歴史の授業・・・万里の長城は南京大虐殺を行うか

「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」マルクス=エンゲルス著 共産党宣言より

日本の学校教育において近・現代史はタブーである。ほとんどの小・中学校において歴史の授業は大正デモクラシーを境に終わる。「三学期の終わりまでいってもここまでしか進まなかったので、ここから先は各自で教科書を読んでおいて下さい」これが歴史の授業を終える常套句だ。

「大正デモクラシー以降、普通選挙法と引き替えに治安警察法ができ、以後日本はファシズムへの道を進みアジア諸国を侵略しました。」仮に授業でこんなことを言えば、文部省や父母をはじめ多くの右系の方々からのおしかりを受ける。

「アヘン戦争を境に始まった欧米の中国侵略はアジア各国に及び、欧米に侵略されたアジア諸国を欧米支配から開放するため、日本は大東亜共栄圏を構想し、アジアを代表して欧米と戦い、アジアを欧米から守りました。」

仮に授業でこう言ったとしても、日教組や父母を始めとした左系の方々からのおしかりを受ける。

1980年代の京都は日本の中でもっとも共産党の強い選挙区であり、京都の小・中・高校の先生はそのほとんどが日教組、正式名称:日本教職員組合のメンバーであった。特に国語や社会といった文系の教師はほぼ全員、日教組のメンバーであった。逆に言えば、体育の教師以外は日教組だった。彼らの多くは尊敬する人として「反核異論以前の吉本隆明」をあげていた。「孤高の左翼」「日本における唯一にして最後の左翼」これが吉本隆明の主著「共同幻想論」のキャッチフレーズであり、日教組の理論的リーダー吉本隆明に与えられたキャッチフレーズだった。反核異論は吉本隆明の書いた本で、マルクス主義にさよならを言った本である。当時の日教組は反核異論以後の吉本隆明を批判しつつ、新しい思想的リーダーを見つけられずにいた。具体的には反核異論の悪口を言いつつ、それでも吉本は偉大だという言い方が多かった。二番人気は大江健三郎で、マルクス・エンゲルス・レーニン・トロッキー・毛沢東・孫文という声はすでに聞かれず、歳を召した女の先生の机の上には宮本百合子選集などが置いてあったが、その夫(日本共産党の偉いさん)の本は無かった。その宮本百合子選集も読まれるのは軽いエッセイや女性論であり、政治的アジテーションでは無かった。

京都に左翼関係者が集まるのは70年、71年のことだ。60年代に安保闘争という巨大な学園紛争が起き、その反動で70年代の始めには中央からの管理が厳しくなり、多くの芸術家・左翼関係者は東京を離れ、そのほとんどがアメリカ/京都に移り住む。京都は日本の中でもかなり特殊な街であり、様々な理由によって70年当時でも言論の自由が比較的許された街だったのだ。

例えば、立命館大学は60年安保時には右翼の大学であり、左翼学生が京都の御所を破壊しに来るといううわさを聞いて体育会学生連合が結集し御所の前にバリケードを張って御所を守ったという伝統がある。ところが1970年には安保の総括として京大を首になった教授達が大勢立命館に入ってきた。中央官庁が本気で左翼的な言論を封じようとしていた頃だ。京大というのは東大に継いで日本を代表する大学であり、東大が日本を管理する官庁に多くの人材を送り込む大学だとすれば、反東大・反管理の先頭に立っているのが京大だ。既に権威を持った偉大な学説を学び啓蒙するのが東大だとすれば、その権威のすき間に矛盾を見つけ異議申し立てを行い新たな理論を構築するのが京大だ。そう考えれば、ノーベル賞受賞者が東大よりも京大に多いという事実も納得できる。その京大を左翼的言動が理由で首になり立命館大学に来た人達はもとが優秀だったこともあり、一大派閥を形成し学内での権力闘争の末、立命館を左翼系の大学にしてしまう。そんな70年代が終わり80年代に入った頃。

京都の中学校で、ある女性教師が歴史の授業をしていた。彼女は当然のように日教組のメンバーであり、授業の中で南京大虐殺や豊臣秀吉の朝鮮出兵にも触れていた。朝鮮でとったアンケートで最も嫌いな人物を聞けば、一位が朝鮮侵略をした伊藤博文で、二位が朝鮮出兵をした豊臣秀吉であるという話もしていた。

「少数の統治者が多数の人民を支配するとき、使われる方法は二つある。一つはアメとムチであり、もう一つはディバイ・エン・ルー、分割して統治せよです。日本の労働組合運動を引っ張ってきた日教組を自民党は分割して統治した。初めは巨大な一勢力を二分割するため、中学・高校の教員と小学校の教員の間に給料格差や資格試験の差を作り、中学・高校の教員は小学校の教員より偉いのであんな低級な人達と手を組まなくてもいいですよ、自分より一段低い人達と付き合うとあなた達の品格まで堕ちますよと言ってきた。次に、中学の教員と高校の教員を分断し、教員と副教員、校長・教頭とヒラの教員、私立と公立、体育教員とそれ以外、そしてまあ、色々なことがあって、最後に日教組は無力なバラバラの集団になってしまった。これが彼らのやり方だ。そんな人達に中学・高校の教員は偉いとほめられて喜んではいけない。支配者が差別を生み出すとき、差別する側も差別を出来てラッキーと思ってはならない。差別をすることで支配者との闘争において力を分断され、より従順な羊にされてしまうのだから。」

といった話も、彼女は授業の中でしてくれた。その日は、今年度最後の歴史の授業だった。教科書は一通りやり終え、授業は一時間だけ余っていた。彼女はいつもよりも多めのプリントを配り、黒板に大きくユーラシア大陸を書いた。そしてその端にアメリカ大陸とオーストラリア、日本を書いて世界地図にした。教科書にも教育指導要領にも載ってない授業だということは容易に想像がついた。

「チグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア文明、ナイル川流域のエジプト文明、インダス川流域のインダス文明、黄河流域の黄河文明、世界四大文明はすべてユーラシア大陸で起こっています。中でも日本に最もなじみ深い中国に統一王朝ができるのは紀元前221年秦の始皇帝からでしょう。中国の歴史はここから始まります。ということは、日本の歴史もここから始まるわけです。当時日本は無文字社会ですから日本について書かれた文献は日本では発見されません。日本について書かれた世界で初めての文献は中国の魏という国において魏志倭人伝という形で生まれます。魏志という魏の国の歴史について書かれた本の中に倭人について書かれた章があり、その章を倭人伝と言います。魏志倭人伝とは中国の魏という国の歴史書の一部なのです。

