2000年12月、大阪の全国めだかシンポジウムでお会いした、徳島県立博物館の佐藤さんがくれた「めだかの放流をやめよう」という文章を、ホームページに載せたいとお願いしたら、著者の清水さん(愛媛県魚病指導センタ−)を紹介してくれました。清水さんにお聞きしたら、もともと「南予生物11号」に載せた物なので南予生物さんの了解があれば、ということで南予生物研究会の辻さんを紹介いていただきました。皆様、快く了承していただきまして、ここに掲載させていただきます。
 おさんかたには感謝!
リリオ きし
 





メダカの放流をやめよう
〒798-0087 愛媛県宇和島市坂下津外馬越
愛媛県魚病指導センタ−
清水孝昭
「南予生物11号」より
 近年,人々の間で自然環境への関心が高まってきており,生物多様性といったタ−ムは,もはや専門用語ではなくなってきた感が強い.在野に数多くの非営利保護活動団体が現れ,実践的な活動を行っている.こうした中で,メダカは知名度の高さ,飼育の容易さ,よき時代への懐古を呼び起こしやすいなどの理由からか,ごく一般の人々にまで保護対象として浸透してきている.唱歌「めだかの学校」発祥の地,神奈川県小田原市のように,在来のメダカ集団を地域ぐるみで保護し,環境復元に取り組んでいるところもある.ところが,その繁殖が比較的簡単で,小さなスペ−スで行えることから,自宅の庭池で増やしたメダカを保護と称してあちこちに放流しているケ−スも少なくない.保護したい,という気持ちに変わりはないのだろうが,そうした安易な増殖放流は,決して自然保護には繋がらない,ある意味自然,文化の破壊行為であることは,多くの書物で訴えられてきているにもかかわらず,美化された放流行為ほどには取り上げられていないのが現状である.筆者はあえてここで「メダカの放流をやめよう」と提言する.もちろん「安易な」放流である .そして,なぜそれが自然保護に荷担しないかを,生物学的,文化的視点から述べてみたい.

指標種としてのメダカ
 川へ魚類相の調査に出かける.一本の川の,どこに,どんな魚が棲んでいるのか,在来の魚が減ってきてはいないか,移入種は増えているのか.清流に棲む魚と汚れに強い魚の比率はどうか.定点を増やして調査を進めるごとに,その川の魚の暮らし向き,ひいては川そのものの健康状態がつかめるようになる.メダカは日本の二次的自然によく適応していると言われる.本来メダカの仲間は熱帯〜亜熱帯を起源として温帯域に広がったと考えられており,氾濫原の低地など,一時的水域をよく利用して繁殖し,小河川や水路など流れの緩やかで,大型の食害魚が侵入しにくい場所に生息している.塩分や有機物の汚れにも強く,現在でも河口付近にできた塩性湿地などで多く見ることがある.米作りが二次的にもたらした水田という自然環境は,一時的水域としてメダカの生息に有利に働いたようであり,メダカというと里山や平野部の水田地帯を代表する生物としてイメ−ジされるようになった.二次的自然はもはや自然ではないという意見もあろうが,本来自然そのものと人間活動とは相容れないものであって,人と自然が互いの利益不利益を収支して共存している里山環境が,ある意味調和のとれた状 態であるとする意見に筆者は賛成する.ともあれ,メダカが生息していると言うことは,比較的調和した人間と自然の状態がそこにあるということであり,メダカはその存在を持ってよりよい環境を示す指標生物であるといえよう.
 ところが,そのメダカが人為的に放流されたものであるとしたら,環境への評価は必ずしもそうはならない.メダカの存在を持って良好な環境を語るには,彼らが産卵,孵化,成長といった生活史を完結させている必要がある.上述したように,メダカは速い流れには生息しないが,有機物負荷,塩分,水温などに広い適応性を示す.したがって,一時的に放流され,ある期間生息しているだけならば,比較的条件の悪いところでも可能である.よって,「メダカがいた」だけでは「良好な環境が維持されている」とは評価できない.勿論,「失われた自然が戻ってきた」とも言えない.それらはある時に大量放流された末裔かも知れないし,毎年放流されている集団かも知れないからだ.メダカを環境の指標に使うためには,それが過去から連綿と存在している野生集団であることが重要であり,そうした集団の増減や絶滅が環境を評価する基準となる.ところが,放流されたメダカを在来のメダカと見分ける術は,外観からはまずない.おそらく,遺伝子のレベルで調べても,隣の川からの移植程度であれば識別は困難であろう.したがって,放流された個体群は評価を混乱させるバイアスとなるにも関わ らず,その影響を除外して考えることは現在非常に困難となっている.

