■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第209号       2009/9/10発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1ポストモダンとは何か いまさらのように、レビィ・ストロースの「野生の思考」を読んで 感動した。 それは、フーコーや吉本隆明の著作を読んで理解出来なかった部分を 一気に解決してくれた。 野生の思考の概要を書くと、 フランスの文化人類学者レビィ・ストロースが アメリカ原住民と暮らして、彼らから言葉や学問を習う。 彼らは色んな植物を持ってきて、 名前と色・匂い・味・手触り・効能などを教える。 それまで未開人は文化を持たず、文明人と比べて 単語の種類や知識の量が少ないと思われていた彼らが 西洋の博物学者と同じかそれ以上に植物の種類を知っている。 植物の分類方法は、薬草としての効能を中心とした分類で 西洋の解剖学的な分類とはことなるが、 味や匂いが似た植物は効能も似ているという未開人の発想は 西洋の科学者の目から見ても、味や匂いの類似は成分の類似を 含んでいるからであり、論理的な分類であるといえる。 レビィ・ストロースの意図は、それまで野蛮人・未開人と 思われてきた人達の文明を、西洋人とは異なるが 決しておとった物ではないと証明する事であった。 映画キングコングなどを見ると、 主人公の西洋人が未開のジャングルを冒険する話ですが 腰ミノをつけた現地の黒人が、石器を持って襲ってきます。 手塚治虫のデビュー作「新宝島」でも似たシーンがあるのですが 野生の思考以前のアドベンチャー映画や小説だと 野蛮人・未開人がジャングルに住む猛獣と同じ扱いで描かれ 同じ扱いで殺されます。 彼らは、言葉や文化を持たない猛獣という扱いなんですね。 未開人は猛獣と同じで撃ち殺して良いという思考の ルーツとして一つはダーウィンの進化論があって 弱肉強食で適者生存だから、 より強くより進化した者が残れば良いとしう思考です。 もう一つは、ヘーゲルの精神現象学、ヒットラーの我が闘争に見られる 進歩史観です。古代−中世−近代と歴史は進歩してきた、 古代とは黒人の部族社会で、中世とは黄色人種の封建社会で、 近代とは白人の近代社会だ。 遅れた社会、後進国・発展途上国は、 進んだ社会、先進国を目指して努力すべきだ。 といった進歩史観です。 この二つが結びついて、より進化した社会である 白人の近代社会は、遅れた有色人種の社会を 弱肉強食で植民地にして良い。 という帝国主義・ファシズムが生まれるのですが レビィ・ストロースは進歩・進化という発想を嫌って 時間軸のない世界観を組み立てます。  時間軸がある/時間軸がない    ヘーゲル/カント ポスト構造主義/構造主義   直線的時間/円環的時間    進歩史観/永劫回帰 哲学で言うと、 時間軸があるのは、ヘーゲル・マルクス・フーコー、 直線的な時間軸がないのが、 カント・ニーチェ・ハイデガー。 時間軸を排除した世界観に、時間軸が入れられていく過程は カントから、新カント学派を経て、ヘーゲルへという流れがあり、 これは構造主義から、ポスト構造主義へという流れに似ています。 人は、努力によって成長するし、 社会も努力によって良くなっていくと思いたいわけです。 成長や進歩などなく、ただ多様性があるだけだという 考え方は暗くて嫌なわけです。 でもそこで、進歩や進化を認めてしまうと、 進歩していない物、進化していない物を、 より成長した物が差別したり虐げても良い という結論に行きがちで、 自分と異なる価値観を認める方向には行きにくいわけです。 実際カントは、ある時期まで教養のない人を見下していて 家庭教師時代に、カントの勤め先へ兄があいさつに来た時 カントは教え子とその家族に 「教養のない兄で申し訳ない」と本気で謝罪し さして教養がないとも思えないごく普通の兄を 恥じいるカントの行為に、周囲の人間は 実の兄に対してなんて失礼な態度を取るのだと思ったといいます。 後にカントはエミールを読み、教育を身につけることで 教育のない人間を見下していた自分を反省します。 そういった流れを見ると、 カントやレビィ・ストロースの無時間的な世界観は 時間軸を入れ忘れたのではなく、 意図的に排除したのだと思われます。 そうしたときに ポストモダン(歴史の終り)という歴史概念は 「近代後の時代」ではなく、 「古代−中世−近代」という時代区分を 無効化する思考と捉えた方が良いのではないか。 