■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第176号    2007/11/4発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1近況 えっと、11月11日日曜日の第六回文学フリマに Post Office名義で出店します。松尾芭蕉の奥の細道の ラップをCDにして出すと、告知を打ったのですが、今作っている最中で まったく何も出来てません(泣。 2芸術は自己表現ではない 大学受験とか中間テストや期末テストや就職試験は自己表現ではないが 芸術とか純文学とかそういうのは、自己表現だと思っている人がいる。 でも俺は、昔から自己表現だと思ったことがない。 例えば、綿矢りさがインストールで新人賞を取った時、 二〇〇一年度第三八回文藝賞応募総数1592編の中から選ばれて 一作だけが受賞した。1592分の1という競争倍率を勝ち抜いている。 大学受験の受験戦争がどうのこうのと言っても、競争率は精々何十倍。 百倍に届かない倍率でしかないし、偏差値60が全体の上位10%、 偏差値70が上位2%だとして(母体数によってこの数値は変動するが 私が受験した時はこの数字だった)、 偏差値70は50人に一人という競争倍率でしかない。 文芸新人賞の競争率の方が、大学入試の競争率の何倍も厳しいわけ。 中間テストや期末テストで「先生が正しいと思う答ではなく 私が正しいと思う答えを自己表現したから、私は正しい。」 という人はいないと思う。 私がどう思うかではなく、先生が正しいと思う答えを書くのが 中間テストだし、期末テストだ。 生徒が表現した解答用紙に、丸バツをつける権力を持っているのは 先生側(もっと言うと文部省とかになるわけですが)で、 生徒側ではない。 しかし、その競争倍率を見る限り、純文学の新人賞の方が 学期末試験よりも、競争率が高く、選考する側の権力が学校のテストより より強いわけ。 だって、気に食わない回答があれば、 もっと他の人から選ぶことが出来るわけだから、 選考する側にとって、倍率は高ければ高いほど選択肢が多く 権力も増す。 俺はその権力の起源をずっと問うてきた。 創作をする側を選別する批評家がいて、評論があって、 その批評や評論の根底にはカント・フッサール・ウィトゲンシュタイン などの哲学がある。 だから俺は哲学史について書きたい。 最近周囲から言われるのは「自分は創作活動をしないくせに 哲学だの何だのを武器に権力を振りかざそうとする」という奴で どうも、私の意図を誤読している批判だ。 文学でも純文学でも現代文学でも良いが、 そこにある種の権威なり権力なりがあったとして、 その起源を問い、種明かしをしようとすることと 自分が権威や権力になろうとすることは、別の行為だ。 文学や芸術を選別するする側の人間は、哲学的な概念を道具として 日常的に使用する人たちだ。 もし、このメルマガの読者が、創作する側の人間で、かつ 哲学的な概念に不慣れな人間であったとして、 このメルマガを通して、 哲学を道具として簡単に使用できるようになれれば 批評や評論の読み書きだって出来るようになるだろうし、 かなりお得だと思う。 そういったわけで初心者向けの哲学解説的な物を 書いてみる。初心者向け過ぎて詰まらないと言われれば その時はその時でまた、考える。 まあ、そんな感じです。 3大雑把な哲学史 古代ギリシャ ・ ピタゴラス ・ プラトン=ソクラテス ・ アリストテレス 中世ローマ ・ アウグスティヌス 近代 ・ デカルト ・ カント ・ ヘーゲル 現代(ヘーゲル以後) ・ 実存主義 (キルケゴール・ヤースパーツ・ハイデガー・サルトル) ・ 構造主義 (レヴィ=ストロース・ジャック=ラカン  ルイ=アルチュセール・ロラン=バルト) まんまオルガン学派(小坂修平・竹田青嗣)のコピーだけど まあ、良い。