■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 号外    2004/9/13発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 目次 1ごあいさつ 2詩のボクシング千葉大会本選から 3詩とはなにか 4二種類の外国語教育 5コノテーション 6シュール・叙景詩の詠みかた 7朗読イベント情報 1ごあいさつ 宗前庸子さんにマラソンリーディングのチケットを買って頂きました。 なぜか、「20円多くやるよ」と言われ、2020円頂きました。 この20円は2020年までに返せば良いのだと勝手に思いました。 ありがとうございます。 最近、メルマガを書いて、後悔することが多い。 あきらかに質が落ちて量が増えてる。 まあいい。チリも積もればアンデス山脈。 2詩のボクシング千葉大会本選から 今回、詩のボクシングの決勝前、 休憩時間にある人としゃべっていて その人が言ったのですが 「自分の採点で勝っている人と ことごとく逆の人が勝つ」てなことが言われて 「自分は音声でなく、 どうしてもテキストに直して見てしまう癖があって そうすると、セリザワさんの準決勝のネタは 構造が単純過ぎるだろと思ってしまう」 てなことを言われていました。 私は「その人がよく出ているBen‘sのスラムと違って 詩のボクシングは高齢者や子供が多い奇聞屋の客層なんだ」 と答えました。 準決勝は五十嵐さん・土ヤさんが落ちて、 みどいしさん、セリザワさんが勝ちました。 これはコノテーションによる伝達をしている側が落ちて コノテーションによる伝達をしていない側、 説話論的な物語を語った側が勝ったわけです。 これは叙景詩を専門にする人からすると 非常に辛い結果だと思います。 ここで、コノテーションや説話論といった 専門用語の解説をしても良いのですが それは少し後に回して、詩とは何かについて 個人的に思うことを書いてみます。 3詩とは何か 私は過去のメルマガで詩の定義として 翻訳されたものと書いてます。 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/64gou.txt 自分の中で確信はないのですが、 意味以外の物を翻訳していると 詩だと感じます。意訳だけじゃない翻訳ですね。 例えば洋楽を日本語で歌う時 意訳だけじゃなくて、 譜面に合うよう音数も整えなくてはいけないでしょう。 古くはスコットランド民謡の「蛍の光」から Winkの「愛が止まらない」まである 洋楽の日本語カバーはまず、音数も合わさなきゃいけない。 これは詩でしょう。 CPUメーカーのインテルが“Intel inside”という キャッチコピーを使っているのですが これを日本語にやくすときに「中身はインテルです」と 意味のみを訳してしまうとダメでしょう。 インテル・インサイドという頭韻の持つゴロが キャッチコピーとしては大事なのであって 本来意味なんて重要じゃないわけです。 そこで「インテル入ってる」という訳が生まれる。 これは詩でしょう。 私はこれまで、意味のみを訳すのではなく 音数や韻も含めて訳すのが詩だと思って来ました。 だから、メルマガでも韻と拍、 リズム&ライムの話をしてきたのですが 今回思ったのはコノテーション(connotation)を 訳すのも重要な詩の役目だろうと思ったわけです。 ある発展途上国の恋愛小説の中に 「肌艶の良い子豚のように丸々と太った若い女性が〜」 と書いてあったとしましょう。 発展途上国では、 太っている=裕福・育ちが良い・栄養状態が良い というイメージがあり、 やせている=貧しい・育ちが悪い・栄養状態が悪い というイメージがある。 つまり、恋愛小説の中で美人を指し示す描写として 「肌艶の良い子豚のように丸々と太った若い女性が〜」 と書いているのが、そのまま訳して先進国へ持って行くと 太っている=自己管理が出来ていない・育ちが悪い・不健康な という意味になってしまうわけです。 太っていることが即、「自己管理能力がない」と能力に結びついたり 「カロリー計算をする教育を受けていない=教育程度の低い =育ちの悪い」という、人間失格レベルの意味になってしまいます。 実際、欧米では太っていることが 新入社員の採用試験で落す正式な理由になったりするわけです。 