古い諺ですが意味深長ですね。この諺の意味の重点はもちろん後半の「添うてみよ」にあって、「馬に…」はいわば枕詞でしょう。そして「添う」は「連れ添う」「後添い」などの言葉があるように結婚の意味を含んでいます。身体で付き合ってみなさいということでしょう。

「…みよ」は「試みよ」、試してみよということです。最近は「人に添うてみたけどやっぱり駄目でした」というケースも少なくないようですが、それでもいいのだと思います。「試みよ」と言うのですから当然離婚も視野に入れているわけです。ただ「添う」は「連れ添う」ことで、あまりにも時間が短い羽田離婚などは入っていないかも知れません。

こんな風に考えると、この諺の二つの意味が読み取れます。一つは「添うてみなさい、そうすれば相手のことが分かって来てあなたは幸せになりますよ」ということです。もう一つは、「仮に失敗してもいいじゃないですか、人間一般について理解が深まってあなたは賢くなります。ただその場合でも相手を恨んだり軽蔑したりしないことですね」というほどの意味です。

さてこのページは馬のページですから、枕言葉とはいえ前半の「馬には乗ってみよ」を無視するわけにはいきません。「馬には乗ってみよ」はどう理解すればよいのでしょうか。馬に乗るという行為は云うまでもなく馬との一対一の身体による付き合いです。諺が枕詞として馬を引き合いに出しているのはこのためでしょう。

しかしもう一つ理由があるように思います。馬はコトバをしゃべらないということです。馬は人間のコトバを理解しますがやはり限られています。基本的には身体で付き合うしかありません。こちらがコトバを捨てて付き合う覚悟を決めなければならないのです。

騎乗者は手や足や腰で馬体に刺激を与えて意志を伝えます。これに対して馬は喜んで従ったり、いやいやながら応じたり、時には抵抗して動かなくなったり暴れたりします。この身体のコミュニケーションをうまく調整して人馬一体の動きを実現すること、これが乗馬の理想の姿でしょう。

これに対して、人と人の付き合いでは常にコトバが介在します。人に沿うてみる場合でも、予めコトバで作り上げた相手に対するイメージを持っています。そして寄り添うて身体で付き合ってみても、このイメージが時には大きく、時には小さく修正されるだけで白紙にはなりません。どうしてもコトバを介した間接的な関わりになってしまいます。

馬の場合は、馬に乗った瞬間にこちらが意識を変えて、コトバで作ったイメージを白紙に戻さなければなりません。文字通りお互い裸になって一対一で真剣に向かい合わなければなりません。そうしないと、そもそも馬に乗っていられない、つまり落馬ということになるからです。(写真:練習風景)

コトバは人類の文化の要(カナメ)でしょうが、両刃の剣の一面を持っています。他人を貶めたり傷つけたりするだけの空疎なコトバが何と多いことでしょう。そうでなくてもコトバで作り上げたイメージは常に実体から多少ともずれています。自分を実際以上に大きく考えて相手を蔑んだり、相手を大きく見すぎて卑下したりということが起こります。

諺が馬を引き合いに出した最大の理由はこの点にあるような気がします。つまり、「馬に乗るときのように一度コトバを捨ててみなさい。コトバで作り上げたイメージを白紙に戻してみなさい。そうすれば、相手についても自分についても等身大の実際の姿が見えてきて本当の付き合いができますよ」と言っているのだと思うのです。

諺は時代を超えて形成された大勢の人々の智慧の結晶です。コトバの全体を感覚的に捉えることが大事です。しかしたまにはこんな風に分析して意味を考えるのもいいのではないでしょうか。
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「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」