■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第213号       2010/5/25発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1第十回文学フリマのトークショー 西田亮介(.review)×市川真人(早稲田文学) 西島大介×さわやか「ひらめき☆マンガ学校」 に行って来た。会場にはほぼ行かず、トークショーのみ観覧。 ゼロアカ道場の筑井真奈さんがマンガ学校の質問コーナーで 「うちの師匠(東浩紀さん)は、ここまで親切に教えてくれなかったのに 何故、西島さんたちは親切に教えるのか?」 みたいな事を質問していた。 さわやかさんの答えは「しゃべった内容を本にするので、 本にするとき必要な箇所をしゃべっているだけで、 生徒に向かって親切にしている訳ではない。」と答えていた。 私が個人的に思ったのは、批評家を育てるゼロアカ道場と 漫画家を育てるマンガ学校では、ビジネスになる目算が違う。 現状、批評家のトップ、東さんなり柄谷さんなり福田和也さんなりは 大学教授で、批評の収入だけで生計を立てているわけではない。 批評専業で生計を立てていた日本人は、小林秀雄と吉本隆明ぐらいで 小林秀雄にしても親の財産で食っていたとか、 吉本隆明は自前の小出版社を作って、そこで自著を売っていたわけで 厳密に著述業だけで食っていたかと言うと、 自費出版・個人出版の出版社を経営して それに絡む雑務を色々こなして云々みたいな部分もある。 対する漫画家は、専業で高額所得者になっているような人も いっぱいいる業界で、既存の漫画の書き方を教えれば 漫画専業で食っていける生徒が出てくるはずだと期待できるが 批評家の場合、既存の批評の書き方を教えても、そこから本が売れて 批評専業で食っていける人が出てくるとは期待しにくい。 既存の枠組みから外れた売れる批評を書く書き手が出てくることに 賭けるしかなかった批評と 既存の枠組みに組み込まれるだけで充分職業として成立する漫画では 教えることが出来る/出来ないの差は当然出てくる。 西田亮介(.review)×市川真人(早稲田文学)でも 音楽のインディーズシーンは観客動員的にも経済的にも潤っているのに 文学のインディーズシーンは何故パッとしないんだという話が出たが 私に言わせれば、文学のメジャーシーン自体、 書き手専業で食えている人がいない。 トップが食えてないのに、すそ野で食える人がいるわけないじゃん となる。 食えるの定義や、文学の定義によっては、 食えている人もいると言えるのだが 文学の中で一番商業性が高いとされる推理小説の書き手ですら 会社員を兼業しながら書いているベストセラー作家が 結構いることを知っている。 軽く脱線するが 「ちびまるこちゃん」の第2巻を読むと、 作者のさくらももこが就職してOLになりましたという 近況報告が書かれている。当時、既にりぼんで連載を持っていて ちびまるこちゃんの一巻も出て、印税も入っているはずなのだが 就職活動してOLやりながら漫画描いている。 りぼんは、月刊とはいえ、少女漫画界では一番売れている雑誌だろ りぼんに連載持ってて、それなんだ・・。と思ったことがある。 市川さんがヒールを買って出て、西田さんの.reviewに 厳しめの質問をする主旨のトークショーだったのですが 私の心情的には、市川さん寄りというか、 市川さんより厳しいチェックは入った。 投稿された原稿をすべて載せるというドットレビューを 双方向性を駆使したミニコミ2.0と呼んでいるのですが そもそも投稿誌カルチャーは1960〜70年代に花盛りで 文通希望者を募る文通雑誌なんかがあったわけで、 80年代には「へんたいよいこ新聞」、 90年代の「じゃまーる」があって、00年代以降、 それらがウェブに移って投稿雑誌が本格的に消えたわけで、 今まで無かった全く新しいカルチャーみたいに称しているけど 昔からあってかつ成果が挙がってないジャンルに 手を出しただけじゃないかと思う。 .reviewはすごく巧妙に出来ている。 アメリカのサイトで、理系の学術論文だけをUPしているサイトがあって、 そこの配当が一時期500%に成っていたという話を聞いたことがある。 理系の実験は世界中のどこでやっても同じになるわけで、 ある実験の成果はその結果を一秒でも早く発表した研究者の物となる。 実験をする前に、その実験が既に先人によってなされた物ではないかを 調べることも必要になる。 ネットに、実験と実験結果を書いたサイトがあれば、 検索するだけで自分の実験が既になされた物であるかどうかが判別できる。 そのサイトがある一定以上のデータを蓄積すると、権威が発生して そこに発表したい人からお金を取ることが出来るし、 そのサイトにアクセスしてデータを読みたい人からもお金を取れる。 お金を払うのは大学や大学の研究機関だったりするので 国立大学の場合実質税金だったりするので、公共事業みたいな物で そのサイトの運営者が損をする要素はほぼない。 で、そのサイトの出資者に対する一年間の配当金が出資額の5倍になった という話をどこかで聞いた。 どこまで事実かは知らないし、サイトの名前も知らない。 .reviewのやっていることは、それに近いし、 日本中の大学院の卒論をまとめたサイトは、 既にあるのかいずれ作られるのか、だろうし、 .reviewもその一つだと思う。 