■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 140号    2005/10/1発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1素の自分 詩のボクシングから少し離れながら、もう少し 「素の自分」という概念について書いてみたい。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/138gou.txt マラソンリーディング http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/111gou.txt に参加させていただいたときに、 そこで朗読される短歌が大きく三つに分かれているような気がしました。 a.高校生・大学生の叙情詩(学園ラブコメ) b.社会人の口語叙景詩(自虐的な笑い) c.定年退職者の文語叙景詩(追悼歌・挽歌) a.書店で携帯短歌みたいな本をみると 「2を二回 3を三回 押すだけで あなたにとどく 私の気持ち」 というような(記憶はあいまいですが)短歌が載っていて 携帯電話の2を二回、3を三回押すとメールで「すき」という 文字が出るのですが、携帯世代の恋愛短歌みたいな物が あるわけです。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/125gou.txt テノヒラタンカというのは、まさにそのあたりの、 学生たちをターゲットに、学園を舞台にした、叙情的な短歌ですね。 b.は斉藤斎藤さんや穂村弘さん辺りで 「ひらたい床でつまづく 何もなかったように 会社は続く」 というような(斉藤斎藤さんの短歌でこのようなのがあったはず・・ 短歌の細部が間違っていたらごめんなさい。) 情景描写だけれども、笑いを誘うようなものです。 穂村弘さんの本ですと、大きくなったら、何になろう? と色々空想をめぐらせていて、ふと、我に返ると、 そういえば俺、もう大きくなってるんだと、 40歳の自分に気付くという話があったりします。 c.は、実際にその人が定年退職してるかどうかというより 私の目からはそう見えたというだけですが、 同期の短歌同人で亡くなった方へ捧げる追悼歌を読まれる方々が いて、例えば、アザミという花の叙景詩だったりするのですが アザミは先日亡くなった短歌同人の何々さんが好きな花で 何々さんの短歌にはよくアザミが出てきて、 時々何かのきっかけでアザミの花を見つけると、何々さんを思い出す。 みたいな話をしながら、アザミを歌った短歌を詠まれる訳です。 マラソンリーディングのプログラム自体が 新人からベテランへという流れになっていたからか 最初、学校を舞台にした恋愛短歌が主流だったのが、 徐々にコミカルな感じのものになり、 最後、追悼歌が増えてくるという流れでした。 若い頃の自分は、c)のようなものが大嫌いだったわけですよ。 「朝露にぬれたアザミが道端から顔を出しているなぁ」 みたいな叙景詩を、文語で詠まれても、 だからどうしたとしか思わないわけです。 まず、叙景詩というのは何が言いたいのかわからない。 次に、文語は何を言っているのかわからない。 古い言葉を使うと、なんとなく権威があって 偉そうな感じがするじゃん? 「むかし」のことを「いにしえ」と言ったり、 「かみなり」のことを「いかずち」と言ったりすると なんとなく詩的な感じがするかもしれないが 同時にその言い換えが、 いかにも小手先で薄っぺらな印象を与えるじゃん? 言葉の機能は、意味を伝えることが第一な訳で わざと普段使わないような文語でカッコつけてるのは 大嫌いだったわけです。 さらに言うと、何々さんへの追悼歌で、何々さんが好きだった アザミの花を詠むことで、何々さんを思い起こさせるという技法もね 俺のような短歌同人に入ってない部外者は 何々さんを知らないわけで、さらに 何々さんがアザミの花を好きだったとか 何々さんがアザミの花について歌った短歌でどんなのがあるとか 知らないわけですよ。 同人の外にいる人間にそんな歌詠んで伝わるのかって話ですよ。 結局、何々さんを知っている同人内での内輪受けじゃん? 同人に入ってない外部の人の視線を意識してないわけじゃん? 