■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第212号       2010/3/8発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1近況 ご無沙汰しています。同人誌でも音楽でも良いのですが 人と組んで何かを作ろうという誘いを受けたり、誘いをしたりして 途中までやってみたけど上手く行かないという経験を 何度かやってみて、何故上手く行かないのかや どうすれば上手く良くのかが、分かっているのですが そこまでして組んでもお互いのためにならないだろ的な感じがあって その辺のこととか書いてみます。 メジャー/インディーズもしくは、商業芸術/純粋芸術、 労働/セラピー、呼び方は何でも良いのですが 商品として消費者のために作られる創作物と 作り手が自己治癒目的で行なう表現があって 私は後者の方が面白いと感じてきたわけです。 音楽でも、打ち込みシンセみたいに正確な演奏をするミュージシャンより 楽器の弾けない大槻ケンジや遠藤ミチロウの方が好きだったり 絵でも写真みたいな正確な絵より、ディフォルメの効いた ムンクの叫びや、歪んだ情念のこもった物の方が好みだったりする。 物凄く高度な表現技術があるけど、表現したい内容が何もない人より 表現技術は何もなくても、表現せざるを得ない衝動を抱えた人の方が 面白いと思う。 打ち込みシンセと区別が付かないような正確な演奏ができると自慢されても だったらシンセの自動演奏で代用できるし 写真と区別の付かないような写実的な絵を書けると言われても そんなの写真で代用可能じゃんとしか思わない。 俺が面白いと思うような表現をする人は心に大きな傷を負っていて それを埋めるために表現をやっているわけで、 自己治癒のための表現であるので、 その表現を少しでも否定するようなことを言うと 「全人格を否定された」みたいな感じになって こちらとのやり取りはすべてシャットアウトされてしまったりする。 例えば、「すごく良いんだけど、 ここをこうするともっと人に伝わるんじゃないか」的な エクスキューズ付きの褒め言葉自体ダメなパターンが多い。 ある種のセラピーやカウンセリングや悩み事相談がそうですが 相手の話を聴くのみで、相手がしゃべったことに関して コメントしてはいけない。こちらが褒めたつもりで発したコメントでも 向こうがどうとって傷つくか分からないから、 相手の表現=傷口・トラウマにはコメントを一切はさまないで ひたすら聞き役に回るしかない。 ここで、一緒にやろうとした何かが仮に 本人達的には人文科学の学術的な文章のつもりだとして。 「AはBでない。」という常識に対して 私は「AはBである。」という内容を論理的に組み立てているつもりの 文章を書いた。 常識や社会通念をなぞるだけでは、読むに値する文章にならないので それをくつがえすような、オリジナルの何かを入れるわけだ。 ここで、先方から来るであろう批判をいくつか想定してみた。 一つは、AはBであるという内容が極端すぎる。そう言い切るには 論理的に弱いし、例証が足りない。 もう一つは、AがBであるというのは、常識的過ぎる。 君は新しいことを言っているつもりかも知れないが * *さんや++さんが20年も前から書いていることの繰り返しで 新しさやオリジナリティーがない。 どちらかと言うと、後半側の批判が来るのではないかと思いながら 内容チェックのため先方に文章を見せると、 「君は『AはBでない』と書いているが、それは間違いだ」 という批判が来た。 私が書いた文章の主要部分は「AはBである」と書いているとか 思うところはあるが、 私としては黙るしかない。 先方の声のトーンや表情や話の内容で、 先方の発言が自己治癒的なセラピーだと分かるからです。 自然科学における正しさは、実験観察を通じて再現性があるかとか 反証可能性があるかとかで問えるし、 社会科学の正しさも、統計を使ってある程度までは 証明できるのですが 人文科学になると、どの本にこう書かれていると、 引用元を示して引用するぐらいしか方法がない。 しかもある専門用語の意味が何であるのかに関しては 人によって、時代によって変わっていくし、同じ著者の用語でも 著作や文脈によって微妙に変わるので、厳密さは追求しにくい。 例えば、音楽のジャンルでロックというのがある。 このロックの指し示す意味を厳密に考えると、 英語のRockと日本語のロックでは、 指し示される物の時代や範囲がかなり異なる。 