ガーナの街角で


 物理的ではなく感覚的に俺にとって最も遠き大地。それはアフリカだった…。そのアフリカ西海岸に位置するガーナへ行ったのは2000年の4月末だった。

【遠き大地】
 日本からモスクワ、リビアを経由し36時間。モスクワ〜リビア間は偶然にも北朝鮮の美女軍団ばかりで驚かされたが、アエロフロートはガーナの茶色い大地に無事ランディング。アエロフロート便は週にわずか1便。滑走路脇の作業員が手を休め僕らに手を振ってくれた。地平線と肌を刺す日差し。「ガーナに着いたんだ…」

【歩き始め】
  4月26日、俺は初めてアフリカの地に降り立った。飛行機の中で友達になった日本語ペラペラ里帰りガーナ人トリオのうち、首都アクラに在住の一人が俺を宿まで送ってくれた。ついでに「ミネラルウォータも必要だろ」とガソリンスタンドのコンビニ(?)まで連れていってくれた。ガーナの右も左もわからないときにこれは嬉しいことだった。また、後日連絡することにして別れた。
 宿でのんびりする間もなく夕暮れが近づいてきた。今日はマラリア予防薬を服用する日でもあるので、食事するために外に出た。でこぼこの舗装道路、ポリオ撲滅を叫ぶポスター。未知の国を歩き出す時は少し不安だ。すると、1分と経たずに「ハーイ!」はにかんだ少女が手を振ってくれた。元気をありがとよーっ!

【ケープコーストへ】
 翌4月27日。5時起床。モスクから聞こえるアザーンも初めて聞いた。4時から歌いながらモチつきしているような音も聞こえたので、いまいち寝不足だ。宿の前
 早起きしたのは、実は旅行手配を実行するためだ。しかし、ホテルでも旅行代理店でも、子k内戦のチケットを売っていない、と言われる。面倒になったので、さっさとケープコーストへ行くことにした。
宿の兄ちゃんは
「ケープコーストへのバスは5時と12時だ」
と自信を持って言っていた。でも、いざバスターミナルへ行ったら
「9時と15時だ」
 ケープコーストは金や奴隷貿易がさかんだったころに築かれ、今はユネスコの世界遺産となっている砦が点在するケープコーストへ。ところがだ。いきなりのロスタイム。俺が着いたのは11時位。「これがアフリカタイムだ」と勝手に自分で納得してベンチで時をやり過ごす。
 やがて腹も減り食堂へ入る。名前しか知らないが「バンクー」というガーナ料理があったので注文する。しばらくすると、水の入ったデカいボールが出てきた。
 「…これは」周囲を見渡すと手で食べている。やがて、バンクーが出てきた。スプーンなどない。いきなり厳しいが「手」のようだ。
 酢っぱい餅みたいなものを、オクラのカレーのようなスープに浸して食べる。しかし、これが熱い!離そうと思っても、モチ状なので手から離れない。この格闘はこの旅全般にわたって繰り広げられた。でも、味は格別。初めて味わうおいしさだった。このおいしさもまたこの旅全般にわたって味わうことになった。
 結局、4時間以上待ち続けバスに乗ることができた。非冷房のバスはやや座席定員をオーバーする程度だが狭い。荷物も膝上で暑苦しい。だが、やがてバスが街を出る頃には眠りについてしまった。

ふと気付くと外には濃厚な緑が。バスを見ると、みんな手を振ってくれる。たまに停車する小さな村では水やパンを売る子ども達が一斉に集まってくる。その脇では鶏同士が追いかけっこしている。夕食の支度か炭火の香りがする。ふと「戦後の日本もこんな雰囲気だったのかなぁ」と思ったりする。
3時間後、バスは幹線道路を外れて活気あふれる街中へ入り、ほどなく終点に着いた。
歩いて宿に着く頃には陽が暮れ、薄暗くなっていた。1泊10ドルで冷房なし、トイレ・シャワー共同だが、感じのいい宿だった。宿でチキンとパームナッツで炒めたジョルフライスと夕食を食べ、屋上へ行く。屋上には眺めのいいバーがある。