中国に統一王朝ができた紀元前221年。中国の人達は北に住む騎馬民族によってしばしば侵略されます。中国に住む人達は河を中心に集落を作る農耕民であり、定住しているわけです。中国の北、いまのモンゴル辺りですね、この辺に住む人々というのは、騎馬民族であり、常に食料を求め移動しているわけで、決して中国を侵略しようなどという意思はないのですが、北の方の荒れ地に住み冬になると寒く食料もないため毎年南下してきて食料を調達するわけです。騎馬民族は狩猟民族であり、野生の動物を狩って食料とし、野生の草花を穫って食べてるわけですが、南に住む中国人にとってそれは野生の植物ではなく自分達で育てた農作物なわけです。彼らは騎馬民族の進行に悩み苦しみました。当時、秦の始皇帝という非常に大きな権力と軍事力を持った王が中国を支配していたのですが、馬に乗った騎馬民族も狩猟民族のため非常に強いんですね、馬での戦いなら農耕民に負けないわけです。そこで秦の始皇帝は騎馬民族の進行をくい止めるべく万里の長城の建設に乗り出すわけです。

万里の長城の建設は非常に多くの労力と犠牲を生み出しました。造るといってもすぐに完成するわけではないですから、造ってる最中は何もしてないときよりも弱いわけです。造ってる最中に何の準備もしてないのにいきなり攻めてこられて殺されたり、せっかく造った物を壊されたり、一点突破である部分を壊されてそこから一気に攻め込まれたり。こっちは万里の長城の裏側で安心しているときにいきなり攻め込まれるわけですから容赦ないわけですよ。万里の長城を造ってる最中に何度か冬が来るわけで、冬になれば騎馬民族が南下してきて、万里の長城を造りながら戦わなきゃいけないわけです。多くの犠牲が生まれ、万里の長城の建設に力を注ぎすぎたため、秦王朝は崩壊してしまうのですが、なんとか長城は完成するわけです。と言っても、いまみんながイメージしているような大きな物ではなくて、騎馬民族の馬が入って来れない程度の高さ、みんなの腰ぐらいの高さがあれば馬は入って来れないですから、壁の厚みもそれほど厚くなくて、垣根ぐらいの物で良いんですね。そこで馬が引っかかってくれればいいわけですから。人が乗り越えてくる分には秦の軍隊の方が圧倒的に強いわけですし。」

世界地図に目を移し、モンゴルと中国の国境辺りに万里の長城を書く。

「騎馬民族も生活がかかってますから食料を求めて移動しなくてはならないわけです。ですが、このモンゴル。南は万里の長城、東は太平洋、北は永久氷河で極寒の地ですから、ロシアでもシベリアといえば氷の大地、死の大地、流刑地ですから冬にこんなところに行ったって食えないわけです。あのナポレオンの軍隊を撃退し、アドルフ=ヒットラーを狂わせた土地ですからね。騎馬民族達は食料を求めて、西へ西へと移動するわけです。」

モンゴルから西へ大きな矢印を書く。

「騎馬民族に攻め込まれた西の民、フン族は騎馬民族に追われてさらに西に移動するわけです。これがあのフン族の大移動です。一方でフン族というのは、騎馬民族のことだったという説も残っています。騎馬民族に対するヨーロッパ側からの呼び名ですね。このフン族の大移動は何百年もかけて徐々に徐々に進行します。さらに、フン族に西側から攻められたゲルマン民族は、みずからの住みかを求め西へ西へと移動します。何百年もかけて徐々に徐々に移動します。これがあの有名なゲルマン民族の大移動です。そしてあのゲルマン民族が移動した先がヨーロッパ。当時この地に住んでいたのはゲルマン民族でなくラテン民族でした。ラテン民族はヨーロッパの西、今のスペイン・ポルトガルにまで追いつめられます。ここから先は大西洋しかありません。もう逃げ場がないのです。ここで、ルネッサンスの三大発明、火薬・羅針盤・活版印刷術が役に立ちます。」

この地点で黒板上にはユーラシアを横切るいくつもの矢印が西に向かって引かれている。

「この三大発明、中国で発明され遅れること百年あまり、とはいえ初期の物とは違い数々の改良が加わりより実用的にはなっているのですが、やっとこの遅れたヨーロッパに伝わるわけです。 中国で文明が発生し・・もちろんエジプトやメソポタミアも非常に発展するのですが、とはいえ、この頃までは進んだアジアと遅れたヨーロッパの図式は続くわけです。始皇帝から始まってルネッサンスまで千数百年ですか、そのあいだ世界は進んだアジアと遅れたヨーロッパだったわけです。遅れたアジアと進んだヨーロッパに変わるのはアヘン戦争から以後の三百年程だけです。歴史的に観ればむしろアジアが世界をリードした時間の方が長かったわけです。それはこの長期に渡る、ゆっくりとしたアジアのヨーロッパ侵略を観ても明らかです。ゆっくりとですが何千年にも渡って、アジアは西に対する侵略と文明の伝来を行ってきました。それは、科学や歴史の時間がゆっくりと流れていた時代のことでした。ここから科学や歴史は急展開し、時間の流れは加速度的に速くなります。 ゲルマン民族の大移動によって、ヨーロッパの西端、スペイン・ポルトガルに追いつめられたラテン民族は、もうこれ以上西に行けません、西にはだだっ広い大西洋しかありません。そこでルネッサンスの三大発明、羅針盤が役に立つわけです。羅針盤を使い、海に出ていく、大航海時代が始まるわけです。その背景には、活版印刷術で広まった世界観があります。マルコポーロの東方見聞録、地球は丸いという仮説で書かれた世界地図、海の向こうには黄金の国ジパングやインドのこしょうが待っている。大陸では野蛮なゲルマン民族が戦闘をけしかけてくる。若者は一か八かの夢を海に託しました。コロンブスは囚人の中から船員を募り、インドを目指して海に出たのです。なぜ囚人なのかというと、当時海の向こうには水が滝のように落ちている場所があって、そこへ行くと船ごと地球の向こうに落ちてしまうと信じられていたので、船に乗って反対周りでインドに行こうなんて無謀なことは誰も思わないんです。ですから、囚人の中から希望者を募ってどうせ死ぬのなら大海の淵から落ちて死のうと言う命知らずを集めて、万一成功したら刑罰を軽減するという約束で船員を集めたわけです。ということは、航海が命がけであるだけじゃなく、船員が犯罪者の荒くれ者ばかりなわけですから、その人達を統制するのも命がけなのです。『久しぶりのシャバだ、船長を殺して、船乗っ取って、外国に高飛びしようぜ』ってことに、いつなるか分からないわけです。じゃ、なぜコロンブスという若者はそんな無謀なことをしたのかというと、インドの胡椒が欲しかったんですね。当時インドの胡椒は胡椒一グラムで金一グラムと交換されるぐらいの貴重な香辛料でした。一発バクチを打って一山儲けようとしたわけです。そんな時代に、バスコ=ダ=ガマが喜望峰に到達し、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、マゼランとその一行は世界一周を達成しました。

