〈動物愛護と自然保護とはちゃうねんぞ!〉 昨今、自然保護やら地球を守れだのとなんともかしま姦しい世の中になってしまいましたな。結局、愛知万博は、海上の森の開発をあきらめて、予定調和の青少年公園利用が確定したし、長野県では自然保護派として有名な、田中新知事のもと、公共事業の見直しが進んでいるし、自民党の内部でも、公共事業の見直しが答申されて200余りの事業が中止に追い込まれてしまいましたしな。 まあ、公共事業の実態が、大手ゼネコンを唯、肥え太らせて、しかも、ご丁寧に経営破綻に更なる税金の投入をしなければならない羽目になってしまったり、各地に乱立したリゾートなるものが、全く利益を産み出すことなく廃墟となってしまったり、はたまた各地のハコモノ行政は、その維持管理が地方財政を圧迫しつづけているし、中央の神通力も衰えてきているようだし、まあ、何かと楽しい時代になってきているような気がしますな。 しかしながら、日本の地方企業の大半が中小零細な土建屋さんという現実を考えると、土木工事による 公共事業が無くなるはずがないし、完全に無くなってしまってはこれまた困った事になっちゃうんだろうな。(現実的な事を言うと気勢が削がれちゃうな) 気勢が削がれるといえば、和歌山の猿騒動。 画期的な事によく決断したな、と思ったら一部(とはいっても全国的に)の動物愛護の人たちからの反対を受けて、方向転換しましたな。 はてさて、種の保全か個体の保護かという問題は一種、学問(理性)か感情かみたいな、二律背反の様相を呈して来ていますな。 たしかに、生きている動物を殺す又は排除するということは、気分はよろしくない。 生命を奪う権利が果たして人間にあるかという議論はわかる。 いや、わかりやすい。わかりやすすぎる。 このわかりやすさが問題の中心をわかりにくくしていると思えるんだがの・・・・ 普通の市井の人々にとっては、遺伝子の保全などと言っても、同種の生物なら同じじゃないか。 と思われるかも知れんな。 それにある所の生物種を大量に養殖して、ばら撒けば種の保存は出来るじゃないか。 という意見もあるけども、確かに、トキやパンダなどのもう絶滅寸前の種に関しては、その議論は成り立つだろうと思うけど、普通種にその議論をあてはめるのは、「違うでしょ」と言いたくなりますな。 加えて、人間の混血が進んでいるのに、生物にそれを認めないのは「おかしいんじゃないの?」 などとのたまう輩もいて、もはや何をかいわんやですな。 自然状態で他地域の生物と混血するっていうことが、そうそう起こるはずがねぇ。 特に恒温動物を除いては。 彼らにしたって、何世代もかけて生息域を拡大することはあっても、今日はこっちで明日は向こう、なんてことは絶対にありえませんな。 それに、野生生物は頑固なもので生息環境が変化した場合、移動するよりもそこに止まって死んでまうじゃろ。 その場合も、よほどの変化(例・水が干上がるなど)がない限り、一部が生き残って次世代に命を繋ぐわな。 それが、遺伝子の多様性の意味であり、均一化することは、それを不可能にする恐れがあるちゅうことやね。 まあ、自然保護と、動物愛護は、一見同じように見えても、根本的に発想が違うということが言えるかもしれませんな。 ほんで、現代の自然破壊ちゅうのは、過去に行われたものとは、少々次元が違う気がするわな、ここでの線引きは、1970年代に置くべきやろな、この辺で日本の自然環境は劇的な変化をはじめるわな。 特に都市及びその周辺。ウルグアイラウンドあたりからは、農・山村部でもえらい勢いで変化したわな。 根本的なことはこの際置いといて、(まあ、いずれの時に)ミクロの分野では、外国からの移入、輸入動植物が定着し始めましたな。 有名なのは、ブラックバスやブルーギル。 まあ、その他にもサケ・マス類も各種取り揃えて、各地に放されはしたが、ごく一部に定着したにとどまったわな。 ただ、その一部が上高地だったのが悲劇やな。 