■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 号外 2004/6/3発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1文学的 坊主バー朗読会のメルマガを書いて、 カワグチさんからその感想をメールで頂いて 坊主バーのメルマガに関してもう少し補足説明がいるなと思ったので 書きます。 カワグチさんの朗読を文学的だと言ったときに 文学的という言葉の意味について もう少し狭く限定した方が良いと思います。 世間では、何かよく分からないけど文学的と 言っておけばほめてるみたいに見えるとか 逆に、文学的だねと言っておけばけなしているみたいに見えるとか あると思うのですが、 丸いとか四角いとか赤いとか黄色いとかいう形容詞が ほめてもいなければけなしてもいないように ある特定の特徴を指すつもりでその言葉を使いました。 元々私は小説家志望で、 ある時期純文学雑誌を読む努力をしたんですね。 すると、世間で文学と言われているものと 純文学の専門誌で文学とされているものの 隔たりがはっきりと見えました。 世間で、どのような物が文学と言われているのか?ですが 例えば、HIP−HOPについて書かれている iwataさんのレポートを見ると http://www.orcaland.gr.jp/%7Eiwata/hiphop/20040521.html 「パフォーマンス」をラッパー・音楽サイドに 「『意味、内容』を持ったテキスト」を 詩人=文学サイドに置いている。 つまり文学とは意味や内容を伝えるものだと思われている。 これが世間の文学観で、私も最初はそのような文学観を持っていたし そのような文学観というのは国語の授業で 「作者はここで何を言いたかったのでしょう」 に代表されるような問いによって形成されたわけです。 つまり、作者は言いたいことがあって書いていて それを読み取るのが文学だと。 立派な意味内容を持ったものを書く。 これを追求して行くと最後は学術論文になるわけです。 医学・法学・物理学・民俗学・数学・地理学・薬学・政治学 ・幾何学・経済学無数の学問があって、それらの学術論文を 文学的と言うかとなると、狭い意味での文学とは小説を指すわけで 物理学の論文をあまり文学的とは言わないわけです。 広い意味での文学というと、 大学の文学部経済学科・文学部政治学科と あるように文系の学問すべてを総称して文学というのですが ここでは取りあえず、狭い意味での文学に限定しましょう。 60年代ぐらいまでは「政治と文学」みたいな話があったが 今はそれもなくなったと言います。 「政治と文学」という話題が、 かつて文壇の中心にあったというのですが 何をしゃべっていたのかと言うと、 テレビも映画もラジオもなかったような漱石の時代なんかは 新聞や雑誌に記名原稿書いてる小説家と言うと 今でいう超有名な芸能人なわけです。 文壇というのがいまでいう芸能界みたいな物だったわけで プロレタリア文学というのは、大衆への影響力の強い文学を使って マルクス主義を広めようとしたわけです。 アイザック・アシモフというSF作家は科学を啓蒙する目的で 小説を書いたわけです。 すると、政治運動をせずに ちゃらちゃら芸能界で小説なんて書いてて良いのかという 政治派と、いやいや、地道な政治活動も必要だけど 少ない労力で日本隅々にまで情報を行き渡らせることのできる 文学という手段を使えば、もっと効果的に政治が行えるんだよという 文学派が議論するわけです。 それが「政治と文学」にまつわる話の大まかなあらすじですが 1970年代テレビが普及してからというもの 広告目的で小説を書くような人間はいないわけです。 大槻教授は科学を啓蒙する目的で小説を書くのではなく テレビに出たわけです。 つまり、伝えたいメッセージのある人が文学を利用したのは 1960年代までで、それ以降はテレビになるわけです。 政治の話を小説で書くよりも、 朝まで生テレビかサンデープロジェクトかテレビタックルに でも出た方が速いし効果的なわけです。 意味・内容を伝える手段として文学を使うよりも テレビを使うようになったと。 では、文学は何を描くのかと。 文学はストーリー・物語・面白い話を 描くのだと思う人もいるわけです。 