地史とメダカの関わり
 A川と,隣を流れるB川のメダカの遺伝子を調べると,近隣にもかかわらずその違いは無視できないくらい大きかった.よく調べてみると,B川メダカの遺伝子は,反対の斜面へ流れるC川のものとよく似ていた.こんな事実があったとする.そこで,この地域の地形を調べてみると,別々の斜面を流れるB川とC川の上流で,かつて河川の争奪があって,C川の上流部がB川に流れるようになった形跡が見られた.ここから,B川のメダカは遠い昔反対斜面のC川にいた集団の一部が川とともに移ってきたものであったことが推定された.B川,C川メダカの遺伝子の相違から計算された集団間の分岐年代は,推定される河川争奪の起こった年代とよく一致していた.そして,メダカに見られた遺伝的事実は,それまで推定されていた地史の変遷に強い示唆を与える結果となった.
 いささか都合の良いシナリオだが,このように日本列島形成に関わる地史の変遷と,それにともなうメダカ集団の分布域形成のスト−リ−には,野生状態のメダカ集団の遺伝的特徴を捉えることで重要な示唆を与えることができる.日本列島の生い立ち,といったグロ−バルな自然史研究に,野生生物の分布が大きな証拠を与える例は数限りなくある.この意味で,現在野生生物が持つ遺伝子集団の地理的分布は,それ自身貴重な文化遺産といえるだろう.遺伝子分析の技術は日進月歩でめざましく,より精度の高い分析が日夜なされている.かつて不明瞭であった支流の集団どうし,あるいは個体間の遺伝的差異は,いずれ明らかになって,地史的研究にもよりマクロなスケ−ルの情報を与えてくれるだろう.もちろんこうしたことは,野生状態での遺伝的特徴が維持されていれば,の話である.一度混ぜてしまった集団からもとの姿を導き出すのは容易なことではない.こうした分野の研究において,放流は一瞬,影響は膨大である.自然史研究の発展という文化的側面において,性質の異なるメダカの放流はそれを阻害するものでしかない.

種が分かれるとき
 今日,我々の暮らす地球上に見られる生きとし生けるものの全ては,限られた祖先から悠久の時間を経て分化してきたものである.種はある時間断面の中に存在し,やがて新たな種へと分化を続ける存在である.今,我々はメダカを単一の種と捉えるが,おそらく何十万年も経てば彼らは複数の種へと分かれて行くに違いない.種が分かれるきっかけの一つは,種内のある集団が地理的に隔離され,他と交流を持たなくなることで始まる.川ごとに隔離されているメダカは,すでにいくつかの遺伝子組成の異なる分集団を生じさせている.その状態が継続されれば,やがて集団同士は互いに交配することのできない新たな種へと分化していく.一方で,交配不可能なほどには分化を遂げていない川ごとの集団同士が,何らかの要因によって再び交流するようになれば,集団は融合して一つのものへとまとまっていく.先ほどの河川争奪や,海水面の低下にともなう河川下流域同士の繋がりなどが,集団間の遺伝子を混合させるよう働く.こうした自然の成り行きを,放流は一瞬で破壊してしまう.かつて日本に広く生息していたニッポンバラタナゴは,大陸から持ち込まれた近縁亜種タイリクバラタナゴと交雑 した結果,現在では純系の種を失おうとしている.こうした例は魚に限らず数多くある.種が自然の成り行きとして分かれ,また融合する有様を人為的に妨げることについて,人間活動も自然の成り行きであるとする意見もあるが,筆者には到底与しがたいものがある.「かつてメダカには多くの地理的集団が存在し,遺伝的に別種レベルの分化を遂げていたが,人間の放流行為によってその全ては消失し,現在各地のメダカは遺伝的に均一である」と,未来の教科書に書かれることはいかがなものか.メダカの種としての成り行きを人為的に操作する放流行為は,一つの自然破壊といえないだろうか.