こうなると、「太っている」という語に対して、辞書通りの訳を与えても 意味をなさないわけです。 異なる文化圏では、太っているということに対する、 社会的な意味やポジションやイメージがまったく違うからです。 美人ということを伝えるために、太っているという描写が出てくるなら 「グラマーな」とか「スタイルの良い」とか「健康的な」とか 別の単語をあてなくてはいけない。 これは詩でしょう。 コノテーションてのは通常「言外の意味」と訳されるのですが コノテーションで物を伝える表現ジャンルのことを文学とか文芸と言い、 コノテーションを使わずに物を伝える表現ジャンルのことを 説明文とか批評とか論文と言います。 詩や小説で感動を伝えたい時、「感動」と書いてはいけないんですね。 感動の超大作を書こうと思って「感動の超大作」と書いてしまっては 詩でも小説でもない。 感動させる何かを書かなきゃいけないんで、 「感動」と書いちゃいけない。 それと同じで、楽しいとか悲しいとか切ないとか嬉しいとか 伝える時には、そう書かずに、そういう感情が起きるような 描写を入れなきゃいけない。 描写で物を伝えようとすれば、 言外の意味(コノテーション)で物を伝えることになります。 美人を表現するのに美人と書かずに 「肌艶の良い子豚のように丸々と太った若い女性が〜」 と書いて、聞き手に美人だと感じさせるのが 描写であり、文芸だと。 日記13 5/10参照 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/diary13.htm#n23 言外の意味には、公共に認められた意味 (Ex「blue」の直接の意味は「青い」だが  公共に認められた言外の意味として「憂鬱」がある。) と私的な意味 (Exわさびがまったくダメな人にとって、 わさびの色やわさび入りの青み魚の寿司は辛過ぎるかもしれない。 青=辛いという私的な言外の意味が発生して、 「口の中が真っ青になった」などという表現が生まれる可能性はある) がある。 4二種類の外国語教育 元々、明治維新の時、島国である日本で、外国語を学ぶ目的としては、 先進国の優れた専門書・学術書を翻訳して輸入するのが目的であった。 島国なので外国人と直接話す機会は少ない。 第二次大戦前の日本の外国語教育は、外国語で書かれた学術書・研究書を いきなり読むところから始めた。 外国語での日常会話も出来ないのに、 いきなり専門書では難しいのじゃないかと思うかもしれないが 父の仕事でドイツにいた頃、幼稚園にいる私を迎えに来て 自分の知らないドイツ語を話す幼稚園の先生を見て 当時幼児であった私に「いまなんと言ったんだ」と聞いた。 「お片づけをしなさい」と先生は言ったのだが、 自分の分野の専門書を読める能力を持った父が 必ずしも日常会話が出来るわけではなかった。 パソコンのプログラマーの場合、 マイクロソフトが二年に一回、新しいOSを出すと宣言していて 古いOS上でしか動かないソフトはすぐに売れなくなること、 ソフトの開発に一年掛かることを考えると、 新しいOSの仕様が発表されれば すぐにそのOS上で動くソフトを開発し 一年以内に完成させて一年以内に売り切って、 次の年にはまた新しいOS上で開発しなければならない。 新しいOSの仕様書や説明書の日本語版が出るのに 一年から一年半掛かる事を考えると、 仕様書や説明書を英語で読めることがプログラマーとして 最低限必要な能力になる。 医者や物理学者にドイツ語が要求されるのも 似たような状態だ。 特定の専門分野でトップに立とうとすると その分野の研究が進んだ国の言語を どうしても学ばなければならなくなる。 翻訳書が出てから読んだのでは 場合によっては5年10年遅れてしまう。 専門用語は日本語よりも外国語の方が 使いやすいという場合も多い。 野球の専門用語で、ストライクやボールのことを、 戦時中は「よし」「ダメ」と言ったらしいが 無理に日本語にするよりストライク/ボールと言った方が 分かりやすい。車のハンドルのことも操縦管と言うより ハンドルと言った方が分かりやすかったりする。 ストライク・ボール・バッター・ピッチャーといった 英語の専門用語を分かる専門家が、 英語の日常会話が出来るかというと、そこはまた別問題になる。 また、日本語で日常会話が出来て、 英語でパソコンの専門書を読める人が 英語の専門書を日本語に翻訳出来るかと言うと 出来ない場合が多い。 