吉本隆明著・心的現象論を読む

心的現象論序説(試行15号〜28号までの連載分)T U V W感情 X発語&失語 YZ心像(イメージ) [眼の知覚論 \身体論 関係論 了解論 試行 47 68 69 70 71 72 73 74 感想


ごあいさつ

吉本隆明(よしもと たかあき)氏が自ら主催する「試行」という同人誌で連載されていた「心的現象論」を読むという企画です。本になってる「心的現象論序説」は試行の1965/10/25〜1969/8/25 15号〜28号までの分で、それ以降は、まあ、図書館等を利用してコピーをとってきた次第で、著作権云々でクレームがくれば、謝罪してHPを消すというまあ、粗末なものなのですが。試行の廃刊時に載った心的現象論をみても、最後は(未完)で終わってますから、コピーまで含めて序説といえば序説なのですが、あえて28号分まで収めた書籍と区別する意味で「心的現象論」という語を使ってみました。

序説の方は7章立てで、心的世界はどのように記述されてきたのか?という意味で、フロイトの心理学を中心に、現象学のヤースパーツや心身相関の医学(脳のどの部分が何をつかさどっているか?みたいな医学)が、どのように心の世界を描いてきたかをおさらいし、2章で吉本流の心的世界の分析法を大雑把に描き、3章でそれをさらに緻密化、4章で感情、5章で発語および失語、6章で夢、7章で心像(起きた状態でみるイメージ・想像・空想の世界)を扱っています。

ただここで問題なのは、心的現象論についての何を書けばいいのかが分からないということでして。要約?そんなもの書いて著作権にかからないのか?解説?解説しなきゃいけないほど読めない文章で書かれているのか?書かれた時代背景?著者が書くに至った動機?森山氏の解説で充分吟味されている。読んで自分がどう思ったか?そんなの書いて誰が読むんだ?本来なら心的現象論と同じジャンルに属する心理学や民俗学や文学理論やのジャンルに詳しい人間が、そのジャンル内においてこの本の果たした役割・独自性について書くのが筋なのですが、自分はそういう意味でも無知過ぎて書けない。とりあえず、要約と感想の箇条書きでも作ってみることにします。

角川版「改訂新版 心的現象論序説」より

T心的世界の叙述

1樹木が風に揺らいで居るのを視るとき、自然の時空間においてあったものが、個体に固有の時空間に変えられて見られてる。樹木が風に揺らいでいるのを視るだけであっても、ある種の感情や記憶の喚起がまつわりつく。それは自然の時空間とは異なる、個体の時空間が存在している根拠となる。

2クレッチマーは内分泌腺−植物神経系−脳機能といった順番で、心的な内容を原始的なものから高度な物に対応させようとする。原始的な感情は内分泌腺、高度な思考は脳機能といったように。けれど、私(吉本)は心的内容と身体の間に相関関係があるとはいまのところ言えない。

3生命は周囲の環境に対し一つの異和感を持っていて、その異和のことを原生的疎外(フロイトの概念では生命衝動)を持っている。そしてその異和を打ち消す(フロイトでは死の本能)ために生きている。心的領域は外側には無機的自然、内側は身体につながっている。

生命が個人としては必ず死ぬのに対し、人類としては子を生み永続していくように、心的内容も個人の中で個体と共に死にながら、類としては親から子へ永続していく。

自我の中で何故無意識という、間接的にしか意識できないものが発生するのか。エスは個体として生きようとするのに、自我は類としての永続=個体の死を選択する。その矛盾から、エスが抑圧され無意識の中に放り込まれる。

4フロイトは10ヶ月ほどの胎児期の間に、胎児の体が原始的な生物から高度な哺乳類までの進化の過程を経験すると考えた。胎外に出た乳幼児から青春期に掛けて、原始的な人類から高度な現代人までの精神的成長の過程を経験すると考えた。精神の成長過程として、自己愛(口唇性愛)→同性愛(肛門性愛)→異性愛(性器性愛)へと成長すると考えた。精神異常とはこの過去のいずれかの過程への退行と考えた。成人した人間が過去の人類が経験した精神史を凝縮した存在という考えには納得するが、精神病の理由を一つの原因に求めるフロイトの考えには賛成できない。人間とは言葉によって精神を認識できる唯一の動物である。過去から現在までの精神史を自らの中に持ち、その全てを自己認識できる以上、過去への退行は誰にでも出来る。精神の発展過程の記述はマトを得てるが、現在の精神状態の原因を過去に求めるのは間違っている。(筆者である吉本は精神異常の原因を退行以外に、精神の過剰な発達に求めてるのだろうか?)

5ビンスワンガーやヤースパーツによるフロイト批判。ビンスワンガーは現存在分析の立場からフロイトが無意識という第二の人格を設定したと批判する。ヤースパーツは、自らの精神を深く分析したニーチェやキルケゴールを支持し、フロイトは自分自身の精神を見ようともせず患者を一方的に裁いていると批判する。著者はそのどちらの批判も支持しない。ヤースパーツは自らの精神=主観の分析を尊重し、他人精神を客観視しようとするフロイトを批判するが、精神は他人の体の中にも宿っており、主観もまた他の人間の精神との関係の中で動いている。各個体の精神はフロイトが考えたほど等質ではなく、その異質な精神との関わりの中で動く主観という立場からフロイト批判は始まるべきだ。

U心的世界をどうとらえるか

1フロイトは心の領域を身体の生理現象としてとらえようとした。性的欲求などは生理現象としてとらえることが出来るが、世界についての認識する心や、芸術的衝動に駆られる心などは生理現象だけでは説明がつかない。逆にビンスワンガーやヤースパーツの分析では芸術や社会やを認識する心の領域を分析することは出来ても、身体を持った生理現象の分析には適さない。そこで私は身体の生理的なレベルから出てくる心と、社会や文化や芸術や世界観といった社会環境レベルから出てくる心を分けて考えようとする。