【ケープコーストの一日】
4月28日、7時起床。夜中は蚊に刺されまくり、その度に
「虫よけスプレー、もっと塗らないとダメだな」
と起き上がったりして、寝不足だ。

ベッドの上でふと時計を見ると日本では丁度GW前の金曜日の仕事が終わる時間だ。
今回、アエロフロートのガーナへの便は週1本だが、そのフライトが1日早まり、日本を火曜日に出ていたのだ。会社では俺が旅行好きということを広報して、俺が「長期連続休暇を取るヤツ」というイメージを染み込ませている。しかし、このフライングはやばいのではないか。今更言っても遅いか。

8時50分、宿を出る。ケープコースト要塞まで歩いてみることにしたが、かなり暑い。歩いていく途中、例によって暇そうな若いヤツらに「Come,Come」と呼ばれ足を止めると「Where are you going?」と毎度の質問受けた後、「何歳なんだ」「28だ」「ワハハハ!」なんだ、その失礼な笑いは。ま、そんな年でこんなとこほっつき歩いているなという冷笑か。お前らに用はない。じゃあな。て言うか俺自身いちいち立ち止まるな、とも言い聞かせたい。
その後は、2〜3分おきに道端のかわいい子どもたちに「How are you?」と聞かれ「元気だよ!」と楽しく答えていると前を歩くオヤジが話しかけてきた。また面倒なヤツか。。。
「君、地元の言葉ファンティ語で、『How are you?』は『ウォ・ホイア』、『Fine』は『ソヨ モホイエ』と話すんだ」
「お、これはいい」
一緒に歩きながらメモをするが、このオヤジが良い人だとの判定はまだだ。悪い奴かも知れない、と思っていたら
「Bye!」
と爽やかに手を振って教会のような建物の中に消えていってしまった。
バスターミナル(と言っても1台しか横付けできない)で明日のチケットを購入。海辺へ出ると海風が気持ちいい。
もし、レストランがあったら朝食を、なんて思っていたがここまで一切なく、目の前にあるはずのレストランも火事で焼失してしまったそうだ。まあいい、昼飯抜きだ。
ケープコーストの要塞入口には数人の男がブラブラしている。怪しい。一人が「見学?ガイドはいる?いらない?」「いらない。一人でいい」という。男は受付まで案内し「ミュージアムまで案内する」と言って待っていたが、知らない間にいなくなっていた。
ミュージアムの展示は古代から現代の順となっている。暑いので、天井で大きな音を立てて回るファンの下l、デイパックを床に置いてゆっくりと説明を読んだ。

かつてガーナで栄えたアシャンティ…金の鋳造技術の説明から始まるが、展示の大半は奴隷貿易である。奴隷が「商品」として鎖につながれ、村から連れ出され山道を歩かされる様子を描いた絵、出港まで留置される要塞の模型、船内での奴隷積み込み状態。展示スペースにはわざと暗い空間も作り出されている。
そして、アメリカの奴隷オークション会場の写真。。。
しかし、その次の部屋に足を進めると、窓の陽と照明で明るくなった。
「今、アメリカで生きる彼ら」
の生き生きとした笑顔の写真が一面に飾られている。長い苦しい時代を生き抜いてきた彼らの顔は、見ているだけで涙が出てきそうな気持ちだった。そして、その脇にはアメリカで活躍したデューク・エリントンら著名なアフリカ出身者の写真で埋め尽くされていた。アフリカ系アメリカ人は自分たちのルーツをガーナだと思う人も多いという。たまたま奴隷輸出拠点の中でガーナだけが公用語として英語を採用している面もあるかも知れないが。
 そんな写真を見て感動に浸っていると、明かりが消された。窓明かりがあるので真っ暗ではないが、もうすぐ出口だというのに…。しかし、出口へ行くと鍵が外からかかっている。閉じ込められた!「10時だから休憩か?」
椅子に座ってミネラルウォーター飲み、ボーッと待つこと10分。変化なし。仕方なく入口へ戻ると扉が開いていたので脱出。
外はすごいまぶしさだ。何しろ外壁全体が白なのだ。
お土産屋へ行くとJCBのマークがある。アフリカで見ると、ちょっと懐かしく感じる。
今回の旅で初めて絵葉書を発見。迷わず買っておく。

