■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】 号外    2004/8/2発行 ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 1ごあいさつ お久しぶりです。約二十日ぶりとなるメールマガジンです。 東京ポエケットさん http://www.exist.net/poeket/index.html にうかがったり、 第三回溶鉱炉さんにうかがって、 http://www.h4.dion.ne.jp/~narcisse/youkouro.htm 主催の恋川春町さんから「死紺亭さんのお友達の木棚さんです」 と紹介され、 「死紺亭さんのお友達の木棚です」とあいさつして回り、 溶鉱炉では木棚の枕詞に 「死紺亭さんのお友達の」がつくのだということを知ったり、 究極Q太郎さんの「あかね詩の朗読会」にうかがったり、 今日は3K8にうかがったり、 色々、イベントは観ていたのですが、レポートは書かずにいました。 メールマガジンが休んでいる間に、 世間的にも、青山ブックセンターさんが倒産されて、 文学フリマ http://bungaku.webin.jp/ の会場と日時が 2004/11/14(日) 東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第一・第二展示室に 変更されたり、 まあ色々ありました。 2用具連関のために 今日は、ねじめ正一さんという大物ゲストを招いての3K8だったので そのレポートでも書こうかと思ったが気分じゃないのでヤメた。 詩とは何かってのを、アリストテレスの詩学辺りに求めると 元々、「詩」というのは「作る」「創作」を意味する言葉で 舞台芸術全般を意味したらしい。 つまりステージで何かをやるのは全部詩だった。 アリストテレスの時代には識字率が低いので、 「詩」といった時、活字を意味しなかったわけだ。 その詩から、舞踏・ダンスが独立し、喜劇が独立し、 色んな物が分かれていって、残った物が詩になった。 例えば、電話もメールもなかった時代に、 手紙から電報というのが分かれて生まれた。 その時代の電報というのはモールス信号などを使っていたため、 速達よりも早い世界最速のメディアだったと。 電報が生まれると、手紙という手段は電報より遅いメディアになる。 だからといって、 手紙がなくなってすべて電報になるかというとそうではない。 手紙の役割の一部を電報に代わってもらうかわりに、 電報にはない手紙独自の強みにより特化するわけだ。 電報局に印字された電報と違って、 手紙には差出人の手書きという温かみがあるとか 絵を添えることが出来るとか、電報よりも安いとかそういうことだ。 ところが、電話が生まれると、電報の役割の一部は電話に代わられる。 速報性では電話に勝てない。 こうして電報は従来持っていた電報の役割から、 一部を電話に譲り、より電報的な、 電話にも郵便にもない電報独自の役割をより濃くして行く。 詩も同じで、舞台芸術全般を詩と呼んでいた時代があるが、 詩からダンスが分かれ、お笑いが分かれ、 演劇が分かれ、音楽が分かれ、 いまの日本では詩は舞台芸術ではなく、活字になっている。 詩には、抒情詩・叙景詩・叙事詩と3種類あるというが、 叙事詩ってのは、いまでは戯曲と呼ぶならわしになっている。 テレビドラマや映画や舞台の脚本のことだ。 叙事詩ってのはいまでは詩ではなくシナリオと呼ばれているとして 抒情詩てのは英語ではlyric/リリックと言い、 流行歌の歌詞を意味する。 流行歌の歌詞は音楽であり、 狭い意味での文学的な詩じゃないと言い出すと 叙景詩だけが、音楽でもない、演劇でもない、 純粋に文学的な詩になる。 純文学と言われるような小説の世界でも似た事は起きていて 物語やストーリーを描くことはテレビドラマや漫画でも出来るが 活字で映像を描くということだけは、 テレビドラマや漫画では出来ない。 いわゆる、純文学などをみていると、 言葉による情景描写に特化する傾向は強い。 これらの現象は、あるメディアから別のメディアが分派することで 生まれる。 面白いのは綿矢りさの芥川賞受賞でも、 もっと別の純文学の新人賞でも良いのだけれども 高校生や大学生ぐらいの人が受賞する場合、 コバルト文庫や富士見ファンタジアのようなジュニアノベルや 学校の教科書に載っているような小説、 文学全集に入っているような小説を読んで それを純文学小説だと思って書いてくることが多い。 