2心の領域を身体からくるものと現実的な外界からくものとに分け、身体/時間性、外界/空間性と仮定する。

例えば、衝動・情緒・理性などは身体からくる物だと考えたとき、衝動・本能は特定の時間に対応させることが出来るが、感情・心情などは特定の時間から切り離された抽象度の高いものであり、理性・悟性などはより抽象的な時間の中に存在する。

外界/空間性の場合、聴覚などは離れた空間からでも感じられるため、空間からの抽象度は高いが、触覚などは空間性がゼロで接していないと分からないため、空間の抽象度は低いといえる。

(木棚勝手に追加:エロ本を見て、性的衝動を感じた場合、視覚であるため空間的自由度は高いが、衝動であるため時間からの自由度は低い。)

生まれてから死ぬまでの100年ほどをこのモデルで考えると、人は成長するにつれて、時間性と空間性の自由度を高めていくが、成人後も空間性は自由度を高めるのに対し、時間性は徐々に衰えてゆく。老化とは広がっていく空間性と衰えていく時間性との落差のことを言う。

3異常/病的とは何か?身体/時間性からみた異常とは衝動や本能が理性のように自由度の高い時間性において現れるとき、理性や感情が本能のような自由度の低い特定の時間に現れるようなものを言う。(木棚勝手に追加:泣く・怒るといった衝動がそれに適した場面から切り離されて、思い出し怒りや思い出し泣きになるようなもの。もしくは、死刑制度を廃止すべきという理性が、突然衝動的にやってきて、死刑囚の居る刑務所を今すぐ襲って彼らを開放しようとするとか、そういう状態か?)

外界/空間性からみた場合、例えば視覚に固有な空間性が、他の感覚、例えば聴覚に固有な空間性として出現した場合。異常/病的と呼ばれる(木棚勝手に追加:例えば、どこからともなく屋台のチャルメラの音が聞こえてくるように、どこからともなく、屋台の姿が見えてくる。でも、どこに屋台があるのかは分からない。姿だけが見えてる。そういう状態?)。

4異常と病的の違いについて。異常/病的の関係は神経症/精神病の関係と似ている。フロイトは神経衰弱→神経症→精神病と病が重くなると考えた。神経症は自我が現実に従ってエス(衝動)の一部を抑えるが、精神病では現実は初めから喪失されている。フロイトは神経症の中に同性愛、精神病の中に自己愛を見ている。

身体/時間性からも外界/空間性からも一次対応できてる心的異変が異常で、対応を失っているのが精神病である。

一対一で人と接したとき、自分が相手を異常だと感じるなら、向こうも私を異常だと感じるかもしれない。社会的にみてどちらかが異常でどちらかが正常であったとしても、一対一の関係において、相互に相手のことを異常/正常とみなす相互規定性が唯一の根拠である。

用語
異和:違和感。
疎外:上手くいかないと感じること。違和感を感じること。著者は心を違和感から発生すると考えた。自分の身体に対する違和感と周囲の環境に対する違和感の2面から心を分析する。疎外からくる違和感を表現することを「表出」と呼ぶ。
環界:自分の身体の外側にある世界。環境世界。自分の身体的な条件を除く全ての環境。対義語:身体。

5病的な心はどんな構造をしているのか?それは時間や空間において異化結合可能な世界だ。シュヴィング「精神病者への魂の道」に文字に色があることを告げる患者が出てくる。「aは青、bは柔らかな明るい茶色・・」これは視覚が高度な時間化と異化結合したことを意味する。文字が記号化された現在から象形的絵文字であった時代まで、時間的にさかのぼって視覚と異化結合しているからである。

このように精神分裂病者の心の中は豊かなイメージで彩られている場合もあるのに、精神科医学者達は精神病=分裂病としてみようとする。それは外から見たとき分裂病が最も荒廃しているように見えるからである。しかし、本人にとって精神分裂病が人間的荒廃の著しいものであるとは限らない。
精神分裂病とは何か?以降、具体例と考察が続く。

6 先ほどの4で考えた病的の条件に、さらに条件を追加して身体/時間性からも外界/空間性からも一次対応できていないということは、高次対応への移行と、一次対応以前の初原的対応への移行の両方を意味し、片方だけを意味しない。

用語

一次対応:リンゴを見て、リンゴと分かるのが一次対応。リンゴだと分かった上で、リンゴは「おいしい」「丸い」「赤い」といった別の連想につながっていくのが、二次以降の高次対応になる。

高次対応:リンゴを見て、リンゴだという認識を飛ばして、「カレーに入ってる果物」「山からいっぱい転がりおちてくる」とかの連想系に飛んじゃうと、病的の範疇に入る。リンゴだという一次対応が出来た上で連想に飛ぶのは病的にならない。

フロイトによる分裂症の定義。リビドーが対象を求めず、自我の中に帰る。外界の拒否と自我の過剰充当。

ビンスワンガーの分裂病概念1経験の非一貫性。「事物」との出会いの不可能。2奇妙な理想形成と二者択一への分裂。3二者択一のうち捨てたほうをあっさりと庇護。4問題性のあきらめ、放棄。

吉本による分裂病概念。1身体/時間性からも外界/空間性からも一次対応できない(=病的の概念と同じ)。2一次対応の高次対応への移行。3時間性が抽象的になり、逆に空間性が極端に具体的になる。4最も抽象化した時間性に、空間性が引き寄せられる。

用語 引き寄せ:のちにZ章で詳しく論じられる吉本の専門用語。

7ミンコフスキーの「精神分裂病」について。分裂病・躁鬱病・てんかん病の三つを気質や性格という概念を使い、正常な人の持ついくつかの要素の極端な形として、病的概念を描いた。癲癇について、ミンコフスキーは結合という概念を使って説明している。

分裂病者においては、すべては分離し拡散し解体し時には合理化されるのに反して、癲癇者にあってはすべては結びつき、とけあい、凝集し、同時に幻想的体験としての宇宙的な体験に展開する。