人間は物を考える時、一つの言語(ファーストランゲージ) でしか考えていない。 日常会話は日本語で、パソコンやプログラミングに関しては 英語で考える人が、プログラミングに関して日本語で考えるには訓練がいる。 エイズという英語の専門用語を知っている人が、 エイズを日本の専門書では後天性免疫不全症候群と訳されていると 知るには日本語で書かれた初心者向けの専門書を読んで そこで使われている翻訳の前例を知らなくてはいけない。 翻訳をするには同じことを異なる言語で二度考えなくてはならない。 日常会話は日本語で、プログラミングは英語で考える人が 同じことを異なる言語で二度考えているとは考えにくい。 学術書を読んで訳す研究者を育てるための外国語教育とは別に 最近の日本では、海外旅行に行くのも安くなったし、 外国人としゃべるための外国語教育という方向へ 教育方針が変更しています。 早期教育で幼児のうちからネイティブの先生と英語でしゃべる。 そういう英会話教室のCMがよくテレビで流れています。 ヨーロッパのように色んな国が地続きの地域や アメリカのように多種多様な民族や言語圏文化圏の人が 集まる地域では、まともな高等教育を受けてないような人でも 数カ国語をしゃべれたりします。 身近に外国語をしゃべる人がいると、 接しているうちにしゃべれるようになるわけです。 ところが、そういった人達は、学術書に載っているような 込み入った話はしないわけです。 「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」 「ごめんなさい」「さようなら」 せいぜい、「暑い」「寒い」「良い天気だ」「雨が降っている」 ぐらいで、あいさつぐらいはしても、それ以上の話はしない。 日本人でも「こんにちは」だけなら、 五カ国語しゃべれたりします。 「こんにちは」「ハロー」「ボンジュール」 「ニーハオ」「アニョハセヨ」 じゃあこれで、五カ国語話せることになるのかというとあやしい。 少なくとも学術書を翻訳することは出来ない。 では、日本語で書かれた学術書は 日本人なら誰でも読めるのかというと、それもあやしい。 物理学の専門書にしろ、哲学の専門書にしろ、 現代美術の専門書にしろ、 読んでも意味が分からない人の方が多いだろう。 幼児の頃、父の仕事で外国に住んでた時に、 そこでは二年に一回、 自分の家の壁に自分でペンキを塗るんですね。 内装・外装共に。私もお手伝いで部屋の壁にペンキを塗ったり していました。 幼稚園でも、幼稚園の窓に描かれた絵を先生が消して 幼児達が好き勝手に絵を描き直すってのをやっていたのです。 また、自己紹介の時に、むこうでは 名前や年令を言った後、目の色や髪の色についても 自分で言うんですね。 で、日本に戻ってきて、「自己紹介してください」 と言われて、目や髪の色のことを言うと変だと思われる。 自宅の壁に色を塗り出すと、気が狂ったと思われる。 同じ自己紹介でも、自己紹介という語の持つ言外の意味が 国によって違うわけです。 ある国では目の色や髪の色について話すことでもあるのが 日本の自己紹介にそういう意味は無かったり ある国では「壁」という語の持つ言外の意味として 「二年に一回自分でペンキを塗る物」という意味があるのが 日本ではそういう意味はない。 これは言外の意味と言うより、 常識や風習に近いかもしれませんが 外国語を学べば当然、 その語の周りにその国の常識や風習や思考が どうしてもまとわりついて来ます。 幼児期に二カ国語教育をした時に 頭の良い子であれば、Aという国における自己紹介と Bという国における自己紹介を区別出来るかもしれません。 ただ、幼児期から第二次反抗期に掛けては、世間の常識を 知らない状態から身に付けていく過程で、 第二次反抗期になって初めて、 自分の考えと世間の常識が別物である事を認識し 自我が芽生えるわけです。 自我が芽生えるから、大人達や世間や社会や常識を 批判し、自分の考えをぶつけるわけです。 自我が芽生えてない状態で、 二種類の常識を同時に教わるとどうなるか。 お父さんは子供は外で元気に遊びなさいと言う。 お母さんは外は車が走っていて危ないし、 近頃は誘拐とか変な人も多いから家で遊びなさいと言う。 お父さんの言うことは正しいはずだ。 お母さんの言うことも正しいはずだ。 大人が間違ったことを言うわけがない。 でも、僕はどうして良いか分からない。 