■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 号外    2006発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1ポエトリー・イン・ザ・キッチン フライングブックスや http://www.flying-books.com/ IRAも http://a.sanpal.co.jp/irregular/cont/about_us.html 回ったのですが、 そこで得たチラシに「第一回Tokyo Book Fair」 というのがあって、 日時 12月16日&17日 13:00〜23:00ぐらいまで 文京区水道1―2―6タトルビル2F ポエトリー・イン・ザ・キッチン TEL:03―3812―6434 これの主催がベンズカフェオープンマイク初代司会の佐藤由美子さん http://www.k3.dion.ne.jp/~radio68/ イベントの内容は16日が 「DIY for book lovers」 DIYの道具で物を作る体験学習みたいな感じです。 17日は 「Village for book lovers」 15:00〜 絵本リーディング 16:00〜 サルサダンス 18:00〜 ポエトリー・リーディング ポエトリー・リーディングの参加希望者は作品をA4サイズの紙に 書いて来て下さい。ポエトリー・リーディング終了後、 原稿をコピーしてその場で製本作業をします。 帰りには一人一人、できたての本を持って帰ってください。 という内容です。16日 ポエトリー・イン・ザ・キッチン行って来たました。 感想は、正直入っていくのに勇気がいるなぁと思いました。 インディーズ(自主制作)と言った時に、 インディーズで同人誌専門書店をしてますとか インディーズで画廊してますとか、 インディーズで喫茶店してますとかだと、 普通のワンルームマンションの一室で店をやっているというパターンが 結構あるんですよ。 今回も、そのパターンだと思ったんですね。 住所が文京区水道1―2―6タトルビル2Fなので 普通のワンルームマンションの2階で書店をされているのかなぁと。 この予想は大きく違いました。 普通のオフィスビルの一室で書店をされてました。 この住所は隣が凸版印刷だったりして、 出版業界のオフィスが立ち並ぶ一帯で、 タトルビルというのも、「洋書はタトル」と看板を掲げられた 洋書専門の出版社「タトル出版」や 洋書専門書店「タトル商会」のビルで、 出版社というのは本の出荷や返品に対応するための 倉庫や駐車場が必要なのですが、駐車場に何台ものバンが止まって ビルから本の入った段ボール箱を出し入れしている人達の すき間をぬって駐車場の奥にあるオフィスビルに入っていかないと 目的の場所にたどり着けない。 トラック代わりのバンが何台も出入りして、 従業員さんが忙しく荷物の出し入れをしているところを通る時に 「君、この会社の関係者?このビルに何の用?」などと聞かれたら どうしようと思ってドキドキしながら、 部外者の自分が入っていかないと目的地にたどり着けない。 入るのに結構勇気のいる場所でした。 入っていくと、まだ制作途中っぽい空間の中で、 Cafe&同人・洋書書店といった感じで、店には音楽が流れ、 「コーヒー一杯カンパ二百円〜」といった値札で、 カレーやピザなども置かれている。 雰囲気的にはオフィスビルの休憩所を 一般にも開放しましたといった趣です。 個人的に面白いと思ったのは、ああいう場所で音楽をかけるときに、 普通、歌詞の聞き取れない洋楽辺りをかけるわけです。 日本語で歌よりも、外国語で歌の方がインスト的に言葉が響くし 意味が発生しないので楽なのですが、 そこでは、非英語圏の洋楽、 もっというと非西洋圏の洋楽がかかっていて なるほどなぁと思いました。 2現代詩・純文学/ポエム・ライトノベル 最近俺は大二病だなと強く思って、この感情を上手く説明することが 出来ないのですが。 文学フリマで某ミニコミを買ったら、 フリッパーズギター=渋谷系の悪口が書いてあって 別のページみたら別の作者がBoowyの悪口を書いていて、 厳密に言うと悪口じゃないんだろうけど、 Boowyは今から20年ぐらい前に流行ったロックバンドで Boowyをリアルタイム世代だと、今三十代半ばですか。 十代の頃好きだった音楽を三十になって聴くと痛いとかダサいとか 正直あるんですよ。 私がいま三十代なのでよく分かるのですが、 十代の頃に命がけだったポップカルチャーを 二十年経ってから摂取すると、恥かしいとかイタイとか あるわけです。 