暑いので海風の涼しい日陰を発見し小休止。高台で海岸線が一望でき、最高の眺めだ。近くでは大勢の人が地引き網を引いている。遠くの岬には白い建物が見える。きっと後で行くエルミナの要塞だろう。ここガーナには岬ごとに奴隷輸出の砦があると言っていい。それだけ多くの人が連れていかれたのだ。
眼下の浜辺で所在なげにしている男どもの一人がやってきた。
「おーい、金ないかー?」
「ないよー」
「そうかー、わかった」
引きの良さと遠くから金くれ、につい笑ってしまった。

歩いて宿へ戻ると丁度12時。水シャワーを浴びて火照った体を冷やす。
宿の人にランチを出せないかとたずねる。
「乗合タクシーで500セディの所にFriends gardenがある。そこで食べるといいよ」
と教えてくれた。早速タクシーを拾う。言い値は1500セディだったが断固500と言ったらあっさり下がった。
フレンズガーデンで「フーフー」とビールを頼む。この「フーフー」も芋をお餅状にしたものをスープに入れたものだ。結構、小綺麗な店でフォークなども出てきたが、水の入ったボールも出されたので流儀に従い手でいただく。
「これはうまい!」朝飯抜きという状況が拍車をかけたとは言え、そのおいしさは素晴らしい。ガーナの食べ物と言えば「フーフー」らしい。
アルコール分5%の表示は大ウソではないかという強いCLUBビールで酔っ払い、「初めてフーフー食べたけど、すごいおいしかったです」とおばさんに行って店を出る。
通りで乗合タクシーを拾う。先客がいたので
「コトクラバ市場行きますか?」
と聞くと
「行くよ!1000セディ」
よし、OK!と乗り込む。市場手前は舗装工事中で通行止め。そこでタクシーを降りると、出来立てのアスファルト道路。湯気でひどい暑さだ。

ゆっくり歩いてトロトロ(乗合バス)乗場へ。これからエルミナへ向う。
たまたま止まっているトロトロに
「エルミナ行きどこ?」
と聞くと
「これがエルミナ行きだよ」
というので乗り込む。
隣のおばさんが
「エルミナのキャッスル見に行くの?」
と気さくに話し掛けくる。
「乗合タクシーは高くてダメねー」
と笑う。
やがて客が集まり出発。定員10名程度のワゴン車に15〜16名乗っている。
2人座る所に3人座り、俺はおばさんとその娘さんに挟まって身動きできず。さらに、立ち乗りの人が背を屈めて俺の頭上に顔を突き出しいる。そして、俺の目の前にも数人座っている。ワゴン車にここまで乗れるものか…しかし、途中で彼女らは下車し幾分空いた。
 途中ガソリンスタンドでエンジン切らずに給油するというちょっとこわいオプション体験をし、トロトロはエルミナの街中へ入った。
後ろのおじさんに地図を見せながら「Is this here?」と聞くと「ああ、要塞ならあの橋の向こうだ」ニコリと笑った。
やがて橋を渡ると、そのおじさんは「Oh,Your house!」とケタケタ笑い、俺も「ハハハ、ビッグハウス!」と爆笑してバスを降りた。

 下車すると、間髪入れずに子ども達が寄ってきた。
「フットボールクラブ運営のために金が必要なんだ。寄付してもらえないか。あるいはペンでもいい」
「君たちにあげるものはなーい」
跳ね上げ式の橋を渡り城内へ入る。この城は「Fort St.George」。入場料は1万セディだが、インフレのために額面1000セディのチケットを10枚もらった。受付の女性は
「あなたどこから来たの?」
「日本だよ。でも、多くの人はタイ人とかマレー人と言うけどね」
と言ったら相づち打って笑っていた。
城の地下には牢屋があった。薄暗い牢屋は数部屋つながっていて、足元に気をつけて歩いていくと出口があった。しかし、それは奴隷の出口であり二度と戻ることのできない出口なのだ。幅50センチ、高さ140センチ程度だろうか。この向こうには何もなかったかのように美しい海が見える。あるいは暗い歴史があったから、より美しい海に見えるのか…。