ポストモダンは、建築や広告、ポスト構造主義よりも レビィ・ストロースに出典を求めた方が良いのではないかと 個人的には思います。 2吉本隆明 吉本隆明は、心的現象論序説やアフリカ的段階で 日本を古代社会になぞらえています。 野生の思考を読むまで、吉本が何を意図していたのかが 分からなかったのですが、読んで思ったのが 第二次大戦の敗戦を思春期に経験した吉本にとって 日本が一流の先進国=近代国家でないことは 敗戦という時代背景を見れば明白です。 封建的な主従関係の残る黄色人種の社会では 君主のために命を捨てる絶対服従の精神が残っていて 独裁的なファシズムにおちいりやすい、 という通説もあります。 その中で吉本は、日本は封建社会ではなく アフリカ的な古代社会なのだと主張することで 日本を擁護しようとする。 マルクス史観でも古代の原始共産体は ある種の理想として描かれているし ヨーロッパ史を見ても、古代ギリシャの直接民主制度は 近代の間接民主制度のお手本になっていたりもする。 そうした中で、近代国家を名乗れないなら せめて古代国家を名乗ろうみたいな流れは 理解できなくもない。 70年代の大阪万博で岡本太郎が作った太陽の塔も 古代テイストが入っていて、 あの時代のアングラ劇団も原始的なイメージを使っていた。 これが、80年代になって、日本も近代国家と呼んで良い という空気になると、日本は古代社会で、 古代性を大事にしていますみたいな文章が 意味不明に見えてしまったり レビィ・ストロースを読むことで「古代−中世−近代」という 時代区分自体が無効じゃないかと思うと その時代区分を前提に書かれた吉本の著作が 無効化される気もする。 3フーコー 日本だと、フーコーとレビィ・ストロースを比べた時に フーコーの方が評価が高いわけです。 吉本隆明が20世紀の思想書で、 読んでおかなきゃいけないのはフーコーの「言葉と物」だけだ とか言って、 フーコーが20世紀最大の思想家になっていたりする。 ソーカル事件で批判されたレビィ・ストロースですが ソーカルがレビィ・ストロースメインで批判し フーコーをサブに置くのは、 レビィ・ストロースが、あちらの世界では 批判に価するビッグネームだということです。 ソーカルから見て、フーコーよりも レビィ・ストロースの方がネームバリューがあるんですよ。 日本は昔から外国の先端の思想を取り入れて 追いつき追い越せ出来たので、 フランスの歴史について書かれた「言葉と物」と アメリカ原住民について書かれた「野生の思考」だと フランスの方が先進国だし学ぶ物があるよね、 アメリカのインディアンから学ぶ物なんてないじゃんに なりがちなんだけど、 フランス人がフランスの歴史についてフランス語で書くのと フランス人がアメリカの原住民について書くのとでは 情報の移動量がレビィ・ストロースの方が上だし 「言葉と物」に書かれていることの多くは 「野生の思考」に負うている。 「言葉と物」に描かれる博物学の時代と解剖学の時代は まんま、未開人の知と、文明人の知で その後に出てくる第三のエピステーメは、 レビィ・ストロースによって切り開かれる知なわけで。 フランスは「言葉と物」のような難解な本がベストセラーになるほど 知的な国だとよく言われるけれども、 言葉と物をベストセラーにする下地は 野生の思考によって作られていて 野生の思考を読んだ後であれば、言葉と物は難解な本じゃないし むしろ野生の思考の劣化コピーだと思う。 「古代−中世−近代」という時間軸を 野生の思考が無効化させたにも関わらず エピステーメという名で、再び時間軸を導入している地点で 劣化は激しいと思われる。 4愚痴 私がニューアカとか哲学に興味を持ったのは 小阪修平の本が中学の学校図書館に入ったのがきっかけだった。 小阪修平さんが亡くなった時、すごく落ち込んだ。 竹田青嗣さんのように大学で教職に就くこともなく、 予備校教師のまま生涯を閉じた。知識人としては在野のままだった。 大学解体を叫んだ学園紛争に身を投じ、卒業後もそれを貫きつつ 知識人としての活動を続けた人達の多くが 予備校教師という職を選んでいる。 そこにどんな意味があるのかはよくわからない。 90年代、竹田青嗣が哲学解説本ブームを起こしたとき 色んな人が哲学解説書を書いていた。 オルガンからは西研さん、 社会学では、橋爪大三郎さんが書いていた。 粗悪な哲学解説本が乱造される中、竹田青嗣さんは品質を守り 乱造を避けた。 