■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】   号外       2008/1/27日発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1文学史 1440年頃 グーテンベルクによる活版印刷術の発明 1500年前後 ルターの宗教改革。プロテスタントの誕生 1550〜1600年前後 シェークスピアの活躍 1600年〜1750年 バロック 1600年前後 オペラ誕生 1750年〜1800年 古典主義。 1750年〜1850年前後 イギリスで産業革命 1800年前後 フランス革命&ナポレオン帝政 1800〜1910年 ロマン主義。 1833〜41 N.Y.で1セントのペニー・パイパー各紙が発刊される。 各国で新聞の大衆化が起こり、新聞が企業化、産業化する 1850年〜自然主義(文学)=国民学派(音楽) 1850年〜1890年イエローバック発行 1868年明治維新 参照HP 新聞の歴史 http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/newspaper.htm 褪色したページから、甦るイメージ―読み捨てられた書物の魅力― http://www1.parkcity.ne.jp/bibkid/page.html 文学史を見るときに、通常は文字の歴史を学校で習うので 活版印刷術以前の、手紙や日記のような手書きの、 もしくは木版の書籍まで込みでさかのぼられるのだが、 職業作家の歴史といったとき、 特に作家専業で食っている作家の歴史といった時は 活版印刷術の発明以降になってくる。 2自然主義の発見 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/179gou.txt の続きで         ロマン主義/自然主義            演劇/新聞 まんが・アニメ的リアリズム/自然主義的リアリズム  ラノベ・キャラクター小説/純文学 を見ていく。 日本の近代化は自然主義の輸入からスタートしている。 1800年〜1850年ロマン主義 1850年〜1900年自然主義 1868年明治維新 と見たときに、当時先端であった近代文学は自然主義文学で 日本の近代化とは、ロマン主義的文学(=江戸文学・中世文学)を捨てて そして今でも、自然主義文学=純文学、 ロマン主義文学=ラノベ・キャラクター小説 というイメージがある。 私は自然主義とロマン主義のどちらが良くて、 どちらがダメだとは言いたくない。 そこに価値判断は持ち込みたくないが、 純文学とキャラクター小説は同じものだとも言いたくない。 明らかに別物だという区別はあってしかるべきだと思う。 そもそもロマン主義とは大衆演劇からスタートしていて 劇団の一座には二枚目俳優や美人女優がいて、 彼らがヒーローやヒロインをやり、その脇には、 三枚目のコメディアンや敵役の悪者がいる。 善玉は一目見ただけで善玉と分かり 悪玉は一目見ただけで悪玉と分かる。 ウルトラマンや仮面ライダーや戦隊ヒーローの ぬいぐるみショーをイメージして欲しい。 ヒーローは出てきた地点でヒーローで 怪獣は出てきた地点で怪獣だ。 江戸期の歌舞伎のメイクも、出てきただけで 敵か味方か判別出来るように作られたものだ。 ところが、新井素子がある場所で、 たぶん「まるまる新井素子」 http://moto-ken.cool.ne.jp/works/magazine/senmon/marumaru.html で、だったと思うが、興味深いことを書いている。 ファンの子が、ファンレターで小説のアイデアを送ってきてくれる。 読んでいくと途中で「そこに悪者がいた」と書いてある。 すごいですよね。何も悪いことをしてないのに、 登場しただけで悪者なんですよ。 何もしてないのに何故その人が悪者だって、分かるのでしょう。 背中に「悪者」と書いた紙が貼ってあるのかな。 