■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第169号    2007/9/11発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1前回までの流れ 前回は、西洋の文化史ということで、 中世ヨーロッパは一神教の キリスト教の時代であったという話を書きました。 日本を始めとした東アジアの国は 仏教のマンダラに代表される多神教的な世界で 特に日本人は、仏教徒の前では仏教徒、 クリスチャンの前ではクリスチャンと、自分を使い分ける。 本音と建前の世界で生きていて、 ユダヤ的なアイデンティティ(自己同一性)がない。 個人的に、西洋哲学や西洋の文化を学ぶ上で、一番分かり難いのは 一神教の神の概念だと思います。一神教(ユダヤ教)は 偶像崇拝・神との交信といった宗教の禁止であり、一つの成文法である。 だから西洋人が日本に来て、 「地獄へ落ちるわよ」などと発言する霊媒師が出ているTV番組を 見ると、日本人は皆カルト信者だと思う。 日本人から見ると、唯一神の定義をめぐってイスラム教徒キリスト教が 戦争しているのは原理主義的なカルトに見える。 2全体の見取り図 いま、出版や詩の朗読とは離れた、宗教だの中世だのの話を しているように見えるかもしれない。 ここで全体の見取り図を確認したい。 現代詩とは何か?というときに、当然、現代とは何かという話になる。 実際、現代詩=活字詩を仮想敵とするネット詩・朗読詩の人達の中には 「現代詩なんて現代で受け入れられていないじゃないか」 的なことを言う人がいて、当っていると言えば当っているのだが 現代という語を単に、いま現在ぐらいの意味に解釈していて 日常語としては正しいが学術用語としては間違っていて そこを確認しようとすると、古代・中世・近代・現代という時代区分や そもそもその時代区分が誰によって、どんな目的で作られたのかや 詩の歴史の中だけで現代詩を見るのではなく、 絵画史における現代絵画やコンテンポラリーアート、 音楽史における現代音楽、文学史における現代文学などと 関連付けてみた方がより分かりやすいと思う。 特に、現代**というのは、創作物が市場によって選別されるのではなく コンクールにおいて、批評家達によって選別される物であり その選別の基準と成る学術的根拠が西洋哲学、より限定して言えば ドイツの哲学によってなされている。 現代**について語ろうとすると、当然哲学史にも触れねばならず 詩や出版や文学と一見無関係に思われるような抽象的概念にも 触れなくてはならなくなる。 3西洋の文化史を描いたのは誰か と考えると、近代ドイツの哲学者・思想家、 ヘーゲルとその周辺の人たちになるだろう。 つまり、最初に文化史を描いた時には、 古代・中世・近代の三つの時代区分しかなく 現代は存在していなかった。 また、ドイツ人が作った物である以上、 ドイツ中心主義・ヨーロッパ中心主義的傾向は、免れえず、 基本的に地中海周辺の国しか出てこない。 より正確には、アフリカやアジアに関する記述もあるが、 ある種の偏見が色濃く出ているため、通常そこを削除した文化史を 輸入している。 これはヘーゲルが作ったというよりもは、ヘーゲルが作った文化史が 色んな人によって作り直されて今一番一般的になっている文化史の 大雑把な流れということになるのだと思うが、 フランス革命で、貴族から市民に主権が移るのをリアルタイムで経験した 思想家たちが、これまでの暗い中世が終わって、 明るくて素晴らしい世界=近代が始まるんだ! と高らかに宣言している歴史観になる。 当然、中世を実際よりもより悪く描くし、 近代を実際よりもより素晴らしく描いている。 中世の前にあった古代も、それなりに良く描いている。 これは中国の歴史などもそうなのですが、 中国は、漢民族とそれ以外の少数民族が交互に政権を取っていて 新しい政権が生まれると、学者を集めて新しい歴史を編纂させる。 その時、新しい政権は、他民族が作った前の政権がいかにダメで、 自民族が作った新しい政権がいかに素晴らしいか ということを歴史学者に書かせるわけだ。 歴史というのはときの政府が歴史学者に書かせる物である以上 そういう傾向は常にあるし、そういう偏りがある前提で見るしかない。 古代というのは、ギリシャ・ローマ時代、 アリストテレスがギリシャ哲学を編纂した時代ですね。 