同じ川のメダカなら・・・
 さて,他の川のメダカを放流するのが良くないのなら,同じ川のメダカをあちらからこちらへ移植するのはどうか.放流慎重論の中にも放流するのなら同じ水系で,という意見があるが,筆者はこれにも反対である.まず,移植が効果を上げるにはそれなりの個体数が必要であり,一つの地点からそれだけの個体を採集することは良いことではなかろう.それならば親を採ってきてある程度繁殖させて数を増やせばよいと言うことになる.しかし,少ない親を起源として増殖させた子孫が持つ遺伝的多様性は,野外の集団に比べて低下する傾向にある.その上,害敵や環境変動などによる淘汰圧のかからない穏やかな環境下で育てられた個体群には,本来自然環境では生きてゆけない性質を持った個体も数多く含まれることになる.よって,遺伝的に偏った,弱勢の遺伝子を多く含む個体群を野外の集団に添加すると,もともといた野生集団全体の生存価を低下させる可能性がある.つまり,同じ川からとはいえ,個体群を移植することは,必ず移植先の野生集団に悪影響を与える危険性を秘めているのである.移植先に先住群が全く生息していなくて,放流地点からほかの場所への個体の移動が全く不可能で あれば別である.しかし,そのような条件を満たす自然環境というのは多くはないであろう.要するに,同じ川であろうがなかろうが,野生集団に全く影響を与えない放流は成立しがたいと言うことである.

放流行為とは
 外来魚の放流に関して論議されるのと同様に,放流には必ず,する側に立証責任が求められる.希少となった生物を保護するには,当然その保護行為が正当であることを立証する必要があろう.遺伝子の点からみれば,その違いが個体の生存能力にどう影響するかは未だ明らかでなく,異なる遺伝子の導入が先住の個体群に与える効果は計り知れない.この点において遺伝的性質の異なる個体群の導入は,慎重に検討され過ぎることはない.また,同一亜種内における遺伝子の導入は,それがたやすく先住個体群と混合することを示唆し,混合された個体群から導入群を識別して取り除くことは事実上不可能であることを示す.つまり,後で不備が出てきても取り返しが付かない,ということである.これまで述べてきたような,自然や文化を破壊する可能性を全て払拭して,放流すれば必ず保護できる.できなければ元に戻せる,と納得できる理屈には,筆者は未だお目にかかったことがない.放流に対する責任の持ち方は,行為そのものほど容易ではない.ましてや,地元の川のメダカを増やしたい,という考えならともかく,自分好みの系統のメダカが増えればと確信犯的にあちこちの川から集めてきて 増やすこともあれば,種を強くするためにより多くの系統を導入すべきとの暴論まで聞こえてくる始末.同じメダカだからといって,容易く集められる突然変異集団のヒメダカを大量放流するに至っては,どこに自然保護の思想があるのかと憤りを感じる.やっていることは外来魚の放流と大して変わりはない.

