このサイトの作者が本を出しています・・・教科書とはひと味違う日本史のだいごみ


◆◆ みんな集まれ!おしゃべり歴史講座 ◆◆


■011 農耕と貧富の差の発生

 これまで、農耕によって戦争が発明されたという話をしてきたけど、今回
 は、農耕によって貧富の差が生まれたという話をするよ。

 ・・・えっ? 農耕って、貧富の差まで生み出したの?

 そうなんだ。これまで述べてきたように戦争に負けた人たちが奴隷になっ
 たり、奴隷にまでにはならなくとも低い地位に甘んじることになった人た
 ちがいたことはわかるよね。

 たとえ戦争がなかったとしても、農耕には貧富の差ができる要因がたくさ
 んあるんだ。

 ・・・例えば、どんなこと?

 まず、農耕は、狩猟や採集とは違い、成果が出るまで時間がかかるよね。
 お米だったら、約半年間の時間が必要だ。長い長い時間をかけて実りを得
 るわけだけど、必ずしも良い結果が出るとは限らないよね。

 ・・・つまり、技術力が必要なんだ

 技術が高ければ実りも多いし、低ければ実りが少ない。同じような条件で
 も技術の高い人と低い人では収穫に差が出る。そうなると、必然的に貧富
 の差が出てくるよね。

 中には、1年間食べられる食糧を生産できず、十分生産した人から食糧を
 借りるというようなことも起こってくる。

 ・・・つまり借金だ

 場合によっては、自分の田畑を手離さざるを得ない人も出てくる。技術力
 の低さや運の悪さなどによって、没落していく人もいる。そうやって、ど
 んどん貧富の差を生んでいくことになる。

 ほかにもあるのだけど、それは次回ね。


■012 階層社会の成立

 今回は、お米のお話をするよ。まず、お米と肉との違いを考えてみよう。
 どっちがおいしいとか、栄養があるとかということじゃなくて食物として
 の特性の違いをね。

 ・・・えっ、特性? どんなこと?

 今の生活で考えてもすぐわかるよ。例えば、肉は冷蔵庫に入れるよね。そ
 うでないと腐ってしまう。それに対して、米は、常温で大丈夫だ。この違
 いが大きな意味を持つんだ。

 ・・・つまり、米は保存できるってこと?

 そうそう。肉ならば、冷蔵庫がない時代、2〜3日しか保存できない。だ
 から、貯めておくことができない。すぐに価値がなくなってしまう。それ
 に対して、米は、何年も保存できる。精米してない状態ならば、10年ぐら
 いはもつといわれている。

 ・・・つまり、価値のあるものを持ち続けることができるんだ

 保存できる食糧はお金と同じ。貯金もできれば借金もできる。そのため、
 前回話したように貧富の差ができる。貧富の差というと、いわゆる負け組
 にとってはつらいことだけど勝ち組にとっては魅力的なことだよね。

 すると、より効率的に農耕を行う方法が開発されていく。大規模な灌漑設
 備を整えたりして、どんどん本格的になっていくわけだ。すると、ノウハ
 ウが複雑になるので、誰でもできるというわけにはいかなくなる。

 ・・・より、技術力がモノをいうようになるんだ

 そうなると、人間の役割分担が始まってくる。たとえ技術がなくともでき
 る作業があるから、技術力のある人に従って生きていくこともできるよう
 になる。

 今に置き換えてみると、起業するのか就職するのかというような違いだね。
 起業して成功すれば、大きな見返りはあるけど、失敗したら借金だらけに
 なって土地を失い、奴隷になるかもしれない。それに対して、技術が確か
 な人に従っていれば見返りは少なくとも安定して食うことができる。

 ・・・内容は違うけど、今の社会と似ているね

 こうして、階層社会が生まれていくんだ。狩猟・採集だけの時代は、富を
 蓄えることが難しかったので、そのようなことは起きにくかったけど、保
 存できる食糧の発明が階層社会を作ったといっても過言ではないね。


■013 所有権の発生

 農耕が発達したことにより価値がグーンと上がったものは何だろう?