世界文学全集なんてのをみると、 だいたい1930年代以前の文学しか 載っていないことが多いし、学校の教科書に載るのも 1960年代の大江健三郎辺りがまあ、新しい方だと思う。 すると、今の純文学雑誌を読んでいない、 1970年代以降の30〜40年ほどの純文学の成果や流れを 知らずに書いてきたりする。 文学からテレビや漫画が分派する 少し前の文学しか知らずに書いてくるので 微妙にいまの文学の流れからずれていたり、 下手するとあきらかにジュニアノベルを書いてきたりする。 これが同じ芥川賞でもモブ・ノリオになると、30歳越えているし 多少物を分かって書いているので、 いまの純文学のフォーマット通りの物を書いてきたりする。 で、物を知らない十代の子が書いたのより、ちゃんと物を知っている 三十代越えたような人が書いた物の方が面白いかというと そうでもない。 10代の子があきらかにジュニアノベルを書いてきた。 もしくは、あきらかに30〜40年前の、 まだテレビが普及し終わる直前、 文学の役割の一部がテレビに譲渡される前だった頃の 純文学を書いてきたそういう小説で、 無理に今の純文の文脈で読もうとすれば、 実はそれなりに今の純文の文脈でも読めてしまうって方が フォーマット通りの物を書いてくる人のより面白かったりする。 作者が意図する面白さしかない物と 作者の意図を越えた何かが偶然発生する面白さの違いだ。 大衆文学・エンターテイメント小説というのは テレビや漫画をみるのと、同じようにみれなきゃダメなんだけど 吉本隆明の心的現象論序説とか、柄谷の日本近代文学の起源とか あの辺をみていて思うのは、文学研究者が文学をみるとき、 読者=文学研究者が精神分析医になって、 作品=作者=患者の精神分析を行うという形になっている。 作者が気付いていない作者の無意識を読み取るわけだ。 作者の意図する、意識下の面白さでなく、 作者の意図しない、面白い無意識を抱えた作者が書く小説てのが 純文学の一ジャンルとしてある。 日本近代文学の起源によると、日本語・日本文学は 明治期に政府によって人工的に作られたらしい。 同じことはイギリスやフランスやアメリカにも言えると思う。 帝国主義時代には、どの先進国も植民地に対して、 統一の言語・文化を押しつけ、 それによって国としての統一性を保とうとしていた。 イギリスがアイルランドを含む四つの国の連合国であり、 フランスだってドイツとの国境が曖昧であった以上 帝国主義時代になるまで、一つの言語・一つの文化を持つ 単一の国ではなかった。 明治・大正期の日本における世界文学全集は 娯楽ではなく、日本よりも(軍事的・経済的に)進んだ国の 文化を知るための材料だったわけだ。 イギリス文学はイギリスという国の公式文化を知るための 材料であり、世界各国の国民文学が収められた世界文学全集は 世界各国の公式文化を知るための材料であって娯楽ではない。 また、その文学が無意識に無条件に前提としている文化を知ろうとすれば 読み方は当然精神分析的になる。 例えば、いくつかの物語の中で、 ブロンド(金髪)の女性は美人でセクシーで明るく頭が悪く書かれていて ブラウン(茶髪)の女性は 不美人で色気がなく暗く理知的に書かれているとすると どうも、この国の文化では金髪のイメージは頭の悪い美人で 茶パツのイメージは頭の良いブスであるらしいとなる。 それが分かれば、明治大正期のエリート層、外交官や政治家などは 不平等条約下で、半植民地状態であった途上国日本の代表として 自分たちよりも力のある国の外交官と接する時に 自分や自分の奥さんをどう見せたいのか、 そのためには髪の毛の色や服装はどうすれば良いのか などが、各国の国民文学から逆算される。 「文章構造を可視化するソフトをつくる」 http://www.hirax.net/dekirukana/bochan/index.html http://www.hirax.net/dekirukana3/chasen/index.html というコラムがあって非常に面白かったのだけれども ある単語が、その小説上、 一行辺りにどのぐらいの頻度で出てくるかを 調べるソフトです。 そのソフトで何が分かるかというと、Aという単語の頻出度と Bという単語の頻出度を比べて、 Aが出てくるとBも出てくる=AとBには隣接関係がある。 