今の学生さんの流行りは分析哲学で、 後期ウィトゲンシュタインらしいが、まあ、それも良い。 古代ギリシャから説明すると、何故この三人だけなのかというと 大学を作ったのがこの三人だけだったからだ。 プラトンとソクラテスは別の人物だが、 ソクラテスは文字が書けなかったため、ソクラテスの著作は プラトンの口述筆記でしか残っていない。 二人で一人と考えてまあ良いだろう。 ピタゴラスはこの中で一番古く紀元前の人だが ピタゴラス学派が13世紀ほどまで残っている。 ピタゴラスが書いたと断定できる著作は残ってないが、 ピタゴラス学派の著作は今でも残っている。 彼は学問を四つに分けた。数学と幾何学と天文学と音楽だ。 数学と幾何学は、いわゆる数学で、天文学と音楽はいわゆる物理学だ。 琴の弦の長さを、1:2:3にするときれいな和音になる。 下記の正三角形を三つ重ねた画像を見て欲しい。        ・       ・ ・      ・ ・ ・     ・ ・ ・ ・ 左右の斜めの辺を弦を引っ張る枠だとして、 一番上の小さな三角形の底辺に弦を張ると一辺分の長さの弦になる。        ・       ・ ・  一番上の頂点から二辺目の三角形の底辺に二本目の弦を張ると 二辺の長さの弦が張れる。        ・       ・ ・      ・ ・ ・ 一番大きな三角形の底辺に三つ目の弦を張ると 三辺の長さの弦が張れる。 この三つの弦を同時に鳴らすと和音になる。 だから正三角形は聖なる形だ。 という、理論で、音楽と言っているが、 空気の振動という物理学の要素や 三角形という幾何学の要素などが入ってる。 ピタゴラスが三角形を聖なる形としたのはエジプトの ピラミッド信仰から来ているとか、 ユダヤ教のダビデの星から来ているとか、色んな説がある。 天文学も同じで、地球を中心に星の動きを見ると 金星などの惑星が、ときどき逆行することがある。 東から西でなく、西から東に動くことがある。 トラック走をイメージして欲しい。 自分が地球だとして、トラックの中心に太陽があり、 その周りを走っている。 自分よりも速いランナーが、後ろから自分を追い越して前に抜いていく。 そのランナーを仮に金星だとしよう。 抜いていったランナーがコーナーで曲がって、 自分の対角線上を走っている時、ランナーは前に走っているが、 自分の位置からはそのランナーが後ろに走っているように見える。 地球が動かないという説では惑星の逆行を説明できないが 地動説では惑星の逆行を説明しやすい。 人間の体験や実感からは地動説は支持しがたい。 地面が動いていたら、地面の上に立つことすら難しいはずだ。 でも、ピタゴラスは経験上の実感よりも、数字上の計算を優先させた。 地面が動くわけがないという素朴な経験論と 計算上、そう考えた方が合理的だという合理論の対立は、 このあと何度も出てくる。 プラトン=ソクラテスも初期の頃はピタゴラスの影響が強く 数学重視であったが、途中から政治学や法学や倫理学や経済学といった 文系の学問の基礎を作る。 アリストテレスは世界で初めて図書館を造った人だと言われている。 本を集めて収集・保存し、分類した人だ。 動物・植物・鉱物の絵を書き、博物学を作った。 写真がなかった時代に植物の種類を集めて分類するには 自分で写実的な絵を描き、個々の植物の違いを絵と言葉で説明し 体系的に分類する。博物学の人だ。 小坂修平のイラスト西洋思想史とか見ると 哲学者の資質を大きく二つに分けている。 ・個の論理を掘り下げていく論理学者タイプ ・ 全体を広く浅く収集する博物学者・哲学史家タイプ の二つだ。 個を掘り下げる論理学の側にカントやウィトゲンシュタイン。 博物学の側にアリストテレスとヘーゲル。 自分の思想を言葉で語る思弁哲学はその間に入る。 アリストテレスもヘーゲルも論理学に関する本を書いているが、 実際に本を読むとカントとヘーゲルの差は実感としてよく分かると思う。 