たぶんその子の中では「悪者」という人がいるんでしょうね。 手元に本はないが、確かそんな感じの内容だった。 通常、「まんが・アニメ的リアリズム」の草分けとされる新井素子が 自然主義的な文学観で発言していることに驚いたのですが、 自然主義とロマン主義の違いを示すのに適したエピソードだと思います。 ロマン主義の中にこの手のモチーフを使った物語として フランケンシュタイン(小説)、美女と野獣(ミュージカル)、 キングコング(映画)などがある。 フランケンシュタイン・キングコングは、途中までホラーの手法で 話が進み、最後に女性と怪獣との悲恋として話を終える。 日本近代文学の起源で出てくるエピソードとして 江戸文学の情景描写は、名所・旧跡を回って、 その土地にまつわる伝説や、 過去にその場所をモチーフとして描かれた文学に思いを馳せるが 近代化によって名所・旧跡でない、名もない場所のありのままの姿を ありのままに描写する写生文が出てくる。 名もない土地で名もない人に出会い、ありのままを描写する。 江戸文学であれば、その土地に関する文学的エピソードと その土地を結び付けて感動したりするのが、 その土地を漢文学に出てくる名所の地形になぞらえることもなく 文学的データベースとのやり取りもなく、目の前の土地を ありのまま描写することで写生文=前期自然主義は成立する。 自然主義は新聞と密接に関係している。 元々の新聞の理想的あり方は、政府が悪者を逮捕し 「彼は悪者です」と宣言した時に、 本当に悪者であるのか、本当に悪者であったのかを取材し 検証する役割を持つ。 当然、彼の周囲の人間にインタビューをし、生い立ちを調べ 彼に同情の余地がないかを検証する。 さらに、その悪者の言い分を獄中手記として載せ 政府側から見た事件と、悪者側から見た事件を併記し 政府見解を相対化する。 この手の自然主義はプロレタリア文学やマルクス主義と 親和性が高くて「貧困が犯罪を生む」とか、 そういうテーマを掲げる。 大衆演劇が勧善懲悪なのに対し 自然主義的ジャーナリズムは、極力、先入観を排し 見聞きしたことを、ありのまま描こうとする。 面白おかしく誰かを悪者に仕立て上げると 実際にその誰かが存在し、彼の人生に被害を与えるからだ。 3新聞小説・大衆小説の物理的起源 自然主義/ロマン主義   新聞/ペーパーバック  純文学/大衆文学 あまり単純化しすぎるのは危険なのだが便宜的に 純文学=自然主義=新聞、 大衆文学=ロマン主義=ペーパーバックとしたとき、 純文学という概念の起源を探るのは困難だが、 新聞やペーパーバックの起源は物理的に探ることが可能だ。 1830年代ペニー・ドレッドフル(三文小説)誕生 1833〜41 N.Y.で1セントのペニー・パイパー各紙が発刊される。 各国で新聞の大衆化が起こり、新聞が企業化、産業化する 1840年代末にラウトリッジ(Routledge)社が     「鉄道文庫(Railway Library)」シリーズの刊行 1850年〜1890年イエローバック発行 1860年 W.H.スミス社駅の売店で貸本業を開始 1868年明治維新 参照HP 新聞の歴史 http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/newspaper.htm 褪色したページから、甦るイメージ―読み捨てられた書物の魅力― http://www1.parkcity.ne.jp/bibkid/page.html 1830年代に小説も新聞も一セント(=一ペニー)で販売された。 絵は木口木版 http://nekocicci.exblog.jp/4412660/ が使用され2〜4色で印刷された。 「代表的な作品には、『吸血鬼ヴァーニイ(Varney the Vampire)』 『スウィーニイ・トッド(Sweeney Todd)』」 「ペニー・ドレッドフルは、中産階級の人々からは『悪書』 として強い批判を浴びることになったが、 下層階級の人々には非常に人気があり、よく読まれていた。 