■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第167号    2007/7/26発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1文学史からみた映画 ある時代において、映画やテレビと言った映像文化は 文学の敵であったわけです。 書物が自然発火する温度、「華氏451度」をタイトルとする レイ・ブラッドベリの小説が典型ですが、 映画によって文学が書籍が駆逐されるという危機感が出版界に 蔓延した時代というのはあって 同タイトルの映画は、書物が禁止された世界が舞台で オープニングはテレビのアンテナが立ち並ぶシーンから始まります。 テレビなどの映像ばかりを見ているから、現代人は本を読まなくなり 自分の頭で物を考えなくなり、馬鹿になり、 管理・洗脳されやすい危険な社会になっていくという発想が 説得力を持つ時代があった。 逆に80年代の角川映画のように、映画・映像の力によって 小説を売ろうという動きもあり、 今最も売れている小説家の一人スティーヴン・キングの小説を 出している版元が映画会社で、映画化することを前提とした小説を 出している版元でもある。 映画と小説のメディアミックスを見ると映画と小説は 仲が良いように見えるが、そう簡単な話でもない。 この場合、映画原作用の小説は 映画のあらすじでしかないという問題がでてきたりする。 漫画・アニメ・演劇・映画・小説。この五つはどれも 物語・あらすじ・プロットなどを表現するメディアだが 表現内容が同じ物語でも、表現力が違えば 作品の完成度が大きく異なってくるのは分かると思う。 AKIRAがアンパンマンの絵で表現されたら 表現内容・ストーリーは同じでも、まったく違う作品になるだろうし 漫画やアニメの場合、絵の上手い下手、 演劇や映画の場合、演技の上手い下手が確実に存在する。 同じことは小説にもあって、描写の上手い下手は確実にある。 表現内容は平凡だが、表現力だけは突出していて それで持っている表現というのは確実にあって そういうものを核に他のメディアに移し変えるのは 成功しないように見える。 役者の演技力だけで持っている平凡な話を アニメにしても成功しないということだ。 小説は時として、メディアミックスの核として使われる。 そのため小説は独自の表現力を持たないただの あらすじとして認識されることが多いのだが その弊害は映画を主としたメディアミックスから来ており 小説における描写力で勝負する人達からは ある種の懸念を持たれることも多い。 小説独自の描写と言われてピンと来ない人もいるかも知れないが セリフや心理描写などは多くの場合、 他のメディアでも言葉でなされる。 しかし、視覚を言葉で描写する情景描写は小説独自の表現だ。 丘の上から街を見下ろすと、小川が街を左右に二分するように 縦に流れ、その周辺に畑や牧草地帯があり、人家が広がっている。 その街の中心部には二階建ての教会があり、教会の軒先には 帽子を目深にかぶり外套を着た男が立っており、 その男の口にはタバコがくわえられ、 胸のポケットから出したライターによって タバコの先に火が付けられている。 街を見下ろす俯瞰のカメラがあり、街全体を広角レンズで撮っていたのを 街全体から教会に、教会から軒先の男に、男からその口先のタバコ、 タバコからタバコの先の火といった感じにカメラをズームさせていく 手法が映画の誕生より早くから小説の世界では存在したと どこかの本で読んだことがある。 文学と言ったときに、他のメディアでも表現できるような ストーリーは文学独自の物ではないため文学から切り離して 物語として解釈し、 物語から切り離された言葉による情景描写だけを取り出して 文学を論じるということが、文学を論じることであるといった時代が 確実にあって、例えば吉本隆明の「ハイ・イメージ論」は 小説内におけるカメラの位置やカメラの動き、カメラワークのみを 扱って論じている。 そのような文脈では、映像文化は文学の敵で 映画に代表されるような映像文化に無い文学独自の映像表現が 尊ばれることになる。 2詩の朗読からみた文学史 詩の朗読に関わってみて思ったのは 「映画は小説の文学的表現を盗んでいる」 といった一般論は間違いではないかということだ。 