ミンコフスキーの上記のような説明は、ドストエフスキーの白痴に出てくるムイシキン公爵の癲癇を連想させる。ムイシキン公爵の癲癇の場面はドストエフスキーの癲癇体験がそのまま使われている。ミンコフスキーは分裂病/癲癇病を分割/結合で論じ、分裂病/躁うつ病を、現実の喪失/現実の永続的接触で論じた。

私の考えでは癲癇病は理性・悟性のような抽象的な時間性で現れるべきものが、衝動や本能のような具体的な時間性で現れ、それに空間性が<惹きつけ(木棚注:引き寄せか?) >られた状態である。

V心的世界の動態化

1無機的自然の中で有機的な身体を持って生まれてきた。このことによって無機的自然に対し、異和が生じ、この違和感を原生的疎外と呼んで来た。

2灰皿を見て、それがどんな形をしているとか、受け口がいくつあり、傷がついててそのために美しくないとか、見たことによって発生するこれらの判断も視覚の範囲内であると考える。これを純粋視覚と呼ぶ。純粋視覚の範囲内では、灰皿を見たことによって、灰皿を離れて他の連想に飛ぶことはできない。

この純粋化作用は理性や悟性にも適用できる。Aはこれこれの理由でBであるというとき、Aが上記の例における灰皿のように存在することが出来る。Aという対象から離れない範囲の理性、を純粋疎外と呼ぶ。純粋疎外は記憶や体験から来る連想を排除した理性である。純粋疎外は現象学的還元と似ているが、純粋疎外は環界の対象や身体を排除しない。

3多くの神経生理学者はヘーゲルがそうしたように、聴覚を時間性において考えている。が、聴覚が受容するのは空間的なものだ。聴覚とは遠隔化された触覚であり、振動する物体から聴覚までの空間の接触性を意味している。(木棚勝手に追加:真空状態では音は聞こえない。また、物体から鼓膜までの空間を埋める振動するものは、空気に限らず糸電話の糸や、水中における水でもかまわない)

ベルクソンによれば、鳥が数百キロも離れた位置から直線的に巣に帰ってこられるのは、空間を質的に異なった方位によって区別してるからである。二つの異なった方位が、異なった色のように異質なものとして分けられている。それに対して人間は空間を性質のないものとして受け取っている。

4分裂病の症例を例に。例1:考想化声、幻聴。考想化声とは自分の思考が声となって自分に聞こえる現象である。聴覚が自分と物体との遠隔化された接触、空気の振動による接触であると考えると、自分の思考が声となって聞こえるためには、まず自分の思考が自分の外側にあると認識される必要がある。この考察は、自分を批判する声の幻聴や、自分に話しかける声の幻聴でも当てはまる。

例2:身体被影響体験。自分の考えによって体が変容される経験。自分のへそがひものように飛び出して、胸を通り抜け頭にぐるぐる巻きつく。

5アヴェロンの野生児や高村光太郎の体験記より火の中に手を入れても熱さを感じず、皮膚も変化しなかった例。呪文を唱えるなどの儀式によって入眠状態に入り火に対する了解を一時的に遮断し、時間性を極端に抽象的なレベルにまで持っていく方法がある。聴覚に比べ、触覚や嗅覚などは極端に狭い空間の中でしか感じることが出来ない。しかし、対象によっては嗅覚や触覚が離れた場所にあるものを感知することもある。例えば、猫や犬が異性や食べ物のにおいを遠くからでも感じるように。

W心的現象としての感情

1感情とは何か?感情とは、離れた対象に対する好きとか嫌いといった物であるのに、自分の体の奥に存在しているかのように感じるものである。

2ベルクソンによると、「感情とは対象と自己との距離がゼロになったものである。そして、遠方に対する知覚はその対象に対しする自己の期待や危険回避のあらわれである。より遠くのものを知覚できるのは、その対象が危機回避や期待の実現への可能性に富んでいるからである。感情とは対象と自己との距離がゼロになったものである以上、危機回避も期待の実現も出来ないただの現実である。」しかし、感情とは外的対象に対する知覚を身体化した物であるから、知覚と同じレベルでは語れない。恋人同士にとって、あばたもえくぼであるように、あばたである外的対象がえくぼとして身体化される。

用語 純粋感情:あばたをあばたとして認識した上で持つ感情。

感情を理性の下に置くべきでなく、理性や判断とは別の系統のものなのだ。

3知覚と感情が別の系統である例。「分裂病の少女の手記」より。少女ルネは彼女の友人を友人として知覚し、声を聞き、話も理解できているのだが、それでも友達は彫像のように奇妙で非現実的にみえ、不安感をおぼえる。不安な感情が病的であるためには、不安であるという感情が、知覚に侵食し彫像のように奇妙で非現実的にみえるところまで行かなくてはならない。

4「好く・中性・好かぬ」好きという感情によって、対象のあばたもえくぼに見えたのが、時間とともに変化する。その理由は、好きという感情が一度、外的対象として認識され、好きという感情が対象化され、好きか嫌いか了解されるからである。好きであることによってあばたもえくぼに見えているその感情自体が、再び中性の位置から了解される。それによってより好きになったり、好かぬという方へ転じたりする。分裂病者の中に、情動欠如・感情欠如を見出し病的であるということがあるが、中性の感情のみが人間的な感情である。何故なら、感情を対象として扱い、遠隔化させた結果生まれてくるものだからである。

X心的現象としての発語および失語

1言語は二つの因子を持っている。表現としての言語と規範としての言語だ。文学が扱うのは前者、言語学が扱うのは後者。精神病患者の言語をいくつか例(スイスは自由を愛し、わたくしは自由を愛する。わたくしはスイスだ。)に出すが、どれも規範としての言語としてみた場合、文法的な障害はみられず、概念構成の乱れとして理解される。

2心的な失語。T概念の構成が不完全であるために起こる失語(精神分裂性)。U規範としての言語の構成が不完全であるために起こる失語(躁鬱性)。V正常な人間にも起こる「言ってもしょうがない」「言いたいことはあるがむなしいからやめる」という失語(癲癇性)。

