
「失敗だ」という思いは拭い切れなかったが、その一言に、「お店は雰囲気じゃないよ、要は味。」そう気を取り直して、私はミルク・ティを、連れはカフェ・オレを頼んだ。

オーダーをとった彼は、カウンターの中に戻ったかと思うと、いきなりを店を出、そして、信号が青になると、店の前の大通りの横断歩道をわき目もふらずまっしぐらに渡り始めた。
店の中には私たち以外にもお昼の定食を食べているおじさん達が4人くらいいた。なのに彼は、何も言わず、いきなり店を出たのだった。おじさん達までもが、ガラスのドアの向こうすたすたとまっしぐらに何かに向かって歩く彼の後ろ姿に、視線を釘付けにされていた。
しかし、彼が何を目指していたのかは、すぐに分かった。彼は…。…彼は、おもむろに自動販売機の前で立ち止まった。そして、また、信号が青になると何事もなかったようにこちらに戻ってきた。けれど、その後ろ手に隠された手には、彼が持参していったと思われる、白いスーパーの袋が見えた。そしてまた、何事もなかったように、カウンターの後ろに立ち、何やらがさごそと鍋を取り出したのだった。
私たちに語るべき言葉はなかった。目を見合わせて、ただ、ことの成り行きを見守ることしか出来なかった。

ティ・オーレです。熱いので、お気を付け下さい。」彼はそう言った。
「違うよ、私の頼んだのは、ミルク・ティ。ティー・オーレはあなたの買った缶の商品名。」私に出来たのは、そう、心の中でささやくことだけだった。そして、また、ちょっとして、彼は「カフェ・オレです。甘さを控えてますので、足りないようでしたら、お砂糖はそちらです。」と、親切に付け加えてくれた。

大急ぎで飲み干して、二人で900円也の代金を払うと転げるように外に飛び出した。やはり彼は「カフェ・オレとティ・オーレで900円です。」といった。
彼にとって不幸なことに私たちは、彼が向かった自販機の側に車を止めていたのだった。もちろん、彼の買ってきたものはしっかりと確認した。
彼にとって更に不幸だったことにやはり、そこにはミルク・ティはなかった。あったのは「ティ・オーレと甘味控えめのカロリーオフのカフェ・オレ」だった。

さらに話は続く。連れによると、彼は缶を開ける時の”プシュ”という小さな音を隠すために、開ける瞬間、「シュン、シュン」とわざと鼻をすすりあげたそうだ。もちろん、2回。

後日、私はこのめったにできない体験を多くの人に語った。わざわざ、この話を聞いた者が、「直接、話を聞きたいって。」と、また別の者を連れて来たりもした。
「で、結局あなた方は得したの?損をしたの?」そう、聞かれたこともある。当時110円の缶紅茶半分くらいを450円で飲んだと考えると、損をしたような気もするし、場所代も入ってると思うと、そんなもんかなとも思う。人によっては、「紅茶の原価は葉っぱ代だけだから、何十円もかからないんだから、お得よ。」とそういう人もいた。
今は、損得をこえて「得難い体験をありがとう」という気持ちである。とはいえ、二度とそこに行く機会はなかった。この話をする時にはいつも、最後に「早く行った方がいいよ。」そう付け加えた。いつかはミルク・ティもカフェ・オレも習得してしまうかもしれない、そういう杞憂もあったけど、それ以上にそう長くはないのではという、当然といえば当然の不安もあった。だから、早く行かなくちゃ。


けれど。

もう、ボンゴレには誰も行けない。
間に合わなかったのだ。
ボンゴレは、今となっては私の記憶の中にしかないから。
楽しいひとときを、忘れられない時間を、ありがとう。ボンゴレ。

(シィアル)

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