■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 号外    2004/10/15発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1ごあいさつ 体調壊していた木棚です。マラソンリーディングのレポートや感想を もうちょっと書こうと思ったのですが、止めました。 個人的には穂村さんの朗読が面白くて、 「日記を読みます」と言われて始められた朗読は 「ハレー彗星のように、 星や彗星に自分の名前をつけるのはロマンチックだし、 **・++彗星のように、 同時に別の場所で発見した二人の名前が併記されるのも 同じ時間に別の場所で別の人間が同じ星を見ていたという 別の意味のロマンチズムがあるが、 クロイツフェルト−ヤコブ病やハンセン病のように、 ウィルスや病気に自分の名を冠されるのは嫌な気分だ。 友人が自分の名前が関されたウィルスで死んだと言われると 自分が悪く無くても、俺が殺したような気分になる。 これが、体液の場合はどうだろう。カウパー液のように、 体液の発見者として、自分の名前が冠される場合、 俺の大好きな女の子の体の中にも、俺の友人や知人の体の中にも 俺の名前を冠した体液が流れている。複雑な気分だ。」 と言ったシュールな内容を淡々と小さな声で静かに読み上げる形式で、 大声で笑いを取りにいくタイプの朗読より、 同じ笑いでも自分好みのものであった。 2朗読のトラック 最近みひろさんのCDを聴きながら、 なんだかなぁと思ったりしつつですね。 みひろさんのCDは全部バックトラックが付いているのですが カラオケなんかでよくあるトラックに朗読を乗せてて いわゆる普通の歌謡曲に聞こえると。 特別、歌が上手いとか演奏が上手いとか、詩やメロディが独創的とか そういう印象がない。 国語の授業などでやるノーマルな朗読と、 音楽の授業なんかでやるノーマルな歌唱の間に ポエトリーリーディングとかSLAMとか言われる 歌と朗読の中間みたいな形式があると知って、そこに対する興味で このジャンルに接してきた自分としては、 アカペラでリズミカルに喋りまくる映画のSLAM http://tinyurl.com/5zj5j や青木研二さんのファーストシングル「ビフィズス菌」の ハンド=クラップ(手拍子)や机をゲンコツで叩く音や、 靴で床を蹴る音(タップダンス)を多用した楽器を使わない朗読、 馬野幹さんの指パッチんや手で太腿や体を叩いてリズムを取る朗読辺りは ポエトリーだ!スラムだ!と思うが ノーマルなカラオケトラックが入ると 歌謡曲と区別がつかなくなる。 逆に世間で音楽とされているものでも、バックトラックなしで歌うと 朗読と区別のつかないものも多い。 尾崎豊の曲で「15の夜」の場合 「大人達は心を捨てろ捨てろと言うが、俺は嫌なのさ〜/ とにかくもう、学校や家には、帰りたくな〜い〜」 というフレーズの「大人達は心を捨てろ捨てろと言うが」や 「とにかくもう、学校や家には」は明らかにしゃべっている。 このしゃべっているパートから自然に「俺は嫌なのさ〜」や 「帰りたくな〜い〜」と歌い出す。 このしゃべりや朗読のパートから 歌に繋がるブリッジ部が、俺にとってSLAMだったわけで、 すると、トラックがなければ尾崎豊でもポエトリーなのか?とか トラックがあれば、ポエトリーも歌謡曲になってしまうのか?と言った 疑問が浮かんでくる。 仮にポエトリーやSLAMをしゃべり=朗読と音楽=歌唱の つなぎ目だと解釈すると、ミュージカルやオペラてのは、 典型的なポエトリーだ。 「しゃべっているところから、 いきなり歌い出すミュージカルの不自然さが嫌だ」とする タモリのミュージカル批判は、しゃべりと歌のつなぎ目=SLAM部の 不自然さ批判であり、上記の「15の夜」や 笠置シヅ子 http://tinyurl.com/6733f の「買い物ブギ」のような歌としゃべりが 自然とつながっている物に対してはなされないように思う。 何しろタモリはジブラと即興ラップをするほど、 歌としゃべりの境界に対して関心の高い人だ。 ミュージカルやオペラはそのルーツからして しゃべり=セリフと音楽=歌唱の境界を埋めるジャンルとして スタートしているが、オペラならイタリア語の台詞の イントネーションがそのままメロディになるよう出来ているし ミュージカルなら英語の台詞のイントネーションが そのままメロディーになるように出来ている。 