「そんなことを言っていては」の論理
 遺伝子を引き合いに出して放流の是非を語るとき,しばしば耳にするのが「そんなことを言っていては何もできない」という一言である.なるほど,こういう話には確かにきりはなく,突き詰めれば放流そのものが悪である,ということにもなりかねない.しかし,「そんなことを」とひとくくりにする側には,放流をしたい,という感情が先行している場合が多いのも事実である.まず放流から,と考える側からすれば,放流すべきでないという理由の一つ一つが自分の「善意(自己満足の場合もある)」を妨げる「因縁つけ」のように聞こえるのかもしれない.しかし,「そんなこと」は,本当に「そんな細かいこと」であろうか.また,本当に「何もできない」のであろうか.
 保護(Protection)行為は,保存(Preservation)と保全(Conservation)の二本柱からなる.例えば,ある系統のメダカが環境の不可逆な悪化によって日本中から絶滅しかかっているとき,それを実験室内に持ち込んで系統を絶やさないよう維持していくこと(保存)も,重要な保護行為である.同時に,従来の環境を維持あるいは復元し,野生状態で生態系の一部を担うメダカ集団を守り育てること(保全)は,最も望ましい形の保護行為であるといえよう.この保護の両翼が,しばしば混同されているのが現実の誤った保護活動の多くである.ある地域から,仮にメダカが絶滅したとして,そこに新たに生態系を復元する必要性が生じたときには,保存されていた系統の放流や近隣河川からの移植が検討されても良い.無から有は作り出せないのだから.しかし,いくらかでも野生の個体群が維持されているのなら,まずはそれらが往時の個体群を復活できるよう環境を整えてやることが最優先に検討されるべきである.また,始めからメダカがいなかった場所には地史や環境面から何らかの理由があるのだから,そこに「メダカを増やそう」とするのは保護行為ではない.いずれにせよ,対象地域の現 状を詳細に把握することから保護の第一歩が始まる.そして,保存と保全を使い分け,今ある現状に対して採りうる最も望ましい形を探ることが,保護活動のあるべき姿である.放流すべきか否かを事前によく検討することは,決して「そんなこと」と一瞥を下す問題ではない.まして,「何もできない」と切って捨てるのは,始めから放流以外の道を探ろうとしない活動家たちの偏った思考であり,怠慢でもある.

自然保護と環境教育
 教育者でない筆者が教育の在り方について云々するのは気が引けるが,メダカの保護を通じて自然の大切さを学ぼうとするなら,まず,何が自然保護かを教える必要があろう.メダカはかつてどこにでもいたというが,おそらく水田耕作がおこなわれる以前は,メダカの生息地はそれほど多くはなかったであろう.人間活動がもたらした水田環境がメダカの生息地を拡大し,水田耕作が効率を重視して変化した結果,それに適応できなかったメダカが今また数を減らそうとしている.もちろん,都市化にともない湿地や池が埋め立てられて本来の生息地が消失したことも大きな要因であるが,いずれにせよ人が快適な暮らしを享受するためにメダカは増え,また減っていったと言うことである.したがって,かつてどこにでもいたという時代のメダカを取り戻すためには,メダカが適応していた二次的自然の状態に戻さなくてはならないと言うことである.そして,それはあくまでメダカの保護のみを考えた場合であって,現実の人間活動にそぐうものではないということをひとまず認識する必要がある.
 保護活動も人がなすものである以上,人間の暮らしを無視しては成り立たない.メダカを保護するには,少なくともその地域の総意を持って,人間とメダカに求められる環境の折衷案を採る必要がある.これには,人間側もある程度我慢を強いる必要があって,その意志がなければ保護を語ること自体ナンセンスである.メダカを保護することは,単にメダカという種を保護することではなく,メダカの棲む自然環境と人間が共存する道を探ることであり,人間活動を優先した上で,形だけ放流しても真の保護にはなり得ないのである.ここまでのことを,まず認識させることが環境教育の第一歩であって,そうした背景を教えずして放流=保護=命の大切さを学ぶ,などというのはあまりにも安易で無責任ではないか.環境復元が不可能で,放流し続けなければ維持できない個体群であれば,筆者は絶滅しても良いと考えている.そして,その地域の野生メダカが絶滅に至った経緯を詳細に記録し,同じ轍を踏まぬよう自戒するとともに,人間活動による身近な生物の絶滅について教えることも,一つの自然保護教育であると思う.