この辺りはかなり白人中心の歴史観になっているところがあって、よくある冗談で『世界で一番初めにアメリカ大陸を発見した人は?』という問いに、インディアンとかエスキモーとか原住民と答えるのがありましたが、世界史の試験でも正確には

『白人で一番初めにアメリカ大陸を発見した人は?』

と尋ねるべきなんですね。ネイティブインディアンの学校では

『世界で一番初めに発見された白人は?』

と尋ねるらしいのですが(笑)。さらにこの『マゼランとその一行』というのもかなり紛らわしくて、なぜストレートにマゼランと言わないのかというと、正確にはマゼランは世界一周する途中で原住民に殺されているんですね。で、マゼランを代表者とする船員達が世界一周をしたので、代表者の名を取って『マゼランとその一行』と呼んでるのですが、マゼランはその中に入っていません。 で、ルネッサンスの三大発明。羅針盤と活版印刷術は出てきましたが、後の一つ、火薬はなんの役に立つのでしょう?・・・・・・・・そうです、兵器ですね。銃や大砲を持って彼らは航海をしたわけです。未開の地に行くわけですからどの様な猛獣がいるか分かりません。ライオンやトラ、ゾウなどから身を守らなくてはいけませんし、まだ自分達が見たこともないような恐ろしい獣、例えばドラゴンとかいるかも知れないわけですから、護身用に持っていくのです。もちろん、そういった恐ろしい猛獣の中に、首かり族や人食い人種といった形で語られる人間達も含まれており、こういった問題は後々まで響いてきます。今ではテレビのドキュメンタリーなんかで、まあ、君達の好きな川口ひろし探検隊とか、そういった番組で

『秘境!ジャングルの奥地に住む人食い人種の村』

とか特集して、面白おかしく、けれども多少は教育的に、人食い人種は誰でも彼でも無差別に人を殺して食べるのではなくて、非常に頭のいい物知りの長老が死んだときなどに、彼の知識を部族の中に残すために尊敬と敬意を込めて次世代の長老が彼の脳味噌を食べるとか、そういった文化的な営みであって、決して文明も文化もないような未開の人間が行う行為でないことを今の私達は伝え聞いてるわけですが、当時はテレビもラジオもないですから、非常に恐怖心を持って彼らと接したわけです。 話を元に戻すと、東からゲルマン民族に攻め込まれたラテン民族は西へ西へと逃げて、ヨーロッパ大陸の西へ、現在のスペイン・ポルトガルあたりへ追いつめられました。当時の文献ではゲルマン民族は非常に凶暴で自らの家を持たず、リヤカーに全財産と家族を乗せて東から移動してきて、パン屋などで店の物を略奪し、争いになると彼らの凶暴さ、戦士としての勇敢さは遺憾なく発揮され、リヤカーを盾に飛び道具を使って立てこもり、縦横無尽に走り回って店一軒を全壊させたとあります。こういったゲルマン民族の一家が一つ、また一つと村にやってしては町を荒らし、そういったことが百数十年にも渡って徐々に徐々に進行し町は荒廃し、人々は西へ西へと移動していったのです。」

そう言って彼女はもう一度、地図の上ので位置を確認する。

「はじめにヨーロッパの西の果てに追いつめられ海に出たのはスペインとポルトガルでした。彼らは主にアフリカ大陸やアメリカ大陸に渡ったのです。アメリカ大陸にはあの有名なインカ帝国という、当時としては世界でも有数の優れた文明を持った帝国があったのですが、残念なことに彼らの文明の中で最も優れていたのは天文学であって、きっと彼らはロマンチックだったのでしょう、軍事面では非常に貧弱でした。なにしろ、当時のインカ帝国には鉄器が無く、金属は金か銀か銅であり、金や銀が装飾品としてだけでなく、家を建てる際の金具や釘としても用いられていたという、非常にこう、メルヘンチックですね。家の玄関のドアのちょうつがいや釘や取っ手なんかが金銀で出来てるとなると街全体が、エルドラド、夜でも光を放って輝く黄金の国に見えたでしょう。金や銀が装飾品や金具でなく、貨幣としてしか見えなかった当時の白人は、なにしろ彼らは、元は刑務所の中に入っていた囚人だったりするわけですから、あまりガラも良ろしくないですし、金や銀や宝石と見れば、何から何まで略奪して歩くわけです。インカ帝国には鉄器が無く、銅の剣で闘ったわけですが、銅みたいにあんな柔らかい物でどうやって剣を作ったのかわからないのですが、おそらく装飾的な意味合いの強い剣だったのでしょう、鉄の剣とチャンチャンバラバラすれば、どんどん刃が欠けていきますよね。さらに悪いことに、彼らは馬を見たことがなかった。ヨーロッパの戦争では古くはアレキサンダー大王の時代から、戦争では馬に乗るわけですが、彼らインカ帝国の人間は馬に乗った人を見て、あれを一つの動物だと思ったらしいのです。半人半獣の怪物ですね。そんな悪魔相手に闘っても勝てるわけがない。インカ帝国は二・三年のうちに滅ぼされ、かつて栄華を誇った都市も、金銀財宝が略奪された後には、金具を抜かれた建築物だけが残ったと言います。

先生が配ったプリントより一部抜粋:

インディオはスペイン人から貢納として奴隷を要求されると、止むなく自分達の息子や娘を差し出すのであった。彼らは奴隷など所有してなかったからである。(中略)どこかの集落や地方を襲撃しようとする際に彼は、インディオに同士打ちをさせるために、すでに臣従を誓っているインディオたちから出来るだけの兵士を徴発した。そして、それら連行した一万人か二万人のインディオには、食料を与えないでおき、代わりに、捕らえた相手のインディオを食うことを許したのだ。かくして彼の陣営では、いとも厳かに人肉市場が開かれるという次第となり、彼の目前で、幼児が殺されて丸焼きにされ、大人は殺して手や足だけが切りとられた。その部分がもっとも美味とされていたからである。