ところが、ストーリーというのは 漫画やテレビドラマやアニメでも描けるわけです。 そっちの方が流通しやすいし、 商業的規模も大きくビジネスになりやすく 影響力もある。 あまり注目されなかった小説がテレビドラマ化されることで ベストセラーになることはあるかも知れませんが、 視聴率が取れず放映が途中で打ちきりになったテレビドラマが、 小説化されることで人気が出て再放送が決定され、 高視聴率を取り、ビデオやDVDが売れまくる。 ということはあまりないでしょう。 つまり、ストーリーを描くのはシナリオライターの仕事なわけです。 小説よりもアニメや漫画やドラマのシナリオの方がビジネス規模も 影響力もあるので、そっちの仕事なわけです。 第一、テレビをつければ無料で観れる程度のストーリーを何で ハードカバーで千円もするような本を買って 読まなきゃいけないのか。 写真の発明によって絵画の持っていた写実的な技術が 要求されなくなり、かわりに デザイン的な要素が強く求められるようになったように 文学もテレビの登場と漫画における印刷技術の向上で 元々文学が持っていた役割のいくつかを他のメディアに受け渡して より文学に特化した役割を持つようになったわけです。 70年代以降の日本の純文学が何をやってきたかというと、 言語による映像表現なんです。 本当は視覚に限定せず、五感すべてに関する言語表現でも良いのですが 一番分かりやすいのは、映像を言語で表現することです。 目の前にコップがあったとして、 それを「器」「湯のみ」「丸いガラス容器」「硝子」「グラス」「ケイ素」 「くぼみのある鈍器」「からっぽ」「空白」「世界を歪めて映し出す 半透明の物体に付着した水滴がゆっくりと表面をなでるように 滑り落ちてゆく様を観ているとなんだか時間の止まった部屋の底で 一人どこまでも沈んでいくような錯覚に落ちいってしまう私を 吸い込んでいく入れ物」とか色んな書き方があるわけで 風景画のような小説をずっと書いてきたわけです。 何故人物画じゃないかというと、 人物は動くのでストーリーが生まれてしまうわけです。 ストーリーじゃなくて風景を言語でいかに描くか。 これが今の文学で、大衆小説にしても、 新人賞の選考委員はシナリオじゃダメだとよく口にするわけです。 戯曲=シナリオのト書きの部分、 人物の動きや背景や服装や表情といったト書きで 原稿用紙を埋めてしまえセリフなんてなくて良いんだぐらいの ことを言うわけです。 書道の展覧会に行ったときに「元旦」と書かれた 書が展示されていたとして 「この書家は元旦ということを言いたかったんだね。」 「でも、元旦程度のことはみんな普通に言ってるし 特別、新しいことを言ってるとは思えないんだよね。 書道家なら、書道でなければ伝えられないことを、 伝えて欲しいよね。」 と言い出す人がいたら、この人は書道を知らないんだなと 思うじゃないですか。 書に書かれた意味内容を読んじゃう地点で、素人だなと思う。 漫画やアニメでも同じでアキラが何故すごいかというと 意味内容やストーリーではなく絵が上手い、 漫画やアニメにおける映像表現がすごい。 サザエさんを描いた長谷川町子の絵のタッチでアキラを描いても 意味内容が同じだから、同じように評価されるかというと また異なった評価が生まれると思う。 何を描いたかでなく、どう描いたかが問われるわけです。 小説にしてもそうなんですね。 今の日本の純文学は言語による風景画であって 風景画にもメッセージは宿るし、のどかな田園風景の絵が 環境保全や自然崇拝的なメッセージになるかもしれないし 意味内容がゼロではないけど、そこにのみ注目するのは 書道家の書を文字として読んでいるのに近いわけです。 私がカワグチさんを文学的だと感じるのは カワグチさんの詩が風景しか描いてないからだし カワグチさんとしゃべらせてもらったときに カワグチさんの文学観が今の純文学雑誌の主流の文学観を 踏まえた上でのものだと感じるからです。 追加で私の個人的な文学観を書くと 言語による風景画というのが純文学の主流だと 思いつつも、それに共感しているかと言うと 必ずしも共感はしてません。 ただ、そういう風景画が勝ち残って行く必然性は分かるし 強いなぁとは思います。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□