■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第211号       2009/12/25発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 0前号の訂正 ファーストガンダムのキャラクターデザインをつとめた 安彦良和さんの絵ですが、ガンダムオリジンの単行本で見ると割と普通で むしろ、雑誌「ガンダムA(エース)」連載時の絵を見た方が 安彦さんの絵のすごさが伝わると思います。 1ファイン/fine 先日、友人から信濃川日出雄著の「ファイン」というマンガを 読むよう薦められた。 ファインと言うのは、ファインアート(純芸術)のファインで 商業芸術の対義語で、純粋な芸術を意味する。 ストーリーは、美大を出た主人公が、うだつの上がらない絵を描きながら バイトで貯めた金で個展を開いたりしている。 3年ぶりに美大の同窓会があって、周りの仲間は会社員をしていて 劣等感を感じる。という話で、キャッチコピーは 「裏はちクロ」「はちみつとクローバーのダークサイド」 美大生の清清しい青春を描いたはちみつとクローバーの 痛々しい現実バージョン、というのがネットレビューの 最大公約数で、友人曰く 「キミこういうの好きでしょ?」 いや、俺、天然だからさ、自覚なかったんだよな。 ファインの主人公は、 インターネットサイトのグラフィックデザインを頼まれて データ入稿なのに、分厚いキャンバスに描いて 現物入稿した挙句、担当者に直しを言い渡されると 俺がやっているのは芸術だから妥協はできないと言って、 喧嘩別れするような奴だ。 友人から見て私がそんな奴に見えている という自覚がなかった(笑。 マンガ自体はそれなりに面白かったんだけど、 後半普通にラブコメになって行って、美大関係ないし、 裏でもダークサイドでもなく、普通にはちクロだし。 個人的には、ゲッサン(月刊サンデー)連載で、大阪芸大を舞台に 漫画家・アニメーターの卵を描いた「アオイホノオ」の方が、 むしろダークだろと。 ゲッサンは週刊少年サンデーに投稿してきた新人の読み切りを試す サンデーの二軍みたいな雑誌で、主な読者は漫画家志望者だと思うのですが サンデー新人賞の大賞賞金が、 ジャンプ・マガジンの半分の50万円しかないというところから始まって 100万は無理でも、50万なら取れそうな気がするじゃないかという 主人公に、同じ学校の仲間が、いや、50万は取れないと言って サンデーの新刊を見せる。俺のマンガじゃ大賞は取れないと言うのか!と 怒る主人公に、渡された新刊に載っていた新人の作品が 後に「グーグーガンモ」の作者細野不二彦の新人賞受賞作で その完成度に主人公は打ちのめされつつ、同級生はそこじゃなく ここを見ろと、示したページを見ると、完成度の高いそのマンガは 大賞を取ってなくて、審査員特別賞なんですね。 大賞受賞でなければ、作品は掲載されない。 でも完成度の高い作品が投稿されてきて、作品は掲載したい。 でも、大賞の50万円は払いたくない。 その苦肉の策が、募集時には存在していなかった審査員特別賞での 掲載。 かなり事実に基づいて描かれているマンガで、私は爆笑したのですが サンデーの漫画家志望者相手に読ませる漫画で、 ここまで内部暴露して良いんだ? ファインにもそのクオリティのダークサイドを期待したのですが 割と普通で、個人的に一番面白かった所は、美大のデッサンで 主人公が最初普通に写実的に描いていたのが、 途中でキュビズムのテイストを入れ出して、 キャンバスを継ぎ足して、枠をはみ出し始めると、 石膏で半立体になってきて、最後に 何か違うと言って、ゴミ箱に捨てた所でした。 2ファインアートとは何か 純文学とは何か?とか、下らない定義論を反復し続けている このメルマガですが、 Ev.Cafeで坂本龍一が「ファインアートなんてあるのか?」 と歴史上一度でもファインアートが存在したことがあるのか 疑問を呈してましたが、ファインアートとそうでない物を分けるのは 商業的成功を目的にするかしないかではなく、 世に出す時の最終決定権が誰にあるのかです。 