疾走する犀川先生の珈琲


  
疾走しているのは特急列車の車窓のコーヒーです。
 私が二年前転勤してきたこの町は、大きな本屋さんがありません。
ですから都会の観光客達が週末を過ごしに来る特急列車で、みなさんとは逆方向に都会へ買い出しに出掛けます。もっとも、料金が高いので、そう頻繁には行けません。
で、買ってくる本もそう手に入り難いものではなくて、ふつうの都市なら平積みで並ぶような人気のある本だったりします。
例えば毎回買うのが森博嗣氏のミステリ本。白をベースにした装丁が書店に並ぶ光景が好きなので、通販ではなくてわざわざ街まで買いに行きます。
これって「図書館」の方の話じゃない?と思われるでしょうが、森氏読者は御存じの通り、森ミステリの名探偵、国立大学工学部助教授・犀川創平先生はコーヒー無しでは過ごせないお方。研究室のコーヒーメーカーのコーヒー、ドライブインのコ ーヒー、自動販売機のコーヒー、コーヒーと思わなければインスタントでも可。その犀川先生、東京出張の度に新幹線の車窓に社内販売のコーヒーを載せて、ぼんやり透明な何かを脳裏に廻らせています。
ですから私もお伴して、東京からの帰りの特急ではコーヒーを飲みながら買ったばかりの本を読む事にしたのです。乗り物に弱い私でも、このシチュエーションでなら酔わないのですよ。
取っ手付き紙コップ入りコーヒー、300円。
ヒロインの萌絵ちゃんと猫舌だけは同じなので、蓋を外してしばらく車窓で冷まします。まわりの席にはパソコン備品を買い込んだ青年や、洋服を抱え込んだ高校生等、買い出しのお仲間がちらほら。やがて物語が佳境に入り、コーヒーも無くなる頃、彼等も途中の駅で姿を消します。
窓の外は、行きは真っ青な海の眺められる海岸ですが、今はただ闇が続くばかり。
 非常に残念な事に、犀川先生と萌絵の工学部コンビのシリーズは、十冊目をもって終了なのだそうです。
ちょうど私の転勤も決まりました。電車に乗る事はあまり無くなります。
夜の特急列車で紙コップのコーヒーを飲みながら、あの二人に会う時間はもうないでしょう。
 ねえ先生、最高のコーヒータイムでしたね。(N) 
 


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