表:横軸が同系列。縦軸が対になる。

時間 環境世界 概念としての言語 (概念による)了解
空間 身体 規範としての言語 (五感による)受容

3概念が形成される過程。目の前の灰皿を見て、その灰皿を知覚するだけでは、その灰皿が灰皿という概念に含まれるものであるとは了解できない。過去に無数の灰皿を見ている体験から灰皿の概念が生まれるのではなく、過去にみた無数の灰皿を共通にくくる事ができるという概念が、知覚とは異なる質で存在しなくてはならない。

灰皿を他の名前、例えばお椀と呼ばないのは、他人に通じないとか不便だからとかではなく、規範的にそう呼ばれていないからである。この規範も知覚とは無関係である。規範とは自己と外的約定との関係である。

4概念の障害。酒を飲むと話がくどくなる。それは自分が話した内容を自分で覚えていないからではなく、自分の伝えたい事が相手に伝わったか不安になるため何度も繰り返すのだ。自分の発言が相手に伝わったか不安になるのは、自分にとって自分の概念が明確になってないからだ。自分が相手に伝えようとする概念が自分にとって明晰でないために起こる言語障害だ。

5規範の障害。「入院ですか」発話するとき、入院・です・かと三つの異なる概念を使うが、概念だけで言えば、この順序でなく、「入院・か・です」でも同じはずである。「入院ですか」という順番で言わなくてはならないと理解するためには個々の語の概念や意味ではなく、言葉の規範があることを理解しなくてはならない。

「入院ですか、それは私の弟が私のことを病気だ病気だといいましてね。弟はそれはひどい人間なんです。小さい時にはよく山へ連れていってやりましたのにね。あの山には桜が綺麗に咲いていて、桜はいいですね、花は桜人は武士なんて、武士といっても今は兵隊もからつきし駄目になってしまいましたね。」

という病者の発言を例に。発語全体を統覚する力よりも、私にとっての弟という語の意味や力が強いためにそちらへ引きずられ、さらに山・桜・武士といった語に文脈が引きずられる。

6発語体系を概念の側からみることと、規範の側からみることは、どちらも重要な事だ。コップを見たり触ったりする知覚の繰り返しで、コップが記憶され、コップという概念が生まれるのではない。概念は知覚とは無関係に生まれる。また、コップという言葉を了解するとき、知覚が関係するのは、コップという語を聞く聴覚だけだが、そのときも聴覚は風の音や樹木の揺れる音など無数の音を同時に聞いている。そこから、コップという他者の発した語を取り出すのは、聴覚とは無関係な能力である。発語の問題は自分にとってのコップという概念と、自分にとって規範としてコップという語で呼ばれるということが一致すれば良いという事になる。ヤースパーツが出した失語の概念を列挙すると1発語障害2発字障害3発語了解障害4読字了解障害5言語模倣障害6写字障害7発語-写字障害8構音障害があるが、本質的な失語は1・2であり、それ以外は知覚に関する発語障害である。

Y心的現象としての夢

1夢は眠っているときに起きる。視覚や聴覚といった五感を閉ざした状態だ。眠った状態でも、何かを了解することはあるが、それが起きてみると、納得できなかったり、了解できなかったりする。つまり、寝た状態での了解は起きた状態での了解とは別の質のものとなる。

夢の中の映像が起きた状態と同じように鮮明である事もあれば、映像は浮かばずに意識の中だけで、検討したり、反論したり、納得したりという非映像的な夢もある。夢の中での知覚や了解は起きた状態でのそれとは質的に違っている。

2夢を眠った状態のものに限定すると、外的対象を見たり聴いたりすることは、ありえない。では何を見たり聴いたりしているのか。映像的な夢に関しては、映像化に関係した五感を除く残りの五感は、概念からの影響を受けている。

例えば、ビルの屋上から下の道路を俯瞰する位置で、小さく往来する車や人々を見たとする。私にとってこの位置からの俯瞰は恐怖だ。その恐怖の概念が、小さく見える車や人々の映像(五感)に影響を与える。

3夢は何か意味を持っているのだろうか?フロイトによると夢は満たされるべき願望である。フロムによると、意識とは行為しているときの精神活動であり、無意識は行為しない状態の経験だ。

4なぜ夢をみるか。フロイトによると、起きたとき夢の内容を忘れてしまうのは、意識が内容を検閲するからである。起きているとき、意識は検閲・抵抗を続けているのであるが、眠る事で意識の検閲の力を弱め、夢をみることが可能になる。

5フロイトはヒステリー症を精神分析する場合、精神病以外の病気と同じように、症状が出てきた最初の徴候を解明する事が重要であると言っている。フロイトは幼児期の体験を無意識、少年期の体験を前意識に対応させるので、夢の源泉を無意識に求める以上、幼児期や少年期の体験に重要な意味を与える。フロイトは人間の心の領域を年齢とともに年輪を重ね太くなって行く樹木の切り口のように考えている。幼児期の心の領域は奥にしまいこまれ、その上に何重もの皮がかぶせられたモデルで考える。

幼児期の体験が夢として何度も出てくるとすれば、それは現在も同じパターンの体験を繰り返し感じているからである。

「幼い日、仲間達と遊んでいると何か取り返しのつかないことをしてしまい、仕方が無いのでみんなで腹を切ってしまおうという話になる。私は嫌だと言ったが、みんなから卑怯だとののしられる。そこで私は嫌々ながらみんなと一緒に腹を切った。けれど仲間は誰も腹を切らずない。私は仲間を卑怯だとののしるが息が段々苦しくなる。仲間は私を嘲笑するでもなく、奇妙な沈黙の中にいる」

