■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 138号    2005/8/13発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1「素の自分」とは何か? 詩のボクシングは「素の自分」を表現する場だと 楠さんは言うわけですが、 「素の自分」とは何かを考える上で 似た単語である「本当の私」や「等身大の自分」と 比較するのが適していると思うわけです。 「素の自分」「本当の私」「等身大の自分」個々の単語に分解すると 全部同じ意味ですが、慣用句的に 「素の自分」「本当の私」「等身大の自分」 とカッコでくくったときの 実際の使われ方を見ると あきらかに異なる使われ方をされています。 よく「自分探し」という言葉を聞きますが 自分がどこにいる誰であるのかは 自分が一番よく知っているはずな訳で その自分を自分が探すというのは、 探している自分と、探される自分が 別の自分であることを意味しています。 今ある自分は、自分が何者で、何のために生まれてきて 何のためにここにいるのかも分かっていない 嘘の自分で、 「本当の自分」は、もっと何か立派な使命を持って ここにいるはずで、自分のやるべき何かを見つけることで 私はもっと輝けるはずだ。 というのが自分探しの物語で ここでいう、いまの自分は、 心理学用語で言うところのエゴ=自我で 「本当の私」はスーパーエゴ=超自我です。 いまの自分に対して、自分が理想とするあるべき姿、 理想の自分=本当の私がある。 自分探しとは、自分の理想とする目標が見つからないから探す という物語で、「本当の私」とは「自分の理想像」ですね。 対する「等身大の自分」とは、 理想とする自分の姿があって、 そこに近づくために努力をしているときに どうしても現実の自分と、 理想とする自分の間にギャップが生まれてくる。 理想に近づくための努力の反動物が「等身大の自分」ですね。 例を出すと、ダイエットであと10キロやせたい。 そのために、食事制限をしたり、運動をしたり、 色々するのだけれどもストレスがたまる。 野菜ばかりじゃなくてもっと甘いものも食べたい、 脂っこいものも食べたい。 スポーツも運動もせずにゴロゴロしたい。 そういったときに、ケーキ食べてとんこつラーメンを食べて 家でゴロゴロしているのが「等身大の自分」ですね。 会社に行けば、上司の前では良い部下を演じる。 後輩の前では良い先輩を演じる。 お客さんの前では良き従業員を演じる。 妻の前では良き夫、子供の前では良き父親、 両親に対しては良き息子を演じるのに疲れて、 もっとわがままを言いたい、もっと好き勝手したいというのが 「等身大の自分」ですね。 で、「素の自分」というのは、楠さんがよく使う楠用語ですが、 例として楠さんが語った話ですと 写真が発明されてすぐの頃、現像屋さんに お客が写真を受け取りに行くと、 よく間違えて別の写真を自分が写っている写真だといって 持っていこうとする人がいたと。 普段自分が鏡を見ているときは、 気合を入れて普段より少し良い顔を作っているし みんな自分の顔を「素の自分」の顔よりも良い顔だと思っている。 だから、ぼーっとしているときの顔をパシャっと撮られると 自分が見たこともないブサイクで間抜けな顔が映っていて、 「こんなの俺じゃない」と言うんだけど、 周りの人たちは、「お前よくこんな顔してるよ」 「そうそう、**くんらしい、良い表情撮れているよ」と 言う。これが「素の自分」で、 まず「素の自分」を受け入れるところから 詩のボクシングは始まる。 理想を演じることをやめて、素の自分を受け入れるというのは X−JapanのToshiを「バケモノアゴ男」と呼んだ 新興宗教の教祖と似ているなと思ってしまう。 カッコイイ自分を演じることに疲れたToshiが アゴのしゃくれたバケモノみたいな顔をした素の自分を受け入れ 自ら「バケモノアゴ男」と自分を呼ぶようになる宗教も 良いとか悪いとか言うよりもは、存在している以上は 存在理由があり、存在理由がある以上は、 プラス/マイナスをトータルで計算して プラスになるかどうかは別にして 信者にとってなんらかのプラスがあるものなのでしょう。 「本当の私」「等身大の自分」「素の私」 どれも微妙にニュアンスは違って、 この違いはある種の年齢から来ていると私は感じるわけです。 子供向けのお話、絵本でも漫画でも昔話でも良いのですが そこには「本当の私」が出てきます。 ワンピースという漫画ですと、主人公の少年は海賊になるため 冒険に出ます。 少女漫画やコバルト文庫などの学園ラブコメディでは ある種の素敵な恋愛というのがいっぱい出てきます。 ここでいう海賊や素敵な恋愛が、理想とする自分の姿、 本当の私ですね。 子供にとって、未来は無限の可能性があり、 あんな恋愛が出来たらいいなぁ、 こんな冒険が出来たらいいなぁという理想が 未来に向かって解き放たれています。 これがある程度大人になり、 就職して結婚もしたいい大人となると さすがに、将来の夢は「海賊になること」とか、 言ってられないですし、学園生活でこんな恋愛がしたいとも 言ってられないわけです。 職場において、色んな仕事なり責任なり役割なりが、 自分の肩に掛かってきて、 実際に動いて結果を出さなければいけない。 この場合の、仕事は家庭における育児まで含めて なかなか子供は親の思い通りには育たない。 もちろん日々努力はしているけれども、 ときには全部放り出して「等身大の自分」に戻りたいときもある。 これが定年退職もして、子供も親元から巣立って、 余生は老人二人でのんびりととなったときに 同世代の何人かは他界して、 葬式や通夜に出席することも増えてくると 通夜の席で「故人はこうだったなぁ」 「故人はああだったなぁ」と語られる。 他人に語られる私がまさに、「素の自分」なんですね。 故人となってしまえば、反論することも出来ないわけですから 本人が受け入れる受け入れない以前に「素の自分」しかいなくなる。 素の自分というのは、自分が過去に出した 結果なり成果なりの評価であって 色んな理想を掲げて、色んなことをやって でも結果として、この程度でしかなかったなぁという 「素の自分」は現在から過去に対する視線の投げかけな訳で 未来に対する期待や、現在における自分の行動とは 無関係なわけです。現像された自画像は、過去の自分であり 現在や未来を写すものではありません。 幼児期において視線は主として未来に向けられているのが 壮年期においては現在に向けられ 老年期においては過去に向けられると。 あまり幼児に対して、「彼はこんな人だったね」 「あんな人だったね」と思い出を語り合うこともないし 老人に対して「大きくなったら何になりたい?」とも聞かない。 余生というのは業種にもよるのですが、 アイドル歌手やスポーツ選手などでは 三十代で引退というのはよくある話で、 サッカーWカップの日本代表を見ても三十代は少ないですし 女性アイドル歌手にしても三十代というと、 結婚して引退して子供もいて、育児をしながら たまにバラエティーに出て、現役時代の暴露話をするわけで 確実に余生であり、現役ではないわけです。 ドキュメンタリー番組で、 大学卒業後の22〜23歳でプロ野球に入って、 二年ほど一軍で活躍した後、けがで一年休み、 リハビリも兼ねて二軍を二年経験し、 その後、一軍と二軍を行ったり来たりした後、引退という選手の 30代の選手のインタビューを見ると、 現役時代の自分のプレーを語る姿は確実に余生だし 周囲のその選手を見る目は、 プロ野球選手としては故人を見る目になってる。 「素の自分」を受け入れるというのは、 そういった余生感覚を受け入れる 老後の世界に時間旅行するというのとも 密接に関わっている気もします。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■ ■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□