 ・・・もちろん、土地でしょ

 そのとおりだ。それも、農耕に適した土地ほど高い価値を持つようになっ
 た。そして、人類にとって土地というものが社会システム上、重要な役割
 を果たすことになる。

 自分で開拓した土地は、自分のものにしたいよね。今の言葉で言えば所有
 権だ。でも、当時は、そんなものはない。

 ・・・これは俺のものだ

 と叫んでも、それを守ってくれるシステムはなかった。だから、自己責任
 で守らなければならなかった。農耕が始まると、世界中で戦いのための武
 器や防衛施設が出現したことは、すでに述べたよね。

 だから、だんだんと所有権を守るシステムができてくる。所有権が保証さ
 れないと、人間、安心できない。自分で開拓したものであっても、戦いに
 よって得たものであっても、誰が所有しているのかが明確でないと争いの
 元になる。

 そこで、共通のルールを持った社会が形成されていくわけだ。最初は、小
 さい範囲だけど、それが徐々に大きくなって、ムラが形成されていく。

 もちろん、ルールが通じない敵は無数に存在した。それらと戦い、勝ち抜
 いたものが更に大きなムラを作り、やがてクニになっていく。それらの基
 本が土地なんだね。


■014 鉄がやってきた

 日本の古代の歴史を語る上で欠かせないものがある。「鉄」だ。人類の武
 器や道具の歴史は、普通、石器時代から青銅器時代、鉄器時代と発達して
 いくのだけど青銅器時代を経ないで鉄器時代になった地域もある。

 ・・・日本は、その一つだ

 日本は、弥生時代に朝鮮半島から鉄器と青銅器が同時にもたらされたと言
 われている。つまり、日本は、金属器の使用に関してはかなり遅れていた
 地域と言えるね。

 鉄は、今では安価な素材だけど、金や銀の何倍も高かったという時代があ
 った。鉄は、強力な武器が作れるし、農耕を効率化する道具を作ることが
 できたからだ。

 ・・・それが大陸からやってきたんだ

 当然だけど、そのころの日本では、独自に鉄を作る技術などない。すると
 どうなるか? 鉄を持っている人間と持っていない人間に大きな差ができ
 ることは明らかだよね。

 戦争をするとき、強力な武器を持っているほうが圧倒的に有利だし、すぐ
 れた道具を持っているほうが、生産力もある。

 ・・・結果は目に見えているよね

 これにより、ますます階級差が拡大していく。富の蓄積も桁違いになり、
 ムラやクニの抗争も激しくなっていくんだ。鉄が格差社会を作ったといっ
 ても過言ではないね。


■015 縄文人と弥生人

 今回は、日本人の先祖である縄文人と弥生人のお話をするよ。古い古い話
 だから推測でしかない部分もあるけど、だいたいそんなものだったという
 ことがわかると面白いよね。

 まずは容姿だけど、縄文人はソース顔、弥生人はしょうゆ顔と言われてい
 る。

 ・・・えっ?ソース?しょうゆ?何、それ?

 という人もいるかもしれないから、簡単に説明しておくよ。これは、バブ
 ルの時代に流行った表現なんだ。ソース顔は、彫りの深い感じの顔、しょ
 うゆ顔は、あっさりとした顔のこと。

 どちらかというと、しょうゆ顔の方が日本的といわれることが多いけど、
 必ずしもそうでないと思うよ。ソース顔もけっこういるし、どちらも日本
 人の先祖だ。

 縄文人と弥生人を比べると、背は、弥生人のほうが、やや高かったけど、
 体つきは華奢だった。それに比べ、縄文人は、歯が丈夫で骨格もしっかり
 していた。これは、食べるものの違いから生じたのかもしれないね。

 狩猟・採集が中心だった縄文人。農耕中心の弥生人。たぶん、縄文人のほ
 うが、固いものを食べていたと思うよ。だから、歯も強いし、骨もしっか
 りしている。頬骨を使うから彫りも深くなる。そんな風にも考えられるね。

 どちらにしても、先に日本に住んでいたのは縄文人で、弥生人は、後に、
 大陸からわたってきた。すでに、稲作を知っていた弥生人。縄文人に比べ
 てやわらかいものを食べてきたことは確かだと思うよ。

 ・・・それが、顔の形を変えたのかもしれないね


■016 稲作の広がり

 今回は、稲作の広がりについて考えていくよ。まず、稲作は、西日本から
 東日本へと広がっていったということ。

 ・・・大陸から伝わったからでしょ?