しかし、大衆雑誌の発展によって、大人の読者は ペニー・ドレッドフルから徐々に離れて行き、1860年代以降は、 少年向けの読み物に変身し、恐怖・流血といった側面は薄まって、 冒険小説が主流になっていく。」 この少年向け読み物雑誌の流れの中に、 「少年倶楽部」(1936年から怪人二十面相を連載)もあると思う。 対する純文学の流れを見ると、 イギリスの国民作家ディケンズをwikiで見ると http://tinyurl.com/33v58y 1833年「マンスリー・マガジン」誌に「ボズのスケッチ」が掲載される。 1834年「モーニング・クロニクル」紙の報道記者となる。 1836年「ボズのスケッチ集」出版される。 とある。ゾラが自然主義を提唱したのが1880年「実験小説論」で http://www.fujiwara-shoten.co.jp/zola/zola_bio.htm それよりずいぶん早くなるが、 マンスリーマガジンというのが 左翼系のユートピア思想を提唱した新聞で 「スケッチ=写生文」の概念が既に出ている。 岩波から出ている「ボズのスケッチ集」は小説篇しか載ってないが その後書きを見てれば分かるように、 翻訳されていない情景篇が一番多く書かれている。 物語を描くのではなく、情景描写をするという自然主義的条件を 満たした形になっている。 世界文学の歴史でいうと、1830年代に大衆文学と 純文学というか高級文学というか、そういうのが 分かれたのではないかと思う。 それは印刷技術の発達により、新聞・書籍が 商業化・大量消費財化したこと。 鉄道網の発達によって、 全国一律で郵便・雑誌・新聞が届くようになったこと。 鉄道網の発達によって、乗車中に本を読む需要が生まれたこと。 などが影響している。 くだらない事を書くと、新幹線の性能が良くなって、 東京−大阪間の時間が短くなると 駅弁の売上げが落ちるというデータがある。 日本全体の書籍の売上高は、日本中の全書店よりも 日本中の全キヨスクの方が、大きいという話や、 自動車通勤が増えると本の売上げが落ちるという話も込みで 興味深い。 4「12ウォーターズ・マガジン」 ベンズカフェのオープンマイク初代司会者の佐藤由美子さんが 副編集長の雑誌「12ウォーターズ・マガジン」 http://d.hatena.ne.jp/kidana/20080119 を古本屋で手に入れました。 欲しい方がいらしたらミクシーメールか何かで 申し出てもらえれば差し上げます。 この雑誌を見て思ったのは、想定読者層が女性で、ビジネスとして 採算を合わせることは初めっから考えてなくて、 身近な日常雑記を描かれているなぁということです。 雑誌でいうと「すばる」か「小説すばる」みたいな感じです。 「AERA」のような働く女性は想定読者に入れていません。 「純文学とは何か」 http://d.hatena.ne.jp/kidana/20071213 みたいなことを考えた時に 「ジャンル小説じゃないもの」が芸術的側面から言えば 一番正しい定義だと思います。 では、ジャンル小説とは何か?となるわけですが、 ジャンルというのは物語を成り立たせるためのある一定の決まりごとです。 怪獣映画だと怪獣が出てくる、探偵小説だと名探偵が出てくる、 SFだとタイムマシンや巨大ロボットや宇宙船が出てくる。 ジャンルはフィクションを成り立たせるための装置で ジャンル(=装置)がないというのは、 現代の日常の常識と照らし合わせて、不自然でないものということです。 主人公が毎回毎回殺人事件に巻き込まれたり、 魔法少女や巨大ロボットや水戸黄門や桜吹雪が出てくるのは 現在の日常の常識と照らし合わせて不自然ですが、 それを不自然ではなくさせる装置としてジャンルがある。 時代劇でもSFでもミステリーでもホラーでもラブストーリーでもない 純文学というのは、 ノンジャンルだから何を書いても良いというのではなく、 日常を描いた現代劇だと解釈すると分かりやすい。 変な話、漫画でいうとサザエさんやちびまるこちゃん、 ドラマでいうと渡る世間は鬼ばかり、なんかが純文学なんじゃねぇーの とか思うわけです。 