中世は、四世紀にローマの国教にキリスト教が定められて以降、 十字軍の遠征などでイスラム世界と戦争して負けて、 ローマ、ヨーロッパ世界がゲルマン民族の大移動などで 東から軍事的圧力を受けた時代ですね。 近代はルネッサンス辺りから、第一次世界大戦まで。 二度の世界大戦をはさんで、1945年以降を現代と呼ぶとしましょう。 Wikiなどをみると、第一次世界大戦のはじまる1914年辺りから 現代という考えもあるようですが、近代と現代の間の境界線が 二度の世界大戦という認識で間違いないようです。 4現代とは何か 世界大戦後の世界を現代と呼ぶわけですが、通常現代は、 近代などと比べると暗いイメージで描かれるわけです。 近代音楽の象徴としてワーグナー、 現代音楽の象徴としてシェーンベルクを持ってくると 分かりやすい。ナチスドイツがドイツの象徴としてワーグナーを利用し 勇ましい音楽で国民を熱狂させ戦争を盛り上げた。 シェーンベルクはドイツ語圏であるウィーンで生まれたユダヤ人で ナチスドイツから逃れてアメリカに帰化し、 反ナチス的な立場にある。 シェーンベルクの生み出した無調十二音技法は 一オクターブを半音で区切った十二音を均等に配置することで 調性のない人工的な音をしている。 ナチスが音楽によって人々の心を動かし、勇ましい曲で若者を戦地に送り 哀しく切ない曲で戦没者や残された遺族の感情を揺さぶり、 音楽によって作られた感情で戦争やユダヤ人虐殺を行った。 そこに対する反省と批判から、 人々の心を揺り動かさない人工的で無感情な音楽、 譜面の上に、機械的にすべての音が均等に配置された形式主義的な音楽を 生み出した。 演奏を耳で聞いて、それが心地良いか良くないか、 感動するかしないかでなく、人の心を動かさない音を 形式的に作るという方法論がより発展すると、 サイコロや易を使って音階を決める偶然性の音楽や 特定の図形の上に譜面を重ね合わせて、 五線譜と図形の交点を音符にして演奏するなどといった 形式主義的な音楽が現代音楽では主流になる。 二度の世界大戦時に、ほとんどの芸術は戦争協力をしていて そこに対する反省から、芸術は人の心を動かしてはいけない という題目が生まれて、心を動かさない芸術を作る以上、 芸術は形式上の実験を繰り返していくしかないというのが 現代**の大雑把な流れになります。 5詩の朗読について 芸術の戦争加担・戦争責任を問うとき、詩の朗読というのも 戦争には大きく加担していて、 そこを踏まえずに朗読を語るわけには行かない。 大戦時に日本が東アジアの多くの国を植民地として支配した時に 植民地の小学校で日本語教育が行われて、日本語の歌や朗読が行われた。 実際、当時のフィリピンの子供達が日本語の歌を歌っている レコードなどがあり、ラジオやレコードといった 当時の最先端のメディアを使って植民地の日本化が進められた。 「声に出して読みたい日本語」ブームのとき、 真っ先に挙げられた批判がこれで、 この本が参照にしている日本語のルーツをたどると 戦前の日本語教育に行きつくといった批判はそれなりに当っていると思う。 日本の中世において、国と言えば越後の国や出雲の国が国であったように ヨーロッパにおいても国と言えば、都市国家が国であって いくつもの都市が集まって出来た巨大な近代国家は存在しない。 近代の産業革命によって、大量に工業製品が作れるようになると それを消費するために、 均一に統一化された強大な市場が必要になり、 中世のような都市国家ごとに関所や税関があり、 都市の移動ごとに関税がかかり、異なる言語・異なる通貨が存在し というのが不便になる。統一の言語・統一の通貨が必要になる。 近代日本においても、アイヌ語や琉球語があり、 薩摩や長州の参勤交代などしたことがない下級武士が 初めて江戸に来て九州弁でしゃべっても言葉が通じない中で 人工的に標準語が作られ、標準語の普及に活版印刷された文学や ラジオや朗読レコードが使われた。 現代に入って、地方の情感豊かなイントネーションがある方言が見直され 朗読ブームといった時に、方言の方向へ行く動きもある中 「声に出して読みたい日本語」のあり方は反動的だという言い方も あるにはあって、仮に朗読というものをメジャーにしていこうとした時に その手の批判にどう対応するのかは、考えておくべきだと思う。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□