出版業界の人と話すと、「商業印刷」という語を 書店流通しない印刷物に対して使うんですね。 その定義でいうと、読者がお金を出して買ってくれる本、 読者がスポンサーというのは、商業印刷ではなく芸術です。 パソコンメーカーの商品カタログとか、スーパーのチラシとか 新卒採用時の新人研修用会社案内パンフレットとか 書店流通しない印刷物はいっぱいあって、そっちが商業印刷なんです。 世間のイメージだと、書店で売られているのは商品で、 商業印刷に見えます。逆にスポンサーやパトロンがいて、 制作費や人件費など、必要経費を持ってもらえる契約で作っている 創作物は、いまの常識で見ると一見、 非商業的で、芸術的に見えたりします。 売れなければ経費を回収できない商品と違って、 制作に掛かる経費一切を持ってもらえるパトロン&スポンサーつきの 制作環境の方が、売れる売れないを考えずに、 良い物を作ることに専念できると思う人もいるでしょう。 アートという語が、元々医療技術を指す言葉として 古代ギリシャ時代に生まれた単語で メディチ家(メディスンの語源と言われている)の新薬開発チームから イタリアルネッサンスが起きて様々な芸術家が生まれてきた という流れからすれば、元々芸術はパトロン&スポンサー付きのところから 始まっていて、 何を制作するのかの最終決定権は すべてパトロンが握っているところからのスタートです。 パソコンの商品カタログを制作するのに、 どの商品をカタログに載せるのか? どんな説明文を載せるのか? 写真の配置や大きさはどうするのか? いくらぐらいの予算でどのぐらいのページ数で、 どのぐらいの部数刷るのか? すべての最終決定権はお金を出すスポンサー企業が決めることで カタログのデザイナーやライターやフォトグラファーは スポンサーの頭の中にあるカタログを実現させるための技術者であって 無から有を生み出すクリエーターではない。 この世に存在しない状態の物をイメージして生み出すのが 創造主(クリエーター)の仕事だとすると、 スポンサーのカタログ制作担当者がクリエイティブな立場にいて その要望にこたえる広告代理店や編集プロダクションは 職人の立場にある。 写真の発明以前の、絵画史で言えば印象派以前の絵画は パトロンが自分や自分の家族の肖像画を 使用人である画家に描かせて、 それを写真のようにパトロンの生きた証として、 パトロンの自己表現として家に代々残されて行った訳で 絵を売買する市場があって、絵に値段がついて、 絵が多くの人の目に触れて、 高い値段がついた画家の評価が上がるという物ではなく、 貴族のご主人様のお顔を描いたら、 ご主人様のお買い上げで、それはご主人様の表現物として 家に保存される類の物だったわけで。 それが逆転するのがフランス革命で、 ベートーベンは、貴族の子弟のピアノ教師をすることもなく 市民に向けたコンサートを開いて、コンサート収入だけで パトロンなしに活動した最初の音楽家として 音楽史に名前を残す。 (貴族−市民の二元論で簡易化してます。  宗教芸術・教会芸術は今回パス) そのパターンで考えると、スポンサーがついてスポンサー買取りで 物を作るのが商業芸術で 自分の金で自分で物を作って、自分で物を売るのが ファインアート/純粋芸術なわけです。 最終決定権を誰が持つのかで、ファインアートか商業芸術かが 変わってくるというと、誰にとってのファインアートなのか? みたいな話は出てくる。 商品カタログを作る時に、 カタログの制作を発注するクライアント(広告主)にとっては 自分が最終決定権を持つのでファインアートだけれども クライアントの下で働く広告代理店側にとっては 商業印刷、言われたことを言われた通りにやる日常的な業務であって 自己表現の余地のない、いわゆる事務仕事かも知れない。 例えば映画制作において、 俳優さん・カメラさん・音響さん・照明さん・タイムキーパーさん、 百何十人のスタッフが関わる中で、最終決定権をもつのが 監督一人と言えるかも知れないし、それぞれがそれぞれの領域において 百何十分の一の最終決定権を持っているといえるかも知れない。 