■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第8号 2000/1/8発行 現在の購読者数232人 会社員時代にもらった金で、100冊も同人誌を作ってしまった私が、 書籍コードの無い本を抱え、この本を扱ってもらえる書店をめぐる日々の日誌。 このメルマガは私の抱える同人誌の在庫がなくなるまで続きます。 現在の在庫状況 文体演練法73-6冊 寓話集55冊 最悪な気分68冊 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 今回のテーマは言語遊戯!がその前に インフォメーション。 今回は在庫に注目! 前回よりも寓話集と文体が1冊づつ減ってるんですよ。 横浜なぎさ書房さんに http://www.cam.hi-ho.ne.jp/m-nagisa/ サンプルとして文体を一冊御送りしたので 今回の在庫は1冊減ってます。 そう何も売れなくて良いんですね。 こうやって書評系HPさんに サンプルをバラ撒いてけば 自然と在庫が減るはず・・ の割に残ってるんですけどね。 それともう一個、 寓話集の方も新しいバイト先探しで 履歴書送るのと一緒に送ってですね。 ・・明らかに減点対象になってるでしょうけど 思い切ったことするのは昔からで、 そんな訳で多少在庫減ってますね。 たった2冊ではありますが。 今回のテーマは言語遊戯ということで 一つはだいぶ前に古本屋で人生使用法という 本を買って積読だったのですが 最近解説だけタラタラ読んでて面白かったんですね。 作者はジョルジュ=ペレックというフランス人で 「ウリポ」という言語実験工房の代表的な作家 ってことなのですが、普通の人は知らないですよね。 ウリポもペレックも。 ウリポってのは様々な言語の技法を 研究する場だったのですが そこでペレックは「文字落とし=リポグラム」って のを扱っていてですね。 日本だと筒井康隆さんが章が進むにつれて 一つずつ使える文字が減って行くという小説を 書かれてましたが、あれです。 ペレックは「リポグラムの歴史」という研究書や フランスで最も使用頻度の高いeの文字を使わない 小説「失踪」や逆に母音字にeしか使わない 小説「戻ってきた女たち」を書いて あと、ギネスにも載った世界一長い回文 (上から読んでも「この子、どこの子」、 下から読んでも「この子、どこの子」って あれですね) を書いた人で、5千語以上にも及ぶ小説で ちゃんと回文になってるってんですから すげーなと思いますが、そういう人です。 どう考えても奇人変人なんですけど こんな人って何で生計立ててんだろと思うと クロスワードパズルの出題ってんだから納得です。 ちなみに、こういう言語遊戯系の人の小説ってのは フランス語の回文とかeを使わない小説とか フランス語でeだらけの小説とか 翻訳しようがないし、 されないのがほとんどなのですが 翻訳された人生使用法もかなりおかしな小説です。 まず、小説の舞台となる建物が地下1階から 九階まで縦に10のブロックに分れ、 横にも各部屋、階段と10のブロックに分れます。 これで10×10で100のマスが生まれ、 各ブロック1章、合計100章の物語から 人生使用法は成り立ちます。 10×10のブロックをチェスの板に見立て ナイトの駒(将棋の桂馬が 上下左右に動けるようになった物) を重複せずに、一度通過したブロックを二度と 通過せずにすべてのブロックを通らせる。 という遊びをやって見せ、 その軌跡通りの順番で物語を展開させるわけです。 何だか、ワケ分らなくなってきたでしょう? まあ、それ以外にも様々な技法=制約=遊戯を 駆使してこの小説は書かれているのですが、 興味のある方は水声社の人生使用法を 買ってみて下さい。 で、なんで突然こんな話になったかというと ウリポのボス、レイモンド=クノーの 「文体体操」って本(訳者によっては文体練習)が 丸っきり私の文体演練法なんですね。 もちろんクノーの方が先で、私が後 かといってクノーを真似たわけでなくて 書いてからクノーを知ったと。 私が文体演練法書き出した頃ってのは 小説の技法に物凄く興味があって 逆にいうと、自分が思った事をそのまま書いても 伝えたい事と別の意味しか伝わらなくて 凄く困っていたんですね。 自分が周囲から誤解を受け批判されている。 けれどもそこでありのままの事実を話すと 言い訳のための嘘を重ねている様にしか聞えない。 そういう経験が誰にでもあると思うのですが 何故、伝えたい事と、伝わる事の間に ギャップが生まれるのか? 村上龍さんがコインロッカーベイビーズを 書き始めたときに、 まず主人公の兄弟がコインロッカーで生まれた事を 話すところから書き始めた。 