宇宙メダカ狂想曲
 スペ−スシャトルで宇宙へ運ばれたメダカ,いわゆる「宇宙メダカ」が近年話題を呼び,その子孫は篤志家たちの手により各地で育てられ,自然教育の一環として小学校など公共施設に配布されている.最も,宇宙帰りのメダカの子孫のそのまた子孫,ということになると,これはもう宇宙とは何ら関係ないような気もするが,それでも「宇宙旅行」の香りが漂うのか結構あちこちで話題を振りまいている.もちろん,それに意味がないとは言わないが,宇宙メダカを通じて自然教育を,というフレ−ズには疑問を持たざるを得ない.いわんや宇宙メダカで村おこし,町おこし,ともなればもう政治的な臭いを払拭することはできない.
 筆者が指摘するまでもないが,もともとこのメダカは本州太平洋斜面から得られたメダカを発祥とするヒメダカであり,それこそ想定される宇宙環境に適応するよう幾度もの選抜試験,継代育成を経てきた純粋培養に近い品種である.本来のメダカとは遺伝的性質が異なる上,遺伝的に極めて単純化した集団であることは想像に難くない.文化的価値をありがたがって水槽内で飼育を重ねることに異議は唱えないが,仮にこのメダカが野外へと放流されたならば,隣の川から移植するよりも遙かに大きな遺伝的影響を与えることは明らかである.筆者の危惧ですまされればよいが,実際に宇宙メダカを放流したいのだが,という相談が寄せられたこともあるので,安心してはいられない.繰り返しになるが,環境教育に役立てるならば野生のメダカとそれを取り巻く環境を題材にすればよい.はじめに「宇宙メダカ」というネ−ムバリュ−と,「放流したい」という意図が先行するならば,それは決して自然保護には繋がらないのだから,教育に役立とうはずがない.このことは,くれぐれも関係者の方々には戒めていただきたいものである.

めだかの学校は・・・
 メダカの学校は庭の池,増やして放せば自然保護・・・・.メダカに限らず,日本では放流行為そのものが美談であり,放流して増やそう,という意識が結構根付いているように思う.放流をせず種を増やすには,環境整備など個人の力では満足にできないことが多く,また,放流したときにはなるほど魚の姿が一時的に増えて,自分たちの力で魚を保護したという達成感が得られやすい.しかし,得られるのは達成感,悪く言えば自己満足感だけであって,本来の意味での自然保護には必ずしも繋がらないことはこれまで述べてきたとおりである.メダカに限らず早春にはアマゴやヤマメ,初夏にはアユ,コイの放流が,日本の日常的風景として根付きつつある今日である.アユやアマゴなど,水産資源として利用する魚族については論を改めねばなるまいが,明らかに自然保護,環境教育を目的として行われている放流については,そろそろその是非を真剣に考えるべきではなかろうか.ブラックバスのキャッチ・アンド・リリ−スですら自然保護行為と認識される風潮は,情報の吟味ができない低年齢においてより強いようだ.こと自然保護に関して放流は最後の手段,そして放流には必ず大きなリスクが生 じることを,我々は強く啓発していく必要がある.近年のペットブ−ムにともなって,各地で野外へと放逐された生物が問題を引き起こしている.これも放流=自然に帰してやる行為として,あまりにも安易に考えられている誤った認識のせいとは言えまいか.放流をやめよう.偏った善意で放流したがる人々を強く戒めよう.そして保護のあり方を正しく後世に伝えよう.メダカを愛する全ての人たちに,筆者は強く訴えたいのである.
 最後に,貴方が今飼っているメダカが増えて,飼育を望む友人に分け与えるとき,必ず最後まで面倒を見ることを約束させてほしい.そして,もし飼えなくなったら責任を持って自分が引き取ることをはっきりと申し添えてほしいと思う.人から人へ,生まれたメダカが引き継がれていくとき,どこかの家ではきっと何かの事情で飼えなくなって,元気に生きていってほしいと自分勝手にそこいらの川へ逃がしてしまうこともあるからだ.そして,ひとたび野外へ放逐された生き物に大して,人は無責任に「命に変わりはない,生き物に罪はない」と,既得権を認めようとしがちである.こうして現在日本の生態系を破壊し続けている生物の何と多いことか.生き物を飼うと言うことは大変責任の重い行為である.飼っている生き物の命には,飼い主自らがケリを付ける覚悟が必要である.情操教育に,あるいは保護教育のためにと飼い始めた生き物が,結果として自然を破壊していく一方で,飼育や自然保護を通じて命の大切さを学ぶなどと言うのは,大変滑稽なことだと筆者は思う.


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