頭の良い子はお父さんの前の自分と お母さんの前の自分を 使い分けることが出来るかもしれないけど 頭の悪い子はつぶれちゃうわけです。 だから幼児期の早期英語教育は 過剰な言外の意味が発生しない あいさつ止まりになるわけです。 5コノテーション アメリカで、日系じゃない企業で働いて 国際的に活躍したいという大学生が、観光ビザでアメリカ行って 外国語を学ぶ近道であるネイティブの恋人作って 英語をしゃべれるようになったと。 なんかすげーフレンドリーに、 肩組んで相手のほっぺたをグーでグリグリしたり 頭を小突きあったりしているイチャつき写真いっぱい撮って やたらフランクな英語をペラペラしゃべるようになって 戻ってきたんだけど、アメリカで就職試験受けたら 「あなたの英語はビジネス英語じゃない」 と言われて落されたらしいんだ。 まあ、言葉の端々に「シット」とか「ガッデム」とか入る 学生らしい、恋人同士イチャついたり痴話ケンカしたりするには 調度良い英語で、十万円ほど払って一週間ほど ビジネス英語を学んだら採用しても良いと言われたけど 馬鹿馬鹿しいから辞めたつうんだ。 日本語ペラペラの日本人大学生でも、新入社員研修で 一週間ほどあいさつの仕方や電話の応対や名刺交換などを やらされる。 「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」 「申しわけございません」「申し上げる」「おっしゃられる」 「うかがう」「おみえになる」 日本人の大学生でも研修やらないと ビジネス用の日本語が話せなかったりする。 日本の就職試験で日本語の上手な外国人留学生が 「Hey、Yo!イカしたブラザー、BIG.I、 てめぇーのファッキンカンパニーで、 くそったれな労働に従事してやるぜ! よろしくな。」つって手を差し出されても 採用担当者としては、こいつを採用して電話応対させるのは ちょっと不安だと思うんだ。 英語に敬語はないという人もいるが、命令文一つとっても Go/Let‘s go/Shall we go/ You must go/You have to go/ Why don‘t you go?/Will you go/ Would you like go?/ 英語の偏差値30台だった俺の分かる範囲だけで 八種もある。 意味はどれも同じだが、ニュアンスが違う。 おどしに近いものから、懇願まで、 「やれっつってんだろ、コラ」から 「申しわけございませんが、やっていただけないでしょうか?」 まで、内容的には同じだが、言外の意味、ニュアンスが違う。 観光客として海外に行った時に使う外国語は こちらが客だからこちらの意図が伝われば、 言外の意味が失礼になろうが過剰に丁寧だろうが 卑屈だろうが関係ない。 が、仕事でお客さんからお金を受け取る立場で 外国語を使う時には、ニュアンスが重要になる。 お客さんや取引先を交渉・説得する言葉は こちらの意志とあちらの意志が異なるところから始まる。 物を買う意志がない客に物を売らなくてはいけない。 向こうの言い分ではなく、 こちらの言い分を通さなくてはならない。 飛び込みの営業、お客様からのクレーム対応、 競合他社とのプレゼン合戦、 買って欲しいというこちらの意志が伝わるだけではダメで 買ったらどんな良いことがあるのか、 競合他社の製品と比べてどこがどう優れているのか。 同じことを、良いニュアンスの言葉に言い換えたり 悪いニュアンスの言葉に言い換えたり出来なくてはいけない。 「黒い」商品をけなしたい時には「暗いよね」。 ほめたい時には「シックだよね」。 辞書的な意味は同じでも、言外のニュアンスが違う。 「繊細な」商品と言うのか、「軟弱な」商品と言うのか。 ビジネススクールに行くと、 同じ言葉を良い意味に言い換えたり 悪い意味に言い換えたりする練習をさせられる。 仕事で、交渉で、外国語を使うには 言外の意味を知らなくてはならない。 英語圏ではレモンは良い意味なのか悪い意味なのか。 英語が出来ると言った時に、 きれいな発音でペラペラしゃべる幼児のような けれどその言語圏における言外の意味を知らない上手さと、 英語を使ってはいないけれども、 英語圏のコノテーションを伴った日本語を 読み書きするような上手さがある。 個々の単語の直接的な意味は辞書によって示され 個々の単語の言外の意味はその言語で書かれた 国民文学や文学全集で示される。 