2000年台湾の旅
【1日目(12/30)】 昨晩の納会の酒がまだ残ってるので、台北への機内でビールすら飲む気が起きない。国際線で酒を飲まなかったのは初めてだ。
この晩は空港から日本人の方が経営する相部屋宿へ電話。空きベッドがあったのでそこへ泊まる。宿へ着いたら夜11時をまわっていた。
【2日目(12/31)】 電車に乗って港街「淡水」へ。
日差しが気持ちいい。 潮の引いた砂州にムツゴロウがうじゃうじゃいた。
てっきり有明海だけの生物だと思ってたのに。 カフェで真珠ミルクティーを飲んでボーッとしてから
丘の上のお城へ。(かつて英国領事館などとして使われていた) きれいな敷地内では、結婚したてのカップルがカメラマンを
従え、記念写真を撮っていた。いいね! 街をのんびり歩きつつ、日本統治時代の名残りの食べ物
「阿給(アーゲィ)」(揚げに春雨がつまってる) を始め、色々なモンをつまみぐい。
ここで驚いたのがソフトクリーム。クリーム部だけで全長50センチ位。
お母さんが小さい子に買ってあげてたが、子どもは明らかにいやがっている。
その子の気持ちはわかる。デカすぎだ…。 帰りの電車は冷房が寒いが、気持ちよくって寝てしまった。
夕方、免税店で台湾ドルへ両替しようとしたが休憩中で出来ず、
しかも帰り道に思いっきり逆の道へ行き、迷子くんになる。 気付いたのは何キロも歩いてから。
方向音痴でないと思ってたのに…。
カウントダウンを一人で見に行くのはつまらんので、宿で同士を見つけた。
一人は芸術家の卵、一人は花火師、そして俺の計3人だ。 台湾で最大規模を誇る夜市「士林夜市」でおいしい海鮮スープや
パパイヤシェーク、肉まん、そして臭豆腐を食う。ここの臭豆腐は
結構ウマいと思うが、相変わらず臭いは×××だ。
ところで… かねて「台湾は日本語すごい通じる!」とみんな言ってたけど、
どうも俺にとっては「日本語なんて滅多に通じないよ」だった。 その謎が解けた。
日本人の2人と行動していると、みんな日本語で話し掛けてくれるのだ。
俺は国籍不明ということか。 そーいえば、日本からのノースウェスト機内で台湾の税関書類をもらう時
台湾人と思しきスチュワーデスと 「Are you Taiwanese? 」 「No.」
「American?」 「No.」 「Oh!! Japanese!!」 「Yes、Yes!!」
というやりとりをした。納得。。。
鈴木あみが表紙の「Taipei Walker」でチェックしたカウントダウン会場
「市政府前広場」は大混雑だった。 23時。時差で一足先に2000年を迎える東京のカウントダウンが衛星放送で
流れ、ラルクの歌う様子が写ると、台北も盛り上がり始めた。 こちらも色々な歌手が出てきて、何万という観衆は大合唱しているけど、
中国語だからわからない。でも、俄然盛り上がってきた。 と同時に混雑もすごい。俺の背後は浅い水場だ。人がおしてくるけど、
ハマッタら靴はびちょびちょになる。 でも、そこを越えると空いている場所などへ行けるので、
男が女の子をおぶって渡ったりして、大喝采を浴びていた。
そして、2000年1分前!! 「リャウ・シー(60)、ウー・シー・ジョウ(59)、、、」
カウントダウンが始まるが、中国語なんでこれも大変だー!! 一生懸命中国語で追随していたら、「おー、あと一桁!!」
「3,2,1,0---!!」 花火が夜空に舞い上がる。混雑に身動きが取れないけど、
3人で台湾ビールを空けて乾杯!こうして2000年は幕をあけた。
最寄り駅へ戻る途中、道路で大歓声が…。見ると渋滞で足止めされているカップルのバイクや車を、何百人という人がヒューヒューからかってる。照れるカップル。なんか、微笑ましい。
そういえば、日本でありがちなゴミのぽい捨てとかもないし、こんだけ混雑していながらマナーがすごくいい。いいぞ、台湾っ子。
帰りの地下鉄で日本人同士名刺交換していたら、近くにいた女子高校生が興味津々って感じでニコニコ見ている。俺も笑い返してあげたら話かけてきた。同じグループの別の子が「こんにちは」と日本語で言ってきて、なぜかおおウケ。こっちも負けじと「Thank