ネット小説のHPでチャットをしていたときに誰かが言って なるほどと思ったのですが、 人は若い時は、学園ラブコメを書く、 少し大人になると、ミステリーを書く さらに歳を取ると、時代小説を書く。 中学生や高校生の場合、自分達の日常は 学校を中心にしているので学園物を書きます。 社会に出て、就職すると会社の中で色んなルールがあり、 その業種・業界内のルールが色々とあり、 そのルールを覚えて身につけるだけで、 最初の数年は過ぎていくのですが 色んなルール・制約の中から正解を選び取っていこうとする状況は ミステリーと通じるものがあります。 これがもう少し歳をとって、定年まであと五年・十年ぐらいになると 少し現役感がなくなって、昔を懐かしむようになり 時代小説を読むようになる。 「俺達のやり方を、今の若い奴に言ってもわかんないんだよ」 とか言いたい状況になる。 これらの小説は主として通勤・通学電車の中で読まれるわけです。 対して、専業主婦向けの小説というのもある。専業主婦という言い方は イメージが良いのか悪いのか分かりませんが、 妊娠6ヶ月ぐらいから、出産一年未満の乳児の育児期に それまで会社で働いていようが、いまいが出産という仕事に向かい合う。 これが初出産とかになると、不安とか迷いとかつわりとか、色々あって 「12ウォーター・マガジン」とか「すばる」「小説すばる」は その時期の女性を想定読者にしているように私には見える。 いまのスピリチュアルとかホットヨガとかオーラの泉とか 昔でいうニューエイジとか全部そことつながっている気がします。 年齢的には推理小説の想定読者と同じぐらいなのですが 推理小説というのは、基本的に問いとヒントがあって、 理性で正しく考えれば、真犯人にたどりつけるはずだという 理性や論理への信頼感があります。 これは会社内での新人の仕事と類似します。 上司も同僚も顧客も取引先も、色んな人格を持っていて、 好き嫌いもあればクセもあるが、最終的には 論理が通じる相手だという前提がある。 初出産を迎える時の妊婦の体は、 自分の体でも他人(胎児)の体でもない不安定な状況に置かれて 女性ホルモンの分泌が不安定になってつわりが起きたり 味覚や嗅覚がそれまでと変わったりします。 親と同居していない核家族状態で、出産した場合、 ご近所づきあいもない新興マンションで、夫は仕事で会社に寝泊りする中 泣きわめく乳児と二人っきりで24時間一緒にいると、 乳児に対して、論理的に話せば分かるとか、 理性的に考えれば乳児が泣きわめく原因が特定できて、 解決がなされるはずだとか、 そういう論理や理性に対する信頼はなくなって むしろ乳児と通じ合うのは情緒だったり感覚だったりして、 情緒や感覚が研ぎ澄まされていく。 すばる以外の純文学雑誌で描かれる日常の多くは、会社や学校であり、 論理が先行するのですが、女性向の純文学になると、 妊娠・出産・育児が中心に描かれるようになる。 すばるが純文雑誌の中で、大衆文学雑誌の小説すばると 区別が付きにくいとされるのは、妊娠出産という日常が、 ジャンル小説の持つジャンルと同じぐらい、 非論理的で非日常的なんですね。 「胎児の考えていることが私には分かる」と妊婦が言うとき、 それはテレパシーを題材にしたSF小説なのか、 日常をありのままに描いた純文学なのか、線引きするのは難しい。 流産した女性が、流産した子の声が聞こえると言うとき、 それは妊娠によってホルモンのバランスが不安定になっているところへ 精神的ショックも重なり、幻聴を聞いたのだろうと解釈するのか、 いやいや、流産した子が天国からお母さんへ メッセージを届けてくれたのだよと、解釈するのか この小説はホラー小説なんだなと解釈するのか、 正直、難しい。 妊娠や出産と直接関係ないように見えるオシャレカフェや オシャレイラストやお茶会やワークショップや オープンマイクやSLAMも私には全部同じ物に見える。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□