食事という語を使った時に、 どういう場所でどういう人とどういう会話をしながら どういうテーブルマナーで何を食べるのを 食事と呼ぶのか? そういった言外の意味は辞書よりもむしろ 世界文学全集でも読んでいる人の方が詳しい。 言葉の辞書的な意味を知っていても 言外の意味が分からなければ コミュニケーションが上手くいかない。 「今度一緒に食事をしようよ」 と言われても、マクドナルドに行くのか ナイフとフォークのレストランに行くのか 自宅に招くのか、相手の家でご馳走になるのか 相手の家にうかがう場合は 何か手土産を持って行った方が良いのか 食事の席では仕事上の打ち合わせをするのか それとも友達づきあいなのか、異性としてのデートなのか 共通の文化的基盤があれば言わなくても分かる言外の意味が 相手の文化的土壌を調べないと分からなくなる。 モーニング娘の飯田圭織が、TV収録の本番中でも ときどき「ぼぉー」っとしてて、危なっかしいという話を テレビでモー娘のメンバーがしていて、そのときも 飯田圭織がぼぉーーっとしていて、 「ほらまた、宇宙人と交信している」と 矢口につっこまれたとき、飯田は 「ああ、東京は車が多いから」 と答えているのをテレビで見て 英語的感性のある人だなと思った記憶がある。 柄谷行人はよく交通という語を通信の意味で使う。 日本語の交通には通信の意味はないが、 英語のトラフィックには交通と通信の両方の意味がある。 英語的なコノテーションで物を考えている人は 日本語の交通にも、通信という言外の意味を持たせるし 「宇宙人と交信している」と突っ込まれた飯田も 東京は車が多くてトラフィック・ジャム(交通渋滞)だから メンバーとの通信(トラフィック)も難しいと 言っている訳だ。 まあ、個人的には飯田圭織は、 かなりの柄谷フリークとみた。 このように日本語の中にも 英語的なコノテーションを感じさせる文章もあるし 英語の中にも日本語的なコノテーションを感じさせる文章や 感じさせない文章もある。 例えば四谷怪談はなぜ怖いかと言うと 四は日本では死と同音異義語であり、 死を暗示する数字とされるからだ。 だから、四谷怪談を、フォー・バレー・ホラーと 訳したのでは怖くならない。 デス・バレー・ホラーと訳し、 死の谷の怪談にしなければ、四谷のニュアンスは伝わらない。 コノテーションの翻訳は日本語間でも充分にある。 先に挙げたように、感動を伝えるのに 「感動」と書かずに具体的な小説を書くのも一つだし、 アメリカに住んでいた日本語ペラペラの日本人と しゃべる時に、向こうはアメリカのテレビ番組や アメリカの音楽やアメリカの芸能人しか知らない。 音楽や芸能やテレビの話をしていた時に、 「つんくって誰?」と聞かれて 「つんく自体は固有名詞だから訳しようがないんだけど 音楽プロデューサーで、ミュージシャンとしては それほど売れているわけではなくて、 アイドルグループのプロデュースをしていて・・」 「よくわかんない。  アメリカのミュージシャンで言うと誰?」 相手は日本語ペラペラだけど、ここではあきらかに 翻訳を要求されているわけだ。 アメリカの音楽業界でつんくと似たポジションの人は誰か? 「ドクター・ドレーみたいなものかな?」 「HIP−HOPの人?」 「じゃなくて、フィル=スペクター」 「60年代の人?」 「じゃなくて・・」 こういう連想ゲームはいくらでもある。 洋楽を聴かない友人に「エアロスミスって誰?」と聞かれて 「アメリカの**」と 日本のバンド名で答えなくてはならない時 エアロスミスの持つコノテーションを伝えなくてはならない。 キャリアが長くて、スタジオミュージシャンというよりもは ライブミュージシャンで、ポップスというよりもはロックで 一度売れてから、売れなくなった時期が長くて 売れてない時も地道にツアーを回り続けていて 最近また売れて映画に主題歌を提供したりしていて など考慮しながら、キャリアや売れない時期の長さを考えると RCサクセションかなとか、ルックスや音的には B‘zかなぁとか、いやむしろZIGGYだろうとか。 「こんにちは」を五カ国語で話せるという語彙力ではなく コノテーションによる伝達や翻訳が詩や文芸なんだと 言った時に、辞書に載っている公に認められた コノテーションと、もっと個人的なコノテーションだと 個人的な方がよりコノテーション的なわけだ。 