Aが出てくるとBは出てこない。Bが出てくるとAが出てこない。 =AとBは対立関係にある。 同じ対立関係でも、前半Aであった物が 徐々にAの頻度が落ちると共にBに取って代わるパターンや AとBが交互に出てくるパターンなど 読み込んで行くと面白い。 当然のようにこれは、作者が伝えたかったことを読み込むのではなく 作者の無意識を読み込む精神分析的な読み方だ。 吉本隆明が心的現象論序説で古代人の心性を探ろうとする時の手法も これと似ていて、古代の文学や古代人と似た生活をしているとされる 途上国の部族の人達の文学から、古代人の心を読み取ろうとする。 作者の意図を超えた読み方をしたとき面白いのが純文学で 作者の意図通りに読んだとき面白いのがエンターテイメント だとすると、純文学とエンメ小説の違いは、作品が違うというよりも 読む側の接し方の違いによる用具連関的な違いが大きいと思われる。 用具連関・道具連関、どっちがより一般的な名称なのかよく知らないが ハイデガーの用語で、辞書を枕にして眠る時、 その人にとってそれは辞書じゃなくて枕になる。 同じ辞書でも、辞書として接すれば辞書になるし、 枕として接すれば枕になるというぐらいの意味だ。 美術館に女性の裸をかたどった彫刻があったとして 美術品として接すれば美術品だし、 ポルノとして接すれば、ポルノにもなる。 一般にモッズとロッカーズは仲が悪いとされている。 また、パンクスとメタルキッズも仲が悪いとされている。 私は高校時代ハードコアパンクやノイズミュージックが好きだった。 メタルキッズと仲が悪いわけではなかったが 正直、話が合わなかったし、 メタルのどこが良いのかよく分からなかった。 当時、テレビではハードコアパンクもノイズも流れず 世間的にもマイナーな音楽だった。 だいたい、俺の好きになる娯楽は大衆性がなく、 一般には理解されて無いものばかりだった。 逆に、世間一般で話題になるような娯楽の面白さを 理解しようという努力はしたが、 時間と労力は他の人よりかかったと思う。 ノイズやハードコアパンクはストレスの溜まった若い奴が ライブハウスで人や物を殴ってストレスを発散させるところから発生して 人や物を殴って怪我をさせたり物を壊したりするとコストが掛かるため よりコストが掛からない暴れ方、 観客同士、怪我をしない程度に体をぶつけ合うモッシュや 飛び跳ねながら腕や足や頭を無茶苦茶に振るポゴダンスと言われる 暴れ方になっていった。 そのストレス解消のための暴力が、 よりコストの低いダンスになるわけですが そのときのBGMとなるノイズ・ハードコアは、 激しく正確なリズムと、不協和でいい加減なメロディーで出来ていた。 場合によってはメロディーがまったく無いことも多くあった。 私は音楽の時間に正確に演奏をさせられるのを好まなかったし、 ヤマハのエレクトーン教室にも少し通ったことがあるが ヤマハよりもローランドの方が楽器としては好きだし メロディ=音楽の授業は大嫌いだった。 世間では音楽=メロディであり、メロディのない音楽、 ノイズやハードコアパンクへの理解は少なかった。 レコードが生まれる前は音楽を記録する方法はオルゴールしかなく オルゴールが生まれる前は、譜面しかなかった。 音楽を記録・保存する方法が譜面しかなかった時代には、 音楽の著作権は譜面に対して発生した。 譜面には音色やリズムが正確に書き込めない以上、 もともとメロディを記録するのが目的である以上、 音楽=譜面=メロディであった。 ここでいうリズムとは、四分の四拍子とか、そんな大雑把なものでなく 踊りやすいリズムか踊りにくいリズムかと言ったもっと微妙なものをいう。 現にドラム譜の記譜法はそれほど厳密に統一されていないし、 Aさんの叩く上手いドラムとBさんの叩く下手なドラムの微妙な違いなどは MIDIならともかく、譜面では記譜できない。 高校時代の私にとって、 音楽とは暴力的に暴れるための激しいリズムであった。 ただ、今になればそうじゃない音楽の聴き方があることも分かる。 エブリネス http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/90gou.txt に行くと、モッズの意味が理解できたような気になった。 モッズバンドといえば、WHOやフェイゼスやJamになるだろうが 元々のモッズは、礼服を着た男女じゃなきゃ入れない高級レストランで ムーディーな音楽を生演奏する黒人の人達の音楽であったらしい。 