エルミナにはもう一つ要塞がある。「Fort St.Jago」だ。外へ出ると、さっきの子どもが「ケイイチ!」と言って近寄ってくる。
「名前覚えたのは褒めてやる。でも、君らにペンをあげたら君たちのためにはならない」
と言うのはムダだ。
「君たちの写真を撮って後で送ってあげることはできる」と言った。そうしている間に俺は高台のFort St.Jagoに着いた。看守が「相手すんな」と手を振る。俺もとっとと中へ入る。入場料は5000セディ。
客はいないのか、看守がガイドをしてくれる。この城はオランダの兵士が主に使っていたそうだが、最近2年間ほどゲストハウスとしても使われていたため、シャワー室のタイルや冷房撤去のあとがあって妙だ。かつての礼拝室は食堂として使われたため、食堂の椅子が残っている
「天井見て。コウモリが寝ている」目をつぶって寝ているコウモリを見るのは初めてだった。

やがて、城の最上部に出た。360度の展望だ。海側には活気のある漁港が広がり、背後には日本の水田にも似た風景が広がるが、聞くと塩田だそうだ。凧も空に上がり、ちょっと日本みたいだ。
案内してくれたおじさんは兵隊だったそうで、ヨルダンなど中東各地へ行っていたこともあるそうだ。やがて僕が日本人であることがわかると
「橋本前首相知ってるか?」
「もちろんです」
「この前、ガーナに来たんだ。日本とガーナは友好的関係にある」
「そうですよね、僕もその件は日本の新聞に小さい記事だったけど、載っていたので知っています。1ヶ月くらい前のことですよね」
彼は別れ際「日本のテレビやラジオを見たい」と言った。真意を聞き返すと「日本を見たい」と言う。日本の写真とかを送ってあげることにした。
要塞を出るとさっきの3人の子どものうち1人が残っていた。眼下の街中ではなるほどフットボールクラブの子ども達がマラソンをやっている。この子たちも一緒にやりたいがそんなお金がないのかな。でも、ここでお金を渡してもそれは生活費に消えていくだけ。
彼は住所を書いた紙切れを手に持っていた。「僕の写真を撮って送ってよ」彼は言った。
「いいよ」彼の生まれたこの街と海をバックに写真を撮ってあげた。
彼は俺の住所を欲しいというので紙に書いて渡した。彼は手に持っていた自分の住所を渡さずに、俺のノートに書く、という。
彼の住所を書いた紙は、それだけ貴重ということなのだろう。
西日が照り付ける坂を下りると少年は
「どうするんだ?」
「トロトロで戻る」
と言うと、
「トロトロならあっちだ。Bye!」と言って去っていった。ELMINA

乗合タクシーをで宿へ戻ると4時半になっていた。シャワーを浴び、一日の疲れを落とした。
夕食もまた昼と同じFriends gardenへ行った。屋外のテーブルで鶏肉のフライとビールを頼む。陽が暮れてきて、涼しい風が吹く。とてもホッとする瞬間だ。でも、とてもなく遠いところにいる孤独感が涌いてきて、少し寂しさを感じた。

【価値感】
4月29日7時起床。シャワーを浴びる。
昨日の夜、宿の屋上のバーで、アバカという少年が「明日、Fort Victriaに連れていってあげるよ」と言っていた。宿からも山の中腹に見えるその砦はとても行きにくそうだった。しかし、いざ起きたらアバカの姿はない。まあ、せっかく早く起きたし、と思い一人でタクシーを拾う。しかし、運転手はFort Victriaへ辿りつけない。結局、ダートの行き止まりで降り、タクシーに待っててもらい歩きだす。
人の家の庭みたいなとこを通り過ぎる。そこにいたおじいちゃんに
「この道でFort Victria行けますか?」
「いけるよ!」
しかし、幅数10cmの道を行くと、海岸へ行く車道に出てしまった。おじいちゃんに違うよー、と言うと
「わかった、俺がTAXIのドライバーに行ってやる」
安心して乗ったら、海岸の昨日いった世界遺産の砦に着いてしまった。
「いやー違うよー、これも」
結局、Fort Victriaへは辿りつけず、俺はTAXIを降りた。

