川が人間に進化するまで  

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川が人間に進化するまで

川の誕生

川は名詞だろうか、動詞だろうか?水が物自体を指す名詞だとすると、川は重力を動力として川上から川下に水が流れる物理現象自体を意味する動詞である。ある一つの動きが姿形をもって現れ続ける時、その継続されつづける物理現象はあたかも一つの物体の様にして現れる。

川は生物だろうか?生物の一つの特徴として、外界の物質を自らの体の中に取り込み、そして、消化吸収し、排泄するという機能がある。川は、泉や池から涌き水を、雨や嵐から降水を、自らの体の中に取り込む。すなわち、彼らは生物の様に食事を行なうということが出来る。次に彼らは、その取り込んだ水を自らの体の中でバラバラに分解し消化吸収する。一度川の中に入った水は、どこまでが雨水でどこまでが涌き水なのか分ける事が出来ない。雨水も涌き水も同じ川の一部として消化吸収されているのだ。

さらに、川は排泄を行なう。川に流れ込んだ石や岩は川の体を形成するのに不必要な物質として川の外側、すなわち川底に排泄される。また、老朽化した細胞を体から切り離す事も忘れてはならない。植物の場合、老朽化した葉っぱは落ち葉として排泄され、動物の場合、季節の変わり目に体毛や歯が抜けて生え変わり、動物によっては恒常的に生えてくる歯や爪を研いで常に新しい状態を保っておく。川も同じで、老朽化し位置エネルギーの低くなった細胞、すなわち下流の水は河口から海へ排泄される。位置エネルギーの高い、より上流にある水に行くにつれ老朽化多細胞として扱われる。上流では活性化していた水の流れが、河口付近では停滞し、流れている事が目では確認されづらいほど、細胞の動きは不活性だ。

川は移動する。より良い環境を求めて生物が移動する様に、川もまたゆっくりとだが移動を繰り返す。より良い環境を求め、上から下への移動を果たす。より流れやすい環境を求めて川はさまよい流れを変える。それも多くは嵐の夜や大洪水の日に起こり、それ以後はまたその地にとどまる。川は子孫を作る。多くの動植物と同じように川は子孫を作る。ある程度まで大きく成長した川は細胞分裂を繰り返し、多くの支流を生みつづける。それらの支流はより多くの地域に広がって行き、何かの事情で元の川がダメになっても、その川の流れを絶やさない役割を果たしている。

火の誕生

火は生物として呼吸をする。酸素を吸い込み二酸化炭素を吐き出す。川が雨水や涌き水を食しても、食した水を変質させなかったのに対して、火は食した炭素や鉄・アルミニュームを二酸化炭素や酸化鉄・酸化アルミニュームといった形で変質させて排泄する。川が一つの物理現象だとすれば、火は化学現象だと言える。この点が、火がより生物として川より人間に近いと思わせる点だ

火の寿命は短い。非生物から簡単に発生し、簡単に絶滅する。火という生物の発生原因と絶滅原因は単純で、熱・燃料・酸素の三つの要素があるから発生し、その三つのうちのどれか一つが欠けたために絶命する。主として、炭素(植物性炭素として紙や木炭)や油を食するという点、火の食料を一般に燃料という点を省くと、火は生物とほとんど変わらない。

火は食料を求めて移動する。山火事などの例を見ても分かるように、火は植物性炭素=樹木を食し、排泄=酸化すると、まだ食べていない食料を求めて山の中を徘徊する。この火の移動をして、火に意志が発生していると考えるのか、それとも火とはそのような化学反応を起こすものなのだと考えるのか。つまり、木になったリンゴが木から落ちるとき、それはリンゴの意志によるものなのか、それとも重力によって引っ張られたただの化学反応でそこに意志は発生していないと考えるのか。この問題を中心に以後のバクテリアの講を進めたい。

