■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第174号    2007/10/1発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1五木寛之 日刊ゲンダイの9月28日号(27日発売)で 五木寛之が連載している「流されゆく日々」連載7827回は 朗読について書かれている。 「和歌が文芸として確立される以前は、  たぶん歌は本当に歌だったのだろう。」 「音として絶妙に響く名歌も、活字でテキストとして読んで、  必ずしも感激するとはかぎらないのだ。」 「私は前の大戦中、小学校高学年になると、  万葉集の中のいくつかの歌を、無理やり暗記させられた。  戦争時代のスローガンのように万葉の歌が利用された時代である。」 五木寛之さんもこのメルマガを読んでくれているということで(嘘)、 頑張っていきたいなと思うわけです。 ちなみに私は小学校高学年時の授業で、 日本国憲法前文の暗唱がありました。 まあ、日刊ゲンダイを手にした時には、五木さんのコーナーにも 是非注目してください。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/169gou.txt の続きで「現代」とは何か。 2現代とは何か 現代に生きる私達では、現代を客観視することは難しいので むしろ現代以外の時代が現代とどう違ったのかを知ることで 現代の特色を知ろうと思います。 近代との比較をすると、暴力や戦争がネガティブな物として とらえられるようになったのが現代です。 今では信じられないかもしれませんが、近代では暴力や戦争は ポジティブな、明るくすばらしいイメージでした。 暗い中世から明るい近代への転換となったフランス革命をみても あれは市民が暴動を起こした暴力革命だったわけです。 社会主義革命を目指す左翼の人たちが考える革命は フランス革命をイメージしているので、現代以前においては 左翼は暴力革命肯定なんですね。第二期批評空間における座談会を見ても 戦前の左翼、日本共産党などは、戦争反対ではなく、 戦争に乗じて社会主義革命を起こそうという論調で 戦争肯定なんですよ。 もちろん右翼は他国からの圧力に対して武力でもって戦うというのは 当然の論理で、西郷隆盛の征韓論のように、 国の外に敵を作ることによって、国内の団結を生み出そうとする考え方が 主流を占めます。 8月発売、9月号のローリングストーン誌日本版で ボブ・ディランが1950年代のロックンロールは 原爆の影響を受けていると言っていて面白かったです。 火の玉や暴力をイメージさせる歌が多く、直接的ではないが政治的で 結果、政府の圧力によって弾圧され抹殺されたのが 50年代のロックだと言っていて、非常に興味深い。 フランス革命という暴力の肯定によって始まった近代が 核兵器の発明によって、全人類を何千回滅亡させるだけの核を 自ら所有することとなり、 核抑止力による暴力の否定が起きて近代が終わる。 暴力と戦争の否定。 これが現代の特色の一つだと思われるわけです。 これと芸術がどう関係するのかですが 近代において、戦争は国の行う最も大きなイベントの一つで いまでいうオリンピックやワールドカップや万国博覧会よりも 派手なイベントです。 戦争というイベントのために、国は従軍記者を戦地に送り 戦地の情報を新聞小説の形で毎日連載し戦争を盛り上げる。 戦地で戦場の様子を描いた絵や小説で戦争を盛り上げる。 国家の巨大プロジェクトである戦争のための芸術には 巨額の予算が組まれて、その予算に魅了される芸術家もいるだろうし 戦争というプロジェクトによって注目されるその名誉欲に 魅了される芸術家もいるだろうし、 国家総動員法などが施行されると、すべての商品は配給制になるので 国から配球されないと絵具やキャンバスも手に入らず 画家を続けるために、信念を曲げて 戦争協力する芸術家もいるかもしれない。 日本が第二次大戦で負けて現代になると、 芸術家の戦争責任が問われる。 国家総動員法の下では、すべての商品・すべての生産手段は 国の管理下にあるので、芸術家と言えども 国の方針に従った芸術を作らないと本を作るための紙や 絵を描くための筆や絵具が手に入らないので おおやけに活動していた芸術家は皆、戦争協力しているわけです。 総動員法の下ではすべての国民は国の管理下にある公務員なわけですから どうしてもそうなる。