職業小説家が誕生するのは、活版印刷術の発明以後で 18世紀以後だとされる。 それ以前の職業作家は、シェークスピアのように劇作家であり 劇団の座付き作家、つまりは脚本家であった。 脚本家とは、あらすじやセリフを書く人であり 描写力・表現力は俳優・大道具・小道具・衣装・ メイク・照明まかせの人間だ。 活版印刷術の発明以前に職業小説家が存在していないというのは よく考えれば当たり前のことで、墨と筆で一枚一枚書き写すしか 複製する手段が無かった時代はもちろん 木版印刷だとしても、三千枚も刷ると元の木版がいたんで 文字が読めなくなるので、木版を作り直さなくては成らないという 状況では職業木版屋はいても、職業小説家は専業では食えなかっただろう。 また、筆と墨で写経するしか複製の方法が無かった時代において 書籍とノート・手紙・日記との区別があったのか どうかすらよく分からない。 そういう視点でみると、映画が小説から影響を受けているとするなら それ以前に小説は演劇からの影響を受けている。 もちろん専業職業作家に限定しなければ 18世紀以前にも小説家はいたし、小説は存在した。 しかし日本最古の文学と言われる古事記にしても 口承の文学を活字に書き起こしたものであり それ(日本最古の活字の文学)以前に 口承文学は存在したことになる。 詩とは、もともと、口承文学・舞台芸術全般を意味するため 活字の文学よりも歴史は古い。 3詩の形式 イソップ物語、仏教におけるお経、聖書、コーラン どれも元来口承文学で、 歌として歌える音数・リズムになっているらしい。 平凡社版「ギリシャの詩と哲学」P154をみると ギリシャ悲劇においてコロス(歌舞合唱隊)は 円形の踊り場であるオルケストラで歌い踊る。 コロスはコーラスの語源であり、 オルケストラはオーケストラの語源だ。 三大ギリシャ詩人が描くのは ギリシャ悲劇であり、 それはコロスによってオルケストラで歌われる となったときに、これは詩なのか劇なのか歌なのか? 文学なのか音楽なのかといった区別は無意味になる。 インド生まれ中国経由のお経を聴くとき それはインド音楽なのかインド哲学なのか 仏教という宗教なのか、仏典という文学なのか という問いに意味はない。古代においてそれらは同じ物であったからだ。 ところが現代において詩の朗読をする人と話をすると 「朗読する詩と、活字にする現代詩は別だ」と言われる。 活字の現代詩しか知らない詩人が言うなら分かる。 ポエトリーリーディングを主な活動としている朗読詩人が言うのが 私には分からない。 オープンマイクをするにあたって、 トップ・オブ・ザ・ヘッド(即興)で リズムに乗せてしゃべるというのは 一つの技術になる。 私はその技術を身に付けるために、朗読用に書かれたわけでない文章を リズムに乗せて読み上げる練習をした。 どんな音数の言葉でもリズムに乗せることができなければ 即興でリズムに乗せたしゃべりをすることはむずかしい。 頭に浮かんだ言葉がリズムに乗りやすい音数だとは限らないからだ。 どんな音数でもリズムに乗せて読めるようになると 現代詩も朗読詩もパソコンの説明書も六法全書も同じになる。 では彼らのいう朗読用の詩が、西洋におけるような、 もしくは中世におけるような定型詩かというと そうでもない。 http://www.shakespeare-w.com/japanese/shakespeare/terms.html シェークスピアの詩は短長五歩格のブランクヴァース(韻を踏まない) だという。 短長短長を五回繰り返して一行を作り、行末で韻を踏まない上記のように 表現するのだが、 ここで大事なのは、 a) 詩は一行の音数やリズムが決まっていて、  行ごとにそれらが変わることはない。 b) 韻は行末で踏む。 c) 韻を踏まなくてもリズムが整っていれば詩(ブランクヴァース)として  認められる。 の三つだ。 a)b)に関しては漢詩においても同じことが言える。 何だかよく分からないが改行をいっぱいすれば詩になるとか 思っている人も多そうだが、基本的に詩において改行とは ここで韻を踏みましたよというしるしであり 一つの詩の中で、すべての行の音数とリズムが同じであるのは 常に同じ周期で韻を踏むことで韻を目立たせる効果がある。 