専門家向けに難しい事を狭く深く書いているのがカントで 大衆向けに分かりやすく要点だけを書いているのがヘーゲルだ。 オルガンの人達は、あきらかに自分たちを哲学史家・啓蒙家側に入れて 批評空間・柄谷行人を論理学者・専門家側に入れて、 ある種の住み分けをしてきたと思う。 (アリストテレス・ヘーゲル・小坂修平は  絵やイラストを文章に混ぜる。) でも、浅田彰はオルガンから見て専門家だが 本人の自己定義的には思想史家側で、 オルガンが領域侵犯を犯しているように見えたのではないかと 私は勝手に思う。 話を戻すと、古代ギリシャの地点で、理系の専門家と、文系の専門家と 博物学者という三つが出揃う。 中世というのは、キリスト教支配が強くて、 学問が発達しなかったことになっている。 実際には、近代のデカルトやカントやヘーゲルが書いているようなことは 中世のスコラ哲学で既に言われていたことで、 近代哲学は、スコラ哲学の遺産を引き継ぎながら、 さも自分独自の発明のように振舞うことで、 脚光を浴びているという批判はあって、 これも、調べ出すと奥が深い。 デカルト・カント・ヘーゲルが言ってることを 彼らより早くスコラ哲学の人達が言っていたというのは事実だ。 ところが、中世と近代の間に活版印刷術の発明があって、 本を出版して世間に著作を流通させ、世に影響を与えたのは 近代の哲学者の人たちだ。中世のスコラ哲学は、 学校でやった議論の口述筆記や卒論や授業中に取ったノートに 近代哲学につながるようなアイデアは書いてあったが、 それは世間に流通しないノートや講義録や卒論であったりする。 一例をあげると、エックハルトという哲学者が中世にいて ドイツ神秘主義叢書の「ドイツ語説教集」をみると ヘーゲル哲学の中核は ヘーゲルがエックハルトの著作から得たアイデアであったりする。 じゃあ、エックハルトがオリジナルで、ヘーゲルはコピーかというと そうとも言えない。 エックハルトは当時、文化的に途上国であったドイツから 文化的に先進国であったフランスの一流大学を出て、 教会権力の中核で生涯を過ごした超エリートだったのですが 晩年、権力の座から降りて、民衆の中に入り、当時の教会の考えとは 相容れないオリジナルな説教をして、死後、教会を破門になり、 教会の公式文書から抹消された人物なわけです。 上記のドイツ語説教集は、晩年の説教を集めた物で、 当時の社会情勢では書籍として出版することは不可能な内容であるし エックハルトの死後、教会から破門されて、エックハルトの著作は 公式にはすべて抹消されたわけです。 その検閲をかいくぐって残ってきた説教ですが、 体系的な思想の形式になっていない。 単純に文字数の話をすると、カントの純粋理性批判は、 岩波版で上中下の3巻になる。解説や索引抜きでも2巻。 通常、一冊が四百字詰め原稿用紙四百枚だとして、少なく見積もっても 八百枚ぐらいは書いている。 ページ数にして3巻で千ページ以上ある。 エックハルトの説教は一回の説教がページにして2ページとかだからね。 道を歩いている民衆に向けて、エックハルトが語りかけて 通行人が足を止めて聞ける時間は精々5分ほどだと思うんだ。 四百字詰め原稿用紙一枚を朗読するのに一分だとして、 エックハルトの説教は一回につき原稿用紙5枚とか10枚とかで カントやヘーゲルは八百枚とか千枚とかで、文字数が百倍とか違うと 情報の質自体が変わってくる。エックハルトは単発のアイデアだけで それを著作として体系化したのが「ヘーゲル!」みたいになる。 教会権力がある種の検閲をしていた中世において オリジナルな哲学は著作じゃなくて、ノートとか口述筆記とか そういうのになってしまうし、体系的な著作としては 文字数が圧倒的に少ないし、同時代の社会に対する影響力も持ててない。 