■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 第128号    2005/4/1発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1震災朗読 1月30日(日) 18:30〜21:00 「新潟震災 被災地のためのチャリティーイベント」が Ben's Cafe(ベンズカフェ) http://www.benscafe.com/ja/ で開かれた。 発起人は、ロックバンド「叫ぶ詩人の会」のドリアン助川であり、 テレビ朝日の深夜番組「金髪先生」で 有名ロックミュージシャンの生涯を授業形式で紹介していた 金髪先生でもある、明川哲也(あきかわてつや) http://www.tetsuya-akikawa.com/ さんだ。 出演は明川さんと Ben’sのオープンマイク司会者稀月真皓(きづきみひろ) http://www.mihiro.net/ さんと 歌人の俵万智(たわらまち) http://gtpweb.net/twr/ さんの三人。 入場は無料で、Ben’sのメニューから一品たのむのみの料金 プラス新潟震災被災地のために任意で募金のみ。 募金は赤十字および、中越元気村 http://www.gassan.jp/genkimura/ に寄付され、仮設住宅の設備充実のために役立てられるそうだ。 タイムテーブルは18:30から稀月真皓・明川哲也・俵万智の順で 各45分づつの朗読後、明川哲也さんと俵万智さんのセッションが15分。 セッションは明川さんが当日の新聞のテレビ欄を読み上げ、 明川さんが黙ったところで明川さんの朗読と関連した短歌を 即興で俵さんが詠み、 それに続いて明川さんがまた新聞を読み上げるというのを繰り返す。 客席は立ち見が続出の超満員で、 カフェの外で聞く人や人の多さを見て 店に入るのをあきらめる人も出る。 人数にして70人ほどいたのではないだろうか。 客層は20代〜60代、男女比は半々といったところで、 普段のBen’sより若干平均年齢が高め。 客席には第四回詩のボクシング http://www.asahi-net.or.jp/~DM1K-KSNK/bout.htm 全国大会準チャンピオンのセリザワケイコ http://serizawakeiko.hp.infoseek.co.jp/さん等、 普段Ben’sに来ない人達が明川さん・俵さんという 有名人目的で大勢来ているため、 マイクを握って進行する真皓さんを指して「あの人誰?」 「有名な人なの?」という声が複数飛び交う。 しかも、そう聞いてくる人間が 詩のボクシング関係者だったりするわけで、 この辺以外と交流ないんだなと思う。 真皓さんが二編詩を詠み、即興詩に移った時、 いつものように「今日初めて私を見る方」と言うと 客席の5分の4から手が挙がる。 お題をもらって即興詩をきめると、客席が詩のできに驚いている。 真皓さんの即興詩は常連には見慣れたものだが、 初見の客はやはり驚く。即興詩を二つやって、 真皓さんから、明川さんヘマイクが渡る。 昨日秋葉原から買ってきたばかりという CDコンポをバックに朗読が始まる。 自身の幼い頃の失敗談で笑いを取り、 間にちょっとした話を交えながら リチャード・スターキー(Richard Starkey)の評伝に入る。 明川さんが「この中で、リチャード・スターキーを知っている人?」 と聞いたところ、手を挙げたのが2名のみ。一人、 何をした人か言いそうになるところを、 「しっ!そう、彼はあまり有名な人ではないのです」と始める。 貧乏で文字の読み書きの能力すらあやしく、 仕事も一週間で首になってしまうさえない少年が、 何かむしゃくしゃした気分で 何もかも叩き壊してしまいたい気分だったから という理由で始めたドラム。仕事の合間にドラムを叩き、 ちっさな場末のバーで演奏をしていた彼が、 一本の電話からビートルズのメンバーに迎え入れられ、 指輪(リング)を付けたスターキー、 リング・スターキー、リンゴ・スターになる話をする。 また、いくつかの話を交えながら、次は宮沢賢治の評伝に入る。 