という夢を繰り返し見る。中学の時の体験「軍事演習中クラス全員で歌をうたったため、教官に全員が殴られる。宿舎に着いて、再びその件でクラス全員で謝りに行く事を提案する者が出る。私は反対するが、結局週番に当たっていた私も代表として謝りに行く。」そのとき、これはあの夢と同じパターンだと感じる。その後の人生においても少年時代の夢と同じパターンの経験を何度かする。夢の後に、それが現実となったという意味で正夢だと言える。夢が現実的な体験の典型的パターンであるため現在まで記憶の中に残っていたと感じる。夢が記憶されるためには、現実に夢と同じパターンの体験を繰り返されなければならない。

6フロイトはグロテスクな石像の並ぶビアホールの入り口の夢を繰り返し見ていた。1895年に行こうた寺院が「今日は閉まっている」と聞かされ途中で引き返して行けなかった場所へ、1907年に再び行く事へなる。すると、1895年時に引き返したと思われる地点で、夢の中に何度も出てきたグロテスクな石像の並ぶビアホールの風景をみつける。

フロイトによると正夢とは、一度経験したことをまったく忘れてしまった状態で、かつ潜在意識の中には記憶として残っている状態、このとき眠る事で潜在意識が夢としてあらわれたものである。二度目に起きた状態でその経験をしたとき、すでに経験している事であるのだが、忘れているため未体験、夢による予知にみえる。

<忘れられた経験>−<夢>-<二度目の初体験>

この三つをつなぐ物が何故「グロテスクな石像」「ビアホールの入り口」なのか?それはこれらが、フロイトにとって重要な意味を持つものであるからだ。長い年月の間記憶するに値する意味がなければ、記憶などしていない。ただ、上記の腹切りの話と比べて、グロテスクな石像にどんな意味があるのかが分かりにくいだけで、夢として記憶され続けるものにはなんらかの意味がある。

7横が同系列、縦が対。

既視体験 胎児記憶 原関係・原了解  
正夢 幼児記憶 固有関係・固有了解 夢を見た個人にとって固有の意味を持つ夢
荒唐無稽な夢(一般夢)   一般関係・一般了解  

8夢をみた個人にとっての固有な意味を持たない荒唐無稽な夢は、他の人が見る同様の夢と並べたときに、ある一定の共通点をみつけだすことが出来る。

フロイトによると、夢の中に出てくる婦人帽子は男性器を、ネクタイも男性器を、姉妹は乳房、兄弟は大脳を意味しているとされる。これは、ある個人のみた夢の中の婦人帽子は必ず男性器を意味しているということではなく、何人かの人の夢を並べたときにそういった傾向があるという意味だ。

これらの傾向は、習俗や宗教、道徳などの異なる共同体で調べれば、また異なる傾向を持つ。

9フロイトは性という共通性をもとに、一般夢のすべてを解釈できるとしたが、その点においてはフロイトに修正を加えるべきだ。

10フロイトが性を軸に解釈した夢を、自己と世間との違和感を軸に解釈しなおす。

Z心像論

1寝ているときにみる夢と似たものとして、起きているときに想像によって浮かび上がる心像(=イメージ)がある。イメージが夢と違うのは、起きた状態で意図的に浮かび上がらせる点だ。サルトルによると、正六面体を想像するとき、浮かび上がるイメージはあいまいであるのに、それが正六面体であるということははっきりしている。つまり、普通は視覚があって、その後にこれは何であるという概念が来るのに対し、心像は先に概念があった後に、その概念にあった映像が浮かび上がるものだ。

心像は、既知の対象に対してしか浮かび上がらない。知覚的もしくは概念的に知らなくては、心像が浮かび上がることはない。

2心像と似たものとして幻覚がある。幻覚と心像の違いは、心像が本人の意図によって浮かび上がるのに対し、幻覚は誰かから強制されて浮かび上がっているような感覚がある。本人の意図と無関係に浮かび上がる幻覚は、本人にとって誰かに体が操られているような感覚を与える。

←強制的              意志的→

<幻覚>――<睡眠時の夢>――<心像>

心像の矛盾は、目の前に無いものを目の前にあるかのように思い浮かべようとするところにある。視覚や聴覚といった五感の世界と、概念によって世界を解釈する了解の世界は別のものだ。けれども、概念による了解の世界に無理やり五感を持ち込み、視覚や聴覚による再現を行ったのが心像の世界だ。(Ex:メルロポンティー「眼と精神」より心像=イマージュの考察を抜粋)

3心像はどこに現れるのか?イメージがのうりにあらわれる、もしくはイメージがまぶたの裏にあらわれる。という言い方があるように、心像は想像される側にあるのではなく、想像する側の身体に存在している。心像を世界と自分のどちらに存在するものか考えたとき、世界ではなく自己の側に存在するものだ。

サルトルは「想像力の問題」の中で、心像について述べている。像(=イマージュ)の世界は部分が欠けており、時間の流れが現実の時間と異なり、止める事も過去にさかのぼる事も出来る。

サルトルにとって、心像は非現実である事が重要であった。私にとっては、心像は概念の五感化であることが重要である。心像とは対象が何であれ、自己の概念世界の事である。以下、概念の世界について考察を深める。

4私たちの心的世界は想像の対象となる世界から、何を引き寄せ、何を遠ざけるのか?いくつかの特殊な例=精神病者の世界から考えてみる。

スズメと話が出来るという人の例A。家の中に隠しマイクがあり、誰かに監視されているという人の例B。

どちらの例も、心像か幻覚か分からない。幻覚であれば、声のないところへスズメの声が聞こえたのであるし、心像であれば誰か別の人がしゃべった声を、スズメの声だと引き寄せた(解釈した)のであろう。この場合、スズメが犬や猫であっても構わないが、人間であってはいけないように思う。人間は自分と会話が可能な対象であり、関係が可能な対象は、この人にとって無意味なのだ。この人にとって大事なのは、自分と無関係な対象と関係を持っている点だ。

