☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第331回= 立志社(りっししゃ)

立志社とは、1874年、「板垣退助」が、民撰議員設立建白書を提出した後、
郷里の土佐に帰り、「片岡健吉」「植木枝盛」「林有造」らと共に、政治
活動を目指して結成した団体のことです。

以後、自由民権運動の中心的役割を果たしますが、1883年に解散しました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第332回= 愛国社(あいこくしゃ)<明治時代>

愛国社とは、1875年に作られた日本で最初の全国的な政治団体のことです。
自由民権運動の先駆者である「板垣退助」は、前年、土佐で結成された立
志社を中心に、旧愛国公党同志を再結集し、この団体を作りましたが、結
社してすぐに参議となり、政府に復帰したため、いったんは、自然消滅し
ました。

しかし、西南戦争後の1878年に、立志社を中心に、愛国社は再興され、自
由民権運動を推進しました。そして、国会開設運動の中核的組織体となり、
1880年、「国会期成同盟」に改称されました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第333回= 国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)<明治時代>

国会期成同盟とは、明治時代初期に「国会開設運動」を進めた中心的な組
織のことで、愛国社を改称したものです。1880年3月、大阪で開かれた愛
国社第4回大会で、全国各地から参加した政治結社を統合し、名称を改め、
開設運動の全国組織になりました。

活動は、まず、「片岡健吉」や「河野広中」らが、政府に対して、2府22
県、8万7000人の署名を集め、国会開設の請願書を提出しました。しかし、
これが受理されなかったため、不服とする人々によって運動は、最高潮に
達しました。

そして、東京で開かれた国会期成同盟第2回大会(1880年11月)では、国会
期成同盟合議書と、政治運動の犠牲者に対する遭変者扶助法を決定し、憲
法私案を作成することも決めました。

翌年の10月に開かれた第3回大会では、自由党の準備組織が作られ、全国
各地で、私擬憲法づくりがなされましたが、「明治14年の政変」が起こっ
て「国会開設の詔勅」が発布されると、憲法草案の討議は見送られ、自由
党が結成されることとなり、政党組織になっていきました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
  
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
  
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
=第334回= 集会条例(しゅうかいじょうれい)<明治時代・1880年>

集会条例とは、1880年4月に公布された「自由民権運動を弾圧する」ため
の法律です。

西南戦争以後、自由民権運動は「愛国社」の再興や「国会期成同盟」の結
成によって全国的な広がりをみせました。こうした動きに危機感を持った
政府は、この条例を制定して、集会や結社の自由を奪いました。

主な内容は、次のとおりです。

 ・政談演説会、政治結社の設立は事前に警察署の許可をうけること。

 ・会場監視の警察官に集会の解散権をあたえること。

 ・軍人、教員、生徒の政治活動を禁止すること。

 ・屋外集会を禁止すること。

また、1882年には、あらゆる集会、結社を取り締まりの対象とする、更に
厳しい改正をおこない、自由民権運動は大きく規制されました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第335回= 開拓使官有物払下げ事件 <明治時代・1881年>

開拓使官有物払下げ事件とは、1881年、開拓使の官営事業を特定の官吏や
政商に非常な安値で払い下げようとして、世論の非難を浴び、中止した事
件のことです。

開拓使は、北海道の開発経営のための行政機関でしたが、その廃止時期が
翌年に迫っていました。そこで、薩摩藩出身の北海道開拓長官「黒田清隆」
は、上級官僚の安田定則や鹿児島県出身の「五代友厚(ごだいともあつ)」
らに、官船、ビール・砂糖工場、農園、倉庫、炭鉱などを払い下げようと
しました。

これが、非常に安値だったため、薩摩閥が、政商と結託して公の財産を私
するものという非難を浴び、ついに、払下げは、中止になりました。そし
て、これが「国会開設運動」に拍車をかけることになりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第336回= 明治14年の政変 <明治時代・1881年>

明治14年の政変とは、政府の筆頭参議「大隈重信」とその一派が、政府から
一掃された事件を言います。

当時、国会開設運動は、最高潮に達していたため、政府内部でも、その要求
を受け入れる方向に向かっていましたが、漸進論を唱える伊藤博文や井上馨
と急進論を唱える大隈が対立していました。

こうした動きの中で「開拓使官有物払下げ事件」が起こり、世論と自由民権
派の政府批判が、いっそう激しくなりました。

そして、政府の内部では、払い下げに反対だった大隈重信が、福沢諭吉や三
菱の創始者岩崎弥太郎らと結び、藩閥政治の打破を企てているとの風説が流
れたのです。

これに対して政府は、開拓使官有物払下げの中止と10年後の国会開設を決め
る一方、筆頭参議として大きな力を持っていた大隈とその一派をこの風説を
口実の追放しました。