ラス・カサス著 石原保徳訳インディアス群書6「インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述」P83より 現代企画室刊

で、米国大陸ともう一方のアフリカ大陸はどうなったのかというと、アフリカはアメリカに連れていく黒人奴隷の供給地として、活用されました。これは当時のアフリカにも問題があったのですが、部族社会であったので、部族同士の争いで負けた方は勝った方の言うことを聞かなければならないというルールがあり、そのため、強い部族は複数の部族を下に引き連れていて、当時の白人が彼らにちょっとしたアクセサリーとか彼らにとって珍しいけれどタダ同然の物を見せて、彼らの引き連れている部族と交換して、交換された黒人を奴隷として船に乗せ、アメリカ大陸まで運んだのです。船に乗せるといっても、当時の技術で大西洋を渡るのは非常に困難であり、何カ月もかけて命がけで航海してるわけですから、一度の航海の利益を少しでも上げようと不衛生な舟底に何人も詰め込まれたまま、何カ月も船に乗り続けるのです。狭いところにすし詰めにされる状態、満員電車をイメージしてもらうと分けると思うのですが、夏などは汗くさいですし、隣の人と肌を寄せ合うため隣の人の体温が伝わってきますし肌もベタベタします。実際には満員電車よりも天井が低く、膝を抱いて座ったり床に寝転がったりしたような体勢で寝返りもうてないまま数カ月真夏の海を渡るという状態です。逃げないように鎖でつながれた奴隷というのはうんこやおしっこといった排泄物の処理にも手間がかかるため時には舟底で鎖につながれたまま垂れ流したりもしていたようです。そうなると当然、汚物まみれの中で生活するわけですから、疫病が集団発生して人がバンバン死んだりもします。その黒人の死体を死んだまま放置したりすると、さらにその死体から虫やらネズミやらが、わいて出て疫病は他の生きてる黒人達に蔓延します。白人達は黒人奴隷とは別の広い衛生的な場所にいるのですがアメリカに着いて舟底を開けてみたら、詰め込んだ黒人の二割しか生きてなかったという記録もあります。スペインの港から船が出て、アフリカで黒人奴隷を乗せてアメリカに渡って、元のスペインに戻ってくる。この三角貿易の一回の航海で大きな船を丸ごと一個燃やしてしまうのですがそれでも莫大な利益が出たと言うんですね。たった一回の航海で燃やしてしまうのは黒人を無理矢理詰め込んだ船に疫病の病原菌が付着している可能性が高くて、その菌をスペイン本土に持ち込まないためなのです。そうして連れてこられた黒人奴隷はアメリカの鉱山で、銀を掘らされるわけです。当時の記録では黒人奴隷は親指に穴を開けられて、その穴にロウソクを立てて鉱山の穴の中を照らして銀の発掘をさせられたとあります。鉱山での仕事というのは、穴を掘って、掘った穴の中をさらに掘り進むわけですから、せまい穴の中でも入っていけるような女子供が、体が小さいためせまい穴にでも入っていきやすいという理由で大勢使われてました。若い男性奴隷だらけなら、ムチで叩かれたりしても、集団で暴動を起こすなどして反抗できるのですが、十二・三歳の子供達では体も小さいですし、暴動も起こせません。また、そういった過酷な労働条件におかれれば、おかれるほど現実の厳しさから逃避するため心の安らぎとして男女の恋愛も芽生えやすく、若い十代のうちに妊娠・出産して、子供が出来てしまったためにより一生懸命働いて金を稼ぎ子供を養わなくてはならないという悪循環もありました。昔から日本でも、佐渡の金山で働くのは江戸時代の囚人の仕事であったように、鉱山での仕事というのは、肺に有害な鉱物の粉塵を吸い込んでしまいやすく、それが原因で若死にする者がほとんどでした。

先生が配ったプリントより一部抜粋:

金山は人殺しをする。南アフリカの学者フランシス・ウィルソンの計算によると、1936〜1966年の三十年間に19,000人が事故で死亡したが、そのうち93%が黒人であった。これに続く時期の死亡者の年「標準」は、500〜600人であった。アフリカ人の死亡率は白人坑夫のほぼ二倍以上である。この原因は分明である。黒人はより危険な区域で労働し、訓練も十分でないからである。また死亡事故一件にたいして平均約四○件の割合で、不具者や重傷者が出ている。国際労働機構の公式文書が語っているように、「死亡や不具の障害をもたらす事故のほかに、アフリカ人坑夫が、その労働のせいで肺塵や珪肺などの呼吸器疾患に苦しんでいる何万もの例が数えられる。」また鉱夫はしばしば肺結核の犠牲になることを、これに付け加えなければならない。これらをすべて加えるなら、南アフリカの金の「生命容量」は恐ろしい数になるであろう。統計はどんな言葉よりも雄弁である。1972年に、黒人坑夫は、その極度に危険な重労働にたいして、平均で月に二四ランドしかもらっていない。だが白人労働者の平均賃金は三九一ランドで、黒人より十六倍も高いのである。(以下略)