気を取り直し、朝飯だ。バス停近くでおかゆを買う。あまりうまそうではないが宿へ持ち帰って食すべく買う。少し歩くと、道路の向こうに海が見えた。写真を撮ろうとファインダーを除くと、右から子どもたちがダッシュで入ってきて次々にポーズを撮った。
その中の少女が盆にパンをのせていた。
「これなに?」
「ミートパイ!」
「(お、それはうまそうだ!)2個くれ!」

TAXI拾おうとしていたが、TAXIがいない。でも、彼女たちがどこからかドライバーを連れてきてくれた。値段も休めにしてくれた。

で、宿へ帰ってミートパイ食べたら、ミートなんぞ入ってなかった。してやられた。ま、いーか。

そして、俺は昼過ぎのバスで首都アクラへ戻った。


【アクラでの夕食】
アクラに戻った土曜の夕方、行きの飛行機で一緒だったガーナ人に電話すると「食事しよう」ということになった。宿までお母さんと一緒に向かえに来てくれ、レストラン「BUS STOP」へ。俺はCLUBビール、彼さんはギネス、お母さんはガルダーというビールを飲んだ。
「何本飲める?」
俺は
「まあ、2本かな。3本はどうかなぁ」
彼は日本に来て5年。奥さんは日本人でもうすぐ4歳になる息子さんがいるという。
…ん? 何人兄弟か聞いたら
「兄弟はたくさんいるんだ。なぜかっていうとお金たくさん持ってる男はいくらでも奥さんを持っていいんだ。金のない男は1人だけ。日本も昔そうだったでしょ。」
確かにそうだったろうけど、かなり昔の話だなあ。
周囲に怪しい奴等がうろついている。お母さんの財布を移動する。何と机の上に出しっぱなしなのだ。
「僕のイメージではアフリカは治安が悪いって聞くけど、これじゃ日本より安全でしょ」
と言うと
「そう、みんなアフリカは治安悪い、ヨーロッパはいいって色々言う。でも、あなたのように来てみれば本当のことが分かる」
旅する度に自分が変わったかというとそんなことはない。でも、モスクワ空港で会ったガーナ人も言っていた。
「僕14歳でガーナ出ました。色々なことありました。今日で4ヶ月になる息子も日本にいます。世界見ること一番の勉強です。みんな世界知れば戦争なくなる日がきます」
 土曜の街はそこかしこで音楽が鳴り響き着飾った男女で華やいでいた。「Richじゃなくても夢が溢れている」そんな日本の歌詞を思い出した。

宿に帰った後、お土産にもらったテイクアウトのチキンとジョルフライスを一気に食った。
さすがに朝・昼飯兼用でパイとおかゆだけだったので腹ペコだった。

【銀ブラ】
翌日、俺はOSU地区に行った。銀座というイメージで行ったが、閑散としていた。
でも、高級そうな店がある。「帝国飯店」
早速、入ってみる。店員は地元の人ばかりで華僑ではない。マネージャーが挨拶に来た。彼は華僑っぽい。俺は
「我是日本人」
と中国語で話すと、マネージャーは
「ニホンジンデスカ?」
と日本語で返してきた。聞くと、香港から赴任したそうで、日本にも何度か行ったという。
CLUBビール1本と、ホッペのおちそうな小龍包、揚州炒飯でリラックス。

【肌の色】
 それにしても、この国では頻繁に声をかけられる。物乞いは勿論、「日本へ出稼ぎに行きたい!」というのが多く、段々ウンザリしてくる。帝国飯店を出た後、歩いて砂浜まで行った」
相変わらず
 スラム街に迷い込んだ。殺気は感じないが、またも
「Come,come」
と若い奴らが俺を呼ぶ。でも、その後の言葉がわからない。近くのオバさんが見かねて
「どっから来たの?」
と話しかけてきた。「聞き易い英語だ…」そのオバちゃんの人柄につられて話し込んでいった。
「あんたは英語ダメだからここで練習していきなさい」
と言われつつ現地語「ガン語」を教わったりした。ふと、小さな子が僕の左手を手に取りひっくり返したりしている。
 「なんだろ?」
と見るとオバさんが
 「あなたは白。私たちは黒。その子はまだ知らないのよ」