この政変により、薩長の藩閥体制はいっそう強固になりましたが、10年後に
国会を開設することになったため、1881年10月、「板垣退助」を中心に、日
本で初めての政党である「自由党」が結成されることになります。また、こ
の政変で下野した大隈重信も、翌82年、「立憲改進党」を組織し、自由民権
運動は新たな局面をむかえることになりました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第337回= 私擬憲法

私擬憲法とは、明治時代前期の「憲法私案」の総称です。民間人や政府の
要人が、私的に作成したことから、そう呼ばれました。自由主義や民主主
義など、近代ヨーロッパの思想を取り入れているものが多く、現在、約50
点が確認されています。

有名なものとして、慶応義塾出身者および福沢諭吉と親しい実業家を会員
とする交詢社(こうじゅんしゃ)の「私擬憲法案」があります。この案は、
イギリス流の立憲君主制を基礎にして議院内閣制や二院制などを規定して
いました。

また、フランス流の急進的な憲法草案もあり、その代表が植木枝盛の「日
本国国憲按」で、基本的人権や主権在民だけでなく、政府に対する抵抗権
までも認めるというものでした。

これらの私案の多くは、改進党や自由党系の政治結社とそれにつながる人
たちによって作られましたが、市民の立場から提案されたものもありまし
た。これが、「日本帝国憲法(五日市憲法)」で、東京府下の五日市の千葉
卓三郎らのグループによって作られ、人権や国民の権利の保障などに力点
が置かれていました。

しかし、こうした自由民権的な動きは、天皇主権的な憲法を目指していた
明治政府に抑圧され、私擬憲法が、憲法制定の主導権をとることはありま
せんでした。そして、後に制定される大日本帝国憲法は、君主権の強いド
イツの憲法をもとに作成されることになります。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第338回= 自由党(じゆうとう)<明治時代>

自由党と称する政党は明治時代以降4つ存在しますが、ここでは、明治時
代の自由党を扱うものとします。

自由党とは、日本で始めて組織された「政党」です。1881年に、国会開設
請願運動の中心だった国会期成同盟を軸に結成されました。中心人物は、
「板垣退助」「中島信行」「後藤象二郎」らで、主権在民、一院制を掲げ
フランス流の急進論を主張しました。

結成の翌年には、機関紙「自由新聞」を創刊し「善良なる立憲政体の確立」
をかかげ、自由民権運動を奨励し、士族や豪農、地主などの地方の支持者
層の組織化を進めました。

それに対し、政府は、集会条例の改正追加などによって弾圧するとともに、
板垣と後藤を三井の資金で外遊させて懐柔するなどの措置をとりました。
そして、党内部の対立もあり、1884年の秩父事件の直前に解党することに
なります。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第339回= 立憲改進党(りっけんかいしんとう)<明治時代>

立憲改進党は、明治の自由民権運動期に結成されたものと第2次世界大戦
後につくられた保守政党がありますが、ここでは、明治のものを扱います。

立憲改進党とは、1882年に「大隈重信」を中心に結成された政党です。メ
ンバーは、明治14年の政変で下野した官僚や新聞記者、弁護士、教師など
の都市知識人層によって形成されていました。

大隈重信は、自由民権運動の有力政党として、イギリス流の穏健な立憲政
治による政治改革・国権伸張・地方自治の基盤確立などを目標に活動しま
した。

しかし、自由党との対立抗争や自由民権運動の激化もあり、1884年には、
大隈が脱党して弱体化していきました。そして、1896年に、進歩党が結成
されるとともに解党されました。


   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
   
   ☆〜☆ わかりやすい! 歴史用語解説  ☆〜☆
   
   ☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆
    
=第340回= 福島事件(ふくしまじけん)<明治時代・1882年>

福島事件とは、福島県令の「三島通庸(みしまみちつね)」が、河野広中ら
福島自由党員と農民を弾圧した事件のことです。自由民権運動を「警察力」
で弾圧した最初の事件として知られています。

三島は、県令として着任し、会津若松を起点に山形・新潟・栃木に通じる
会津三方道路の建設を強制し、従わないものに対して、多くの罰則を設け
ました。これに対し、農民や県会議長の河野広中ら福島自由党員は、激し
く反対しました。

それに対し県当局は、工事に従事せず、代夫賃も払わない者の財産差し押
さえと公売処分を強行し、それに抗議した指導者を逮捕しました。怒った
数千人の農民は、釈放を求め、喜多方警察署を包囲しましたが、警察は、
抜刀してこれを制圧しました。

この事件を口実に、警察は、自由党員と農民あわせて約2000人以上をいっ
せいに検挙しました。この弾圧により、福島自由党は壊滅状態になり、自
由民権運動に大きな打撃を与えました。


★ バックナンバー目次へ ★ ★ TOPのページへ ★