錬金術師のサイフォン 


 
 
私が小学生の頃、父は毎朝自分のぶんのコーヒーをサイフォンで
いれていました。
銀の棒に取り付けた薄いガラスのまんまるい器に水を入れ、
同じく水のような透明な液体の入ったカットガラスでできたランプの
青い火をかざします。ガラスの壁にぽこぽこ泡がたったら上の漏斗
部分に茶色の粉を載せたガラスの筒を差し込みます。
やがて器の中の水はこぽっこぽっと跳ねながら、
魔法の様にすうっと消えて行き──上の筒に吸い込まれたのです
──父はおもむろにへらを取り、下から上がって来た水(実はお湯)と粉をかきまぜます。
ややあってランプをはずして炎を消すと、今度は!
すうっと、褐色になった液体がほぼ空になっていた下の器に降りてくるのです。
まるい器の透明な水は、見事香り高いコーヒーに変身しています。
カップに注いでゆっくり飲んで、父は仕事に出掛けます。

ある朝、集団登校の集合場所で遊んでいた弟が、落ちて来た瓦の
欠片で額に怪我をして、血塗れになって上級生に抱えられて帰って
きました。
父はちらっと自分の息子の傷を見て、また悠然とテーブルに
着きます。早く病院へ、と叫ぶ母に向かって不思議そうに一言。
「コーヒーは?」
もちろん、即刻叩き出されました。

後になって、私は不思議に思いました。
いえ、額の怪我というのは、出血が多くても傷はたいした事はない
ものです。ですから血塗れの子供を見ても慌てなかったのは
判ります。

その点ではなくて、手間をかけてサイフォンでいれるコーヒーという
のは他のいれかたでいれたコーヒーと何か違うのでしょうか?
味だけに関してなら、ほとんどの珈琲専門店で行っているネル・
ドリップで自分の手で湯を注ぐのが一番でしょう。家庭では空気に
触れさせないネルの管理が手間といわれますが、サイフォンの
フィルターの管理も実はネルと同じなのです。ドリップの技術に関してなら、器用な父は簡単に身に付けられた筈です。

けれど、お気付きのようにサイフォンには他のいれかたでは
味わえない別の味があります。ドリップでは使わない謎めいた
ガラスの器具、コーヒーメーカーでは見えない水の動き。
青い、透き通ったアルコールの炎。
父にとっては毎朝の水と炎の儀式が、仕事前に必要だった
のでしょう。

大人になってから私も試してみたくなって、実家でサイフォンの器具
一式を探してみました。けれど壊れ易いガラスが割れてしまった
のか、引越しのどさくさで失したのか、それとも深い納戸の奥底に
埋もれてしまったのか──あのガラスのフラスコやアルコールランプは遂にみつかりませんでした。

一方父はといえば、今は朝は和食にしているので、毎朝のコーヒーの習慣はなくなりました。
そして休日には一日中こぽこぽいうエアポンプを付けた壁いっぱいの水槽に囲まれて、珍しい熱帯の魚を眺めながら、コーヒーメーカーでこぽこぽたてたコーヒーを小さなカップで飲んでいます。  (N)



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