■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第177号    2007/11/14発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1近況 えっと、11月11日日曜日の第六回文学フリマに Post Office名義で出店しました。松尾芭蕉の奥の細道の ラップをCDにして出すと、告知を打ったのですが、結果、 作れませんでした(泣。ごめんなさい。 2純粋理性批判 カントの純粋理性批判について書きたい。 第二次大戦前後に国際的な哲学の会議があって カント学派・新カント学派含めて、カントの名前が付く学派が 四つもあって、非常に力を持っていたらしい。 その中でも一番力を持っていたのが新カント学派で 数で勝る新カント学派相手に実存主義のハイデガーが 一人戦っていたのが、印象的で、当時はハイデガーに魅了されたと レヴィナスが言っている。 カントが亡くなったのは1804年。上記の話が第一次大戦と 第二次大戦の間だとすると1918年〜1939年辺りだとすると 死後百年たってもそれだけの力を持っているのがカントで 日本でも大正教養主義時代には デカルト・カント・ショウペンハウエルの頭文字を取って 「デカンショ」などと呼ばれ、非常に影響力を持っていた。 このカントの純粋理性批判の読解をメルマガでやりたい。 と言っても岩波版の日本語訳を読んで、 それを分かりやすく解説というだけだが、 これを読めば、専門家から論理的だとみなされる文章が書ける。 ぐらいのメリットが読んでる人にあれば良いなぁと思う。 純粋理性批判は、当時対立していたイギリス経験論と大陸合理論を 結び付けてより高度な形で昇華した著作だとされている。 イギリス経験論=懐疑派哲学=ヒューム 大陸合理論=独断論=スコラ哲学 大陸というのはヨーロッパ大陸のことで、 主としてドイツとフランスですね。 合理論は、前回のメルマガで書いたピタゴラスの考え方です。 惑星の逆行をどう考えるかで、 物理には慣性の法則があって、壁に当ったわけでもないのに 動いている物体が、逆方向へ突如動き出すことはありえない。 じゃあ、何故惑星が逆行するのかと考えると 地球が太陽の周りを回っているから、そう見えると考えるのが 合理的だというのが合理論だ。 運動場の周りを走っていて、自分より速いランナーが 後ろから自分を追い越して、前に抜いていく。 そのランナーが運動場の真ん中をはさんで、 向こう側を走っている時、自分から見ると そのランナーは前から後ろに逆走しているように見える。 惑星が逆行をしているように見える理由を ピタゴラスはそう考えた。 それに対して、素朴な経験論で言うと、地面が動くわけがないと 経験上誰もが思う。 この経験論と合理論の対立をカントは結び付けてより高度な 論に鍛え上げたとされています。 ピタゴラスの例だけ見ると合理論が正しくて 経験論が間違っているように見えるのですが そうじゃない例も多くあります。 初期ソクラテスはピタゴラスの影響で 数学的な理性の素晴らしさを説き、 錯覚に惑わされやすい感性を否定します。 理性(概念)は感性(経験)より上位にある。 ソクラテスの死後プラトニズムとして、 イデア(概念)中心の思考が肥大してきます。 イデアとかイデオロギーとか言い出すとなんとなく 胡散臭いでしょう(笑。 中世スコラ哲学で、神とはどのような存在かとか 天国とはどのようなところかとか 天使は何人いるのかとか そういうことを議論するようになるのですが それらの問いは経験的に確認することが出来ない物です。 経験不可能な概念について論じると、 その概念を主語に、概念の定義を述語に持ってきて 「A is B」「A=B」のような独断をし始めるわけです。 「神とは何か?」という問いは経験的に確認することが出来ない以上 「神とは創造主であり、世界を作った者だ」といった定義を 各自バラバラに行って、百人いれば百通りの定義を発生させて 皆好き勝手なことを言って、正しい唯一の答えを 誰も決定できない状態になる。 