俵万智さんの朗読は、 本人曰く名刺代りのサラダ記念日から連作を一編と、 早稲田での学生時代にアナウンス研究会に所属していたこと、 その頃に経験したアナウンス関係のアルバイト歴、 高田馬場駅の構内アナウンスや大学野球のウグイス嬢、 選挙のウグイス嬢などの話や 実際にその時のアナウンスをやってみせるパフォーマンスを披露し、 次回著作に入れるかどうか迷っている短歌連作を一編朗読された。 自作短歌から雑誌に載せる地点で半分を落し、 さらに雑誌から著作にまとめる地点でさらに半分に削る その当落線上にあるという連作が、 新宿のホストクラブに体験取材した連作で、 「純粋に男を愛でるだけならば 私はスマップの方が好き」 という短歌で会場が笑いに包まれる。 次に次回著作へ入れることが確定の連作を詠む。 題材は俵さん自身が第一子出産した体験から得ている 妊娠出産育児にまつわる連作だ。 今回明川さんの朗読をみた第一印象は無骨な人だった。 金髪先生はテレビで何度か観たことがあるが、 今回は金髪ではなくなっていて、 岩石みたいにおっきな人が出てきて 岩石のように素朴な言葉をゴロンと置いていく。 洗練からほど遠い素人のような素朴な言葉だ。 ウグイス嬢の声をやった俵さんのような 声のパフォーマンスをするでもなく、 真皓さんのような即興詩をみせるでもない。 言葉がリズムを刻んだり、 言葉の抑揚が音楽的に聞こえるというわけでもない。 一つ間違うと、詩の朗読とはまったく無関係な 著名人の講演会にすらみえる。 詩の朗読やポエトリーリーディングを広げていこうとすれば、 当然そこにそれまで朗読とは無関係だった著名人が 多数参入してくることはありえる。 そのとき、これがポエトリーだと言えるような 技法や技術が確立されてなければ、 それまで有名人の講演会やトークショーと呼ばれていたものが、 ポエトリーと呼ばれるだけで終わってしまう。 ポエトリーリーディングに特有の固有性や技法がないのなら、 朗読の内容やパフォーマンスに優劣はなく、 あとは知名度の高低だけが残り、 テレビの有名芸能人がポエトリーと称して 講演会やトークショーを開いた地点で、ポエトリーは死んでしまう。 今回の明川さんの朗読がまさにそのような朗読であった。 と言いたいわけではない。ただ、そのようにみえる朗読であった。 パフォーマンスに気を使っていないようにみえる朗読ではあるが、 あらかじめしゃべる内容をすべて頭に叩き込んで、 紙を一切見ずに朗読していたし、明川さんのHPを見る限り、 紙を見ないことにこだわりを持っているらしい。 朗読に合わせて曲が始まったり終わったりする CDコンポの操作も私には不思議であった。 真皓さんは店のCDプレーヤーを自分で動かしていたので、 朗読が終わるたびにブースに駆け込み、 次の曲が始まるまでにCDを止めなければならなかったし、 軽い司会進行の後、朗読をするには またブースにかけこまなければならず、 ことあるごとにステージを駆け下りたり駆け上がったり しなければならなかったのが、明川さんは軽い雑談を終えて 朗読を始めると同時にCDが鳴り始める。 誰もコンポには近づいておらず、 演者はステージから客席を見すえたままで、 演者の両手やポケットを見たがCDコンポのリモコンは見当たらない。 45分という長丁場でCDと一秒のズレもなく朗読を始め、 朗読を終わり、雑談をするのはほぼ不可能だ。 そういった見えない気づかいは多々あるものの、 それでも洗練からほど遠い未加工の岩石のような印象を受ける。 「現代詩手帖特集版 高橋源一郎」 http://tinyurl.com/5f2t4 p30より 現代詩が煮詰まった理由のひとつは、 詩人たちは、ある問題、ある世界に対応して言葉を作るわけですね。 しかし、最初の対応は非常にフレッシュだけれど、 ある時期から現実との対応よりも言葉の洗練が主になっていく。 それは八〇年代の作家が、特に良心的な作家ほど 言葉に対して繊細になっていくというのと同じで、 現実との対応関係がはかれなくなったら、 あとは言葉と向かい合うしかないのです。 1960年代までの日本では純文学は現実を指し示していた。 大衆文学が、現実にはありえないお話を描く フィクションであったとすると、 嘘を書いてはならない私小説は いまでいうルポタージュやドキュメンタリーであった。 柄谷行人の「日本近代文学の起源」 http://tinyurl.com/6qwqt でも読めばわかるが、 明治以前に日本で国といえば出雲の国や越後の国といった国しかなく、 イギリスやフランスという近代国家を意味しなかったわけだ。 