 そのとおり。朝鮮半島から九州に伝わり、徐々に東へ向かっていく。

 ・・・順序どおりですね。

 基本的にそう考えていい。ところが、北九州から近畿地方までは一気に広
 がっていったのにもかかわらず、東日本に進むにつれて伝播のスピードは
 落ちていった。

 ・・・え?どうして?

 ここで、少し現代風に考えてみるよ。農耕というものすごい技術があった。
 それを広めようと営業マンたちが住民に説明しに行った。

 ・・・え、営業マンなんていたの?

 まあ、たとえ話だからね。でも、そんなに大きく間違っていないから、よ
 く聴いてね。営業マンは、農耕を取り入れると、安定的に食糧を得ること
 ができることを説いた。

 それに対して、すでに食糧が不足気味になっていた西日本は、その新技術
 に注目し、受け入れる態勢があったんだ。

 ・・・だから早く広がったのですね。

 そう。それに対して東日本は、まだ食糧が豊富だった。だから、この技術
 を受け入れるのに抵抗があった。人間、現状に不満がなければ、なかなか
 新しいものにチャレンジしないのは、今も昔も同じ。

 ・・・つまり、受け入れる必要性が乏しかったということですね?

 そういうこと。前にも行ったように、この営業マンたちは、ただの営業マ
 ンではない。鉄という強力な武器を持った戦闘集団でもある。受け入れな
 ければ武力に訴えることもできる営業マンだ。

 ・・・だったら有無を言わさず攻め取ればいいじゃないですか?

 うん、でも、武力は大きなエネルギーを必要とするから、できるだけ使い
 たくないんだ。100% 勝つことがわかっていても、お金も使うし、まった
 く無傷というわけにもいかない。

 つまり、武力で脅しながらも友好的に新技術を広め、自分たちが主導権を
 とるという形のほうが望ましいのだ。

 ・・・だから受け入れる素地のあった西日本は、早く広がったけど、それ
    ほど必要性がなかった東日本は、なかなか広がらなかったんですね。

 そういうこと。この考え方は、平安時代に東北を攻めた坂上田村麻呂のと
 ころにも関係するから、よく頭に入れておいてね。


■017 邪馬台国はどこにある

今日は、古代史の謎の一つ、邪馬台国について考えるよ。邪馬台国ってどこに
あったんだろう?

・・・確か、九州とか近畿とか聞いたことがあります。

そのとおり。九州説と近畿説が非常に有力だ。ただ、他にも沖縄説、四国山頂
説なんていうのもあるよ。

・・・要は、よくわからないということですね。

そういうこと。中には、ハワイ説なんていうのもあるぐらいだからね。

・・・えっ?ハワイ!そんなのもあるんですか

まあね、信じがたいけれども。ただ、魏志倭人伝の記述をたどると、太平洋上
にあることになってしまうから、そういうトンデモ説も生まれたんだろう。ど
ちらにしても、魏志倭人伝だけで場所を確定することは無理のようだ。

・・・つまり永遠にわからないということですか?

いや、最近は、考古学が進歩しているから、発掘調査などにより解明される可
能性はある。

・・・発掘ですか

そうだよ。今、盛んに行われている。いずれ決着はつくと思う。細かいことは、
また機会があったら話すとしよう。ただ、近畿か九州かといわれれば、九州の
ほうに分があるような気がする。

・・・どうしてですか?