タイムマシンのアイデアをH・G・ウェルズよりも先に しゃべった子供がいたとして、その子の話を 誰も記述しなかったし、誰も記録に残さなかったし、 社会的な影響も与えなかったとして、その子を 「タイムマシンというアイデアを最初に思いついた人」 と呼べるかどうかという問題がそこに生まれてくる。 岩波文庫版の「エックハルト説教集」を通販で買って後悔したのだが こちらは晩年の説教ではなく、 エックハルトが教会権力の中枢にいた時代の物で 普通に聖書を朗読している物の口述筆記だ。 こちらのエックハルトは哲学的な興味で読んでもまったく面白くない。 同じエックハルト説教集でも、 哲学的に意味のある説教だけを集めた説教集と キリスト教的に正しい説教だけを集めた説教集があり 編者の意図によって、内容はまったく異なる。 古代ギリシャ哲学とはアリストテレスが集めた本を、 アリストテレスが分類し、アリストテレスが編纂した哲学だ。 近代哲学とはヘーゲルが集めた本を、 ヘーゲルが分類し、ヘーゲルが編纂した哲学だ。 中世スコラ哲学は、カトリック教会が編纂したものだ。 中世に良い哲学者が生まれなかったとは思わないが、 スコラ哲学の編纂が、哲学的に無意味な形式でなされているとは思う。 中世に教会から評価され、かついま哲学的に見ても意味のある人と言うと アウグスティヌスになる。 アウグスティヌス=ベルクソン=ドゥルーズという 時間論を扱う哲学の流れがある。 時計や太陽の動きで示される客観的な時間は偽物の時間で 楽しい時間はあっという間に過ぎて、早く時間が過ぎて欲しい時には 中々時間が経たないという主観的な時間が正しい時間だというのが 主な主張だ。 過去とは何かと言ったときに、客観的な過去はここに存在していない。 つまり、過去は存在しない。 未来は何かと言ったときに、客観的な未来はここに存在していない。 つまり、未来は存在しない。 存在しない過去と存在しない未来の接点である現在も存在しない。 では何が存在するのか?過去ではなく主観的な記憶だ。 過去とは記憶である。 そして、記憶の累積から生まれる推論がこそが未来だ。 コインを投げて、表が出るか裏が出るかあてるゲームがある。 表が○、裏が●として左から右に ○●●○●●○●●○●の順番で出たとしよう。 次に出るのは●だと推論する・期待するのが未来だ。 過去とは主観的な記憶であり、未来とは主観的な推論だ。 というのが、哲学における一般的な時間論だ。 これを一番最初に言ったのがアウグスティヌスだ。 近代は、デカルトがデカルト座標を発明する。 x軸とy軸が十字に交わる座標で、 正比例や反比例などを描く時に使う。 デカルトが数学に新しい発見を生み出し、 カントは論理学を生み出し、ヘーゲルは哲学史を編纂する。 古代ギリシャのプラトン=ソクラテスを論理学の側に入れてしまえば             古代/近代 数学       ピタゴラス/デカルト 論理学 プラトン=ソクラテス/カント 哲学史    アリストテレス/ヘーゲル という感じになる。 新しい数学から新しい論理学が生まれ、 新しい論理学から新しい思弁哲学が生まれ、 新しい思弁哲学を哲学史家が編纂するという流れはあると思う。 数学が論理学にどういう影響を与えているのかは 柄谷行人が「言語・数・貨幣」で書いています。 哲学と数学の結びつきは、ソーカルの「知の欺瞞」以降 評判が悪いですが、 この関係はそんなに簡単に切れるものだとも思えません。 ソーカルの批判の対象になるのは、数学の専門家でない者が 自らの論文を権威付けするために、 無意味な数式を引用するタイプの物ですが、 フッサールやホワイトヘッドのように数学者から哲学者になるタイプや マッハのように物理学者(マッハ自身は発明家・エンジニアだと言う)が 哲学者として認知される、哲学において影響を与えることが 隣接領域においてはあるわけです。 4エックハルト ドイツ神秘主義叢書は当時の教会から破門された人達のシリーズだが 何故破門されたのかは疑問だった。 