厳密な数字は知らないが、日本中に大学院生だったか、 大学教授予備軍だったかが、2万人ぐらいいるらしい。 修士が2年、博士が3年、それぞれ卒業する時に卒論を書かなければ 卒業できないとして、院生の卒論が年に一万冊近く書かれていて 四大の卒論も含めると、年に何万という学生論文が書かれていて、 卒論のタイトルと書き手だけが入ったデータベースは 大学図書館辺りに既にあって、太宰治について卒論を書こうと思って 太宰について書かれた既存の卒論に目を通そうと太宰治で検索すると 何百という卒論が出てくるという状況は既にあるらしい。 いまだと、卒論はその卒業生がいた大学図書館か何かに請求すると 読めるのが、卒論集積サイトがあれば、その場で本文も読めるようになる。 これってスコラ哲学じゃんという気がしないでもない。 スコラ哲学は、意味の無い瑣末な出来事に 大量の文字数を費やすダメな哲学の代表として語られることが多い。 スコラは、スクールと同語源らしくて、要は中世の大学の卒論を集めた物が スコラ哲学で「剣の上で妖精は舞いを踊ることができるか?」とかを 論じていたらしい。 学校を卒業するのに卒論が必要で、その際、既に書かれた卒論のテーマを 全部調べて、そこに書かれていないことを書かなきゃいけないとして 一年に一万個の卒論が書かれるとして、五十年とか百年とか歴史があれば 百万本の卒論が発生するわけで、 そこに書かれていないことを書こうとすると 既存の卒論のテーマ・題名を調べて、そこにないテーマ、 誰も取り上げないような狭くてマニアックな題材を選ぶしかなくて 歴史を積み重ねれば重ねるほどテーマが細分化されて、瑣末なテーマに 膨大な文字数をつぎ込むことになる。 そもそもその卒論が、世間に向けて書かれているのかがあやしい。 学生と担当教授との間だけで成立すれば良い物なのか、 より広く世間に問われるものなのか。その世間が百人規模の学会なのか 数千部ほどの学術誌なのか、数万部ほどの新書の読者なのか。 何万本の卒論がある中で、タイトル検索、本文検索して 任意のキーワードが出てくる箇所だけを読むことが出来れば 便利だろうなと思うが、卒論を集めた本を出版しても、 紙にした場合の印刷コストや任意の語を本文中から探し出す検索コストを 考えると、あまり売れない気がする。 2相互扶助 こういうこと書くと、敵作るだけで、 自分にとってデメリットしかないんだけど。 同人誌とか、ポエトリーとか、現代詩とか、 そもそもそれ専業で食えている人がいない世界だと、 同人誌を作るときに、仲間集めて、原稿集めて、編集作業して、 印刷所行って、印刷代出して、即売会に申し込んで、出店料払って、 お客さん呼ぶためのチラシ作って配って、というスタッフ側の作業、 ポエトリーだと、オープンマイクイベントをやるために、 会場借りて、機材借りて、というスタッフ側の作業、 これをやりたくてやる人は基本いないはずで、 自己表現をしたくて表現の場を作るために裏方をやって 横のつながりを作るために表現の場を他の表現をしたい人にも貸して、 借りた人は次に自分が表現の場を作ったときに、 その人に場の一部を貸して、借りを返すみたいな相互扶助的な関係がある。 その世界に長くいると、裏方としてのスキル・商品価値が ガンガン上がって、でも表現する側としての商品価値は、上がらない というより、そもそもその業界には、表現する側に商品価値はない。 昔さぁ 「**文学新人賞のAさんは、選考委員のBさんの弟子でコネ受賞だ」 とか 「C文学新人賞のDさんは、雑誌Cのスタッフをしていたことがある」 とか聞いて、ふざけんなよとか思ったことがあるが、 いま思うと、文芸雑誌Cの編集者自体、Cの編集専業では食えてなくて 別の仕事をしていたりする。 みんな他に仕事を持ってノーギャラで働いているわけで、 そこにね、そのCのスタッフ全員を食わしていけるだけの販売力を持った 書き手が投稿してくれば、C文学新人賞与えるだろう。 一冊千円のハードカバー本で、定価の三割が出版社の取り分で、 そこから出版社の家賃や光熱費や回転資金を除いた編集部の人件費が 一割ぐらいだとして、編集専業の編集者一人雇うのに 年一千万ぐらい必要だとして、スタッフ五人、五千万ぐらい稼ぐ 原稿があれば、千円の本を五十万部ぐらい売る原稿があれば C文学新人賞を与えるかも知れないが、 現代詩の詩集の平均初版部数が二百部として、 そもそも詩集である地点で売れないわけで、 ビジネスとして見たとき、どれに賞与えても同じなら、 ノーギャラで三年働いてくれた編集スタッフにギャラ代わりに賞与えて 賞金は払えないけど払ったことにしておいてくれるスタッフであれば、 大賞受賞百万円ということにしておいて、 この名誉と肩書きを無償労働の賃金にしてもらえれば、ってなるじゃん。 仮に日本でまったく紹介されていないAという作家の本を Bさんが紹介・翻訳したとして、Aさんがそのお礼に、 Bさんの本をAさんの国の言葉に翻訳してくれるかも知れないし 仮にAさんが日本語を読めなくても、 Cという翻訳者と出版社をブッキングしてAさんの紹介で Bさんの本が翻訳出版されるかもしれない。 そういう意味で翻訳ができるのも スタッフとしての能力の一つかも知れない。 まあ、割といろんなことがどうでもいい。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□