ブルーという言葉を憂鬱の意味で使うのは 辞書にも載っているし、そのまんまな表現だけど からいという意味でブルーを使うと、 よりコノテーション的になる。 回りくどい表現の方が、伝わったときにはより詩的になると。 葬式で死んだおばあちゃんの遺体を描写する時に 「真っ青な顔をして、冷たくなってた」 と書くよりもは、 「鼻に綿が詰まってた」と書いた方が より意外性があり、よりコノテーション的だと。 他の詩や小説で見たことがあるようなありきたりな 表現では意外性がないから聴いている人の心に届かない。 見たことがないような表現や、 見たことがないような言外の意味を 生み出した方が伝わったときは、より心に響く。 感動を伝えたい時に「感動」と書いてしまえば ほぼ100%の人に意味が伝わるが、 感動を伝えるために感動的な表現をしても 100%の人には伝わらない。 言外の意味で伝えると 伝わり方は狭く深くになってゆく。 その言葉の受け手が、言われなければ気付かないだけの意外性と 言い当てられれば、共感出来るだけの整合性が同時に要求される。 夏の思い出を表現するのに セミの鳴き声・麦わら帽子・虫取り網・虫取りカゴ・ カブトムシ・スイカ・線香花火と書いてしまうとベタ過ぎて、 そのままやん。となってしまう。 かといって、俺の下の短編みたいに http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/note.htm#7 夏の思い出を言外の意味で伝えようとして、 カエルの口にちんちん入れてもしゃーないやろと。 意外性と整合性で言うと、いままで見てきた 小説やテレビや映画になかった意外な表現で かつ、自分の経験と照らし合わせてみて 確かにそんな事があったという整合性が要求されるわけで お客さんの経験を言い当てなくてはならないのですが 客層が乳児〜八十代までなんですよ。 会場見ると小学生の集団が八人ぐらいいたり 楠さんから宗前さんへのダメ出しが 「二十代はこう、三十代はこう、四十代はこう、 五十代はこう、六十以上は〜」というネタに対して 「いま平均年令が八十まで上がっているから、 六十代と七十代、七十代と八十代の違いも上手く表現しないと」 ですからね。 Ben‘sの十代後半〜三十前後の客層じゃないんだって。 幼児から八十までみんなが言われれば、 「あるあるある」と共感出来るような経験を 言い当てなくてはいけない。 準決勝でシュールな表現で言外の意味を駆使するタイプの人が消えて 幼児向けの絵本や児童文学系が残るのは 客層が広いもんなぁという辺りでして。 6シュール・叙景詩の詠みかた 叙事詩は説明に近いから良いのだけど、 叙景詩は風景描写で特定の感情を起こさせなきゃいけないわけで だとすると、詠んだ後、少し間をおいて 映像を頭の中でイメージする時間が必要になる。 その辺の間の取り方が、今回、 叙景詩系の人は上手く行ってなかったし セリザワさんやこまっ亭シマウマさんの方が上手かったと思う。 7朗読イベント情報 9/25 マラソンリーディング http://members.at.infoseek.co.jp/TRL2001/new.html 10月10日(日) 鉄腕ポエム5 ■第1部 出演:近藤洋一、桑原滝弥、西野智昭、ジュテーム北村、寺田町、味鼓侍、 ミキ、重兼、AGEHA、大村浩一、花本武、 里宗巧麻、どぶねずみ男、 死紺亭柳竹 開場:13:00 開演:13:30 料金:前売2,000円、当日2,300円(+1ドリンクオーダー) ■第2部 出演:近藤洋一、桑原滝弥、西野智昭、ジュテーム北村、寺田町、 味鼓侍、 荒木巴、ハギー・イルファーン、稀月真皓、レイ、 小笠原淳、 荒川圭一、カワグチタケシ 開場:18:00 開演:18:30 料金:前売2,000円、当日2,300円(+1ドリンクオーダー) ■第1部&第2部通し券 料金:前売3,000円、当日3,500円(+1ドリンクオーダー) 会場:新宿LOFT/PLUS ONE(東京都新宿区歌舞伎町1-14-7 林ビルB2F)  問:090-8047-8673(近藤) http://www.visualize-park.net/tetsuwan-poem/ 会場の地図はこちら↓ http://www.visualize-park.net/tetsuwan-poem/home.html ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□