Bの例は自分を監視する誰かは未知の存在である。逆に自分の知っている人間は自分を監視したり尾行する対象として現れない。

上記の例から、実生活において疎遠な対象が過剰に心像=イマージュの世界に引き寄せられ、逆に実生活で親密な対象はイマージュの世界から遠ざかる事が分かる。日常生活において親密な対象ほど、心的世界において遠ざけられるならば、親密な対象との正常な相互了解は成立しない。疎遠な対象に心的世界を支配されるため、疎遠な対象に自分の五感や体をのっとられているような感覚を得る。

5妄想は概念世界の了解の異常であり、幻覚は知覚世界の感覚の異常である。妄想や幻覚は自分の意志と無関係に起こる。心像は自分の意志によって浮かび上がる。正常と異常の中間の例として、教室の生徒たちの動きがロボットのように感じた統覚障害者の例。室内の色彩が鮮明に見えたメスカリン服用者の例。

6一度見たものを正確に細部まで記憶することのできる直観像所持者(アイデテイカー)の例。ヤースパーツ精神病理学総論より。

7自分の考えている事が他人に読み取られているように感じる考想察知について。

病例:私の心の中に秘めていたことはもうご近所につつぬけなのです。(中略)お隣の雨戸の右側だけ開いています。これは「右はよい」という意味で、病院の神経科の右側にある内科のS先生との結婚する事をすすめる意味です。

考想察知が妄想と違うのは、心的状態が事実を捏造するのではなく、事実の中に自己妄想を投影させる点だ。自分の考えている事を読み取る対象が、人間でない例として、食卓の上の死んだ魚や、頭の中に直接聞こえる声などの例。自分の考えている事が声として聞こえてくる例。これは幻聴と類似している。さらに自分の意志と無関係に聞こえる考想察知が、自分の意志によって能動的に自己妄想を引き出すことができると予知能力者になる。予知能力者は考想察知と同じように自己妄想を投影する媒体を必要とするときもあれば、媒体を必要としないときもある。幻視として予知がやってくる事もあれば、幻聴としてやってくる事もある。予知能力者と一般人の違いは、想像によって作られた世界を現実の世界であると予知能力者が考えている点にある。人間にとって、祈祷による予知や雨乞いが現実の再現であった時代があった。

8未開における世界像と考想察知の類似性など。

[眼の知覚論

1眼はいくつかの錯覚をおこす。何故、錯覚は起きるのか?錯覚が起きる理由を心理学者は心理的なものに求めるが、私は時間的なものに求める。明るい部屋から暗い部屋に突然入ると始めは真っ暗で何もみえないが、徐々に目が慣れてきて、物の輪郭などが見えるようになってくる。これは人間の生理的な時間と、環境の自然時間とのズレから来るものだ。眼の作用のうち真に心理的な過程は存在するだろうか?

蛙の視神経細胞は五種類に分かれる。

A輪郭検出器 B運動および凸体検出器 C運動およびコントラスト変化検出器 D暗部検出器 F。

蛙の視神経と同じように異なる別々の機能を持った神経細胞が、明暗・輪郭・コントラスト・対象の移動がバラバラに中枢神経に届く。それによって対象物の総体をどうやって再現するのか?それぞれ質の異なる刺激が、異なる時間で中枢神経に届く。これを再構成する過程を心理的な過程だと考えられる。

2色を知覚する錐体は、輪郭や明暗を知覚する他の視神経とは別に動いている。錐体には特定の波長に反応する感光色素が三種類ある。

3錯覚の例で、白と黒の線を一定よりも狭い間隔で並べた場合、それらの線の集合が虹のような色で見えることがある。眼は一定の大きさの範囲のものしか知覚できないため、一定よりも小さな間隔で引かれた線の集合は明確に知覚することが出来ない。白と黒とが入り混じった細かい線の中で、みえる・みえないを全可視光線の波長の範囲内でやってしまうため、虹色の光が見える。

4眼が網膜上に光を映し出す事と、その総体を了解することに分けて考える。空に光の塊が現れて消えて行ったとする。それを錯覚として了解するか、宇宙人が操縦する空飛ぶ円盤として了解するか、同じ物を知覚しても、了解のしかたで意味はずいぶん変わってくる。

5色知覚を成り立たせる三つの要素、眼の構造・対象物の構造・光線。この三つのうち、人間的な過程である、眼の構造を解明することは非常に困難である。特に芸術作品を例にするとき、画家はなぜ対象物の色や形を変形するのか?眼は光を受容した瞬間から、対象物の意味を了解しようとする。画家はその意味を絵の上に再現するため、意味が対象物の変形として現れる。

6すべての変形の始まりは、平行して描かれた直線の群れだ。人類が原始的な時代に接した自然の中で直線的なものはほとんど無いはずだ。もしそうだとすれば、直線はあらゆる自然からの最初の抽象を意味している。縄文時代初期の文様の例。

\身体論

1古典ドイツの身体論 フォイエルバッハ「身体と霊魂、肉体と精神の二元論に抗して」を例に横が同系列・縦が対立とみなされる

精神 頭脳 腸部 男性 視覚・聴覚 観念論者 精神的  
身体 腹部 女性 感情・嗅覚・味覚 唯物論者 感性的  

 

]関係論

 

]T了解論

47号未開人が海や森を正確に横切り、硬い土の上の足跡からさえ、部族・性別・方向等を見分ける能力がある例。レヰ"・ブルュルの「未開社会の思惟」より。山登りで、ある現代人の後ろから登ってきた未開人が足跡だけから、23の曲がり角を順序通り正確に記憶していたことに関して、未開人と現代人のこの種の能力差をブルュルは記憶に求めるが、吉本は了解の時間性に求める。草を見たとき、現代人がそこから複雑で重層的な概念、この草はどんな種で、どんな花をつけ、どんな名でを感じ取るのに対し、未開人は草そのものを単純にみるため、草の形状のみを時間通りに記憶することが出来る。現代人は草の形状に付随した概念の量と重さが、草の形や順序を超えてしまう。