アンドレイ・アニーキン著「黄色い悪魔」第五章 金ゆえのジェノサイドp128より

スペインやポルトガルが海に出て植民地を増やし我が世の春を謳歌していたとき、イギリスとオランダもまた遅れて大航海時代に突入しました。スペインやポルトガルはある国の物を別の国へ持っていくという中継貿易が主でしたが、遅れてやってきたイギリスやオランダは違いました。なにしろ、インカ帝国やアステカ文明の財宝も含めて略奪できる物はすべて略奪された後でしたから、今さら中継貿易をやってもしょうがないわけです。そこでイギリスは加工貿易を始めたのです。当時のイギリスでは産業革命が起こり動力で動く機械によって、短時間で大量の織物を作ることに成功しました。短時間で大量の商品を作れるとき、何が必要となるのか。大量の原料と巨大な市場です。イギリスでは大量の原料を仕入れるため、まず囲い込み運動が起こりました。織物の原料となる羊毛を大量に作るため、それまで農奴の耕していた土地から地主が農奴を追い出し、その土地に農奴達が入ってきて農業をしないように柵を作って土地を囲い込み、その囲った土地の中で羊を飼いだしたのです。それまでその土地で暮らしていた農奴達は突然土地を奪われ、農業による生活の道が断たれたのです。彼らは何とかして自分の食いブチを見つけなければなりません。そこで多くの農奴達は、生活費を稼ぐため工場で働くことになったのです。それまでの農奴達は技能労働者でした。ある程度の専門的な技術を持ち、その技術に見合った稼ぎを得ていたわけですが、工場での単純労働は女や子供にでもできます。地主による囲い込み運動によって失業した農奴達は大勢います、新たな就職口は工場しかありません。農奴達には仕事を選ぶ自由がないのです。工場の所有者である資本家は極端に安い給料で農奴達を雇い、工場労働者にしたのです。工場での仕事は女子供にでも出来る単純労働であるため、給料が安く、男の給料だけでは家族を養えません。女も子供も働かなくては食えないのです。当時は労働基準法もないですから、一日十六時間・十八時間という長時間労働が当然のように行われており、児童福祉法もないですから、十二・三歳のうちから、そのような長時間労働をやらされるわけで、当然家族は崩壊します。家に帰って家族の団らんなんてやってる時間はないですから。イギリスというと、非常にこう優雅な先進国のイメージがあり、大英帝国の気風というか、先進国としての余裕からか、福祉や労働基準法などを見ても日本などよりは十年は進んでるように見えるのですが、世界初の産業革命が起きたときには他の国の前例がないぶん、ひどいことも多かったようです。女性は赤ん坊を背負って十八時間とか働くわけですが、両手は工場の労働に使われてるため、赤ん坊の世話は出来ないわけです。おしめを替えて欲しい、母乳を飲ませて欲しい、頭を撫でて欲しいと赤ん坊が泣いても、彼女は働き続けるしかないわけです。当然赤ん坊の泣き声は周りに響いて、周りに迷惑をかけます。赤ん坊というのは不思議な物で、誰かが泣き出すとそばにいる別の赤ん坊も泣き出すのです。すると、自分の背負ってる赤ん坊が泣き出すと、別の女性の背負ってる赤ん坊まで泣き出したりします、そして別の女性の背負ってる赤ん坊が泣き出すとさらに別の女性が背負ってる赤ん坊も泣きだします。こうして一人の赤ん坊が泣き出すと工場中の赤ん坊が泣き出してしまうのです。これではうるさくてしょうがありません。そこで彼女達は赤ん坊を下ろして、十八時間ぐっすり眠るだけの薬を赤ん坊に嗅がして働くわけです。その薬を吸わせると赤ん坊は死んだようにぐたっとして、呼吸をしてるのかさえ分からないような状態になったそうです。その時赤ん坊に嗅がせた薬がコカインという麻薬です。こんなひどい状態は女工哀史の中にさえありません。当時、小さく不健康なガリガリの子供ばかりが育ち、七・八歳になっても身長や体重が大きくならない子供が大量発生しました。そのような子供が大量発生した理由を調査した学者が当時いて、彼の調査によると、このような子供ばかりが産まれた最大の原因は乳児期のコカインに求められてます。 こうしてイギリスは大量に織物を作り、世界中に売り歩いたのですが、それでもイギリスの貿易はインドに対して赤字でした。インドも当時非常に高度な文明を持っており、手織物が盛んでした。機械でもって大量生産するイギリス製の織物は値段は安いのですが、質は良くありません。やっぱり機械の物よりインド産の手織の方が品質が良く、イギリスでは異国情緒も手伝って、インド産の高級な手織物が大量に輸入されたのです。対インド貿易が赤字ということは、イギリスの金をはじめとする財貨がインドに流れ出ていることを意味します。このまま財貨がインドに流れ続ければ、イギリスは貧乏になってしまいます。そこでイギリスは考えました。名人と言われるようなインドの織物師の利き手を切り落としたり、場合によっては命を奪ったりしたのです。利き手を奪われた織物師は失業し、当時のインドには織物師の腕の骨が街の路上に何千も並び、路上で物乞いをしながら、飢え死にする織物師が大勢いたと言います。

そしてイギリスはインドをイギリス産の綿織物を大量生産するための原料供給地にしようとしました。プランテーションの建設です。綿織物の原料となる綿をインドで大量生産し、それを安くイギリスが買い取ってイギリスで加工し、綿織物を工業製品として高く売る。大体どんな物でも原料は安く、それを使って出来上がった製品は高いですから、この差額を上手く使って儲けようとしたわけです。綿のプランテーションは自然発生的にできた物ではないので非常に不自然で大規模な物になりました。綿花を円形の巨大な畑に栽培し、それを安い賃金で雇ったインド人につみ取らせるのです。巨大なプランテーションの建設は現在でもインドの特産物を非常に偏った物にしており、少数の輸出品に頼らなければならないインドの貿易は不安定な物になってしまったままなのです。例えば、輸出の半分を綿に頼っている場合、綿の値段が暴落すればその国は致命的な打撃を受けますが、輸出できる特産物を多く持っている場合、特定の一品目の値段が暴落しても、貿易収支全体への影響は少なくてすみます。また、同じ頃、南米ではゴムのプランテーションが盛んだったのですが、天然ゴムより安い合成ゴムが開発されたことで、天然ゴムの需要が減り天然ゴムの値段が暴落し、国の輸出額が一気に暴落したことがあります。このように植民地を支配する国が植民地に作った大規模農園というのは様々な弱点や矛盾、非常に人工的で不自然な問題点が多いのです。 植民地争奪戦争は当時、暗黒大陸と呼ばれ、内地の地図がなかったアフリカ大陸にも及びました。イギリスやフランスの探検家達がアフリカの奥地にどんどん進んで行き、ここからここまでは自分の領土だというように、自分達が一歩でも足を踏み入れれば現地の人が住んでいるいないに関わらず、自分達の領土であることを宣言したのです。ちょっと手元の地図帳を開いて下さい。」

ここで先生も手元の地図帳を開く。

「アフリカ大陸のところだけ、国境が直線だらけでしょ?この不自然な線はどうやってできたと思いますか。ジャングルの奥地でイギリスの探検隊とフランスの探検隊がはち合わせになったときに、お互いに地図を広げて、