でも、関わる人数が多くなればなるほど、 一人あたりが自己表現できる領域は狭まると予想できる。 そうするとまた、いつもの私のパターンで 分裂は力なりとか、 インディーズ・アウトノミア・自営業者・アナーキズムが ファインアートで、 集団化・大人数化はファインアートから離れていくとか ベタな話になるのですが。 もしくは、分裂の結果一人になると、キャッチボールは出来ないし 野球もできないしサッカーもできない。 フォークの弾き語りはできても、 一人でエレキギターの弾き語りをしながら、 ベースやドラムの演奏を同時にして、 一人でロックバンドの生演奏をするというのも無理だ。 集団の領域と個の領域はあるのですが、 今回考えているのはそこではなくて。 3、1920年〜30年と1968年 フランス革命が貴族の使用人としての芸術家から 不特定多数の市民を相手にする芸術家への移行をうながしたとして 第一次大戦後の1920年〜30年、wiki的には第一次大戦以後が 現代で、それ以前が近代というヨーロッパ史的な断絶がそこにあって 文学史を見ると、推理小説の隆盛やスペースオペラの誕生など、 ジャンル小説の活況がこの時期にあって、同時に 世界文学全集に収録される小説が、この時期以降なくなります。 (単純に日本の文学全集ブームが大正時代の物なので、  当時の最新の世界文学が20年〜30年作だったともいえますが) 国民文学からジャンル小説へという傾向が読めます。 もう一つの切断としては、ベビーブーマー世代による 68年の世界的なスチューデントパワーの運動と挫折。 それにともなう、ロックコンサートや ユースカルチャー・カウンターカルチャーの勃興です。 少年雑誌的に言えば、月刊文芸誌から週刊漫画雑誌への移行が この時期です。 Wikiによると、怪人二十面相が掲載された少年向け文芸誌 少年倶楽部の休刊が1962年。 週刊少年マガジンと週刊少年サンデーの創刊が1959年。 Wikiの「週刊少年マガジン」より 「創刊後の数年間は、雑誌に占めるマンガ頁が全体の4割程度」 「1970年には150万部を達成。」 大学生の必需品が 「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」と言われた時代が 1970年だとすると、このぐらいの時期に 月刊文芸誌から週刊漫画雑誌への移行が行なわれたと言えます。 国民文学からジャンル小説、そして漫画へという文学史を 仮想した上で、何がそうさせたのかを考えてみます。 フランス革命が何年に起きたと断言しにくいところがあって 通常、マリーアントワネットがギロチンで処刑された辺りを フランス革命と呼びそうですが、その後も50年ぐらい クーデターや政治的混乱が続いて、国民選挙が行なわれたのが 1850年代で、ここから1910年代の第一次世界大戦辺りまでを 自然主義文学の時代と文学史的に呼ぶと 選挙をするには各立候補者の政策や何かを知る必要があって 国中に新聞の配達網が完備されている必要があり 国中で通じる共通語・国語の完備が必要で、 だからこそ国語を体現する物としての国民文学が必要とされた。 最近東浩紀さんが「一般意志2.0」と言っていますが 東さんの論でいうところの、mixiやSNSにあたるものが 自然主義時代の新聞で、新聞の投書欄こそが、一般意志を形成する SNSであったと思います。 この時期の国民選挙は、直接税をいくら以上納めている男性に 選挙権が与えられる物で、直接税のしばりがない初の完全普通選挙は 第一次世界大戦後の1919年、 ワイマール憲法下でのドイツで行なわれ 日本では男女普通選挙は第二次大戦後の1945年に行なわれる。 直接税をいくら以上納めているというのは 単に収入が多いという話ではなく、 文字を読んで理解するだけの教育を受けている人、 新聞を読み各候補者の掲げる理念や政策を理解できる人 という意味あいがある。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□