未開人の描く図形が何を意味するのか、現代人には上手く理解できない例。長い時間をかけて、絵が象形文字になって、元の絵とは似てない図形に変化していくが、ある文化の中ではその図形が何を描いてるか分かるのは当然であり、図形の意味が分からない人が居ることに唖然とされてしまう。多数の人に了解される文化でなく、ある個人の中で関係妄想が起こってしまう例。エルンスト・クレッチメルの「敏感関係忘想」より「隣家に布団が干してあれば、自分に布団を干すべきであることを教えるために干してあるのだと思い、自分も隣家と同じように干した」。これらの関係妄想が対象を凝視した場合には起こらず、ぼんやりと見た場合にのみ起こるという説に対して、ある図形/干してある布団をそのような図形/布団として了解するよりも早く、その図形や布団が意味するものを了解してしまうとき関係妄想が起きる。そして、図形や布団を対象として了解するより早く、その意味を了解するような見方をしたとき、周囲からは対象を時間をかけて凝視してないように見える。

了解論・試行68号分 捨て猫を拾ってきたとき、猫が周囲の環境(飼い主・人間)に心を許すのは三代目になってからである。一代目は親猫に捨てられ飢えと共に野原にあった環境を心の中に持っている。二代目は、周囲の環境に対し警戒心や猜疑心を持った立ち振る舞いをすることを親から教わる。

猫と飼い主との関係は、胎児と母親との関係にも置き換えることが出来る。母体が不安や恐怖を感じるとカテコールアミンというホルモンが分泌され、胎児も不安や恐怖を感じる。子宮が居心地の良いものであれば、胎児は生後の周囲の環境も居心地の良いものだと考え、子宮が居心地の悪いものであれば、胎児は生後の周囲の環境も居心地の悪いものだと考える。以下、母体が胎児を堕胎したいと思って生んだ乳児が母の授乳を拒み、他の女性の授乳を受け入れた例。胎児期の早期教育によって10歳で大学入試試験に合格した例など。

69号 人間の成長過程の中で奇妙な時期が2つある。ひとつは乳児期で、ひとつは児童期だ。
何故人は母親なしで生きれない乳児期などを抱えて生まれてくるのか?母親抜きに生きれないからこそ、母親の精神状態が乳児にも反映され、最悪の場合、分裂病などの精神疾患の原因にもなる。

児童期にしても何故、性的関心が高まるこの時期に性的な物を抑圧し、禁欲的な学習を強制させられるのか?そもそもこの児童期における禁欲的学習は動物の本能としてもともと持っていたものなのだろうか?それともここ1・2世紀の社会が人工的に作り出したものでしかないのだろうか?児童期に児童が起こす家庭内暴力や学校内暴力はこの禁欲的学習と関連があるのか?

ポルトマン説によると人は他の霊長類と比べて成長が遅い。他の霊長類の新生児と同じところまで成長するのに妊娠後21ヶ月ぐらいかかっている。つまり21ヶ月ほど妊娠期間があっても良い。事実生後の1年は子宮の外に出た胎児として人は過ごしている。一年早く子宮の外に出ることによって人は視覚的・聴覚的・嗅覚的・触覚的刺激を早くから受ける。この刺激によって人は他の霊長類より精神面を発達させることが出来た。(ここまですべてポルトマンの説)

70号 三木成夫の「胎児の世界」で、胎児が魚類〜爬虫類〜哺乳類へ変化する様子が書かれている。植物は動物の腸管のようなつくりになっている。植物の茎は血管であり、葉はエネルギーを蓄える肝臓、老廃物を吐き出す腎臓、そして呼吸をする肺である。動物は植物の上から体壁をかぶせた物である。

ヤツメウナギという原始的な脊椎動物は、幼生の時期は植物的で砂の中に下半身を埋めて直立している。目は皮膚の下で見えないし、尻尾は砂の中で動かない(食の時期)。大人になると目玉が外に出て尻尾を動かし移動する。幼生の時、えさを丸める粘液を出してた腺が、大人になると体内の新陳代謝を活性化する甲状腺に変わる(性の時期)。

すべての生物に性の時期と食の時期がある。多細胞生物を構成する個々の細部が養分を蓄える時期と分裂する時期とを交互に繰り返す。女性の月経や木の年輪、動物の歯や爪の断面に現れる縞模様にそれが示される。周期的なリズムで生長するものはらせん状に生長する。植物のつるや動物の牙や角、貝類のカラなど。

71号 人類の人格は今も、憎悪、恐怖、殺害、混乱の渦巻く地獄の中にいる。ライヒはこれを文化からくる人為的なものとみなし、フロイトは死の本能や破壊の本能から来ると考えた。が、それらの原型は乳胎児期の母親との関係から来ている。ライヒの言う破壊的な文化やフロイトの言う死の本能も、元をたどれば乳胎児期に母親から与えられたものなのだ。それらを考える手がかりとして未開・原始の心性を知ることを始めたい。参考文献は「リトル・トリー」。

この本に書かれるインディアンの心観によれば、体の心(ボディーマインド)は肉体の死と共に死ぬが、霊の心はいつまでも生き続け赤ん坊を見つけて生まれ変わる。体の心は体を生き続けさせるために、損得勘定を考えるけど、そればかりでは霊の心が小さくなってしまう。霊の心は鳥や獣や樹木にもあり、彼らとも会話を出来る。言葉には意味の要素と音の要素があり、意味ばかりを追いかけると間違いを犯す。音声の流れや高低や強弱が大事だ。川や鳥と会話する世界観は生まれ変わりの死生観や、音が大事だとする言語観とつながる。ウィロー・ジョーンじいさんの臨終の場面で、ウィロー・ジョーンじいさんの声が樹木のざわめきや風の音になる。原始の心性は風の音や鳥の声の中に霊の心を感じ取る。