『自分達はこっからここまで足を踏み入れたからここは俺の領土』

『我々はこの辺りから上陸して、このようにしてたどり着いたのでこんなけは、フランス領』

と白地図の上に定規で線を引いたのです。そこに生活している人達の住み分けとは何の関係もない物なのです。現に今でも彼らアフリカの人達の中には部族単位で生活する人も多くいて、国という概念を持たず、部族で国境を行き来するため、アフリカのある国に五万人規模の難民が居てその人達の生活を援助しようと国が支援すると、あの国へ行けば援助金が出るという噂を聞いて、近くの国々から難民がわっと押し寄せてきて一気にその国の難民の数が十五万人規模になり難民問題がより深刻化するといったことも起こるわけです。もともと地続きの大陸ですから、今でも国と言うよりは部族が行動の単位になっているようです。 貿易を中継貿易に頼っていたスペイン・ポルトガルから、主役は加工貿易を手がけるイギリス・フランスに移ってきます。特にイギリスはオランダ・フランスとの植民地争奪戦に勝ち、世界中に植民地を持ち、日の沈まない国とまで言われました。日が沈まないと言うのは文字通り今まさに昇りゆく太陽で、やることなす事すべて上手くいくという意味でもありますが、もう一つ、世界中に植民地があるので、地球上のどこが夜になっても、必ずイギリスのどこかが朝を迎えてると言う意味でもあります。地球儀上に当時のイギリスの植民地を全部赤で塗るとこうなります。」

地球儀を見せ、軽く回す。

「ほら、どこを回してみても赤い色が見えるでしょ?当時の世界中の植民地の半分以上、八割から九割ぐらいはイギリスの植民地であったと言っても過言ではありません。 そういったイギリスの中でもマイノリティーの人達、清教徒やアイルランド人ですね。分かり易く言うとキリスト教の中のプロテスタントの人達や・・ちょっとイギリスの地図を思い浮かべて欲しいのですが・・右に大きな島、グレイトブリテン島があって、その左横にある小さな島アイルランドですね、そこに住む人達などが、イギリスの中では生きにくかったため、アメリカに渡ります。そして彼らは、アメリカ大陸を西へ西へと旅し、西部開拓を始めます。『大草原の小さな家』や『母を訪ねて三千里』などテレビや映画で見たことがあるでしょう、こう茶色い革の屋根がついた、ほろ馬車に乗って旅するわけです。昔は西部劇なるものがありまして、野蛮なインディアンが自分達の牧場に攻め入ってきて、それを迎え撃つガンマンが二丁拳銃かなんかでバンバンっと撃ち殺して、かっこいい正義の味方とか言ってたわけですね。今はさすがにそういう映画は作られなくなりましたが、インディアンの住む土地に移住してきて突然土地に杭を打ち出して木の板で土地を囲って『今日からここは俺達の牧場だ』と宣言して、そこに住み出してもですね、もともと住んでたインディアンにしてみれば、土地はすべての生き物に対して与えられた神からの贈り物なわけで、特定の個人が一定の土地を所有して他の者を排除するという発想はないわけですね。この辺が移動する遊牧民と定住する畜産農家の違いなんでしょうけど。とにかく、イギリスで起きた囲い込み運動によって排除された者達が、アメリカにおいて土地を囲いインディアンを排除したわけです。ヨーロッパにおいて排除された弱者が、新天地アメリカに逃げてきて、アメリカ大陸の東部に着きます。でも、東部には既に自分達より先に移住してきた白人達の牧場があるわけで、ここでは自分達の牧場を持つことが出来ません。そこで新しく移住してきた人達は、まだ白人の開拓していない、もしくは白人の手によって侵略されていない土地を求めて、西へ西へと西部開拓して行くわけです。ちょっと地図を見てもらうと分かるのですが、インディアン保護区というのは湿地や山脈にはさまれて陽の当たらないところなど、農業や放牧、人間の生活に適さない条件の悪いところがほとんどなんですね。元々自分達の土地であったのに何故、こんな条件の悪い狭いところに詰め込まれなくては成らないのでしょう。そういった西部開拓、インディアン側から西部侵略と言っても同じことなのですが、それがついにアメリカ西海岸に着いてしまい、その先はもう土地が無くだだっぴろい太平洋が広がってるわけです。太平洋までたどり着いたアメリカ人は今度どこに手を出したと思います?」

先生はチョークを持ったまま振り向き教室を見回す。生徒の誰かが小声で

「日本」

と言う。先生は少し困ったように首をかしげて

「それも間違いじゃないけど、もっと魅力的な国がある。」

と言い、辺りを見渡す。みんなうつむいて教科書をペラペラめくっているので、ちょっとヒントを出す感じで、

「ほら、西にもっと大きくて豊かな大地があるでしょ。日本じゃ、フィリピンやタイと変わらんで。アメリカ大陸に収まらなかった人数がこんなちっちゃなとこ来るか?」

みんな教科書をめくったまま、何も言わないので、思わず先生は教室の後ろの方をさして

「そう、中国。いいとこ突くやん。」

とほめるが、誰が言ったか分からない。

「日本にはアメリカのペリーさんが1853年にやって来て開国を迫りますが、それはアメリカの船が中国大陸に渡るときの中継地として港を開港してくれってことなんやな。別に日本へ直接来たい訳じゃなかったのです。 中国への関心を最も高めていたのは当時世界をリードしていた大英帝国、イギリスです。イギリスはまず始めにインドに世界初の近代的総合商社東インド会社を設立します。そしてインドとの貿易の中で多大な利益を上げるのですが、中国との間でも東インド会社を通じての貿易がありました。当時の中国はアジアを代表する世界一の先進国だったわけです。当然、中国は中華思想を持っていまして、中国よりも進んだ国はどこにもなく、中国にはすべての物がそろっており、中国にない物はどこにもない。と、考えていたわけです。中国にはすべての物がそろっているのですからわざわざ他国と貿易をする必要などもないわけです。ただ、周りの遅れた国が中国にしかない何かをどうしても欲しいので貿易させてくれと言ってきた場合にだけ、仕方がないので貿易させてあげましょうと言う考えだったわけです。ですから、一部の例外を除くと当時の中国は貿易をせず、鎖国をしていたわけで、アジアをリードする国が鎖国をしているので日本も含めた多くのアジア諸国もみんな鎖国していたわけです。そこに貿易を生業とする東インド会社が入っていくわけです。始めは中国の異国情緒漂う珍しい品物をイギリスに持って帰ると高く売れて東インド会社が儲かってラッキーだったわけですね。特に中国のお茶はイギリス人に飲茶の習慣をもたらすほどの大ヒットでした。ところが、中国は基本的に貿易を行わずイギリスにある程度の物は中国にもあるから買うに値しないと言ってるわけです。するとイギリスは中国のお茶をはじめとした製品を買うのに金貨や銀貨を払わなくてはならないわけで、イギリス本土の金貨や銀貨はドンドン中国に流れていくわけです。このままではイギリス本土の経済は破滅します。そこで東インド会社は金貨や銀貨に代わって中国に払う何かを探さなくてはならないわけです。異国情緒漂う中国製品と交換でき、金貨でも銀貨でもない何かとして阿片をイギリスは考え出すわけです。東インド会社は綿織物の加工貿易でインドとの間に利益を上げ、その利益でもってインドに阿片を作らせ、インドで作った阿片を中国に輸出し、その阿片を中国製品と交換しイギリスに輸入するという三角貿易を生み出したのです。」