橋爪大三郎さんはある時期から、 解説の内容を社会学に絞るようになった。 当時ベルリンの壁が崩壊し、ソ連の情報が大量に入ってきた頃で 社会主義国内でも、アメリカの経済学書がかなり読まれているとか ソ連の科学技術が西側とは別な方向へ発達しているとか そういった情報が面白かった。 何故かこの時期、小阪修平さんの本はあまり見かけなかった。 噂では、オルガンという雑誌&ヘーゲル平らげ研究会という勉強会を 小阪&竹田のツートップでやっていたが、 勉強会のレジメを交互に作り、レジメをもとに感想を述べ 議論を行い、そうして生まれた成果は、 どこまでが誰の著作とは言い難く、 誰か個人の名前で発表することは難しいみたいなことを聞いた。 そんな中、粗悪な哲学解説書を乱造して市場を荒らしている著者が 私には許せなかった。 中でもひどかったのが鷲田小彌太だった。 ほぼ同じ内容の本を色んな出版社から何十冊と出していたが その中でも、ここまでひどいクオリティだと 逆にすごいだろと思ったのがこの本だった。 「哲学の発想とパソコンの思考」 ネットの書評ではビジネス書扱いになっているが 私が図書館で見つけた時には哲学書コーナーにあった。 前書きを見ると、著者は「哲学とパソコン」をテーマに 出版社から執筆依頼を受けている。 このテーマで私が想像した内容は、こういったものだった。 代数や微分積分がデカルト座標の登場によって 視覚的に把握出来るようになったように フラクタルやカオスが、パソコンの登場によって 視覚的に把握出来るようになった。 ニューアカだと中沢新一が書いた内容で、90年代だと 10年古い内容の焼き増しだから、 実際にはもっと進んだことを書くにしろ 方向的にはこんな感じだろうなと思った。 が、実際に書かれていたことはまったく違った。 私は大学で哲学を教える哲学者であり、 この原稿はパソコンで書かれている。 よって、哲学とパソコンというテーマは、クリアされている。 本文に入る前の、前書き自体がこんなんだった。 まあ、いい。90年代地点でもパソコンで原稿を書くのなど 普通のことだったが、パソコンは無視するにしろ 一応、哲学の解説本として機能するだけの何かは書くのだろうと 思って続きを読む。 内容は、執筆依頼をされたときの状況をから始まる。 「哲学とパソコン」をテーマにある人に執筆依頼をしたが 上手く行かず原稿は頓挫し、別の人に依頼するも断られ 回りまわって自分のところへ依頼が来た。 締め切りは最初に執筆依頼をした人の締め切りと同じ日、 つまり、一週間後、原稿量は400字詰め原稿用紙400枚。 原稿の推敲・直しに2日かけるとして、5日で400枚、 1日80枚書く計算だ。 もちろん、その合間に、通常通り大学で講義をし、 他の出版社の原稿も書かなくてはならない。 私は原稿依頼を断らない主義なので、原稿を断りたくはない。 1日80枚書くことにした。 こんな感じで話は進んでいく。 柄谷行人ならこの原稿依頼を断っていただろう。 というか、柄谷でなくても断って下さい。粗悪品乱造は勘弁です。 最初の執筆者に設定した締め切りが動かせないのは おそらくこういう事情だ。出版社は本を出して、取次に委託する。 取次は委託された本の代金を払って、本を受け取るが、 仮に三ヶ月なら三ヶ月後、その本の返品を開始し、 返品分の本代を出版社から取次が受け取る。 出版社に金がなく、返品分の本代の支払いを先送りしたい時、 何でも良いから新しい本を出して、取次に受け取らせれば 新刊の代金と旧刊の返本代を相殺できる。 つまり、返品分の本代の支払い時期が決まっている以上、 例え全ページ白紙になろうとも、新刊の発売日だけは動かせない。 でまあ、本の内容ですが 一日目、現在朝6時20分、朝食後原稿を書いている、 今のところもう20ページも書けた、中々快調だ。 7時には家を出て大学に行かなくてはいけないので、 あと40分しか執筆できない。帰宅は6時ごろになる予定。 ……こんな感じです。 執筆者が執筆している状況を実況生中継しています。 24時間テレビのマラソン中継というか、 トリストラムシャンディというか、原稿を書いている私を原稿に書く 哲学もパソコンもまったく関係ないのね。 初めて読んだ時、ふざけるなと怒り狂ったのですが よくよく考えると、 何故ダメな本が大量に作られるのかについて書かれた 良書じゃないかと思う。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□