言葉というのは、知っている人が知らない人に伝える物である以上 何々さんを知らない人が見ても分かる短歌じゃなきゃダメなわけよ。 何々さんを知っている人しか分からない短歌じゃん、そんなの。 何々さんを知っている人は、言わなくても分かってるんだから 言う必要ないし、そんなの言葉としての機能を果たしてないじゃん? と思っていたわけですよ。若い頃の私は。 上に挙げたa.b.c.の三つは、「素の自分」について書いたメルマガで http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/138gou.txt 「本当の私」「等身大の私」「素の自分」について書いたのと ほぼ同じなんですね。 a.の短歌は、私の気持ちをあの人に伝えたら、 あの人はどんな風に私のことを思うでしょう? みたいな世界で、言葉を発している地点を基点にすると、 未来に対する期待や不安を描いてます。 b.の短歌は、子供の頃、描いていた将来の夢と 現在の自分とのギャップをコミカルに描いてます。 言葉を発している地点を基点にすると、 過去から見た現在の自分と 現在からみた現在の自分との差を笑いに転化しようとしてます。 ここで言葉は、言葉を発している現在を描いてます。 c.の短歌は、亡くなった人と自分との思い出を描いてます。 言葉を発している地点を基点とすると、 過去を描いているわけです。 2言葉はどのようにして意味を発生させるのか 詩が言葉で書かれる以上、詩について考えるときに 言葉について考えるのも意味のあることだと思う。 文章を分解していったとき、 意味の発生する最小単位が単語だという。 個々の単語が、何故、どのような意味を持つのか? ソクラテスだかなんだかは「想起」という言葉を使った。 言葉を知らない赤ん坊に、「パパですよ」「ママですよ」と 話し掛ける。何度も話し掛けるうちに papaという音のとき、ある特定の人物の顔が 繰り返されることに気付く。 papaという音によって、その同じ音を聞いたときの経験が 思い出されることによって、papaという音と、パパという経験が 一致し、「papa=お父さん」という意味が想い起こされる。 想起とはそのような意味だ。 この想起する記憶が、個人の経験に基づくのか 社会の経験に基づくのかという問題もある。 「韻とリズム」について話そうとすると 「韻(rhyme)もリズム(rhythm)も語源は同じであり、 同義反復だ。」みたいな批判をする人がいる。 私個人の経験からすると、韻とリズムは別の単語、 別の意味として経験しているのだが、 それを批判する人は、英語圏の社会の記憶(語源)に基づいて 批判をしてくる。 個々の単語を、いま現在使われている意味ではなく 元々その社会でどのような意味をもつ単語として生まれたのかを 説いて正しい意味(=語源)を個々の単語に適用しようとする。 個々の単語に、千年二千年前から続く歴史や社会の持つ記憶が 宿っているという考え方と 個々の単語には、三歳の子であれば三歳の子にとっての経験や 記憶に基づく意味しか発生しないという考え方がある。 今回は、個々の単語は、その単語を発したり受け取ったりする 個人の経験しか想い起させないという仮説を採用する。 私が就学前の幼児だった頃、テレビを観ていたら クレアラシルのCMが流れていた。 「恋は方程式のようにむずかしい」 「でも、ニキビの悩みにはクレアラシル」 てなキャッチコピーが流れる。 その地点で、「恋」「方程式」「ニキビ」「クレアラシル」と 知らない単語が連続して出てきて、 個々の単語の意味を親に聞くのですが 「恋とは、異性に対して好きだと思う気持ちだ」とか 「方程式とは中学校で習う計算方法の一つだ」とか 「ニキビというのは顔に出来る吹き出物だ」とか 説明されても、いまいち納得できないわけです。 辞書的な意味での説明をされても、 恋という経験が幼稚園児だった当時の私にはない。 方程式という経験が幼児の私にはない。 ニキビという経験が私にはない。 想い起こすべき過去の経験がないので 個々の単語に辞書的な意味を丸暗記する形でしか対応できない。 結局、親には「大人になれば分かる」と言われてしまう。 この場合、恋とか方程式とかニキビという単語は 将来、私が経験するであろう経験を期待させるものであり、 言葉を発している地点を基準にすると、 経験は未来を指し示してます。 