またある時、街中を歩いていると、時折
 「White man」
と声をかけられた。バカにされたような気がして
 「I'm not White, I'm Yellow.」
ととっさに返したこともあった。街中には「Black is beautiful」という旅行会社があった。僕は世間がそうであるように差別と区別の答えを出せないでいる…。

【避暑地へ】
5月2日(火)、8時起床。もう必要ないな、非常食用カロリーメイト4本と、脱水症状防止用のポカリスエットで朝飯とする。今日は郊外のアブリにある植物園へ向う。
トロトロは運良く窓側を取れた。しかもワゴン車じゃないので、メチャクチャな乗り方にはなりそうにない。頭の上の盆にたくさんの卵を載せた女性が来て、
「卵いらない?」
「いらない」
「卵きらいなの?」
とても悲しそうな目をする。おいおい、キライじゃないからそんな悲しい目をしないで。
考えてみれば俺も条件反射で「いらない」と言ってしまった。
栄養あまりとってないし…でも、その彼女はすぐに去ってしまった。
11時半にアクラを出たミニバスは12時半過ぎにはアブリに着いた。
早速、アブリボタニカルガーデンに入る。アプローチはヤシの並木がきれいに青空の下、並んでいる。まずは腹ペコなのでレストランに入る。チキンライスとビール小瓶2本を傾ける。ハエが多いが、ここは植民地時代避暑地であったという通り、涼しい風が心地よい。
腹一杯食べ、中を散策する。初めて見るアリ塚や、モンキーポット(別名モンキートラップ)という壷のような木の実(?)がなった木をみたりして、ノンビリと時を過ごす。しかし、ここでも子ども達から住所くれ攻撃を受ける。

午後3時。そろそろ帰ろうかと植物園を出る。道は人通りが少ない。遠くに海が見えることに気づく。この旅ももうすぐ終りだな、とふと思う。
この後、ワゴン車のトロトロでアクラへ向う車中、ラジオから日本人観光客がグアテマラで襲撃されたことが報じられていた。
 この晩はカントリーキッチンというところで夕食をとった。少々わかりにくい場所だった。フーフーは辛すぎ、手で食べると熱いし大変だった。でも、うまい!セミオープンで天井をファンがぐるぐる回る。そして、とても静かなのはガーナでも異色の雰囲気だった。


【タイムトリップ】
 5月3日、8時起床。夜中暑くてクーラーをつけたせいか体がダルイ。おまけに昨日の晩食べたフーフーが辛かったせいか、腹の調子まで悪い。
 絵葉書出すために中央郵便局へ。隣りの窓口では作業服姿の日本人と思しき人がいる。無事ハガキを出して、飾られたガーナの記念切手を見ていると、葛飾北斎まである。つい衝動買い。その後、日本人らしき人もまだいたので「Are you Japanese?」と聞くと、日本人だった。仕事で来ているそうで自分の土産に記念切手を買っていくそうだ。

その後、Usser Townの市場を抜け海辺の道を行く。
4〜5歳の子ども数人が洗濯しつつキャッキャッと水浴びしている。向こうから
「げんきー?」
「元気だよー」
 すると一人がニコニコとやってきて、俺の手をにぎり歩き始めた。10歩ほど行くと
「ばいばーい」
と手を振って戻っていった。こんなかわいい奴見たことない。
 やがて、野口英世が上陸した街、James Townに着いた。砂浜が広がっている。傍らに広がるゴミ焼き場では山羊がロープにつながれ、近くには山羊2頭の丸焼きが…。英世が来た頃ここはどんな場所だったんだろう。その当時から存在し今は牢獄となっている砦の前を通ると「Come,come」とライフルを持った看守に手招きされた。
「何か悪いことした?」
「日本の写真送ってくれ」
1m四方程度の狭い看守小屋の中には奥さんが大きくなったお腹を大事そうにしている。彼らは暇なだけだった。こんな空間にいると野口英世にも会えそうな気がしてくる。
JAMESTOWN
そのあと、タクシーを拾いラバディビーチへ。入場料がいるのに、中へ入るなり売り子の攻勢。まずは座ってビールを頼む。次から次へとハガキ、指輪、首飾り、Tシャツ、CD、タバコ、果てまた真っ昼間から売春婦まで。ただ、一巡すると、「もうこいつは買う気ないだろう」と思うのか、ただ話しをしにくるようになる。客があまりいないせいか、ウェイターもずっと隣りにいた。そんなに彼も多くを語ることなく、静かな波の音に聞き入っていた。