霊の心は内臓のからくる心の動きに、体の心は外から来る刺激の反応として動く心の動きとして捉えられる。霊の心が赤ん坊になって生まれ変わるのは、胎児以前の前言語的な状態といえる。「言葉に意味なんてあるものか、それよりも声の調子に気をつけるんじゃ」というセリフは概念以前の言語を持った胎児の状態である。外から見ると奇抜にしか見えない現代の異常者・精神病者も、実は霊の心でもって樹木や風の声を聴き、彼らと話しているのかもしれない。もちろんそうでない可能性もある。

72号 メラネシアでは「あなたの腹は何ですか?」という言い回しで「あなたの考えは何ですか」を意味している。メラネシアでは人の思考が内臓から生まれてくると考えられている。同じように「はらわたが苦しんでいる」は「落胆している」。「はらわたが脇によっている」は「ためらっている」の意味になる。意識的に動かずことの出来る動物系の身体でなく、感情と直でつながった植物系の内臓の表現が言葉に表れた形だ。いっけん比喩のように見える上記の表現は、メラネシア人にとってむしろこちらが元々の言い方で、比喩ではない。同じことは日本の古事記でも言える。

古事記の中で自分の息子を暗殺する計画が持ち上がってるのを息子に知らせるために歌を詠む場面がある。雲が動き、風が吹いて、木の葉がざわつくという歌なのだ。現在の感覚では比喩的に見えるが、この時代はむしろ逆で事物を示すために自然物を使うのが普通だった。メラネシア人は自然を擬人化しない。むしろ自分を自然化する。似たように、古事記でも人間が桃の実に名前を付けたり、語りかけたりする。

メラネシア人は外国人を「生きた人間」なのか「神」なのか分からないため、外国人に非常に控えめな態度をとる。メラネシアでは西洋式の洋服のことを「神の皮」と呼ぶ。日本人も外国人に対して似たような態度をとる。以下、江戸時代の例。日本人とメラネシア人の共通点として他に死後の世界の認知と、自然世界の認知がある。

黄泉の国がこの世とそっくり同じ引き写しであるという世界観。これは日本のアイヌの黄泉観と類似しており、黄泉の国の食べ物を食べると黄泉の国の人になるという世界観も古事記の中に同じような話がある。

メラネシアでは、妻が夫との結びつきで子供を身ごもるのではなく、妻側の親族の死んだ霊が子宮に入り生まれてくると考えられている。つまり、夫は妻との間の子ではなく、自分の姉妹の子供を血族だとみなす母系制の社会である。男女の性行為によってではなく、先祖の霊もしくは子供の芽が女性の中に入って子供が生まれるというモチーフは、古事記の中でも性行為を知らない男女という形でしばしば現れる。

73号 和語(奈良朝以後の日本語)以前の日本語を考える上で、琉球の「おもろそうし」から接頭辞・接尾辞を取り出してみる。そうすると万葉集では意味がないとされていたような接頭辞・接尾辞が本来持っていた多様な意味が読み取れる。また、古事記中の人名や地名なども、同じやり方で意味を読み取ることが出来る。

74号 三内丸山遺跡の地名「三内丸山」はアイヌ語の「San-nay:山のふもとの川辺の場所」と和語の丸山がくっついたもので、アイヌ人と和人が共同で住んでいたことを意味している。アイヌ語+日本語で一つの地名になる例を以下挙げてある。

アイヌ語+日本語の地名を枕詞として考えてみる。この場合、アイヌ語の部分が枕詞になる。アイヌ語+アイヌ語で同一種族語で同じ場所を異なる視点から名づけた「谷内佐渡」の例。折口信夫「古代中世言語論」よりことわざの起源の引用。ことわざが、元々の意味を失い、意味が分からなくなっても「ある語の上につく決まり文句=枕詞」として固定されていく様子が書かれている。三内丸山という地名も、アイヌ語の三内と和語の丸山が同一の地名を指しており、同じ意味の言葉を二つ繰り返すことから、枕詞の初期形といえる。

角川の「沖縄古語大辞典」から、言葉を二つ重ねて作られた地名の分類。1方言+和語2古語が意味を変化させながら現代まで地名として残ったパターン。3逆さ言葉。渇水を意味する「みづかつ」や新麦を意味する「むぎあら」など。4単語に単語を重ねて文章のような地名を作り出すパターン。

感想

分割/結合という概念は、外界の認識・概念の分割と結合であるように感じた。印象派の絵画が、人の輪郭と風景との境界線を解けさせ、建築物が空の中に溶け合うように描くように、世界が解けて一つに融合するように見える(大麻・LSDの体験記で多い記述)のが癲癇で、分割ってのは同じ人でも目と鼻と口ではまるで別人格であるかのような動きをし始める(LSDのバッドトリップ体験に多い)ように感じる体験ではないかと思われる。

吉本氏は主としてフロイトの精神医学と、現象学との二つの流れの中で、心の世界を描こうとしている。文面では一見フロイト寄りにみえ、現象学批判をしばしば口にするのだが、吉本氏の取ってる方法論は医者の立場から患者を分析する精神医学よりも、むしろ自分自身の病にスポットを当てて自己分析を掘り下げていく現象学的方法に近い。そもそも何故詩などというようなものを書いてしまうのか?という自分自身への分析であり、

霊の心=内臓=植物系(Ex70号)、体の心=外からの刺激の受容=動物系・体壁系という認識なのだと思われる。
もともと吉本隆明氏が詩を書き出した理由が自分と世界との違和感からであるようだ。そしてそのような表現の衝動を生み出すきっかけとなった自分と周囲との間にある違和感のルーツ・出所を、この心的現象論で探ろうとしているようである。

リトル・トリー絡みの文章見ても、ある一定以上の年齢になれば食ってく(ボディーマインド・体の心)ために、自分の信念(霊の心)を曲げなきゃいけないこともあるけど、それだけじゃダメなんだってなことを、熱く語っていて、ドント・トラスト・オバー・ザ・サーティーって最初に言ったの30超えたおっちゃんちゃうかな思った。この本の吉本隆明は他の本の吉本隆明と比べ、なんか妙に熱い。

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