ローリングストーンズの ジャンピング・ジャンク・クラッシュのノリで 「俺はコインロッカーで生まれたんだぜ!」 「そうさ、俺達はコインロッカーで生まれたのさベイビー!」 ってな感じでノリノリで書いてたら、 だんだんコイツ等バカなんじゃないか? と思い始めてきて止めた。 そしてまた別の書き方で書き始めて それも上手くいかなくて別の書き方、 有名な話ですが、書き出しの数ページを 何十回も書いたというんですね。 当時の私は自分にもそういう経験が必要だと 感じて同じ内容の文章を何通りも書こうと 思ったんです。 実際書いてみると、国語の授業で習って頭で分ってる事が 理屈じゃなくて体で分るようになってくるんですね。 コインロッカーベイビーズでいうと コインロッカーに捨てられた双子が 幼い時の経験を元に自分達兄弟以外のすべてを 敵だと感じて世界を破壊しまくる話なのですが そういう主人公が 「俺はコインロッカーで生まれたんだぜ!Oh!Yhaaa!」 なんて自己紹介を敵である世界に対して行なわない ってことですね。 ローリングストーンズは自己紹介をするけど あの小説の主人公はどちらかというと無口だろうと、 だとすれば主人公の語る一人称でなく 三人称の方が良いのではないかと。 高校時代の私は言葉の持つメロディやリズムをどうすれば 活字で表現できるのか?って部分で悩んでいて 英語はアクセントやイントネーションが 割りとハッキリ決まっていて活字を読むだけで 強弱弱強弱とかリズムが発生して それ自体が音楽になるんですよ。 でも明治以降の日本語の詩を読んで音楽を感じる事が ほとんどないんですね。 明治以降アイヌや琉球の少数民族の言語を駆逐すると共に 人工的に作り上げた標準語。 日本を単一言語国家にする事の経済効果は 確かにあったと思うのですが、 主として政府=NHKの作り上げた言語は イントネーションやアクセントを無くす方向に 行ったのではないかと。 マクドナルドの事を関東ではマック 関西ではマクドと言うのですが、 活字だとマック・マクドという 子音&母音の違いしか表記出来ない。 でも、関西弁と関東弁の大きな違いは マックを頭アクセントの語尾上げで言うか マクドを後ろアクセントの語尾下げで言うかの違いで 後ろアクセントの語尾下げなら例えマックと言っても それは関西弁なんですね。 頭アクセントの語尾上げはオシャレでカッコイイ感じがするし 後アクセントの語尾下げ、まして語尾濁音ともなれば 怒ってなくても怒っているような、すご味を効かせた 発音になるわけで、マックと言われると 「アメリカ人?」と思うし マクドと言われると 「布でグルグル巻きにして大阪湾にでも埋められるのかな?」 と思うわけですよ。 それをマクドナルドとNHK的標準語で言った時に メロディもリズムも発生しないわけです。 そこで私にとってリズムがあると感じられる 数少ない日本語の一つで奥の細道の書き出し 「月日は 百代の 過客にして 行きかう年も また旅人なり 馬の口とらえて 老いをこうむる者も 日々旅にして 旅を住みかとす 古人も多く旅に死せるあり」 が4・5・6・7・8・9・10・7・8・7・8 と音数が一音づつ増えてるのを真似して 643という同人誌に「差異と反復」というタイトルで http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/643.htm ときに 詩歌は 韻律の 語りにして  日本語訳の 読み物ではなし。音数をそろえて 脚韻を踏みまくる 口承文学にこそ 戯遊詩人の日々があり 辞書を片手の書斎の中 欧米言語の意訳作業、散文詩とさえ呼びたくはなし。 電子講談の韻文朗読、それらもまた 多くは 過去に 拠るものだ。 と、3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15・16・18にしてみたのですが、 音数を増やせば増やすほど、 どこでも切れる文になってしまうんですよ。 例えば12音の文を作る時に、 7+5にしちゃうとリズムがただの七五調になってしまう。 それでは意味がないんで、 芭蕉は漢語や慣用句を多用する事で そこでしか切りようのない文を書いてるんですね。 漢詩を読み書きしていた鴎外や漱石の世代ならともかく いまの自分に漢文は無理だということで 外来語を多用してみたりもしたのですが、 実際、日本語は5音と7音で出来てて 1・2音の増減は助詞と助動詞で行なうのですが 外来語なら日本語として入ってくる時に 外来語の子音字すべてに母音が付いて日本語化されるので 音数は日本語より多くなるんですよ。 と、今回はかなり浅はかな自分をさらけ出したので 御批判反論お待ちしています。