このような単語との関係を仮に(i)としましょう。 個々の単語がどういう意味を持つのかは 受け取る側の人生経験の量によって変化していく仮定します。 幼児期にはすごい速度で新しい単語を次から次に覚えていきます。 親も子供に言葉を教えようと、絵本を読み聞かせたり、 「はたらく自動車」とか「どうぶつ大好き」とかいう 図鑑を買い与えたりして、子供は くまさん、ぞうさん、きりんさん、らいおんさんと 単語を覚えていくわけです。 テレビの子供番組で、ゾウさんやクマさんやキリンさんの ぬいぐるみを見て、絵本や図鑑で色んなどうぶつの写真や絵を見て 単語を覚えるわけです。 でもそれは、本物のくまさんやぞうさんではないし、 実際に動物園で見たら、絵本ほどかわいくなかったり すごくくさい臭いがしたり、大きくて怖かったりするわけです。 実際に個々の単語を経験することで、 頭で理解していたゾウさんやクマさんと、 現実に目の前にいるゾウさんやクマさんを一致させて、 頭の中の概念を少しづつ修正していく。 この段階を仮に(ii)としましょう。 このとき、言葉を発している地点を基準とすると 経験は現在を指し示します。 ちょっと脱線しますが、先日、 「上野でイラン人が売っている偽造テレカが・・」 というフレーズに出会って、その瞬間 頭にすごいフラッシュバックが起きたんですね。 いまの若い人が「テレカ」を知っているかどうか自体が怪しくて さらにいえば、一定以上年配の方がテレカを 知っているかどうかも怪しくて、 ある一定の世代しか知らない単語なわけです。 現在ではほぼ死語になりつつあるテレカが ある一定の時期に爆発的に売れて、その後消えてしまった かつての最先端であり、レトロフューチャーであり、 テクノノスタルジアであるのです。 テレカの説明をすると、テレホンカードの略で 1980年代半ばに流通し始めて1990年代半ばに 携帯電話の普及と共に消えたプリペイドカードですね。 10円玉を持ち運ばなくてもこのカードを入れれば、 電話が掛けられる。 NTTが発行した斉藤由貴のテレホンカードが 32万円だかのプレミアがついて話題になり アイドルの写真が入ったテレホンカードを 収集するのが社会現象にまでなった。 当時のアイドル雑誌は、アイドルのブロマイドでも トレーディングカードでもポスターでもなく、 テレホンカードをプレゼント企画していた。 アイドルオタクはまず間違いなくテレかを収集していた。 僕らが中学高校ぐらいの頃は、まだ携帯電話がなくて 自分の部屋に自分専用の電話もない時代で、 女の子の家に電話をするといえば、 公衆電話からテレカで電話だったんですよ。 クラスの男子が女の子に告白するというと、 夜8時ごろ公衆電話に集まって「おい、勇気出せよ」 みたいなことを言いながら、電話をかけてた。 1980年代初期に青春を送った人達は常に10円玉を20〜30枚 ポケットに入れて、公衆電話の上に棒状に積んで 電話を掛けていたらしいし、1970年代に青春を送った人は 文通が男女の出会いの場だったりして、クラスの中で きれいな字が書ける人や、きれいな文章が書ける人は、 ラブレターの代筆なんてのもよく頼まれたらしい。 俺らが大学生の頃に携帯電話が出てきたが、 まだ通話料が高くて、大学生はピッチやポケベルが多く 当時の女子高生や女子中学生はポケベルの文字送信を ブラインドタッチできるのが自慢だった。 インターネットの出会い系サイトが出来る少し前の 80年代後半から90年代前半にかけては、 伝言ダイヤルというのがあったり、 「じゃまーる」という雑誌に恋人募集や仲間募集の広告を出すのが 流行ったりしたわけだ。 いまだと携帯かメールなのだろうけど、俺らの時代は 女の子と連絡を取るときはテレカだったわけだ。 テレカという死語を久々に聞いて、 記憶の彼方に真空パックされていた様々な思い出が フラッシュバックするわけだ。 これが、今でも使われている単語だったら何も浮かばないんだよね。 女の子とデートで遊園地に行きましただと、 デートも遊園地も今でも使う単語だし、 過去に行ったかも知れないけど、そんなに懐かしい記憶が 次々に思い出されるわけじゃない。 ある特定の時代、ある特定の世代にだけ通じる言葉の方が 言葉の喚起力が強いわけだ。 懐かしい郷愁を誘う単語は自分の思い出と一体化しているため 思い出と同等の価値を持つ。 