you」に対して「不客知(どういたしまして)」と中国語で答えたらおおウケ。
お互いハイテンションで、大混雑の車内でちょこっとしゃべっては
大ウケの連続だった。なんか、楽しい新年の予感。

2000年最初の出会い
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【3日目(1/1)】
元旦。眠い目をこすりつつ宿を出て特急列車に乗る。
丁度5時間で南の街「高雄」に着いた。 1泊3500円位のややよい宿に部屋を取る。
夜は夜市で蛇を食った。作りおきと思しき炒め物で、味はイマイチだった。
一人2次会は「MODEL'S」というCafe&Pub。この店のウェイトレスは
全員モデルとモデルのタマゴ。恐ろしく綺麗な人ばっかだったけど、
冷たい感じじゃなくて、帰るときも「じゃあね」と日本語で言ったりして
くれて。 ここで頼んだおつまみ「瓜子(スイカの種?)」は
種の殻を割るのが大変で、半分(100個!?)くらい食ったところでダウンした。
このあとの帰り道、急に風邪の症状あらわる。
【4日目(1/2)】 朝起きたら完全に風邪の症状。近所で風邪薬を買い、予定していたサンゴだけでできた島「小琉球」への観光をやめ、バスで郊外の公園へ。ダラダラと散歩してたら、台湾の高校生カップルに「写真撮ってください」と言われたり、かわいい小犬が30分もの間歩いてついてきたりしてノンビリ気分に。。。 夕方、ホテルに戻っても風邪は相変わらずひどい。夕方ひと寝入りして昔の台湾をイメージしたアンティークな飲み屋へ。
内装はもちろん、料理も昔の料理らしい。店名に「多桑…」とついているが日本語の「とうさん」と発音も
意味もほぼ同じ。台湾には「べんとう」を始めすっかり根づいてしまった日本語がある。
マスターは英語ペラペラで、その他のスタッフは中国語だけだったけど、とても感じがよかった。レコードがブツブツ飛んでると思ったらカセットテープだったのは御愛敬かな。
出口の上に「空襲時請由此方向逃生」と書いてあるのも、雰囲気出してるなぁと思ったら、後で自分の泊まってるホテルにも書いてあるのに気付いた。まだ、戦時下ということか…。
【5日目(1/3)】 復興航空で台北に戻る。
再び元の相部屋の宿に荷を置き、台北の原宿「西門町」へ行く。
豆花(杏仁豆腐みたいなの)を食ったり、スピッツやら今井美樹やらの流れるCD屋で台湾のCD買ったり、ちょっとミーハーになる。日本のCDも1,000円程度で激安だ。
宿へ戻ってから、同宿の人と飲みに行く。
「現代啓示録」っていうすごい名前の飲み屋で、なぜかサッポロビールを飲みつつ、DJの流す宇多田の「Automatic」に聞き入る。豆腐のステーキはうまかった。
2次会は「キス・ラ・ボッカ」というディスコに行こうとするもお休み。かわりに「硬石餐庁(ハードロックカフェ)」へ。
ビール1杯で軽く済ますつもりが、入場時にチャージを取られたので長居してみる。
生バンドが歌い終わると、がんがん踊り出すヤツラが。
「こんなハードロックカフェ始めてだ…」 いきなりクラブクラブしているその光景に2人して呆然。
ところで我ら2人は海外にいるっちゅうのに時計を携帯していなかった。
隣の台湾人に「何時ですか?」と聞くと「11時」とのこと。
やばい!地下鉄の終電が…。 駅に行ったら駅員が手を挙げてバッテンしてる。あー、駄目だ。
そのあと、別の地下鉄の駅へ行ったけど、そっちももう駄目。
タクシーで宿へ。
【6日目(1/4)】 朝5時半、起床。帰る日だ。宿の鍵をポストへ入れて、リムジンバス乗り場へ。夜明け前だというのに、露店が開いている。
風邪ひいちゃったけど、パワーをもらった気がする…
そんな台湾だったな。 |

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