当時のMCバトルの即興では、脚韻を踏むことよりも 頭韻を踏むことの方が技術的に簡単なので 当然そちらに流れる事も多かったし、さらにいえば頭韻でなく 泣く泣く尻取りに走るケースがなくもない。 無い知恵を絞って、韻を踏んでる風に見せようとするのだが 頑張ってみたところで、尻取りなど幼児レベルの言葉遊びにしか見えない。 禁じえない失笑をさそう、さえない尻取りでも、 一音でなく二音三音でやれば、それなりに様になったりもするのだが どうせ韻を踏むのなら強音部で踏まなければ目立たないし効果も薄い。 文頭に来るのは大抵主語=名詞で、名詞は英語の場合 大抵最初にアクセントがあるのだが、頭に冠詞が付くので 弱強というリズムから入ることになる。 冠詞である弱音で韻を踏んでも弱いし、 冠詞で踏める音のパターンは限られている。 やはりそこは脚韻を踏みたい。 そして行末で韻を踏むためにも まずは強弱・長短のリズムを整えたい。 リズムさえあればブランクヴァースだと言えるが リズムの無い押韻は、詩ではなく早口言葉でしかない。 そういうことをいうと、 「日本語は等時音節・等強音音節性に基づくので  詩作には向かない」というようなことをいう人達がいる。 ラテン語のような長音短音の区別が無く 英語のような強音弱音も無いので、 君の言ってることは無意味ですよということだ。 確かに日本では、ラテン語圏のオペラや 英語圏のミュージカルのように、 セリフを歌う歌劇が定着していない。 そもそも日本には物語を歌うという習慣が無い。 例えば、昔話の桃太郎一つとっても 「桃太郎さん、ももたろさん  お腰につけた きびだんご  ひとつわたしに くださいな」 などとは歌わないし、 七音・五音 七音・五音で 一行の音数が安定するなどと言う事もない。 仮に桃太郎は例外だとしても 金太郎で 「まさかりかついだ 金太郎  クマにまたがり お馬のけいこ  はっけどうどう はいどうどう  はっけどうどう はいどうどう」 などとは歌わないし 浦島太郎で 「むかしむかし うらしまは  助けた亀に つれられて  竜宮城へ きてみれば  絵にも描けない 美しさ」 牛若丸で 「京の五条の 橋の上  大の男の 弁慶は  長いなぎなた ふりあげて、  牛若めがけて 切りかかる」 などとは歌わないし 一行が七音+五音の七五調で 統一されているという事もない。 成美堂出版の「思い出の童謡・唱歌200」 辺りで譜面を見ると 基本上記の童謡は四分の二拍子で 一小節に八分音符が4つ入る形式になる。 詩において、短音は八分音符、 長音は四分音符を意味することが多い。 では、日本の詩は全部短音かとそうでもない。 七音+五音だと 一小節目に四音、 二小節目に三音+一休符 三小節目に四音 四小節目に一音+一休符 これが基本で 最後の一音が四分の付点音符+八部休符です。 図にすると ┃♪♪♪♪┃♪♪♪ ┃♪♪♪♪┃♪―― ┃ こんな感じです。 改行時の最終音が通常の三倍の長音になるので どうせ韻を踏むならここで韻を踏みたいと 普通は考えます。 バリエーションとして ┃♪―♪♪┃♪♪♪♪┃♪♪♪♪┃♪―― ┃ ┃♪―♪♪┃♪♪♪♪┃ ♪♪♪┃♪♪― ┃ という頭韻強調パターン。 均等に八分音符でなく、 八分の付点音符+十六分音符で行く 長音+短音パターン。 ┃♪――♪♪――♪┃♪――♪♪―― ┃♪――♪♪――♪┃♪―――――  ┃ などがあります。 こうしてみると、七音+五音で一行の七五調の歌が 一行で四小節。 四行、十六小節で一つの歌を形成するという形を取っている。 昔話自体が作られたのは主として鎌倉・室町時代だが 昔話を元にした唱歌は明治期に作られている。 そこには西洋音楽の影響があるものだと考えられる。 4イベント 文学フリマ出店参加者募集開始 http://bunfree.net/index2.html うた毛 言葉の闇鍋 朗読長屋 vol2 http://mixi.jp/view_event.pl?id=20550501&comm_id=1888828 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□