もはや、純系のニッコウイワナは一部の支流に残るだけ、ほとんどがブルックイワナと呼ばれるF1(雑種第1世代)になってもうた。 しかもこのF1、成長が早くて、イワナと交雑する。 F1同士の交雑での孵化率は大変ひくいので、F2は生まれ難い。 とくれば、上高地の純系イワナは風前の灯火に。 でも、普通の観光客は梓川の清流を泳ぐ魚をみて喜んでいるんだろうな。 まあ、この辺は種や遺伝子等の知見の乏しい頃だったからと悲しいけれど納得できる(かな?)。 でもな、ブラックバスやコクチバスはいかん!ブルーギルもいかん! あれは、限度を知らん。 目の前で動くもんは何でも食ってまう。 淡水漁業に与えた損害は破滅的や。 一方で釣具業界に与えた利益は莫大やね。 こうなると一部で噂されている業界の陰謀説なんてどえりゃー説得力あるわな。 まあ、ファッションやブームってのはものすごい力やね。 これが限られた閉鎖系の池や湖ならば何の問題もなかったんだろうけれど、個人が個人の欲にかられて、 地元の水系に放してしまったちゅうこっちゃな。 げに恐ろしきは欲の深さよ。 そんなこんなで全国に拡散したバス君たちは、今日も無邪気にルアーに飛びついて、バスフリークや ルアーマン達を喜ばせているんだわな。 ま、個人所有の池に、所有者の許可をもらって行う分には良いんだけれど、ほとんどの場合、 公共の財産の侵害という犯罪行為なんだな、密放流てのは。 で、このバス君たちを根絶しようとすると、生き物を殺すなとのたまう輩が出てくる。 でもね、バス君たちに食われてしまった池の住人たちの権利はどないなっとんの? 彼らは食物連鎖の底辺にいるから、責任はバス君たちにあるの? バス君たちは自らの意志で移動 した訳じゃないわな。 人間の、それも責任のない個人の意志によって移動させられた訳だわね。 強引に似たような例を人間社会に見てみると、17世紀から19世紀にかけて行われた奴隷制度が 近いかも知れんわな。 果たして、日本の風景の中に、バスやブルーギルが似合うじゃろかね。 歌の歌詞なんかも「コブナ」やなしに「コバス」になってしまったら何や味気ないもんに なるんちゃうかね。 まあ、日本人は生き物が自分の手に余るようになると簡単に「自然に帰そう」なんていって野外に放してしまうわな。 ミドリガメやら小鳥やらカブトムシやらクワガタなんかも飽きたら野に放す。 なんてことが当然のように行われているわな。 「よかったね」なんて無邪気に喜びながら・・・ その一方で、それらが在来の生き物の生息圏を脅かしているのも知らずに。 なんとも、微笑ましくなる光景ですな。 そういえば、ちょっと小耳にはさんだんだけど、東京の多摩川に大量のメダカが放流された らしいですな。 このメダカはどこから来たんだろうね。 放流した人たち(団体かな?)、はどういう意図でやったんだろうね。 たしか昔、多摩川には、どっかのTVかなんかのキャンペーンかは知らないけれど、「サケ」を放流した 前科があったわなー。 あれはどうしちゃったんだろうねー。 そうとう叩かれたみたいだったけど。 まあ、現代は様々な知見が出てきてね。 昔なら美談で済んだことがとんでもない暴挙になってしまうんだからね。 で、迷惑をこうむるのはいつも地元のもの(人・動物・植物などみんな)になるんだからね。 くわばら、くわばら。 さて、一部の方々から好評を博した(?)「里山講座」でしたが、その中で書ききれなかった事などを 「主さんの独言」といった形で表現していこうと思っています。 例によって不定期連続ということになると思います。 又、独り言が掛け合いになることがあるかもしれませんが、ぼちぼちと続けていこうと思っています。 できれば、ご意見・ご感想・取り上げてほしいテーマ、などありましたらお寄せくだされば、 望外の喜びです。 質問なども(本当にお答えできるかわかりませんが)お受けいたしますので、お手柔らかに お願いいたします。 |
NEXT