そのような政府を倒す形で、 戦後GHQが新しい政府を作ると、前の政府の逆で 芸術家は政府から離れた所で活動すべきだとなり 敗戦国日本では芸術に対する国家予算の分配がヨーロッパ諸国よりも 極端に低くなる。 芸術に対する国家の関与を極力なくすためです。 大戦の戦勝国では近代の延長で、国の補助金によって活動する芸術、 現代美術や現代音楽や現代文学がそれなりに力があり 商業的なポップアートやポップミュージックや大衆文学と 同じぐらいの力があるが、日本にはない。 朗読一つとっても、アメリカやフランスの朗読は 黒人や中南米・中東からの移民同化政策的に行われていて 英語を母語としない人に英語の朗読、 フランス語を母語としない人にフランス語の朗読を すすめている。 アメリカのラッパーもほとんどは黒人とラティーノだし フランスのラッパーや朗読詩人も黒人やトルコ人などになる。 ラッパーがテーマとしてよく掲げる愛国心なども プエルトリコ出身のニューヨーカーが歌う時には 自分が生まれたプエルトリコへの愛、 自分が現在住むニューヨークへの愛、 それらが非常にねじれた感じであらわれる。 9.11が起きたとき、アメリカ国旗を家の門に掲げた人達の多くは 移民で、本来アメリカ人でない人たちがアメリカに対する愛国心を 示しているわけです。9.11事件を起こしたのが イラク系のアメリカ移民だと報じられた時に、 アメリカ在住の移民にとって、愛国者の暴力にさらされる危険もある。 国旗を掲げることで、自分はアメリカサイドの人間だと示し 自分や家族の身の安全を確保するという要素もある。 それに対して、日本在住の日本人が、アメリカのラップを真似して 英語のアクセント、英語のイントネーションで、 日本語のラップをやる。ジブラのような本格派のラップや ミーシャのような本格派のR&Bをイメージしてみよう。 日本人からみれば、日本語のアクセント、日本語のイントネーションでやる イーストエンドプラスYURIやスチャダラパーなんかの J−ラップやJ−POPより、 本格派のラップやR&Bの方が絶対カッコ良いわけさ。 でも英語圏の人間からみたときに、本格派のそれは気味悪いらしいんだよ。 日本人なのに、何故英語風にしゃべろうとするの? 英語圏の人間が聞いて、聞き取れる英語だったら良いんだけど 日本語じゃん?どうみてもアメリカ社会に溶け込めない言語じゃん? でも、俺ってアメリカ人ぽくってカッコ良いでしょ?ってノリなわけで 日本語としても聞き取れないし、日本社会にも溶け込めなさそうな かわいそうな人に見えるらしい。 例えると、日本語のアクセント、日本語のイントネーションで タガログ語をしゃべるフィリピン人が、 ドラゴンボールのTシャツ着て、 巨人軍のベースボールキャップかぶって 俺って日本人だぜってポーズ取るのを 日本人が見ると複雑な気分になるような感じか。 3何故ドイツなのか 外国かぶれの奴はカッコ悪いよねと書いている俺が http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/169gou.txt 西洋の文化史はドイツ人が作って 西洋の論理学もドイツ人が作ってと ドイツドイツ言ってるわけだ。 アメリカやイギリスやフランスならまだ分かるけど 明治政府が取り入れた司法制度や国家制度が なぜドイツ製なのか、昔からすごく疑問だった。 日本の近代は、アメリカのペリーが来航して始まっているので 1868年の明治維新時に既にアメリカは世界の中心で そこから今に到るまでずっと世界の中心で居続けていると 思えるのだが、西洋の歴史を見ていると必ずしもそうではない。 二度の大戦でヨーロッパが破壊されて、 ヨーロッパから物理的に離れたアメリカだけが無傷で残った。 1945年の終戦から現在までの60年程しかアメリカ中心の歴史はない。 イギリスですら、古代や中世のヨーロッパの歴史にはあまり登場せず 歴史の中心に出てくるのは産業革命以後の話で イギリス側からヨーロッパを指す時の 「コンチネンタル(大陸的)」という語にあらわれる様に イギリス自身、自分をヨーロッパの国だと思っていない節がある。 そうした時に、ヨーロッパの歴史の中心に君臨しているのは 古代ローマからの伝統を受け継ぐラテン語系のフランスであり 中世から近代へと時代を変えた革命とはフランス革命を指す。 ここまで、まだドイツは出てこない。 ロシア文学は何故面白いのかというコラムがあって なるほどと思ったのですが  ロシアは遅れて近代化した後進国だ。  だからこそ近代化の歪みや矛盾があらわれていて面白い。 という内容でした。 