ペリーの来航によって外からの軍事力で開国させられた日本が 植民地にならないためには、進んだ先進国に行って 近代国家のシステムを学び、近代システムを日本に輸入し 根付かせる必要があった。 司法立法行政制度・公務員制度・教育制度・軍事制度・医療制度、 それらの近代制度を日本に紹介するのが文学者の仕事であり、 だからこそ文学者=知識人であり、 何か事件が起きるたびに文学者の意見が新聞紙上で求められた。 夏目漱石は民間人として国家予算で外国に行った最初の日本人であり、 18〜19世紀のイギリス文学を日本に紹介する使命を持っていた。 この時代文学者が背負っていた文学とは、 広くは大学の文学部政治学科や文学部経済学科、 文学部社会学科という呼び名に見られるように 文系の学問すべての総称であり、 文学の言葉は世界や学問や現実と結びついており、 大衆文学に見られるような作り話ではありえなかったわけだ。 大正という安定・停滞期を経て、 日本が第二次大戦に破れた1945年、 再び諸外国から近代制度を学び輸入する必要性に迫られた。 敗戦直後当時、小説の神様と呼ばれた志賀直哉は フランス語を日本の国語にしようと提案した。 いまでは冗談のようにみえるが当時は真剣であった。 第一次・第二次世界大戦にみられるような帝国主義時代において、 敗戦国が戦勝国の言葉を国語とするのは当然であり、 日本も多くのアジア諸国に日本語を強制していた。 フランス語は英語圏においてインテリの使う高級な言語であり、 ヨーロッパの伝統的な学問言語であるラテン語とも深くつながっている。 当時の日本の文学者は日本の国語を一度白紙に戻して もう一度ゼロから日本語を作り上げようとしたのだ。 1960年代、大江健三郎・石原慎太郎などの第三の新人達が活躍した。 第三の新人の定義は軍国主義教育ではなく、 民主主義教育を受けて育った人達で、 戦争を知らない子供達を指した。 近代的な民主主義教育を受けた彼らが世に出てきて、 社会の大多数を構成し始めたとき、 進んだ諸外国から近代を輸入するという日本近代文学の目的は達成し、 日本近代文学は終わった。 詳しくは2004年5月号早稲田文学収録の 柄谷行人の「近代文学の終り」でも読んでもらうとしよう。 70年代、日本では内向の世代が登場し、 外国からはアンチロマン・ヌーボロマンと呼ばれる小説が 清水徹によって翻訳・紹介される。 どれもストーリーらしいストーリーはなく、 何十ページもの緻密な情景描写を積み重ねて行く 叙景詩のような小説で、 筋立てのある物語である事を極端に拒んでいる。 80年代には村上春樹が、 一本のストーリーをいくつかの細切れのカードにして、 順番をバラバラに入れ替えて、 さらにいくつかのカードを抜き去さる という手法で処女小説を書き、 高橋源一郎の小説は「無意味」をキーワードに 吉本隆明の「マスイメージ論」 http://tinyurl.com/4b57s で絶賛される。 「川崎徹の無意味講座」 http://tinyurl.com/3ufta 辺りを参照に 高橋源一郎の小説を解説すると、 ある法則の適用範囲外にその法則を適用させて 無意味を生み出した小説ということだろう。 黒板に  「   と書いて 「どうだ」 と言う。当然、周りは意味が分からない。 「じゃあヒントをやろう」 と言って  ゚  と書く。やっぱり意味が分からない。 これが無意味だ。無意味なのだから当然意味が分からない。 ここまで無意味だと何も伝わらないので、 多少分かるようにすると、 バッティングセンターに行くと 機械がボールを飛ばしてくるのでそれを打つ。 これが普通だとすると、スモウセンターというところがあって、 中に入るとまわしを付けた機械がガーーッと こっちに寄り切ってくるので、それを押し返したり投げたりする。 もちろんそんなスモウセンターなんてのはないので無意味だが、 バッティングセンターを知っている人は、 そのスモウセンターもイメージすることができる。 従来の技法で言えば比喩に当たるのだろうが、 「無意味」を強調するそこには、 シニカルな笑いと虚無が入り込む。現実にはありえない 何かを指し示すことで何かを伝えようとする高橋源一郎と、 バラバラになった物語の破片を拾い集めて並べ直しても、 最初っからパーツが足りなくて全体像を構成することが出来ない 村上春樹の小説。 