■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第170号    2007/9/14発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1現代芸術と哲学 前回のメルマガで書いた形式主義は、学術用語のそれでなく まあ、日常用語の意味する形式主義で、 形式的な、人の心を動かさないような物。 ぐらいのイメージでとらえて頂きたい。 具体的にはドナルド・ジャッドの http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection/item/S_77_1047_J.html http://www.shiga-irc.go.jp/shiga/kinbi/1999/may/index.html 彫刻を見ても、正方形が並んでいるだけで、「だから何?」というのが 一般人の感想だと思う。 こういうのが現代美術だし、サイコロやコインの表裏を使って 偶然性にまかせて音階を決めるのが現代音楽だったりする。 現代音楽のジョン・ケージの講演会で、質問コーナーがあり、 聴衆はジョン・ケージに質問をする。ケージは質問とは無関係に あらかじめ作っておいた答えを書いた 何枚かのカードの中から一枚を引く。 そして偶然性によって決定したカードの答えを読み上げるという パフォーマンスをやっている。 正直、私はそのようなパフォーマンスは形式的で中身がないなと思う。 そういったものを総称して形式主義と書いた。 現代**と呼ばれる物の多くは、 この手の詰まらないパフォーマンスだ。 この手の人達が、世間的にはポップミュージックや ポップアートの人達よりも、なんとなく偉いとされていたり 高名な批評家達から評価されていたりするのが 若い頃の私には不思議だったし、そのカラクリを知りたいと思った。 もっと正直に言えば、その程度のパフォーマンスは俺でも出来るし そんなので社会的に評価されて収入得られるなら楽だな、おい。 とか思ったわけだ。 この手の前衛芸術が立派だとされる根拠は、 批評家達によって作られており、その批評家達の理論のバックボーンは ドイツの哲学者、カントとフッサールとウィトゲンシュタインによって 作られている。 ウィトゲンシュタインをドイツの哲学者と呼ぶのに抵抗のある人は 多いと思う。彼は通常、独仏系の大陸哲学と対立する、 英米系の分析哲学の代表者として紹介される。 アメリカの分析哲学者を師とし、 アメリカで活躍した学者なのだが、ウィトゲンシュタインの生まれは ウィーンで、彼の父はウィーン学派のパトロンであり、 幼い頃の彼の周囲にはウィーン学派の芸術家・学者が大勢いた。 ウィーンは中世においてローマの一都市であり、 ドイツ語圏で、国で言えばオーストリーにあたる。 一般論としては、ウィトゲンシュタインは分析哲学の人となるのだが 彼はフレーゲ、ホワイト・ヘッド、ラッセルといった分析哲学の人達を 一度は師とした後に、論破して、分析哲学の中で正しいのは A=Aというトートロジー(同義反復)しかないという結論を出している。 現状、私の感覚では彼は分析哲学を内側から論破した 大陸哲学側の人間だという印象になる。 カント、フッサール、ウィトゲンシュタインは 三人とも論理学に関する著作でデビューした人たちで この三人の人達のどれかを下敷きにした批評を書かないと 専門家の中では論理的な批評とみなされ難い。 その手の批評は、論理学を下敷きに、 論理的な構造の中に哲学用語を散りばめて書かれる。 論理学の本で批評の文法を学び、哲学用語辞典で単語を覚えて 批評は書かれる。 ここで書かれている論理学はドイツの文法みたいな物だから 書かれた時代や著者が多少違っても、 私には共通点の方が多いと感じられる。 経歴を見ても、 三人とも論理学に関する本を書いてデビューし 前期においては、誰もが論理的に物を考えるならば 客観的で正しい唯一の結論にたどり着けるはずだとしたが、 後期になって、一つの構文の中の単語に代入する経験が 一人一人違うことを示し、論理の破綻を示した。 みたいなことが書いてある。論理学の本でデビューし、 その論理的構文の中に個々の芸術的経験を代入した 美学に関する著作で経歴を終えるのがある種のパターンのようだ。 前期に正しい論理が正しい答えを導くと思っていたのが、 「イスは重い」という文章の中で、同じ「イス」でも Aさんが思い浮かべるイスは、 Aさんがこれまでの人生で経験してきたイスであって、 Bさんが思い浮かべるBさんが経験してきたイスではない。 だから、同じ「イス」という単語でも人によって、 ソファーをイメージするかも知れないし、 折りたたみイスをイメージするかもしれないし 座布団をイメージするかもしれないし 木の切り株をイメージするかもしれない。 単語の意味がその人の人生経験によって決定されるとすれば 文法レベルでいくら正しい構文を作っても、 単語レベルでの意味の破綻が発生する可能性がある。 フッサールとウィトゲンシュタインはほぼ同時代人であり 二人ともドイツ出身のユダヤ人で、前期と後期との間に ヒトラーが巻き起こした第二次大戦をはさんでいる。 前期フッサールや前期ウィトゲンシュタインの 正しさへたどり着けるはずだという明るさが 第二次大戦後の 後期フッサールや後期ウィトゲンシュタインでは、 正しさへたどり着けないという暗さに取って代わられる。 というぐらい、経歴を見てもどっちがフッサールで、 どっちがウィトゲンシュタインか分からないぐらい似ている。 カントが古典主義時代の哲学者だとすると フッサールの現象学は、 表現主義のバックボーンとなっており ロマン主義と関係する。 ウィトゲンシュタインはアメリカ現代美術批評の バックボーンになっていて、より現代に近い。 カントの時代には外界を正確に書き写した 写実的な絵画が主流だったのが フッサールの時代には、画家の主観を表現した絵画、 画家の感情によって色彩や形状が歪んだ絵が主流になり ウィトゲンシュタインの時代には、 絵のモデルとなる対象は初めから存在せずに 丸や三角や四角といった幾何学的な図形のみが羅列された絵が 主流になる。というイメージだろうか。 「現象学と表現主義」Fフェルマン著 木田元訳 というそのまんまな本もあるので、 フッサールと表現主義との関係はわかりやすいと思う。 また、「批評空間臨時増刊号 モダニズムのハードコア」 p224で浅田彰は美術家のジョセフ・コスースに 「実際、ティエリー・ド・デューヴのような美術史家は、 カントから始まる自己批判の過程としてのモダニズムの歴史が、 グリーンバーグを経て、ジャッド、そしてあなたで終わると考えている。」 と語っている。カントも美術批評と関係があるらしい。 それもモダニズム、近代の最初に位置するらしいことがわかる。 またコスースはp226で 「個人的に私はウィトゲンシュタインに興味を持っていましたが、 戦術的な目的からすれば、そうした理論を大衆化したとは言わないまでも 使いやすく結晶化したA・J・エイヤーのような人たちを引用する方が 有効でした。」 と言うように60年代のアメリカで活動を始めたコスースにとっての バックボーンはウィトゲンシュタインだということが分かる。 対談の内容は、60年代のアメリカ美術界に、 アカデミックなグリーンバーグ派と市場で成功したポップ・アート派の 二つがあり、当時、若者であったコスースにとって、 ポップ・アートが行ったアメリカ文化の美化は ベトナム反戦運動世代にとって支持しがたいものだったとか、 アカデミーの世界で、23歳の若者であったコスースが グリーンバーグよりもより権威のある言葉として 科学哲学の言葉を使い勝利していく話で、結構面白い。 世界大戦のダメージによって現代が始まるという発想で行くと アメリカにとっての現代は ベトナム戦争の敗北から始まるのではないかとか 色々思うところはある。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□