【杖の青年】
 5月4日(木)7時起床。今日はガーナを去る日だ。CNNをつける。途中、途中に世界各地の風景が出てくる。香港は中環(セントラル)、フランスは凱旋門、タイはワットプラケオ、インドはタージマハールなどなど、一目でその国とわかる場所ばかり。しかし、なぜか日本は新宿駅南口のパチスロ屋さん。なんでだぁー。さらに中学生(?)が広島でバスジャックをやらかし、突入する映像が何度も流され、どうも日本が出てきすぎ…という気持ちに…。
 宿でオムレツとパンの朝食を出してもらう。普通の部屋みたいだけど、涼しくてノンビリした部屋だ。その後、自室で出発準備。パスポートもあるな、と改めてガーナのVISAを見る。
「ん、滞在許可6days??やばい!」
俺は入国時に押されたVISAの期限をみていたが、6Mayと書いてあると思っていたが、とんだ見間違いだった。VISAそのものの有効期限は30日って書いてあるのに、滞在は6日間しか許されていなかった。3日のオーバーステイだ!トラブルを想定し、急いで宿を出ることにした。
宿の前の小学校では丁度給食が配られていた。立ちションしているヤツもいる。賑やかだったこの眺めも見納めだ。

 タクシーを止める。タクシーとの料金交渉もこれが最後だ。
「空港いくら?」
「8000セディ。できれば1万欲しいけど」
相場の8割だ。
「OK!」
 交差点で止まると赤ちゃんを背負ったおばさんが「お金を…」と来る。直感で金を出そうとしたら信号は青になった。 
 再び止まると今度は杖をついた青年が
「何も食ってないんだ。金くれ」
嘘くさいので無視。車が動き出すとドライバーは
「俺はあいつが車2台持ってんの知ってるぜ」
大笑いしてしまった。大した奴が世間にはいるもんだ。

【賑やかな国は賑やかに去る!?】
 空港でチェックイン。コンピュータなんぞない。
「11時半搭乗よ。でも、多分遅れるわ」
遅れてもらった方がありがたい、とイミグレへ。やさしそうな女性の所へ行き、とりあえず知らないふりしてパスポートを出す。
「観光だけ?」
「ホテルはどこ?」
と月並みな質問をされ、
「ま、いいか。大目に見ましょう」
という感じで、すぐ出国印を押してくれた。

 イミグレ通過後、ツーリストボード(?)とか言う人がアンケートに答えてくれという。滞在先、お金の使途から年収まで色々答えさせられた。
 その後、免税点で両替どっかできるか聞くと
「外に出ないとダメ。ここで使うしかないわよ」
と言う。よくあることではあるが、仕方なく、ガーナに来て初めて見る現地産チョコやCDを買いまくり、US$60相当を使い切った。アホ

 帰りのアエロフロートに乗り込む。搭乗券記載のシート番号5Bがない。
「どのシートでもいいの?」
と聞くと、ロシア人乗務員は
「いいわよ」
…国際線で自由席だ。

それにしても、機内は暑い。1日以上おきっぱなしの機内は冷房もかけず、エンジンもかけず蒸し風呂だ。隣りのガーナ人と一緒に
「なんだーこの暑さは!」
と騒ぐ。他のヤツラも騒いでいる。でも、何か楽しい。ガーナの街中と同じ雰囲気だ。
スチュワードが小さい子を仰いであげてる。
やがて、
「きっと遅れるわ」
というチェックインのお姉さんの言葉とは裏腹に飛行機は定刻で離陸した。
 冷房も効き始めた。暑さでみんなすでにグッタリして、静かになった機内でガーナの賑やかさを思い出しつつ夢の世界へ…。

 旅が思い出に変わる瞬間、僕とアフリカの距離は確実に縮まった。

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