90年代、村上春樹よりも村上春樹的だとされた 保坂和志の小説では最初っから最後まで何も事件が起きない。 穏やかな日常がただひたすら続く。 フランス経由でウラジミール・プロップ http://tinyurl.com/573jl が紹介されて 物語のパターンが31種類しかないとか 一般にも知れ渡り始めたのが1970年代、 仮面ライダーやゴレンジャーの原作者石之森章太郎氏がそのころ、 そういった話をコラムで書いている。 それが「村上龍全エッセイ1976-1981」 http://tinyurl.com/4z7ec になると ハリウッドの人達はこう言い始める。 「物語は二種類しかない。まず穴に落ちる。 そこから這い上がる奴の話と、その中で死んでしまう奴の話だ。」 まず、困難なり課題なりがあって、 サクセスストーリーとお涙頂戴の浪花節がある。 この説話論の中で、パターン通りの良いお話を 大量生産しようとするのが大衆文学だとすると、 パターンから離れようとするのが純文学だ。 物語性を拒否して情景描写だらけになった70年代、 バラバラのパズルの破片にしてしまった村上春樹、 無意味にしてしまった高橋源一郎、 そして、まず穴に落ちない話を書いた保坂和志。 彼らが描く世界は、穴の中で優雅に暮らし外に出ようとしないか、 外に出たら外もまた大きな穴の中だったか、 始めから穴なんてどこにもなかったか。 保坂和志は「書きあぐねている人のための小説入門」 の中で出来事が何も起きない話を書けという。 60〜70年代の間にある断絶は大きい。 60年代現実を指し示す道具であったはずの言葉が、 70年代になって、「犬」なら「犬という概念」を 指し示す言葉でなく、 「犬」や「イヌ」や「いぬ」や「戌」や「狗」といった 文字そのものの造型的な美しさ、 やたらに画数の多い文字を使ったり 見慣れない昔の文字をあててみたりといったことで 文字の持つ視覚的効果や、言葉の持つ音素としての美しさ、 音の連なりとしての言葉にこだわったり、 言葉の喚起する映像的な面白さ、 緻密な情景描写によって読者の内側に想起される 映像の連なりを目的にしたりと、 言葉の意味ではなく、文字の図形的・音素的美しさに関心が移り、 80年代以降は技法そのものが文学の主たる表現対象になっている。 言葉が意味を持たなくなった、 犬なら犬という文字の形であり、音であり、 そこから生まれる読者の犬に対する映像的イメージであったり を意味しても、現実に存在する犬という動物を 意味することがなくなったという認識は、 現在の日本の純文学に触れたことのある人間なら 誰でも持つものだと思う。 これは何もテクスト派のみの責任でもないだろう。 批評に目を向ければ、古典的な実証主義批評、 作者の私生活を丹念に調べ上げ、 小説中に書かれた出来事が作者の私生活中の どの出来事と対応しているのかを探るようなものは時代遅れとなり、 作者の生活や書かれた時代背景を作品から切り離し、 書かれた文章のみを参照とするテクスト派、 そして、時代的にAよりも古いBが Aの影響を受けて書かれたものだと感じられれば、 時代考証的にありえなくても 「BはAの影響を受けている」と書く ストロングリーディングへという流れは、 文学の言葉が現実との対応を持たないことを加速させる。 実際、百年も前の著名作家の表に出ていない文献資料の発掘に、 その作家の旧家を訪ねて、 親戚関係者の家から手紙や日記やノートが出てこないか 訪ねて回って、発掘した資料をマイクロフィルムに撮って、 それを活字に起こし、バラバラの日記や手紙の断片を 年代別に並べて各作品の発表順と照らし合わせて なんていう古典的な実証主義批評よりも、 コナン・ドイルのシャーロックホームズシリーズのファンが、 推理小説の始祖と言われるポーの小説を読んで、 ポーはドイルの影響を受けていると、 少なくとも私はコナン・ドイルのファンでドイルの フィルターを通してポーを読んでいる、 推理小説の始祖であるという先入観を持って読むと 従来推理小説とされてなかったポーの小説のいくつかも、 ドイルの影響下にある推理小説として読めてくる といった展開のストロングリーディングの方が手軽だし、 洗練されているし、読んでても面白い。 そんな時代に明川さんは宮沢賢治やリンゴ・スターの評伝を読む。 