ヒュームはそれを批判して「スコラ哲学の書を一冊取り出して 数学に関する記述があるか見てみろ、もしなければ 反復可能性のある実験に関する記述があるか見てみろ、 それもなければ、その本は読む価値がないから捨ててしまえ」 と言うわけです。 反復可能性のある実験というのは、水を電気分解すれば 水素と酸素に分かれるとかそういう奴ですね。 ある一定の条件の下で実験すれば、 毎回同じ実験結果が得られる種類の物理学の実験を指します。 数学と物理学以外の学問は無意味だというのが ヒュームの主張で、 中世的なスコラ哲学を否定する近代的な思考として 非常に力を持っていた。 数学と物理学以外の学問、 国語や社会や文学や法学や歴史学や政治学といった 文系の学問全部を無価値だと断言する言葉は非常に強いわけです。 だってこれらの学問には、誰が何度考えても毎回たどり着く 唯一の正しい答えというのがないわけです。 カントが序文で書いているのは、こういう話です。 数学は何度やっても同じ答えにたどり着く。 2+3は何度計算しても5になる。 ある思考の正しさを証明するためには百回やって 百回同じ答えになるだけではダメで、それだと 百一回目は違う答えになるかも知れないから 完全ではない。完全に正しいためには 常に同じ結果が出なくてはいけない。 2+3が何べん計算しても同じ答えになるのは 実際に計算するという経験以前から分かっていることだ。 2+3が百回計算しても同じ答えになることは 百回目の計算をする前から分かっていることだ。 経験以前の状態のことを先験的という。 先験的に正しい物だけが正しいといえる。 先験的に正しい思考だけで哲学を組み立てることが出来れば 正しい哲学になるし、そのような物をこれから組み立てていく。 こういう感じのことをカントは序文とあとがきで書いていて そこだけ読むとすごくテンションが上がる。 この序文の内容はフッサールやウィトゲンシュタインも ほぼ同じことを書いている。 哲学書の広告文としては最高に良く出来た文章だと思う。 先験的=純粋=ア・プリオリ=超越論的 カントは上記四つの単語をほぼ同じ意味で使う。 純粋理性批判第一版の目次を見ると 緒言 T先験的原理論   第一部門 先験的感性論 第一節 空間について 第二節 時間について   第二部門 先験的論理学 第一部 先験的分析論 第二部 先験的弁証論 U先験的方法論 となっている。 緒言というのは、上で書いた序文の事で、内容は説明した通りです。 第一部門の先験的感性論は、デカルト座標について書いてます。 第二部門の先験的論理学第一部先験的分析論は アリストテレスが書いた「オルガノン(道具)」 という論理学について書いています。 第二部 先験的弁証論はスコラ哲学に対する批判を書いています。 Uの先験的方法論はページ数も少なく、 緒言とほぼ同じような内容を書いています。 まとめると 先験的感性論=デカルト=感性 先験的分析論=アリストテレス=悟性 先験的弁証論=スコラ哲学批判=ヒューム=理性 という内容です。 じゃあ、数学のように先験的に正しい思考だけで どうやって哲学を成り立たせるのか。 経験以前から存在するものは先験的に正しい。 y=x+1という正比例や y=4/xという反比例や y=x二乗+3という二次方程式の答えを デカルト座標上に書くとき、 様々な線を書くことが出来るが、そのような方程式=経験以前に デカルト座標は存在している。 x軸とy軸というデカルト座標は経験以前に、先験的に存在している。 なぜなら、私たちが時間や空間を認識する時に、 基準となるデカルト座標抜きに認識することは不可能だからだ。 という物凄く当たり前のことを言ってます。 本文中にデカルト座標などという言葉は出てこないのですが あきらかにデカルト座標のことを言ってます。 デカルト座標を言い換えると定規とか方眼紙とかでも良いですが 目盛りの付いた直線的な物で時間や空間を測るイメージです。 序文で上がったテンションが、感性論で、えらく当たり前の話から 始めるなぁと、少し平熱気味になり、 分析論でテンションが急激に落ちます。 (つづく) ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□