■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】  第184号       2008/6/2日発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1単語の持つ辞書的な意味(普通名詞)と経験的な意味(固有名詞) 人間が生誕後、一番最初に覚える単語は固有名詞だと思う。 言葉を話せない赤ん坊に親が「ママですよ」「パパですよ」と 話し掛ける。この時、赤ん坊にとってママやパパは、 目の前で起きている固有の出来事を指している。 mamaという音、視界に広がる女性の顔、だっこされたときの 抱擁感・浮遊感・安心感・肌の触感、 それら固有の経験とmamaという音が、何度か繰り返される中で 結びつくようになる。 このときママとは、ある固有の体験であり、 だっこをしてくれる自分の母親を指す固有名詞である。 乳児にとって、辞書に書かれているような母親の概念とママという語が 結びついているわけではない。 これは他の単語でも同じで、生まれて初めて「コップですよ」と言われて コップを渡された時、目の前にあるコップだけがコップなのであり 世間一般で言われているコップの概念を理解しているわけではない。 目の前にある固有のコップを指す固有名詞として コップという語が与えられている。 コップが固有名詞でなくなるのは、最初に与えられたコップ以外の コップを親がコップと呼び、乳児みずからコップと呼んだときだ。 固有名詞のコップと似た物を、比喩的にコップと呼ぶとき コップは固有名詞から、普通名詞になる。 乳児の中にある程度、普通名詞の語彙がたまると、 「**って何?」と子供は聞くようになる。 仮に「海って何?」と子供が聞いて 親が「水がいっぱいあるところ」と答えたとき 海を見たこともないし、海に行った事もない子供にとって 海という語を経験的に理解することは不可能だ。 あくまでも概念的に「水がいっぱいあるところ」として 辞書的に理解する。 単語の辞書的な意味は経験とは無関係に発生する。 むしろ未経験の単語を理解するために辞書は使われる。 2固有名詞から普通名詞へ 私が経験したコップだけをコップと呼び、 それ以外のコップはコップと呼べないとするなら それは普通名詞の固有名詞的使用だ。 私が経験したコップが、ありふれた大量生産品の一つで、 同じ型番のコップが世の中に何万個もあふれていたとしても 私が経験したコップにはある種の固有性が宿っている。 そのコップは八年前、当時の営業所に赴任してきたときに 買った物で、その営業所には社員食堂がなく、 毎回外食でも高くつくので、 皆、弁当を持ち寄って休憩所で食べていた。 休憩所には常時、お湯がポットに保温してあり、 その横にはインスタントコーヒーと ティーパックとクリープと砂糖があって いつでも飲み放題になっていたので、各自持ち寄ったコップに お湯を注いで、コーヒーや紅茶や緑茶を飲んで 仲間達と談笑しながら休憩時間を過ごした。 五年後、別の営業所に転勤し、そこには社員食堂があり 社員割引で食事ができるので、皆、そこを利用した。 食器もコップも食堂の物を使っていたので、 いつのまにか以前の弁当箱やコップは使わなくなり、 どこかへ行ってしまった。 ところがその三年後、つまり最近、大掃除をしていたら 戸棚の奥から当時のコップや弁当箱が出てきて 前の営業所の仲間達を思い出した。 という関係性が、私とコップとの間にある、そのコップは、 たとえ同じ型番の同じ製品を持ってこられても、 同じコップではない。 私が固有名詞としてコップという語を使う時 それは私が使ったそのコップのことをコップと言い 私とコップとの関係性のことをコップと言い 私とコップとの間にある物語を指してコップと言い 辞書に書いてあるコップの意味では、 私がコップという単語に込めた意味が伝わらない。 私がコップという語を使う時、そこには 八年前の職場で過ごした仲間達との会話や人間関係や思い出を 指してコップと言っているが、世間の大半の人達は コップという一言でイメージするのは 辞書に書かれているコップのイメージでしかない。 