あの頃嫌いだった「詰らない大人」にいまなっちゃったなとか あるわけですよ。 このメルマガの読者層が何歳前後なのか分かりませんが 若い人に分かりやすく例えると、 5歳の頃好きだった戦隊ヒーローや仮面ライダーを 中学に入ってから見るとダサいじゃないですか。 中学生にもなって、ウルトラ怪獣大百科最高だぜ! デカレンジャーカッコ良い!とか中々言えない。 これがね、もう少し大きくなって、結婚して子供が出来ると 自分の子供と一緒に戦隊ヒーロー見れるから、 一周回ってまた普通に戦隊ヒーロー物も見れるようになる。 中二病・高二病・大二病という言葉があって、 中学二年ぐらいになると、ある日突然、整髪料塗ったり、 軽くパーマあてたり、脱色したり、ファッションに凝ったり 洋楽聞き出したり、ギター弾いたり、異性の目を気にし出したり というのがあるわけです。それを中二病と呼んで、 中二病を馬鹿にするのが高二病、高二病を馬鹿にするのが、 大二病となるわけです。 漫画でも音楽でもアニメでも映画でも何でも良いのですが ポップカルチャーの主なターゲットは大体中二になるわけです。 年の頃なら14・15。ティーンエジャーのど真ん中で、 週刊少年ジャンプのメインターゲットでもあり、 新聞の文章やニュースの解説でも 「中学二年の女の子でも分かるように書け」と言われる。 義務教育で習うことはほぼ履修していて、 受験勉強に遊ぶ時間が取られてもいない時期。 大衆文学と純文学の差は何かと考えた時に、 売上げで作家としての価値が決まる大衆文学と 専門家・批評家の評価で作家としての価値が決まる純文学という 違いがあるとしましょう。 これはポップカルチャーとアカデミニズムの差なんですよ。 ポップカルチャーは売れて何ぼですが、 アカデミニズムの場合、 エイズやガンの特効薬を開発する医学の研究論文が ベストセラーになるかというとたぶんならないし、 研究論文である以上、専門家じゃないと読んでも意味が分からないし 一般大衆に理解できない難しい論文だからといって それを理由にダメだとは言われない。 純文学や芥川賞や現代詩や現代音楽は、審査する専門家・評論家がいて 玄人筋から評価された物が偉いわけです。 ポップカルチャーはそうではなく、売れた物が偉い。 ポップカルチャーを買い支えるメイン購買層は中二なんです。 対する現代文学や現代詩や現代美術や現代音楽やといった現代○○を 評価する評論家の年齢は50〜60歳だったりします。 数学のような学問と音楽という娯楽は 別の物に見えるかもしれませんが、数学の本も足し算や引き算の 子供向けの入門書が一番売れて、大学院などで勉強するような専門書は 部数でいうとそんなには売れない。 音楽も人間が心地よいと感じる基本的なパターンはある程度あって、 そればかりだとワンパターンでみんな同じになるので、 それに飽きたら新しいパターン・次のパターンに進んで行って、 どんどんマニアックになって、 最後は人の心を動かさない音楽が一番偉いという えらくマニアックな所へ現代音楽は行くわけです。 数学が、足し算を知らずに掛け算を覚えられないように、 音楽もポップミュージックのパターンを知らずに 次の段階には行けない訳です。 学術的な判断をする一流の専門家は、すべての段階を経て 今の位置にいるのでどうしても高齢者になるのですが、 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/140gou.txt 中二と中高年のメインターゲットの年齢差が与える ポエムと現代詩の質的違いみたいな物は大きいと感じます。 中二をメインターゲットにしたポップカルチャーが オリコンチャートのトップ10だとすると 洋楽とか聴き出して、音楽に詳しくなると モー娘とかジャニーズジュニアとかダサいよね という高二病が始まる訳じゃん。 でさぁ大二病の俺としては、 「彼らだって、仕事でやってるわけじゃん? トップアイドルに作詞してる人達だって、 四十歳・五十歳の頭はげたおじさんかもしれないし、 四十歳・五十歳の人がカッコ良いと思える詞じゃなくて、 十代の主要購買層が夢を見れるような詞を 書こうとしているわけでしょ? それを『いい歳して何やってんだよ』 というのは違うんでないの?」という気持ちがすごく強い。 雑誌でいうと昔の「よいこの歌謡曲」 批評でいうと福田和也氏の語るフィル・スペクター関連の話は 典型的な大二病ですごく影響を受けている。 この間も某アマチュアバンドのライブ行ったら、 40歳でスリムジーンズ履いて、金髪の長髪で ZIGGYやハノイロックスのボーカルみたいなカッコして エアロスミスみたいなブギを演奏するバンドがあって、 「お前の瞳を俺のキスでぶち抜いてやるぜ」的な歌詞を歌ってて 打ち上げでみんな高二病入った会話するわけだ。 