バクテリア

バクテリアは火の進化型だ。熱と食料と酸素のどれか一つが欠けたとき、すぐさま絶滅する火に対して、バクテリアは非活動状態=冬眠を行なう事で、延命をする。一般に火が生命と呼ばれないのは、生命と呼ぶには自然界においてあまりにも寿命が短すぎるからである。また、川や火が非生物から自然発生するため非生物=化学反応だと言わ、バクテリアは非生物からは発生しないと信じられているため生物だとされている。

バクテリアの食料は燃料ではなく主にブドウ糖と呼ばれる栄養素で、この点でも火よりもかなり人間に近い。

バクテリアが意志を持った人となるまで

シャーレの培養液の中で発生したバクテリアに、光を当てると、バクテリアは光源に向かって移動を始める。光源=熱に向かって移動するバクテリアを一つの化学反応としてとらえるのか、それともバクテリアに一定の意志が発生していると考えるのか。例えば、これは火がまだ燃えていない木を求めて移動する事と比べてどうであるのか。火は生物ではないから、火の移動は化学反応で、バクテリアは生物であるので、バクテリアの反応は意志が発生している。というのは答えにならない。ここでは取りあえず、生物と化学反応との境界線を疑うところから始めようとしているからだ。

科学による証明を行なう時、反復可能性が重要視される。水に電気を通した時、常に水は酸素と水素に分解される。これは一定の条件の下では誰がいつ行なっても同じ結果になる。すなわち反復可能性があるため、科学的にみて「水は水素と酸素に分解されうるものだ」ということが出来る。科学の一部である化学もまたこの反復可能性を重要視している。化学反応とは反復可能性のあるものを言う。

それに対して、人間の生活、人生や生き方を反復可能性のある化学反応だと言えるだろうか。リンゴか上から下に落ちるように、水が水素と酸素に分解される様に、人はある一定の条件下ではみな一様に同じ反応、行動様式、生き方をするものなのだろうか。意志を持った人間の行動には化学反応とは異なる多様性や個性がそこに存在する。そう考える時、光を当てれば光源にバクテリアが集まる現象は、意志ある生物の行動というよりむしろ、化学反応に近いと言えるのではないだろうか。

プログラムの達成値=幸福感

バクテリアの様に本来意志ある生物がまるで化学反応の様に振る舞ってしまう。シャーレの一部にブドウ糖を置いた時、シャーレの一部に光を当てたとき、みな一様にバクテリアが移動し、バクテリアの移動結果であるバクテリアによって作られたシャーレ上の文様が毎回同じように、ある一定の法則を持って作られてしまう。ここにどのような理由が発生しているのであろうか。

熱・酸素・ブドウ糖この三つがないとバクテリアは活発に活動を行なえない。ブドウ糖を消化し、細胞分裂を繰り返し、子孫を大量発生させるために必要不可欠な三要素なのだ。熱・酸素・ブドウ糖を求めて移動し、細胞分裂する彼らは「バクテリアを大量発生させる」という意志=将来に対するビジョンをもって行動しているのだろうか。むしろ、もっとシンプルな化学反応としてとらえられないだろうか。ブドウ糖の消化吸収を食欲、細胞分裂を性欲と考えるとき、食欲という変数、性欲という変数、呼吸という変数の三つによって構成される達成値を上げる事を命令されたプログラムとしてバクテリアをとらえることが出来る。

パソコンと生物というのは、非常に似ていて、入力端子=知覚神経から得た情報を電気信号に変換して知覚し、その電気信号がCPU=中枢神経を通る時にプログラムにそって電子が分散・消滅され、この行為を通常判断と呼ぶ、そして、出力端子=運動神経を通して行動・表現される。そしてこの間、神経=電子回路上を電子が走る行為は、一定の条件下では常に同じ結果を出す化学反応そのものである。

つまり、バクテリアは光・温度・ブドウ糖に関するセンサーを持ち、食欲や性欲といういくつかの変数によって構成される達成値を増やすプログラムを持った一つの機械のようなものだと考える事が出来る。

