■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第82号 2003/2/26発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1笑いについて 笑いについての哲学的考察というとベルクソンが有名だ。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003364538/qid=1077545452/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8012347-6612202 多少パラパラ読んでみたが私にはよく分からなかった。 ベルクソンの考察する笑いはコントベースで、 私は漫才ベースの笑いで育っている。 まだテレビやトーキー映画が無かった頃、 劇場で人気者になったコメディアンがより上のステップに行くため 全国的に有名になろうとすると、 ラジオに出るかサイレント映画に出るかしか道が無かった。 ラジオ=音声のみの笑いか、 サイレント映画=映像のみの笑いか。 ラジオを漫才の笑いだとすると、 狭い意味でのコントはサイレント映画の笑いだ。 ベルクソンの笑いをパラパラみた後だと 今テレビでやられているコントのほとんどは コントでないと感じてしまう。 しゃべり抜きで笑わせる動きの笑いじゃないのだ。 何かの雑誌で志村けんが サイレント映画の笑いについて詳しく語っていたが 私には動きの笑いはいまいち理解できない。 死紺亭さん http://www.e-mile.com/cgi-bin/disp_right.cgi?c_id=0401 はインディーズ落語家を名乗られているだけあって 落語ベースの人だ。 死紺亭さんの一番好きな落語家は 桂枝雀だという。 枝雀さんの書いた落語の理論書で「らくごDE枝雀」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480027777/qid=1077546707/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-8012347-6612202 というのがある。 「サゲの四分類」や「緊張の緩和」 といった有名な枝雀理論が出てくる。 死紺亭さんが枝雀さんを好きだと言った時 意外であると同時に納得もいった。 枝雀さんはアホイメージで売っているが、 一流大学卒のインテリで、落語という仕事に熱中しすぎて 最後は自殺で亡くなられている。 インテリのイメージで売られている枝雀さんの師匠、 桂米朝さんや「らくごDE枝雀」の後書きを書かれていて やはりインテリイメージの上岡龍太郎さんよりも 枝雀さんの方がインテリでかつ生真面目で、 生真面目ゆえの自殺というアホ役とは遠いストイックな死に方。 キチガイ役をステージでやりながら、 一流大学卒で生真面目な死紺亭さんとどこかかぶるのだ。 落語家も一般のサラリーマンと同じく 最低一日8時間は働かねばならないとし、 休みの日も家で部屋にこもって一人、 鏡の前で落語の練習をし続けた枝雀さん。 あまりにも落語に根を詰め過ぎるあまり 精神の衰弱を心配した家族&米朝一家が 嫌がる枝雀さんを無理矢理気晴らしの旅行に連れ出した。 気晴らしに出掛けたハワイのホテルで、 部屋にこもった枝雀さんは一歩も外へ遊びに出ることなく 鏡の前で落語をやり続けたという。 死紺亭さんのよく語る枝雀さんのエピソードだ。 自分なりに笑いについて考えると、 鴻上尚史さんがエッセイで、 笑いとは観客が何を知っていて 何を知らないのかを言い当てるゲームだ と書いていたのを思い出す。 似た辺りではダウンタウンの松本さんが このままでは笑いは百メートルを 十秒なら十秒で走る競技になってしまう。 でも自分は八秒で走れるなら八秒で走りたい。 と書いていたのも思い出す。 つまり、笑いとは観客の知的レベルを 正確に言い当てるゲームであり、 観客が理解できないほど知的なことを言ってはいけないし、 観客が既に知っているほど当たり前のことも言ってはいけない。 俺の言葉で言うと、意外性と整合性が両方なければいけない。 意外性のない当たり前のこと、例えば、 「空は青い」と言っても笑いにならない。 当たり前過ぎるからだ。 また、精神障害系の人としゃべっていて 実際にこういう系統の会話はあるのですが 「空からピンクの象が降っているような天気で 地面からは当然手がいっぱい生えているけど、 ビックリしたのはその手が突然、 カブトムシになって空に飛び出したことだ。」 これ、その人にとっては 手がカブトムシになるところが落ちなのですが 落ちの前のネタ振りからして無茶苦茶やし 論理的整合性のかけらもないから 笑いに繋がりようがない。 意外性と整合性がある話で、私の好きな星新一の ショートショートで言うとこんな話がある。 壁や鉄格子といった全ての障害物を通り抜けられるようになる 目薬を博士が発明した。 でも博士はその目薬を未完成品として研究を続けていた。 そこへ強盗がやって来て、その便利な目薬を使った。 