「いい歳した課長が、芸能人こじらせてさぁ。恥かしいよね」 とか言ってるわけみんな。 俺は自分を大人だと勘違いしている大二病だから、それに対して ムキになって反論とかはしないけど、 自分の年齢の目線でポップカルチャーを判断しちゃいけないと思う。 上手く言えないけど、自分はもうポップカルチャーの 主要購買層ではないんだという自覚が生まれることでポップカルチャーを 肯定できる気がする。 3物語 文学フリマ五周年記念文集(アマゾン http://tinyurl.com/2ocdja) で純文学だのインディーズだのについてゴチャゴチャ書いたのですが その続きで。 小説でもマンガでも映画でも演劇でも、 そこには物語の要素が含まれていて、これが結構難しい。 既存の物語のパターンをそのままなぞるような物語 (正義と悪が戦って正義が勝つとか)は今回横に置いて 世の中に対して、それは違うんじゃないかと自己表現をするような 物語を描くパターンを考える。 この場合、俺はこうなんだ!という主観がリピドー・衝動として まずあって、その衝動のおもむくままに突っ走るというのがまずある。 が、これだけだとまず見世物として水準に達しない。 小林よしのりが言っててなるほどなぁと思ったのは、 自分の分身としての異常天才を主人公として描いて、 世の中や社会に対してガンガンツッコミを入れる。 それだけで自分は面白いと思っていたんだけれども、 それでは全然売れなくて、その横に常識的な人間を置いて、 自分の分身である異常天才にツッコミを入れて初めて 商品として売れた。 異常天才図鑑 http://tinyurl.com/yrrmcn 自己表現というのは多くの場合自分と社会との摩擦から生まれる。 当然、自分は自分の方が正しいと思っているわけだが、 多くの人は社会に属していて、最終的に社会の側からツッコミを入れて 社会の側が勝つようにしないと、商品の水準には達しない。 カフカの言葉を借りれば「世界と自分との戦いでは世界に味方しろ」 だし、渋谷陽一風にいうと、初期衝動の対象化だし、 吉本隆明風に言うなら世界視線、 ポストモダン小説批評風に言うならメタフィクション。 優れたジャンル小説は優れたジャンル小説のメタフィクションでもある。 メタフィクションとは小説中に小説が描かれるような入れ子構造の 物語のことで、有名なのはドン・キホーテ。 騎士道小説の読みすぎで現実と小説の区別がつかなくなった ドン・キホーテに従者サンチョ・パンサがツッコミを入れることで 小説は進行する。 赤毛のアンも夢見がちなアンが想像の中で 少女小説中の主人公になるのを、マリラおばさんにツッコまれるし トムソーヤの冒険の主人公も、冒険小説の主人公に成り切って、 海賊や山賊を気取るが、常に相方のハックにツッコまれる。 ジャンル小説の読みすぎで、現実との区別がつかなくなった主人公と その相方という登場人物の構造は、おぼっちゃ魔くんも、東大一直線も ドン・キホーテも赤毛のアンもトムソーヤの冒険も同じだ。 ついでに言うなら星新一は一人称で成功した数少ない娯楽小説として シャーロックホームズの冒険を挙げている。 シャーロックホームズは、主人公ホームズを客観視する 助手ワトソンの一人称で描かれている。 ドン・キホーテの作者セルバンテスがドン・キホーテのように 何度も祖国のために志願して戦場へ行った愛国者であったように 小林よしのりが東大一直線の東大通(とおる)に 感情移入していたように、 作者は物語の中心になる異常者に感情移入し 自己を投影させているにも関わらず 商品としての水準に持っていくためには、 自己の投影である異常者に対して、常識の側からツッコミを入れ 常識が勝つところで物語を終えねばならない。 創作物を作る原動力としては主観の暴走があるのだが 水準を高めるためのバランス感覚として主観を客観視することも できなくてはならない。 この主観と客観のバランスが自分の中で上手く保てない。 客観だけでは、既存の物語のパターンをなぞるだけで終わってしまうし 主観だけでは独りよがりな自分語りになってしまう。 私はお酒を飲めないのですが、酒の酔ったような感じで、 自分に酔って、俺って天才だぜ!つって主観の暴走でワーーッと 創作物を作って、チェック用に一端醒まして客観視したら 周りに迷惑掛け倒しの悲惨な状況に自己嫌悪。 以上、ここ数ヶ月の愚痴でした。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□