こう言って先生は黒板の世界地図に矢印を書き込む。インド・イギリス間に相互の矢印、綿と綿織物。インドから中国への矢印で阿片。中国からイギリスへの矢印で調度品。

「当時の中国は清王朝の末期で・・始皇帝の秦とは漢字が違います、清く正しく美しくのしんですね。平和な時代が長く続き、文化の爛熟と退廃、退屈と無関心、汚職や腐敗が横行し、戦争がないため危機意識が無く、先が見え切ったかのような停滞とも見える安定と平和の中で、貴族達は極端な刺激を求めて阿片が大流行したわけです。当時の中国の小説を見ると、貴族達の出入りする社交界で、阿片という魔法の薬がひそやかに流行し、その魔法の薬を吸えば、誰もが、幻の楽園、桃源郷にたどり着くことが出来、美しい花々や音楽に囲まれた世界を見ることが出来るという。ただし、その薬を使用し続けた者は瞳から光沢を失い、皮膚はただれ、顔は崩れ落ち、かつて社交界を風靡した美少女も老婆のような姿見になり、いつしか流浪者の寝泊まりする路上で誰に見取られることもなく死んでいくという。 もちろん当時の中国もこの魔法の薬を禁止するわけです。始めは金が外国に流れるという経済的理由では無く、ただ単に健康上良ろしくないという理由で禁止されていたのが、これが本格的に中国経済を破壊し阿片に手を出す一部の人達だけの問題でなくなった段階で中国政府は事の重大さに気付き本気で阿片の取り締まりを強化するわけです。このとき中国の港で阿片を没収しそれに火を付けて捨てようとした中国官僚とその仕打ちに怒ったイギリスとの戦争が、1840年のアヘン戦争です。この戦争で中国がイギリスに破れたことで、中国を含めたアジア諸国の植民地化が始まり、進んだアジアと遅れたヨーロッパの関係が逆転し、遅れたアジアと進んだヨーロッパになります。それまで眠れる獅子と言われた中国が実はそれほど怖くないという思いが欧米各国の中で生まれるのです。

例えば、1661年地点では清王朝と戦ってた鄭成功は南京で清軍と戦って破れ、台湾を占拠していたオランダ軍を追い出して台湾に根城をかまえるわけです。つまり、清王朝に負けて中国から逃げてきた反乱軍でもオランダ軍に勝てるほどの力をまだ持っていたんですね。それがこのアヘン戦争では万邦に君臨すると自負していた中国があっさりイギリスに負けてしまうわけです。

世界のルールを決定する主導権が中国からイギリスに移ったことで、鎖国による不干渉から植民地支配による自由貿易へ世界のルールが大きく揺れ動きます。 はじめ日本は中国をはじめとした他のアジア諸国を見習って鎖国をしていました。もちろん、日本ではヨーロッパで何が起こっているかなど分かりませんから、鎖国が世界の常識だったわけです。ところが、中国がアヘン戦争でイギリスに破れた。このままでは日本も危ないという危機感が江戸時代のインテリ層の中で徐々に広まると共に、現実的に日本に開国を迫る船が、まずは北海道にロシア船がやってまいります。このときは開国して欲しいという依頼だけで、軍事的圧力がなかったため、そのまま引き取ってもらうのですが、次にアメリカのペリーが黒船を率いて日本にやってきたときには、その船の巨大さと戦争も辞さないという姿勢、そして空砲を日本に向けて撃ち放ち威嚇するという形で軍事的圧力をかけてくるわけです。当時の日本政府、江戸幕府は長く続いた平和ボケでそんな非常事態には対応できなくなっています。むしろ地方の薩摩や長州、土佐藩の人間なんかが尊皇攘夷を訴えて、外国船相手に戦争をふっかけます。はじめ薩摩や長州の志士などは外国と戦って勝って日本から彼らを追い出すつもりでいたんですね。何故勝てると思ったかというと向こうのサーベルよりも日本の刀の方が切れ味がいいんです。こんな切れない刀を持った奴等に負けるわけがないと薩摩や長州は思ってた訳なのですが、実際にやってみると刀を抜いて