強盗は靴や地面を通りぬけ、地球の中心へ落ちていった。 これは意外性と整合性があるため笑いになると思う。 本格派の推理小説のトリックも意外性と整合性を求められる。 このとき、観客の知的レベルを正確に言い当てることが どう要求されるかですが、ある犯罪のトリックとして、 一般人が理解できないようなややこしい数式がいっぱい出て来て、 物理のモル計算とか離散数学とかごちゃごちゃして、 よって、犯人はこの人である。などと証明されても、 読者が理解出来なければ、意味がない。 逆に、探偵が犯人のトリックを言い当てる前から 全ての読者にトリックがばれているようでもマズイ。 正方形の紙に書かれたアルファベットの「Z」が、 ハンカチをかぶせて10数えてハンカチをのけると、 アルファベットの「N」に早変わりしていた。 ここにどんなトリックがあるのか? 読者の理解の範囲内でやり過ぎているので 意外性が発生しない。 読者は気付いてないけど、言われれば納得出来る。 そういうグレーゾーンをいかに正確に言い当てるかが 笑いというゲームの中心にあるのだと思う。 ラップにおける韻も同じで 英語の「コミュニケーション」と「ディスカッション」 みたいな韻の踏み方では「―tion」「−sion」という 同じ接尾語を並べただけなので、韻にならない。 日本語で言えば「−です」「−です」と同じ終助詞で 文を終えているようなもので、語の繰り返しは韻じゃない。 「東浩紀」と「アントニオ猪木」なら、 意味のレベルで意外性があり、 音のレベルで韻としての整合性もある。 個人的には韻を踏むとき外来語(カタカナ)に対して 漢語(音読みの漢字)や和語(訓読みの漢字及びひらがな)で 韻を踏めれば、意外性が出るものだと思っている。 典型的な例で言うと、 X−Japan・ルナシー・GLAY・ラルクアンシェルという ビジュアル系バンドの流れがあって、 各バンドが脱ビジュアル系をはかって薄化粧化していた頃、 ルナシーが「社員」というアルバムを出したと聞いて 愕然としたことがある。あまりにも意外だったのだ。 あのバンドが「社員」なんて プロレタリアートなアルバムを出すだなんて。 後にそれは、英語の「Shine」だと聞いて 「だよな」とも思ったわけですが。 観客にとっての常識と非常識を上手く 言い当たられなかったパターンとして 去年の夏にBe−in http://be-in.jp/ というイベントで ATOMさんがオープンマイクの司会をやる というので行ったんです。 当時イラク戦争があって、戦争反対のイベントとして Be‐inをやると聞いていたので、 デモ行進したりプラカード持ったり戦争反対と叫んだり 戦争反対の演説したりという市民運動の会場だと 思って行ったわけです。 私はそのような市民運動的な演説の パロディーをやろうと思ってました。 周りでメガフォンを持って「戦争反対!」と叫ぶ人達がいる中で オープンマイクのマイクが回ってきたら 「戦争反対!」と叫びながら、 「戦争する奴をぶちのめせ!銃口突きつけてくる奴を爆撃しろ」 と言って不穏な空気を煽り、平和運動→平和のための戦争という 平和のための戦争を阻止するための戦争みたいな話をしながら コルト・ガバメントという銃の恐怖と、 俺達自身もガバメント(政府)を所有していて、 それが俺達の意志に添う添わないと無関係に、 ガバメントをぶっ放し投票し、使用し使用されているんだ てなことを言おうとしたわけだ。 多少は笑いだの関心だのを引き起こせると思った。 実際に、真夏の明治公園についたら、 光化学スモッグ警報出てるんじゃないかと 思うほど暑くて不快で、木陰のないステージ周辺には誰もいず、 五十〜百メートルほど離れた木陰からみんなステージを見てて オープンマイクにエントリーする人がいないわけ。 で、ATOMさんが、トップバッター誰もいないので 木棚くんつって私に回してくれたんだけど、 ATOMさん気を使って「この木棚ってのはすごいんだよ」と 期待煽って盛り上げてから私に回してくれたわけ。 私は戦争反対の演説している人が周りにいること前提に 考えていたから、取りあえず遠くの方から座ってみている人達に ステロタイプの戦争反対デモのパロディーというか そういうのを始めるんだけど、五十メートルぐらい向こうで 失笑されてるんだよ。で、辛いなと思うんだけど 頑張って落ちまでいかなきゃと思って、しゃべる。 「戦争をする奴をぶちのめせ!銃口を向ける奴に発砲しろ」 と言い出した辺りは実は少し受けてたんだよ。 鳥肌実みたいなノリで。 でも、さっき失笑された空気がまだ残っているし、 早くステージを降りたいから、その辺は早めにスルーして さっさと、銃がどうこう ガバメントがどうこうというところまで行ったんだけど ガバメントが出てきた地点で、「なんで突然、政府なの?」と また失笑が起きるわけです。 