言葉と現実の対応が取れていることを前提とした 実証主義批評そのものだ。今の洗練された文学の流れを知らない ド素人なのか、確信的に意味の復権に取り組むレジスタンスなのか 判断に苦しむ。 言葉の音数や音の連なりやイメージの連鎖を洗練させることなく、 ただ言葉が意味を持つことを強く信じて疑わない朗読だ。 俵万智さんの朗読もまた短歌に意味を持たせる朗読であった。 伝統的な短歌は狂歌と違って、文語で歌われるもので、 かつ狂歌のように意味や感情を説明するのではなく、 情景描写によってそれとなく風情や感情を伝えなくてはならない。 叙景詩でありながら、叙情詩でもあるという二重性が要求される。 笑いが要求される狂歌と形式は似ていても内容が違う。 文語体で花鳥風月を歌う正統な短歌では、 電子メールによるネット恋愛などという 現代風俗を扱うことが出来ない。新しくても精々百年前の 明治・大正期の短歌が歌っていた内容のままで、 言葉をどう洗練させるかでしかない。 そういった正統な短歌が幅をきかす中で、 サザンオールスターズや新幹線による遠距離不倫を歌った サラダ記念日 http://tinyurl.com/5opje を出版した俵万智は、 現代短歌の立場から正統な短歌との距離を 自覚的に測っているのが客席からも分かる。 新宿のホストクラブへ取材した短歌連作など、 どう考えても文語時代には存在していなかった 概念や語が文語に混じるし、 「純粋に男を愛でるだけならば 私はスマップの方が好き」 なんてのは情景描写でも叙景詩でもなく、 感情の説明であり、笑いを誘う狂歌に近い。 それでも「愛でる」という文語を使い純粋な狂歌とも距離を取る。 ホストクラブに取材した連作の後に詠んだ出産絡みの連作は 次回作品集に入れることが決定しているだけあって、 伝統的な短歌により近い。「出入り口付近は混雑いたしますので、 すいているドアからお乗りください」という高田馬場駅の ウグイス嬢のパフォーマンスは、Ben’s Cafe内でやっても、 カフェに電車が来ていない以上、 意味のない言葉であり現実との対応関係のない、 けれども声の抑揚や美しさ、もしくは声帯模写と言ったレベルで 非常に洗練されたパフォーマンスであった。 それと純粋に意味を伝えようとする 明川さんの朗読は異質にみえる。文章のレベルでも、 それを声に出して読む行為、パフォーマンスのレベルでも、 目にみえる洗練はされていない。 磨かれた宝石や宝石の原石というよりもは生の岩石を ゴロンと転がしたかのようだ。 そしてそれが一周回ってまた新しい朗読に見えることも事実だ。 「現代詩手帖特集版 高橋源一郎」p26より 言葉というものの性質上、 書かれた言葉としゃべられる言葉のダイナミックな対立がいつもある。 洗練は書かれる方向へ進んでいくわけですが、 書かれていった言葉がある限度を超えて、 天井がつっかえたりしているような感覚が支配的になったときに、 それを突破するように口語的表現が現われる。 そのくり返しが文学史なんだ 2イベント情報 4/1(金)SSWS http://www.marz.jp/ssws/index.html 4/2(土)timetrain番外編 http://www.timetrain.org/timetrain_ban.html 4月13日(水)〜16日(土) pp展[session1-3] 【詩と写真の展示】 出展:藍かすみ、石畑由紀子、カワグチタケシ(詩)    イシダヒデユキ(写真) 時間:11:00〜18:00(最終日は17:00まで) 料金:無料(14日18〜20時はウェルカムドリンクを御用意しております) 会場:3144 omotesando gallery(東京都港区南青山3-14-4)  問:080-5651-3144(3144 omotesando gallery) http://www.syfte.jp/ 会場の地図 http://3144omotesando.com/ 5/6(金)SSWS 6/3(金)SSWSチャンピオントーナメント http://www.marz.jp/ssws/index.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■ ■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□