『やあ、やあ、我こそは』

とやり合う白兵戦にならずに大砲で撃ち合う段階で勝負がついちゃうんですね。当時の日本にも大砲はあったのですが、玉には鉄球を使っていて船を相手にする場合、船の一番大事な部分、船の船首や帆を張る柱に鉄球をあてて、その柱を折ることで船を沈ませたわけです。ところが向こうの大砲は玉に火薬が入っていてこっちに飛んできたときに爆発するわけです。日本のように木の船に乗ってるような場合ですと、船のどこかに火がついただけで、全焼してしまうわけです。向こうの乗ってる船というのは蒸気船ですから、帆を張る柱など無いわけでそこに鉄球をあてて船を沈ませるという訳にも行かず、船に火をつけるといっても、鉄製の黒船ですから、動力部の燃料にでも火がつかない限り、火なんて消えちゃうんですね。さらに、大砲の飛距離が欧米の物と日本の物では差が有りすぎますからあちらの玉が届いてこちらの玉が届かない距離で撃ち合いをすれば、向こうは無傷で勝てるわけです。刀を抜いて『いざ、尋常に、勝負しろ』とかやるのかと思ったら、その前に向こうが上陸してくる地点で大砲の撃ち合いで勝負がついてしまって向こうが上陸したときにはこっちの軍は全滅してるという状態なのです。そんなこんなで日本も開国をせざるを得ない状態になり、薩摩長州土佐が手を組んで江戸幕府を倒し、もちろんこの経緯は色々あって尊皇攘夷を言っていた彼らからいつの間にか攘夷が無くなるとか紆余曲折はあるのですが、とにかく明治維新を行い、開国するわけです。 日本が開国させられたときまず真っ先に考えたのが、江戸時代の末期に井伊直弼が結んだ不平等条約を改正し、なんとか平等条約を結べる世界の一等国になりたいということです。明治政府はまず不平等条約の改正に向けて力を注ぎます。そのために日本はまず自分達の国が西洋にも劣らない文明国だということを西洋諸国に示すため、西洋文明を受け入れ模倣し、牛肉を食べ、ちょんまげを切り、ざんぎり頭にして、鹿鳴館を建て、西洋人を招いて毎晩のようにパーティーを行い、自分達の国が文明国だということを主張します。けれどもこれは失敗に終わります。鹿鳴館で毎晩パーティーをしていても不平等条約は無くならない。やはり、富国強兵殖産興業、強い軍隊を持ち、国を豊かにし、近代的な産業を国の中で起こして行かなくてはならない。それにはまず領土を広げることだ。そこでまず日本にとって地理的に近い国、朝鮮や中国をはじめとしたアジア諸国に手を伸ばし始めるわけです。まずは、朝鮮をめぐっての日清戦争、次は中国北部の満州をめぐっての日露戦争。そして第一次世界大戦では日英同盟を名目に中国のドイツ領を火事場泥棒したのです。つまり、日本の同盟国であるイギリスがドイツに喧嘩を売られている、だから日本はドイツと戦わなければならない。という建て前で、戦争自体はヨーロッパで起きているのですが、中国のドイツ領に進入し、中国に好き勝手な要求を突きつけ、中国が自分の植民地であるかのごとく振る舞ったのです。けれども当時の先進国はみなアメリカを除いてヨーロッパにあったため、大戦中は自国の戦争で手が一杯になり、中国までは手が回らないので、日本の横暴な振る舞いに対して文句を言っている余裕がなかったのです。唯一アメリカのみが日本に文句を言ってきたのですが、取り合えず大戦中はアジアにおける日本の天下が続きます。ですが、やがて大戦が終わりヨーロッパが復興を遂げると一気に日本に対する風当たりは強くなり、日英同盟は解消され、日本の中国に対する利権も大戦前に戻されます。戦争特需が無くなり、大恐慌の訪れと共に大国はブロック経済へ入っていきます。インドなどの多くの植民地を持つイギリスは植民地から外国製品を閉め出しその豊かな植民地の資源と市場を独占します。国土自体が大きなアメリカなども、外国製品を本土から閉め出し、その豊かな資源と市場を自国で独占します。最後に持たざる国、資源豊かな本土も植民地もない日本は始めはダンピングによって何とか生活をやりくりするのですが、関税が200%・500%・800%と上げられていく中でついに日本は豊かな資源と市場を求めて戦争に突入します。 当時の日本軍が行っていた作戦の一つに三光作戦というのがあります。焼き尽くせ、殺し尽くせ、犯し尽くせの三つを実行するのが三光作戦です。また、南京大虐殺というのもありました。日本軍が中国の南京において人々を大量虐殺したのですね。中には南京大虐殺なんて無かったという人やあったとしてもせいぜい数千人を殺したに過ぎないと言う人などもいるのですが、では殺した数が少なければ殺しは許されるのかという事なのですね、数が大きくても小さくても殺人は殺人です。このとき南京で日本軍が殺した中国人の数は数千人から数十万人まで様々な説があって今のところはっきりしておりません。

先生の配ったプリントより一部抜粋:

〔一九三七年〕一二月一二日、日本軍は中国国軍や民衆が揚子江北岸へ撤退しようとしているうちに、南京へ突入した。何百人もの人々が渡河しようとして、飛行機から機銃掃射を浴びたり溺れ死んだりした。下関門ではさらに何百人もの人々が捕らえられ、殺された死体は一メートル余も積み重なった。

日本軍は南京だけで四万二千人以上の中国人を殺害したが、そのかなりが女子供であった。一○歳から七○歳までの女と名のつくものは、ことごとく強姦された。乞食や身障者の中には銃剣で刺し殺された者も多い。母親はわが子が首を切られるのを見させられた末、暴行された。日本兵に暴行されたある母親が語ったところでは、その兵隊は彼女の赤ん坊が泣くのをうるさがり、蒲団をかぶせて窒息死させたうえ、平然と、ことを済ませたという。屋外での強姦もめずらしくなかった。約五万人の部隊が一ヶ月にわたって、強姦、殺人、略奪その他の狼藉をほしいままにしたのである。

「エドガー・スノーの革命アルバム 抗日解放の中国」サイマル出版会 P163南京の略奪より

また、捕虜となった朝鮮人を使っての人体実験も日本軍はやっていました。悪名高い731部隊ですね。人体実験に使われる朝鮮人や中国人はマルタと呼ばれました。物を言わない木の丸太ですね。彼らに当時不治の病とされていた様々な病原菌を注射して何日で死ぬかとか、どの様な条件のもとで早く死にどの条件では長生きするのかとか、人を地面に埋めて顔だけ出し、目の前に食事を置いて、両手は土の中ですから当然食べれないのですが、何日ぐらいで気が狂うかとか、そういった実験をしていたようです。

こうして、始皇帝の万里の長城建設から始まる東から西への民族大移動、侵略の歴史・・・始皇帝が万里の長城を建設したため北方の騎馬民族が南下できなくなり、西のフン族の地を侵略し、騎馬民族に攻め込まれたフン族は、さらに西のゲルマン民族の地を侵略し、フン族から攻め込まれたゲルマン民族は西のラテン民族の地へ攻め入り、ラテン民族はさらに西の海へ出て大航海時代を迎え、海を渡った白人はアメリカ大陸を西へ西へ横断し、西海岸に行き着いた白人はさらに太平洋を渡り、西の中国や日本を攻め入り、アメリカに攻められた日本も、西の韓国や満州、中国に攻め入ったという西へ西への移動の歴史は、日本の南京大虐殺に至るのです。ちなみに西方というのは昔から太陽の沈む方角であり、死者の住むという黄泉の国がある方角として、古来より忌み嫌われてきました。また、サハラ砂漠などで大量発生したバッタの大群などもトウモロコシ畑を食い荒らしながら、西へ西へと移動して行き、最後は大西洋に自ら飛び込んで集団自殺を遂げるそうです。」

「キィーーン、コォーーン、カァーーン、コォーーン。キィーーン、コォーーン、カァーーン、コォーーン。」  

「時間が来たので今年の授業はこの辺で終わります。プリントは各自で読んでおいて下さい。」

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