私にとってのコップ、固有名詞のコップを世間の人に伝えるには 上記のようにコップ以外の単語を使って、 コップを説明しなくてはならない。 固有名詞のコップの意味は、私以外の誰にも伝わらない。 コップの意味を伝えるために使った八年前の営業所という語も 本来固有名詞だ。それは私が勤めていた営業所であり、 私の上司が誰で、同僚が誰で、といったことは、 このメルマガを読んでいる人のほとんどは知らないだろう。 それを知らずに、辞書に書かれている営業所の説明から 営業所をイメージしたり、 自分が勤めている職場をイメージしたりして、 普通名詞の伝達は行われるが、 普通名詞の固有名詞的使用はそれを禁じる。 なぜなら読者が経験している営業所と 話者が経験している営業所はまったく別の物であるから。 たとえ同じ営業所に勤めていたとしても、 お互いの立場や感性や経験が違えば、私にとっての営業所は 人それぞれ違ってくるだろう。 私と百%同じ経験をしている人でなければ、 私の使う固有名詞の意味を理解できない。 そこで通常は全ての単語を普通名詞化するわけです。 コップという語は辞書に書かれているような意味での コップの意味でしか相手に伝わらないと理解し 辞書的な意味でコップという語を使う。 当時、同僚だった長谷川さんについても 「すごく仕事が出来て頼りになる人」と普通名詞化する。 それによって、長谷川さんを直接知らない聞き手にも 長谷川さんを知っているかのように感じさせることができる。 生の固有名詞が伝わらないなら、 固有名詞を普通名詞の束によって作られた文章に置き換えてしまう。 3論理学 以前、このメルマガで純粋理性批判について 分かりやすく解説しようとした時、 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/177gou.txt 論理学をもっと手軽に扱いやすくしようという意図があった。 論理学は伝達の道具として非常に重要で 会社や公の場で、自分の意見を発表し採用されたいとしたら 自分と対立する考え方の陣営に対しても、 私はこう思う、こうしたいと、情緒的に訴えるだけでなく ある程度の論理性が要求される。 批評や評論や論文を書く時にはもちろん、 ちょっとしたプレゼンテーションでも根拠は問われるし、 論理的だと思われる形式や文法は知っていて損はない。 民主主義の原則は多数決と話し合いで物を決めることにある。 多数決で勝てる時には情緒的な伝達を使い 多数決で勝てなくて、それでも自分の考えを通したい時には 論理的な話し合いを使うのが通常だ。 だからマイノリティは常に理屈っぽい。 サイレントマジョリティという言葉があるが、 多数決で勝てる陣営は黙ったまま話し合いに参加せず、 意見が出切った所で多数決を取ればいい。 論理は自分がマイノリティとして迫害されようとしている時 多数派と闘える数少ない武器だ。 その論理学について考えてみる。 4数学・科学・論理学 論理学(哲学・形而上学と言ってもいい)は、数学や科学と比較される。 三つとも常に正しいことが要求される。 常に正しいとはどういうことかというと、 百回やろうが千回やろうが常に同じ結果が出るという事だ。 数学なら「2+3」の答えは、計算間違いをしない限り、 常に同じ答が出る。 科学で言えば、水を電気分解すれば、常に水素と酸素に分かれる。 同じ条件で同じ実験をすれば常に同じ結果になる。 この再現性が科学と呼ばれる。(少なくともある時代まではそうであった) 計算式「2+3=5」が正しいのは、百回計算して 百回とも同じ答えだったからではない。 それでは百一回目が5になるとは限らない。 何回やっても同じ答えになるということは、計算する前から、 計算という経験以前に、先験的に「2+3=5」でなくてはいけない。 純粋理性批判の純粋とは先験的という意味であり、 経験以前に正しいことが証明されていることを要求する。 最も基本的な論理学の例を出すと 「青空は青い」という命題は先験的に正しい。 実際に青空を見上げてみるという経験以前に正しいことが証明できる。 