そこで私はしどろもどろになりながら、 「コルト社の作るガバメントという米軍の銃があって・・ これと、政府という意味のガバメントとを掛けて、 掛詞で・・ダブルミーニングで・・」 言いながら、まだ政府の意味でのガバメント出してねぇーな ギャグを言った後落ちを説明することほど 寒いものはないというけど、まだ何も言ってないよな俺、 思いながら 三十度を超える炎天下、光化学スモッグ、呼吸が苦しい 誰もいないだだっぴろい広場の 百メートル向こう側の木陰に座っているまばらな人達相手に 落ちを説明している自分に嫌になって、 「すみません。俺もう無理です」つってそこで マイクをATOMさんに戻す。 その後も、周囲をみていると、 みんなギターやパーカッションを持って 政治や国際情勢とは割と無関係な歌を歌ってるし 渋谷の駅前のストリートライブのノリなんですね。 周囲のお客さんも出演者も。 そのあと、SSWSの2003年度第四次トーナメントの http://www.marz.jp/ssws/1107.html 第一回大会で優勝した神楽さんが、 アカペラでフリースタイルラップをするんだけど、 ラップてのは俺のやってるのより全然音楽寄りだし 一般の認知も高いと思うのですがそれでも 最初は何こいつしゃべってるの?みたいな反応で 何をやっているのか観客に伝わるまで結構時間がかかって 大変だったんですね。 このときSSWSって 恵まれた環境でやってたんだなと思ったのですが このとき私が滑ったのはどういう計算違いがあったのかという話で。 観客が理解できないほど知的なことを言ってはいけないし、 観客が既に知っているほど当たり前のことも言ってはいけない。 という意外性と整合性の話で言えば 周りが戦争反対の演説をしているという前提の元で 私は整合性を考えていたけど、 実際は路上のフォークやロックを聞いたり 演奏したりする場だったので整合性が無かった。 私は周囲がガバメントという銃を既に知っていて それが政府を意味するガバメントと同じ語だという ところに意外性を見出そうとしたけれども、 実際にはガバメントと言われて皆政府しか思いつかなかった。 笑いとは、観客が何を知っていて 何を知らないかを言い当てるゲームだと言った時、 ガバメントという銃は知っているけど、 それが同時に政府を意味するということを知らないと思ったら 周囲はガバメントという銃を知らなくて、 ガバメントが政府であることは知っていた。 何を知っていて何を知らないかを 読み間違えたから滑ったということです。 この環境で笑いを取るのは辛いと思ったもう一つの場所は 死紺亭さんの過渡期ナイトで 死紺亭さんがエノケンだのトニー谷だのといった 過去のお笑いからの引用で作ったネタをされるんだけど あまり受けなかったことがあって、 で、周りはどの程度エノケンやトニー谷といったお笑いの古典を 知っているのかという話になった時に 実はみんなお笑いを知らないということが発覚して ドリフを知らないとかいう人もいて、年令を聞くと 18歳。 「8時だよ全員集合」がやっていたのが1969〜1985年までで 2003年地点で18歳だと、 全員集合観てないんだよねという話になり、 家にテレビがない、ここ10年テレビを観てない、タモリを知らない なんて人がその場にいるということが発覚。 実際、過渡期ナイトは、早稲田の学生さんが多く、 インテリの家庭で育っているから、 テレビがない、テレビを観ない率が、異様に高いわけです。 「中学高校の頃は受験勉強でテレビを観てない。 大学に入ってからは一人暮しでまだテレビを買ってない。」 「サークルや課外活動が忙しくてテレビどころじゃない。」 「子供のときは多少テレビを観たけど、 『笑っていいとも』っていつ放送しているの?」 「私、ロンドンブーツ1号・2号知ってる。」 「すごい!お笑い通じゃん」 過渡期ナイトのみんながみんなテレビを観てないとは言いませんが 早稲田の学生さんのテレビ観ない率の高さに正直驚きました。 みんなが知っていることを前提にやった テレビのお笑いネタやワイドショーネタが これでは滑るわけです。 その後、過渡期ナイトの来場者が出演・参加する様々なイベントの プロモをする「プロモ奉行」の時間に入るわけですが そこでブレヒトの教育劇をやるというプロモーションがあって、 当然、みんなブレヒトなんて知らないだろうからと思って 死紺亭さんがブレヒトの説明をしようとするわけです。 「この中で、ブレヒト知っている人」と死紺亭さんが言ったら その場にいたほぼ全員が手を挙げて、 死紺亭さんがどうしたものかと困る場面がありました。 みんなが知っていることを さも自分だけが知っているかのように説明してもカッコ悪いし かといって、みんなのいう「ブレヒト知っている」が どの程度知っているなのかも分からないし。 タモリも志村けんも知らないけどブレヒトは知っている。 そういう高学歴の人達の前でお笑い= 何を知っていて何を知らないかを言い当てるゲーム をやることの難しさ。 これは観ててきついなと思いました。 そう考えると批評空間の座談会で笑いをとっていた 柄谷行人は偉いなとか、思うわけです。 2イベント情報 3/7(日)ポエトリー地下劇場 司会:ドクター・セブン 出演:ムロケン・平山昇・油本達夫(横浜詩人会)・ロバート=ハリス 美音妙子・稀月真皓 場所:神奈川県民ホールギャラリー第五展示室 開演18:00〜 入場無料 定員100名