変な話、イエス・キリストは8月生まれだとかいう話があって キリスト教を布教する時に、異教徒の地に行って、 地元のお祭りが12月25日にあって、そのお祭りに便乗して キリスト教を広めるために12月25日をキリストの誕生日にしたとか そういう話もあるんだ。 キリスト教なんだけど、キリストの誕生日を変更するぐらいじゃ 破門されないわけ。布教目的でキリスト教のお祭りの日ではない 異教徒のお祭りの日を、キリスト教のお祭りの日に刷りかえるとか やっても全然OKなわけ。 そんな寛容な宗教において何をしたら破門になるのか。 エックハルトの説教で破門の対象になった部分は ヘーゲルが感銘を受けた部分と一致する。 世界を認識する時に、人間は不完全な生き物だから 客観的に百%正確に認識することは不可能で、 それは神の領域だ。 しかし、正確に認識する努力をすれば、 見る者と見られる物が限りなく一致し、 世界と世界を写し取る私が一致する神の領域になる。 みたいなことが書いてある部分が問題となった箇所だ。 普通に考えると、私が神になるという部分がまずいと思うじゃん。 でも、教会的ににまずいのは、そこじゃないわけ。 私と世界が一致して神になるということは、客観世界は神であるという 話になる。世界=神という汎神論が一神教的にはまずい。 スピノザやクザーヌスが批判されるのも同じ理由だ。 世界が神であるというのは典型的な自然崇拝(=多神教)であり、 自然崇拝を禁じたのが一神教であるからだ。 世界が神であるなら、世界の中にあるあらゆるものに神性は宿っており 石ころ一つとっても、そこに神性はあり、崇拝することが出来る。 石ころを崇拝するのは偶像崇拝だ。 一神教的には、神は世界を作った創造主だ。 世界よりも先に神は存在している。つまり、神は世界の外側にいる。 では、世界の外側にいて、世界を作った神とは何か。 ルールだ。世界を生み出すのは物理の法則であり、 自然物理学の法則は、世界の誕生よりも前に存在している。 モーゼの十戒は、神と人間の間に結ばれた契約(法律)であり、 自然界のルール=物理学=コスモスと、 人間界のルール=法律=ノモスは、両方ともルール=神である。 エックハルトを知ったきっかけは、吉本隆明が絶賛していたからで エックハルトの説教集を見ると 吉本隆明がエックハルトを好きなのがよく分かる。 二人とも、インテリ出身でありながら民衆の側に入って行った人で 文筆よりも口承の部分で力を持った人だ。 民衆の側に入っていったときに、 「あんた、インテリじゃん、あっち側の人間でしょ」 みたいな扱いを受ける。普通にしていると、知識人が無知な民衆に 物を教えてあげるんだと上から目線で 見下ろしているように思われてしまう。 そう見られないよう、腰の低い穏やかな物腰で語りかける。 非知識人相手に語りかける時の文体がすごく似ている。 5ドイツとギリシャ 松平さんから「古代ギリシャ哲学を読め」と言われる。 哲学は、古い哲学に色んな注釈を足して現代に至るので 古い哲学ほどシンプルで、現代に近づくほど複雑になる。 「古代ギリシャの哲学書を読め」と言われると 微分積分をやりたいのに「足し算からやり直せ」と言われたような 気分になるが、現状、私は近代ドイツの哲学に興味がある。 近代において、ドイツはフランスと長らくライバル関係にあり、 ラテン語圏のフランス哲学は、古代ローマ帝国から連なる古代ラテン語で 書かれた哲学書を教養として参照することが多いが ドイツはそれに対抗して、ローマより古い古代ギリシャ哲学を 参照にすることが多い。 マルクスは古代ギリシャ哲学で卒論を書いているし、 ハイデガーも古代ギリシャを参照にラテン語批判をする。 非常に的確なアドバイスを頂いたなぁと思う。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□