青空という主語の概念の中に、 青いという意味が含まれているので、青空は常に青い。 論理学は経験以前の正しさを問題にする以上、 論理学が扱う単語の意味は、辞書的な意味に限定される。 上記1章でいうところの、固有名詞的な意味は、 経験から発生する以上、論理学の扱う対象外である。 つまり、論理的な言葉とはみなされない。 5大塚英志−笙野頼子の純文学論争 http://tinyurl.com/5j8r85 上記1990年代の論争参照。さわらぬ神にたたりなしで、 処世としては触れないのが一番で、 触れると両方のファンから叩かれるのだが、あえて触れてみる。 私が面白いと思ってのは、 両者(とその支持者達、という意味で、両陣営)の 単語に込める意味合いの違いだ。 現代思想 2007年3月特集:笙野頼子 P37中段 「女性の運動を勝手に誰かの図式に入れるのは好きはないです。 私は言説に居場所がないというのは悪いことじゃないと思っていて、」 同下段 「彼は女総体をという失礼なやり方ではあっても、 多様性があるということは分かっていて、 それを派閥や徒党の形で取り込まないで、 自分の孤高というスタンスできちんと見ていたし」 最初の引用は、女性の運動をマルクス主義とか労働運動とかに カテゴライズするなという話で、ある固有のコップを指して、 コップという普通名詞で呼ぶなという話です。 二つ目の引用で出てくる彼とは、江藤淳のことなのですが ここでも言われていることは、女の中にも多様性があるから 本来なら固有の個人を女という概念の中に入れて一般化するのは良くない。 けれども、女総体という形ではあっても、それは男総体とは別の物だと 分かっていた江藤淳はまだマシだと言っている。 女性の運動をマルクス主義やアナーキズムに分類することで 自分の派閥に入れるのではなく、どこにも分類されない孤高の江藤淳が 女全体をどこにも分類せずに、カテゴライズせず、レッテルも貼らず 普通名詞化することなく、固有の物として認識しようとした部分に関して 好意だけは持てるとしている。 論理学について言うとアリストテレスでもカントでも 分類・カテゴリーについてかなりの分量を割いていて 固有の存在を固有のまま扱えというのは、 論理学に対する全否定で、論理学に興味を持って接する身としては 苦しい部分である。 固有名詞を普通名詞化するのは、実は典型的な三段論法だ。 木棚環樹という固有の個人がいて、彼を日本人という普通名詞で呼ぼう。 日本人は、肌が黄色くて、出っ歯で、眼鏡を掛けてて、 首からカメラをぶら下げて、集団で行動し、エコノミックアニマルで、 バンザイや腹切りやカミカゼ・アタックをやって ちょんまげで、腰に日本刀を携帯し、黒帯で、 印籠を出すと土下座する。 だから、木棚もちょんまげに違いない。みたいなのが三段論法で、 カテゴライズ=普通名詞化の禁止は、三段論法の禁止なわけだ。 木棚という固有の個人を、普通名詞化するときに 日本人じゃなくて、男でも、人間でも、動物でも、生物でも、 オタクでも、ニートでも何でも良い。 ある固有の物を、売上げという数値に置き換えたり、 別の普通名詞に置き換えることを禁じる。 その上で、固有の物を固有のまま扱い考える。 同書p41下段 「まず個人攻撃や個人批判が大事だ」 同p36上段 「攻撃するときの基準点となるのは何かといえば、 俺、なんですよね。自己なんです。」 俺がコップと言えば、それは 辞書に書いてあるコップを指しているのではなく、 俺が経験したコップであり、俺にとってのコップであり、 俺の使うすべての普通名詞は固有名詞化する。 誰かが普通名詞の純文学をけなしていたとしよう。 その人は直接俺の悪口を言うつもりはなかったかも知れないが 俺にとって純文学とは俺の書いた純文学であり、俺の読んだ純文学であり 俺の経験した純文学をけなすという事は俺をけなしたも同然なわけだ。 逆に辞書に載っている意味での文学、 普通名詞の文学について語ろうとしたとき、 辞書さえ読めば、個別の文学を一切読んだことがなくても語れてしまう。 論理学に要求されるのは経験に先立つ先験的正しさであるからだ。 