レストランでイスに座ってナイフとフォークを カチャカチャ言わせながら、 聴く音楽はダンスミュージックではない。 激しいリズムは不要で、ムーディーなメロディが大事になる。 歌詞の大半はラブソングじゃなきゃいけない。 アメリカでは高校のうちからカップルでなければ参加してはいけない ダンスパーティなんてのを開くし、 カップルでなくては入れない空間というのも多い。 レストランによっては一人で入ろうとするとドアマンに止められる。 そのようなレストランで、愛についての歌が好まれるのは当然で 「愛について語るのは恥ずかしい」などと言ってはならない。 そのようなことをいう奴を排除するために、ドアマンがいるのだ。 カップルしか入れないレストランでは、 恥ずかしいとか、キザなセリフを言うような二枚目ではないとか 恋愛映画に出てくる二人のように美男美女ではないとか もう結婚して長くなるし子供もいるし、いまさらそんなとか そういうことを思ってはならない。 レストランの従業員が総力を挙げてそのような感情を排除しようとする。 50〜60年代の古い意味でのモッズとは、 そのような空間に集まる人達のことを言ったらしい。 それとロッカーズは違う。 ロッカーズはイスのないスタンディングのバーで 酔って暴れて踊りあかす。ここで流れる曲はダンスミュージックだ。 メタルとパンクの違いも似ていて、 メタルには泣きのメロディを奏でるギターヒーローがいて 踊る連中と同数程度にメロを聴く人間もいる。 暴力的に踊るための音楽しか理解出来なかった自分が レストランでイスに座って食事を摂りながら聴く音楽も 理解出来るようになる。これも一つの用具連関だ。 音楽に対する接し方が一種類しかなかったのが 二種類に増えたことで、別種の音楽も楽しめるようになったわけだ。 今自分は、小説を書いたり、朗読をしたり、 音楽を作ったりというのに、興味がない。 昔から自分の好きだったものは、一般的でも大衆的でもなく 自分の好きなものを高い完成度で作っても 多くの人に共感してもらえるとは思えない。 それよりも自分は用具連関に興味がある。 レストランのBGMであるモッズミュージックしか聴かない人に ノイズやハードコアパンクの楽しみ方を説明したり エンタメ小説しか読まない人に純文の面白さを伝えたり。 娯楽作品は観客の無意識に訴え掛けて共感されなければならないが 私は観客の無意識が拒絶している娯楽作品の良さを 観客の理性に訴え掛けて、説明し理解してもらい、 そして最終的には説明なしで楽しめるような客層を作りたい。 3文学イベント情報 8/31 9/1 Konitz Live 出演:山田詠美(朗読)、奥泉光(朗読&フルート)、 吉野弘志(コントラバス) ゲスト 8/31町田康(朗読) 9/1小山彰太(ドラム) 場所:杉並区西荻北3−12−18司ビル地下1F「Konitz」 (ハートランド隣) TEL:03-3301-7008 時間:19:00オープン、20:00開演。 前売り、予約のみで当日券なし。 20:00以降にTELで予約し、 8/25までに店までチケットを取りに来ること。 11/14 第三回文学フリマ 場所:101-0025東京都千代田区神田佐久間町1-9  東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第一・第二展示室 時間11:00開場、15:00終了 イベント公式HP http://bungaku.webin.jp/ 会場HP http://www.tokyo-kosa.or.jp/ ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□ 【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験メルマガ】 登録ページ http://www.pat.hi-ho.ne.jp/kidana/mmg.htm 登録と解除は上のページで。 関連HP:掲示板に感想・御批判入れて下さい。 http://www.tcup3.com/356/kidana.html 発行者 木棚 環樹:kidana@pat.hi-ho.ne.jp ■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□■■■■□