昔の卒業アルバムを見たときに、社会的に、歴史的に、芸術的に 何の価値もない写真が、個人的にはすごく高い価値を持つように ある世代にだけ通じる死語が、 ある世代には強い価値を持つわけだ。 この状態の単語との関係を仮に(iii)としましょう。 このとき、言葉を発している地点を基準とすると 経験は遠い過去になります。 i)将来の経験を指す単語 ii)現在の経験をさす単語 iii)過去の経験を指す単語 i)辞書(説明)的な意味しか持たない単語 ii)描いていたイメージと実際とのズレを指す単語 iii)ある特定の時代を強く喚起させ、   郷愁を誘い、思い出と同等の価値を持つ単語 このi)〜iii)と上記のa)〜c)とは一致する。 さらに言えば、「本当の私」「等身大の私」「素の自分」とも 一致する。 個々の単語の意味が、人生経験の量によって、内容によって 変化するとすれば、同じ詩でも、 読み手の人生経験の量や内容によって、 解釈や価値は大きく変化する。 文章でも、情報提供を目的としたような 説明文はi)に属するが、 風景描写や情景描写といった描写一般は 主としてiii)を示し、 その描写の中でも笑いを誘うような物はii)になる。 ベストセラー小説であるにも関わらず、 文学的な評価がなされていない小説として 「Deep Love」があるけど あれは描写が一切なくて、ストーリーの説明、 あらすじだけで構成されている。 あれは、携帯電話への無料メールマガジン小説で 古い携帯の機種だと200字しか受信できない機種もあり 携帯向けのメールマガジンの一回の配信情報量が 600〜800文字が上限と言われている。 その字数制限の中で、次も読みたいと思わせるには 描写なしのあらすじだけになるのは仕方がない。 あの小説は渋谷を舞台にしていて 最初は、携帯メルマガのビラを著者自ら渋谷で配ったという。 内容的には、若い女子高生が繁華街で ホストやスカウトマンに付いていくと こうなりますよという女子高生向けの説明であり、 個々の単語はi)のような意味でしか使われていない。 あの小説が、文壇で高い評価を受けない理由は 色々あると思うが、一番大きいのは 読み手の心を感傷的にしたり、揺さぶったりする 描写がない。iii)のような単語の使い方を していないのが大きい。 情報を提供する説明文であって、 文学的な意味での小説ではないとされるわけだ。 SFだと「アシモフ博士の科学エッセー」などは 科学の情報を提供する説明文であって、 芸術的な意味での評価は皆無だし、 謎解きに力点を絞ったような本格派推理小説も 謎と答えを説明する説明文であって、 もしくはある種のクイズであって、 芸術的には評価されなかったりする。 芸術的評価の対象になろうと思えば、 iii)的な単語の使い方を出来なくてはいけない。 山手線ゲームで「懐かしい物」をお題にするような物だ。 3二十代と三十代 二十代前半の友人が芥川賞を取るために、 芥川賞を主宰している文学界の新人賞、 文学界新人賞を狙って小説を書いていると言う。 1960〜70年代は文系の学生は文学界を読んでなきゃ 馬鹿にされたらしいんだ。 文章の上手い下手は横に置いて、嘘でも一度は文学界の新人賞に 投稿するのがその頃の学生の通過儀礼だったらしいんだ。 俺が学生だった1990年代は文学界や新潮はそういう雑誌ではなくて 葬式と定年退職と職場の統廃合を感傷的に描いた小説ばかり載ってて 自分が三十年間勤め上げた職場が統廃合で無くなってしまう事を 感傷的に描かれても、当時ハタチだった自分にとって 身近には感じられなかった。 変な話、海燕や文藝の方が、学生向けの話を載せてて 地方の高校を出た美術系の専門学校生が初めて東京に来て、 初めてクラブ行って、DJの人と仲良くなって、 自分もDJ初挑戦してとか、バンドやりました 映画撮りました、服作りました、裏原宿で店出しましたみたいな 二十代が主人公の話書いてて、そっちの方がまだしも身近だったし もっと言うと柄谷の探究が載っている群像こそが純文雑誌だった。 「いまは芥川賞や文学界がかっこ良いんですよ」と ハタチの子から聞いて「そうなんだ」と思って、 芥川賞の選考委員の石原慎太郎は、 太陽族という若者たちの代表としてデビューした人だけど 近頃の若い人は自分と携帯電話の話しか書かないと嘆いていて 要は、何で自分たち六十代・七十代の事を書かないのだ。