つまり、笙野頼子の著作を一切読むことなく、 文学者名鑑や作家辞典の笙野頼子の欄を読んだだけで、 笙野頼子について語るのが、固有名詞の普通名詞化だ。 http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/tamanoir/journal/200401.htm (上記HP1月10日より) 「斉藤氏は笙野氏が去年「水晶内制度」を上梓したことを知らないのか。 たぶん、知らないのであろう。知っていたとしても読んでいないか、 或いは読めなかったのであろう。或いは知っていて、読んで、 かつ読めたとしても、こんなものは無だと考えたのか (とすればその理由をきちんと説明していただきたいものだ−− 一応は評論家なのだから)、でなければ、これは最悪の場合だが、 個々の作品は文学に何の寄与もしないものだと考えているのであろう。」 辞書的な意味での文学や純文学をダメだと思っている人がいて 「水晶内制度」を読んだのかといっても、知らねぇーよって話だと思う。 「個々の作品は文学に何の寄与もしないものだと考えているのであろう。」 に到っては当たり前じゃんとしか思えない。だって、個々の作品によって 辞書に書かれている文学や純文学の定義が、 一年や二年で変わる訳ないじゃん。 評論家と小説家の言葉の使い方の違いがあると思う。 小説というと範囲が広いので、物語に言いかえてしまうが 物語の中に出てくる普通名詞は全て固有名詞だ。 物語の中に出てくるコップは、ある固有のコップであり、 コップという概念が机の上に置かれているわけではない。 最初に登場した時には、ただのコップだった物が、 第一話・第二話・第三話と話が進むにつれて、 ある固有性を持つようになる。 上記のように、八年前の営業所で使っていたコップで〜 といった種類のエピソードが 話が進むにつれてコップの上にいくつも積み重なって、 ある固有性を持ったコップになる。 その固有性を持った何か、例えば登場人物を ツンデレ・ネコ耳・メイド・ドジッコなどと一般化して分析するのが 論理の仕事で、ドラえもんのしずかちゃんも、北斗の拳のユリアも 同じヒロインというカテゴリーに入れて、個別の物語を 抽象化・同一化して論じるのが論理の仕事になる。 そして自分としては文学よりも論理学に興味を持ち 経験から来る固有名詞的な言葉使いよりも 辞書的で普通名詞的な言葉使いをする側にいるのだと思った。 6批判 松平耕一さんから「ロマン主義に演劇という意味はない」と 批判を受けた。 確かにwikiなどを見ても、辞書的にはそういう意味はないが 自然主義以前の職業作家は演劇と非常に結びついていて という話はしたが、いや、辞書にはそんなことは書いてないと言うわけだ。 上記でも書いているように、個々の単語の意味を厳密に辞書に一致させて 使用したいという立場を私は取っている以上、 辞書にない意味を付加するのは、ロマン主義という語の誤用になるわけだ。 「私の昨晩の夕食はカレーライスでした」 この文章の間違いを指摘できるだろうか。 主語は夕食で、動詞はbe動詞で、補語はカレーライスだ。 夕食=カレーライスになっているが、どの辞書で「夕食」をひいても 「カレーライス」とは書いていない。 一見、変なことを言ってるように見えるが ウィトゲンシュタインが論理哲学論考で言ってることは そういうことだ。 A=Aという同義反復以外の文章は無意味だという事でしょう。 論理学は新カント学派にしろ、論理実証主義にしろ、 理想言語の構築に行きがちで 全ての人が共有できるような個々の単語の定義を作って その定義を厳密に守った文章を作るという方向へ行きがちだ。 インターネットでいうところの「W3C」みたいな方向だ。 そしてそれを極限まで進めると、 A=Aという無意味な表現しか使用できなくなる。 単語の意味を辞書的な方向に求めても 経験的な(固有名詞的な)方向へ求めても言葉は伝わらない。 そういう実感を生々しく体験して、ノイローゼーになった。 という近況です。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□