この言葉なら、このイントネーションだから、このメロディ となるわけだから、作詞=作曲なわけだ。 言葉の意味だけでなく、 イントネーション=メロディで言葉を選ぶわけだ。 だから、翻訳物のオペラやミュージカルはダメだという話もよく分かる。 日本語に意訳した地点で、英語のイントネーションに合わせた ミュージカルのメロディは、日本語のイントネーションからかけ離れる。 だからミュージカルは日本語で作られたものじゃなきゃいけない というのだが、日本語で作られたミュージカルというのを 俺は見たことがない。 劇団四季のミュージカルも多少見たことがあるが、 やっぱり歌と台詞のつなぎ目は不自然だった。 最近、日本語のイントネーションとメロディの一致でビックリしたのは アニメの「ピーターパン2〜ネバーランドの冒険」 http://tinyurl.com/4hygs で、 洋画アニメの中に出てくるミュージカルって、 日本語のイントネーションとの整合性でみても、 結構クォリティー高いなと思う。 普通の歌唱はバックトラックに合わせてリズムを取り メロディに合わせて声を出す。 しゃべりとか朗読ってのは自分のリズム、自分の音域で話す。 アカペラで人の朗読を聴いていると、誰もそれを音楽だとは思わない。 けれども、自然な朗読というのは、必ずどこかで息継ぎをするし 息継ぎのタイミングは常に一定だ。 意識して変則的なリズムを作っているジュテーム北村さんや 究極Q太郎さんを除くと、息継ぎから息継ぎまでの音数は たいてい一定の範囲内に収まる。 普通の人で8音、朗読慣れした人で16音、 一息で長セリフを一気に言うのが売りの人で32音〜64音前後、 心太祭(ところてんまつり) http://www.poeca.net/cgi/db.cgi?action=details&code=1196 での上田假奈代さんが3音・6音を基本とした変則的なリズムで 即席で集められたらしいバックバンドのドラムが、 リズムを刻めずに、ブラシでスネアをシャカシャカ回すだけで どこからどこまで一小節かさえ示せずにいて いらついたことがあったが、 梅島音楽振興会提供「下町ポエトリー・リーディング 」や 「Free jam Session day」、「芸術キャバレー」の即興セッションの場合 そのような不慣れはない。 主催者、もしくは主催者に近い位置に即興ドラマーの人がいて 朗読者の息継ぎから息継ぎまでの音数を数えて、 リズムを刻むことに慣れている。 周囲はそのドラムのリズムに合わせて演奏する。 歌唱する人でなく、朗読する人の声はたいてい、 同じ音程で発声を始める。 本人にとっての自然な発声の音程が しょっちゅう変わるということはまずありえない。 すると、その音をルート音、もしくは構成音に含むコードを リズムギターが刻む。 一人の朗読者に対して、その人に合うコード音を一度みつけたら 後は、どの朗読に対しても常にそのコードを弾けば良いのだから 伴奏はかなり楽だ。ホーボーだの、 ウディ=ガスリー(Woody Guthrie)だのてのも http://tinyurl.com/6rw28 たぶん、そんなんだったと思うわけだ。 コードなんて二つあれば充分だと言ってのけたウディ=ガズリーてのも 朗読者の声に対して、一個コードがあれば、 そんなにそんなに音程が変わるもんでもないという発想だったと思うんだ。 起承転結でいうと、転の部分で、聴いている人の目先を変えるために もう一個コードを使うにせよ、二個あれば十分てのは 音楽=歌唱やってる人の発想じゃないし、 ボーカル=朗読者の音程が たいして変化しないことが前提になってる。 フォークソングって言っても、 自分のしゃべりに合うコードを一個見つけて それをずっと弾きながらしゃべってるのを聴いていると いわゆる朗読だなと感じる。 しゃべっている人のリズムに合わせてドラムを刻んで しゃべっている人の音程に合わせてコードが鳴ると 朗読なのか音楽なのか段々分からなくなる。 そこへみひろさんのCDや 青木研二さんの2ndシングル「just a friends」 辺りを聴くと、なんだかなと思う。 青木さんのセカンドシングルに関して言うと DJの人が即興的に青木さんのバックをやっている。 DJ+MCという楽器構成だけ見るとHIP−HOPっぽいし SLAMっぽくも感じるが、 DJの中にはコード感のない人が多いし MCの声に合ったコードがこれで、 そのコードを使っている曲のこのパートを使ってとか 考えてないと思うんだ。