と 言ってんだけどさ。 芥川賞の選考の場で、小説の中に「スタバ」という単語があって みんな意味が分からなくて困っているところを 若者たちの代表石原慎太郎がスタバとはスターバックスのことで、 若者に人気のある喫茶店のことだと、知識を披露したという話が 噂の真相に載っていたりした。 六十代・七十代の選考委員の人達は二十代が主人公で 若者言葉が出てくる小説なんて読みたくないわけだ。 自分たち六十代・七十代が築いた高度成長の偉大さを褒め称えるような 「プロジェクトX」のような小説を求めているわけだ。 俺も学生の頃は通過儀礼で小説書いてみたりもしたわけで そのとき思ったのは、選考委員の人達に媚びて 背伸びして四十代・五十代の大人を描いても、 その人達のことはハタチの自分より、 大人の選考委員の人達の方が詳しいし嘘がばれる。 だったら、自分たち若者の事を書こうと思ったんだけど いざ、自分が三十になって、二十代の人達が創った芝居を観たり 小説読んだりしたときに、二十代の人達が思っているほど 大人は若者に興味がないということに気付く。 二十代の投稿者が何故、六十代・七十代の選考委員世代を 小説中に描かないかって、興味ないし知らないからじゃん? それは選考委員世代から投稿者世代を見ても同じなんだよね。 二十代の人が 「大人たちに反抗する無軌道な若者たちの青春群像」とか描いても そのテーマは1950〜60年代に散々描かれていて 2005年に70歳の人が20歳のときにすでに 映画や小説で観ていたりする。 それと比べて、どこがどう向上しているのか? 若い人間は、舞台を現代にして携帯電話を描くことで 新しさを表現しようとするが、 それは選考委員が経験していない世界を説明するi)的な 言葉の使い方で価値が無いに等しい。 だったら、1950〜60年代を舞台にした 「大人たちに反抗する無軌道な若者たちの青春群像」を いま描いた方がiii)的な豊潤なイメージの連鎖が広がって 全然価値が高いわけ。 具体的に最近芥川賞取った小説みても、 インストールはあきらかに高齢者に取り入ってるし http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/diary12.htm#s15 介護入門も、アメリカ行ってマリファナやっていたドラ息子が 介護必要な事態になったら日本に戻ってきて介護してくれたって話じゃん。 介護されたいんだよ、彼らは。 二十代の投稿者が七十代の選考委員に歩み寄ろうとしたときに 七十代の人達が経験した時代をそのまま書くと、 七十代の人達の方がぜんぜん詳しいし、細部の矛盾が目立ってしまう。 するとどうするかというと、 七十代の人達の先輩達の世界を描くという方法がある。 七十代で選考委員している小説家の人も、若い頃、 何か小説を読んで、その世界に憧れて書き始めたという 好きな小説家がいるはずなんだ。 十代の頃、読んでいた小説の書き手が当時、 仮に六十歳ぐらいだったとしよう。 六十代の人間が自分の人生経験を元に言葉をつむいで その話を読むのが好きな十代の読者がいま選考委員をしているとして 選考委員は、十代の頃、六十代の著者と同時代を経験している。 いま、二十代の投稿者から見て、 五十年長く生きている選考委員が十代の頃、 選考委員より五十年長く生きている著者や先輩たちと 同時代を触れていたとして、今から約百年ぐらい前までは、 選考委員からみて自分が直接触れた同時代として 懐かしく感じられるわけだ。 活字でしか知ることの出来ない歴史上の事実ではなく、 自分が先輩たちから直接見聞きした話、 今では絶版になって手に入らなくなった当時の流行大衆小説家の世界が 百年ほどさかのぼると手に入る。 七十代の人間は百年前の世界を生きた人と同時代を過ごしたが 百年前の世界を直接は生きていないため、 活字でしか時代検証できないという点で 情報の検証可能性において二十代の人間と等価である。 保守主義なんてたがが百年前の前衛じゃないかと竹田青嗣は言ったが こうやって保守主義は生まれるし、その意味で 「都都逸を読め」というアドバイスは正しい。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■ ■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□