ロックンロールという言葉から、ロックという語を生み出したのが レッドツッペリンだとして、「ロックは死んだ」という言葉と共に ロックを死語にしたのがセックスピストルズで、 それ以後の(日本語でいう所の)ロックは、 英語だとオルタナティブとかポストロックとか言われるが、 日本語ではロックという語は現役のバンドに対しても使われる。 厳密に、ツッペリンからピストルズまでをロックと限定するなら 1970年代のハードロックとプログレシブロックのみがロックになり それ以前の物は、ロックンロールやロカビリーであり、 それ以後の物は、オルタナティブになる。 でも英語圏でもオアシスのインタビューを見ると普通に自分達のことを ロックバンドというし、2000年代の現役のバンドにもロックという語を 使ってるじゃんというのもあるが、グラミー賞をみると ロックではなく、オルタナティブという語が使われている。 …みたいな面倒臭い専門用語の定義論が出てきたりする。 語の用法をその分野の権威ある正典から引っ張ってきても その正典の文脈が反語的かどうかでまた議論が分かれる。 ラカンのエクリの日本語版まえがきを見ると この本を読むなと書かれているのだが、普通に考えれば それは反語的表現であって、読めということだと解釈される。 ラカンの仕事は精神分析で、相手に話をさせて、 聞き役に回って相手を癒す仕事だ。 エクリは講演集なのだが、ラカンはおかしなこと、間違ったことを口にして 相手にそれを訂正させて、 相手の話の中から正解を引き出す話法を使っている。 漫才で言うボケ役をやることで、相手にツッコミ役をやらせて 正しい答えを自ら口にすることなく、相手に話させる。 エクリで「AはBである」と書かれているとき、 常識的に考えてAはBではないし、 ラカン自身も「AはBである」とは思っていない可能性が高い。 冗談以外にも、皮肉や悪口なども、反語的表現であることが多い。 寝坊して昼に登校してきた生徒に先生が 「お早いお目覚めですね」と言うとき、 話者自身が話者の話の内容を信じていない。 起きるのが遅いんだよと思いながら、わざと逆の言い方をしている。 寝坊して昼に登校して来た人に関して、権威ある正典で、 「お早いお目覚め」と書かれているからといって 「お早いお目覚め」という専門用語の意味を寝坊することとされたのでは 違うのではないかと思う。 これまで私は「AはBである」という表現に対し 真偽を問える物だと思っていた。 少なくとも話者は「AはBである」と発言する時 「AはBである」と信じているものだと思っていた。 ある種の優れた表現は心の欠落やトラウマや 満たされない欲望から来ていて 満たされた赤ん坊は泣き続けない。 表現し続けている人というのは、 満たされない状態が続いている人なわけで 「AはBである」と表現し続ける人は 「AはBではない」と言われ続けている人で、 何故言われ続けているかというと「AはBではない」からで 「AはBである」と表現し続けている人はそのことを当然知っていて 「AはBである」という表現は、現状「AはBではない」が 「AはBであって欲しいし、 AがBである状態に持っていくよう努力し続けている。」 という意味内容だ。 ライト兄弟が人間は空を飛べると言ったとき、 人間は空を飛べてなかったわけ。 ハングライダーの発明家が、ハングライダーの事故で墜落死して やっぱりにとは空を飛べないんだという社会の空気が出来上がったときに ライト兄弟は、空を飛べると言って、空を飛ぼうとしたわけだ。 で、ライト兄弟が空を飛ぶんだと言って飛行機を作っている間 現に人間は空を飛べてないわけじゃん。 もしくは、別の批判をするなら、既にハングライダーや気球で 人間は空を飛べていて、ライト兄弟のやろうとしていることは 既になされた意味のないことだとも言えるわけじゃん。 でも、目的地に必ずしも到達しない気球やハングライダーと 動力源を持った飛行機は別物ではあるのだけれども、 それは飛行機が完成して空を飛んで世に認められてからの話じゃん。 飛行機を作っている段階では、現状、空は飛べてないし 人は空を飛べないわけ。 でも、空を飛べると言って、努力する奴がいても良いじゃん。 話者が「AはBである」と言うとき、AがBでないことを知った上で AはBであって欲しいし、そうあるべきで、 そうあるよう努力してきたし、今後もそうあるよう努力すると 情熱的に、自らのトラウマに触れながら伝えていると感じる。 私は、その話が世間の常識から外れていると思うが 否定も肯定もせずに黙るしかない。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□