洋楽のHIP−HOPでも 基本は33回転のレコードを45回転で使って、 コード感なくしてリズム隊として使っているわけで DJが朗読者の音程に合ったコードを出すより MCがレコードに合わせるわけで。 みひろさんのCDも、バックトラック作ったギタリストの人が どこまでみひろさんの朗読のリズムや音程を意識して それに合わせていたかと思うと、 他人の朗読に合わせた演奏をするだけの技術がない人が 作っているように見えるし、 少なくともポエトリーやSLAMやを聴いたことがない人、 ポエトリーのジャムセッションに参加したことがない人が 作っていると感じる。 最近のポエトリー音源だと、カワグチタケシさんのカセットは 割と良かったと思う。 ボーカルが歌わずにしゃべって、その変わらない音程に対して 伴奏を付けるという形式で言うと、日本のアイドルポップスは 典型的なポエトリーだと感じる。 アイドルポップスと言っても、聖子や明菜や安室と言った 歌唱力のある人や、山口百恵のような努力をする人でなく はなっから歌う気のない 菊池桃子・小倉優子・角川の女優系アイドル・声優系アイドル 辺りがそうで、女優・俳優系は本業の映画やドラマが忙しいから 歌の練習なんかやってられないし、 常に裏声でしゃべっている菊池桃子や声優系は、 裏声の音域で歌うという無茶はできないわけで アニメキャラの声で出せるしゃべりの音域内で バックトラックを作るわけで良くも悪くもポエトリーっぽくなる。 (もっとも、実際の声優系アイドルのCDを聴くと、 アニメキャラの声でなく、地声で歌っているものや、 アニメキャラの声でラジオドラマをやっている物が多く、 そこまでポエトリーポエトリーはしてないが) 俳優系で言うと左とん平の「ヘイ・ユー・ブルース」 http://tinyurl.com/4k6t7 は有名だが 柴田恭平なんかも大概にしゃべっていてすごい。 3文学イベント情報 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 青木研二さんより 10/15渋谷アピア(03-3464-9590 渋谷区桜ヶ丘町3-15)でライブします。 ぜひ、遊びにきてくだされ・ 開場18時30開演18:50分出番20時前。 料金前2000円当日2300円ともにドリンクオーダー。 ではでは。ご来場、心よりおまちしてます 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 川村龍俊(かわむら・たつとし)さんからの投稿です。 ★高橋昭八郎展記念シンポジウム 10月23日(土)18:00〜21:00 会場:ワタリウム美術館2階 プログラム・ドキュメンタリービデオ上映 「Edge 高橋昭八郎編〜ことばを超え、境界を超える詩」 ・講演「視覚詩の歴史と高橋昭八郎」建畠哲(美術評論家、詩人、多摩美術大学教 授) ・リーディング:高橋昭八朗、白石かずこ(詩人) ・シンポジウム「オブジェとアートに架橋する詩」高橋昭八郎、建畠哲、城戸朱理 (詩人)、石田瑞穂(詩人) http://www.watarium.co.jp/exhibition/0410larryclark/takahashi/index.htm 参加費:2.800円(要予約) *申し込み・お問い合せはワタリウム美術館 【eメール:official@watarium.co.jp ファクス:03-3405-7714】まで。 ミュージアム・ショップ オン・サンデーズ http://www.watarium.co.jp/onsundays/ 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3-7-6 TEL: 03-3470-1424 / FAX: 03-3478-0809 年内は12月30日まで無休で営業 〜〜〜〜〜〜〜 2004年11月14日(日)11:00〜終了16:00 「文学フリマ」 会場:秋葉原 東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室 http://bungaku.webin.jp/ モリマサ公さん&花本武さんの「雑詩」も出店します。 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□