時間・倫理の誕生

中枢神経=回路に組みこまれたプログラムに従った行動をとれば、報酬としてエンドルフィンが分泌され、快感を得ることが出来る。その快感原則=プログラムに従った行動様式を、〜したい/〜したくない=快/不快だとすると、自分個人の利益を無視してでも公共のために尽くす行動様式、〜すべき/〜すべきでない=善/悪に従った行動様式こそが、人間とバクテリアを分ける一つの大きな分かれ目ではないだろうか。

個人の中の欲望の達成値は、中枢神経によってエンドルフィンに変換され、安心感や達成感として個体の中へ還元される。この個人の中に組みこまれたプログラムの達成値にのみ忠実に行動するのが、機械=バクテリア的化学反応だとすると、シャーレの一部に当たった光に対し、老人や女子供を優先的に光源の方へ移動させる。ある種の倫理を持ったバクテリアこそが人間であり、あらかじめプログラミングされた利害、ブドウ糖や温度・湿度・酸素等の環境に対する利害から離れた行動様式をとるのが人間で、光に対して反射的に動いてしまうのがサーモグラフ・光センサーだと言える。

さて、人間とバクテリア、人間とセンサー付きの機械とをへだてる倫理が、どのようにして発生したかを考えてみたい。幼児期において赤ん坊はお腹がすくと泣き、満腹になると泣き止む。おしめがぬれると泣き、おしめを取り替えてもらうと泣き止む。これはある種、温度センサーのついたコタツなどと同じようなものだ。ある一定の温度以下になると温度センサーが動きコタツの電熱器に電源が入る。ある一定以上の温度になると温度センサーが動きコタツの電熱器がOFFになる。外界からの刺激に対し、一定のプログラムされた化学反応が個体の中で起きて一定の同じ反応が外界に向かって発動される、リトマス試験紙やバクテリアと同じ行動様式を持つ赤ん坊のハードディスク=記憶装置にいくつかのデータ=記憶がインプット=入力される。廊下でうんこをすると怒られた。トイレでうんこをするとほめられた。いまうんこをしたい。ここは廊下だ。で、トイレに行くまでうんこを我慢する運動能力がある場合、この幼児はどうするのか?過去の記憶=データから、未来を予測し、現在のとるべき行動を判断する。

ここでトイレに行ってうんこを出来たとすれば、ここに格段のハードウエアの向上が発見される。まず、過去の膨大な経験を記録するハードディスク=記憶装置が必要となり、さらに、そのハードディスクから必要なデータを選び取り出すだけの検索用のアプリケーションソフトが必要となる。そして、検索された過去のデータから、近い将来を何種類か推察し、より良い未来を選ぶシュミレーション用のアプリケーション、そしてなによりもそのより良い未来に向かって行動するだけの行動力=出力機器の発達が不可欠となる。これだけの条件をクリアして行なわれた行動は、単なるサーモグラフ的な、センサーからの情報をあらかじめプログラムされた通りにしかアウトプット出来ないバクテリアの行動様式とは質的な断絶を発生させている。ここに倫理が発生する。廊下でうんこをするのが悪い事で、トイレでうんこをするのが良い事。悪い事をすれば怒られ、嫌な気分になる。良いことをすればほめられ良い気分になる。物事の善悪は、長期的な視野で見た時の快/不快、より長期的な利害を示す概念となる。

発生時、ほぼ同じプログラムで作動していたバクテリア達が、その蓄積するデータの差異や、データに対する検索・シュミレーション方法の違いによって異なるプログラムを自ら発生させ何重にも書き換えて行くとき、個々のバクテリアに変異が蓄積され、より複雑な動きをする集合体として社会を形成する。

電子回路=神経細胞=交通網

銅線の中を電子が走る。銅線の端には半導体があり、一定以上の電圧が加わらなければ、その中を電子は走れない。一定以上の光が当たった時、銅線には一定以上の電圧が加わり、銅線の中の電子は半導体を超えて、回路の動力部であるモーターの中まで走り始める。モーターの中を走り回る電子はモーターに磁力を発生させ、モーターを回転させ、モーターは車軸を通じてタイヤを動かし光の当たる方向へと導く。