同じことはドイツにも言えて、産業革命を起こしたイギリスや フランス革命を起こしたフランス、ルネッサンスのイタリアと比べると 近代化に関して後進国であり、自然発生的に近代化した国ではない。 むしろ日本などのように、周囲の近代化した国にせかされる形で 意識的に近代化した最初の国だといえる。 自然発生的に近代化した国は、自分達のことだから客観的に 近代をみることができない。フランス人やイギリス人の描く近代化は 誰が何をどうしたという、個々の出来事の羅列で、 それがどういう意味を持つのかという抽象化・法則化がない。 例えば音楽に関しても、個々の音楽会に関するレビューはある。 あのコンサートは良かった、悪かったという批評はあるが いくつかの音楽の中から、古典派だロマン派だというジャンルの概念を 生み出し音楽史を編纂するということをフランス人はやらなかった。 (石井宏著の「反音楽史」など参照) ドイツ人は、自然発生的ではない人工的な近代化を成功させて その方法論を言語化した人達だ。 また思弁哲学に関する論理学が発達した背景には 宗教改革の影響も大きいと思う。 宗教改革というと、分かりにくいかもしれませんが 宗教というのは、法律のことなんですね。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/168gou.txt の 3)一神教について参照。 宗教改革の原因の一つに免罪符があるのですが 免罪符を買うと罪が清められて死後の世界で天国に行ける と信じて、来世の幸せのために免罪符を買ったのだと 私たちは思いがちですが、当時の教皇、いまの法王に当るのですが 当時、教皇は司法権を持っていて、裁判で判決を下していたわけです。 いまの日本で言うと裁判所が免罪符を売っているような状況ですね。 免罪符を買うと現世において罪が清められて、罰が軽くなる。 物凄く現世利益な制度です。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%C8%BA%E1%C9%E4 教皇は文字通り、法王、法の王様だったわけで 宗教改革とは司法制度改革なわけです。 免罪符を買えば罪は軽くなる。 免罪符を買えなければ微罪でも重罰が下る。 抗議者(プロテスタント)はローマカトリックに対し 独自の司法制度を設ける。 カトリックとプロテスタントの衝突は魔女狩りという形なども取りながら 武力衝突や人民裁判なども繰り返していく。 魔女狩りの人民裁判をやったときに、カトリックとプロテスタントの 両陣営が、自分の正義を訴え、人々は間違っていると思った側を殺す。 論戦に負ければ死刑という環境の中で論理学は鍛え上げられる。 既に近代化した国をモデルに、遅れて意識的に近代化しようと した国が、どこをモデルにするかとなったときに 判例主義の英米を採用して http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/040330/ “あたりまえだと誰もが考える法原則については、 「法の記憶の及ぶ以前の古から」 なんていう言い方で法として認めてしまったりする。“ と裁判の数と同数ある判例すべてを網羅することだけでも 不可能なのに、英米人の考える 「法の記憶の及ぶ以前の古から」の慣習まで フォローしなくてはならないのは、あまりにも無茶にうつる。 その点、大陸系の法律主義は http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/040330/ 原理原則さえ輸入すれば、後はどんなパターンでも対応できる という気にさせられる。 大陸系というとドイツとフランス両方を含むが カントやハイデガーなどのドイツの哲学者と フーコーやレビィ=ストロースなどのフランスの思想家を比べると 旅行記のような文章を書くフランスと 観念的な語が羅列するドイツで対照的だ。 さらにいうとフランス革命時の王妃であったマリー=アントアネットは ドイツ語圏のオーストリーのお姫様で、 フランス革命を当事者以外で一番身近に認識できた国がドイツなわけで オーストリーのウィーンは、ゲルマン系ではあるが旧ローマ帝国領で 古代ローマ帝国からの伝統も引き継いでいる。 フランスやイタリアのようにヨーロッパの中心であったわけではないが 中心を記述するのに適した位置にあったのがドイツだと思う。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□