このシンプルな電気工作キッドとバクテリアの間には、少なくとも行動様式に関して差異は無い。光の当たる方向にバクテリアは移動する。

複雑に張り巡らされた電子回路=神経細胞の中を走る電子は、複雑に張り巡らされた道路交通網を走る一台の車に例えられる。毎日同じルートを同じ荷物を載せて走る一台のトラック。工場から出発したトラックの先には小売り店があり、一定以上の利益が上がらなければそのルートをトラックは走れない。小売り店に対し一定以上の利益が発生する時、トラックは小売り店を通じて、消費者の手元にまで商品を拡散させ、その売上データは工場のコンベアを回転させる。いくつかの変数によって構成される達成値に基づいて動くバクテリアによって構成された社会も、いくつかの変数によって構成される売上達成値に基づいて形態を、交通網を変化させて行く。

幸せな生活

彼はどちらかというと、やや真面目過ぎるぐらいに几帳面なサラリーマンだった。彼が初めてそこへいった時、同じ部署の私も誘われたのだが、仕事の都合で行けなかった。彼はその日、やや興奮気味にそこでの出来事を語ってくれた。

 「とにかく、幸せな気分なんだよ。お前も来いよ、絶対ハマるって、あのさ、全世界が俺を祝福してくれているって言うの?もうビルというビル、壁という壁が俺に向かって手を振って、窓ガラスがキラキラ輝きながら俺に微笑みかけてくれている。床もなんかこうフワフワ揺れててさ、とてもいつものオフィスとは思えないぐらいにすべてが俺に絶対的な幸福感を保証してくれているんだ。ほら、まるでさ、世界が自分を包み込む様に優しく抱きかかえてくれてる、自分はもう世界に対して体をあずけてすべてをまかせてしまってかまわない、もうそうせざるを得ないぐらいの絶頂感。こんなの今まで味わった事も無いし、これは経験しないと分からない事だけどとにかくすごいんだ。お前にもこの幸福感のたとえ一部でも分け与えてやりたいし、経験して欲しい。自分一人だけ幸せになるなんてあまりにももったいないだろ?絶対お前も来いよ、すげぇーって、もうこの世のものとは思えねぇー、今度来た時にはこの終わらない幸福感の上に神の見姿までくれるってんだぜ。お前も来いよ、俺が言ってお前の分ももらってきてやるからさ、神の見姿だぜ、神の!俺の前に神が舞い降りるんだよ、分かるかよ、おめぇーよぉー」

私にはそこで何が起きているのか状況が理解できなかったのだが、彼が非常に幸福な状態にあるということだけは理解できた。次の日から彼は会社に来なくなり、自宅に電話しても常に留守番電話で、会社が終わって彼の家を訪ねたが留守宅のままだった。

そして公園のベンチの上で、倒れている彼を見つけたのは、彼が失踪してから一週間ほどたった頃だった。顔色が悪く、ひげも髪も伸び放題で、漂う体臭からはおそらく彼が一週間風呂に入ってないであろうこと、やせこけた体からはメシも食ってなさそうな気配を感じた。

 「どうしたんだ」と私が聞くと、

 「最高だよ。もう何もいらない。太陽のしずくが俺に降り注いで、風は光の中を泳ぎ出す。俺の全身に髪の先から指先にまで言いようもない快感がほと走って、自分の意志では抵抗できないほどの安堵感に包まれるんだ。俺はもうずっとこうしていたいこのまま何も欲しくないし、このまま何も失いたくない。づっとこのままでいたいんだ。」

幸福感に包まれた幸せそうな彼の笑顔を見ていると、私は本気で怖くなって警察に電話した。本当に必要だったのはパトカーでなく救急車だったが、なぜかその時、私は警察に電話した。彼は病院に運ばれ、栄養剤を注射されたが、体がまったく受けつけず、終わらない最高の幸せと大いなる神の見姿を握り締めて死んだ。

その後、彼が神の姿見として最後まで握っていた物を見せてもらったが、それは私にはただのビーダマにしか見えなかった。

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