やはり、方向だろうね。よく九州説は、方向が正しく、近畿説は距離が正しい
というだろう。

・・・聞いたことがあります。

大陸から来る場合は船で来るのだから、方向が違うことは考えにくい、方向を
間違えると死につながるから、その辺は敏感なはずだ。もちろん、記述したと
きに間違えたというのなら別だけど。

それに、大陸から日本に来る場合は、九州が自然な通り道だから、今のところ、
九州を支持したい。

・・・でも、わからないことにかわりがないですね。

そうだね。この問題は、命を懸けて研究している人も多いから、今後の新事実
の発見に期待したいと思う。


■018 巨大な古墳が語るもの

 今でも、各地に大きな古墳が残っているよね。これらの古墳が出現したのは、
弥生時代の後半からだ。特に、三世紀後半から四世紀前半にかけて、より大規
模な古墳が出現するようになった。

・・・なんであんな馬鹿でかいものを作ったの

理由は、いろいろ考えられるけど、やっぱり巨大な権力が存在したからだと思
うよ。

・・・権力があると大きいものを作るのですか?

まあ、一概には言えないけど、ちょっと現在に置き換えて考えてみよう。たと
えば、大きな本社ビルのある会社と、ちっちゃなビルの片隅にある会社では印
象が違うだろ。

・・・確かに大きなビルを持っているだけですごい会社だと思ってしまいます。

つまり、俺は、これだけのものを作るだけの権力、経済力があると誇示できる
んだ。

・・・つまり権力の象徴ということですか。

そうだね、そういう意味合いも強かったと思う。また、そうすることにより、
あいつ強いぞ、うかつに手は出せないぞということで、防衛にも役立ったと思
うね。

・・・確かに、体が大きくて強そうな人に喧嘩を売る気にはなれません。

ほかにも、まだまだ意味はありそうだけど、それは次回ね。


■019 前方後円墳の広がり

前方後円墳って知っているかな?

・・・もちろんです。丸と四角を組み合わせた鍵穴みたいな形の古墳です。

そうそう、古墳は、円墳、方墳、前方後円墳など、いろいろな形があるのだ
けど、四世紀ごろから前方後円墳に画一化されて全国に広がっていくように
なる。

・・・えっ?なぜですか?

そうだね。いろいろな理由はあるけど、その一つとして大和政権の拡大に関
係がある。

・・・大和政権ですか?

うん、ちょっと大雑把に前方後円墳は大和政権のマークと考えてみよう。

・・・なるほど、前方後円墳を作るということは、大和政権に属していると
   いう印なんですね。

そう考えていいだろう。このころ古墳に埋葬されるのは、主に、豪族の首長
だったから、前方後円墳を作ることにより、大和政権とともに歩く大和グル
ープの一員だということを古墳の形で示したといえる。

・・・つまり、看板の役目も果たしていたのですね。

そのとおりだ。だから、前方後円墳がある場所は、大和政権下の土地である
ことが明白となり、敵なのか味方なのかが、すぐにわかる。物資を輸送する
ときなど、安全かどうかがわかり、非常に便利な印だったと言える。

・・・古墳って、そんな意味もあったのですね。

古墳に限らず、あらゆる建造物に意味があることが多い。これは、現代でも
同じだから、いろいろ考えてみると楽しいよ。


■020 仏教がやってきた

日本に新しい宗教が入ってきた。仏教である。

・・・えっ、仏教って新しい宗教なの?

そう、随分、古くからあるけど、入ってきた当時は外国から来た得体の知れな
い新しい宗教だったんだ。だから、すごく興味を持つ人もいたし、嫌がる人も
いた。

・・・正体がわからないものは嫌ですねぇ〜。

うん、入ってきたのは、飛鳥時代、欽明天皇のころだけど、この仏教を受け入
れるかどうかで日本が揺れていくことになる。受け入れるべきと考える崇仏派
と受け入れるべきでないという排仏派が対立するようになる。

・・・とてもイメージできないです。

崇仏派の代表格は蘇我氏で、排仏派の代表格は物部氏だった。そして、この二
つの有力豪族が戦うことになる。

・・・仏教をめぐって、そんなことがあったのですね。

そう。結果は、蘇我氏勝ち、蘇我馬子の力がぐーんと増していく。

・・・蘇我馬子って、天皇を凌ぐほど権勢を誇った人ですね。

そう。敏達天皇のとき大臣に就き、以後、用明・崇峻・推古天皇の4代に仕え、
50年以上も権勢を振るった。

・・・どうして蘇我馬子は仏教に積極的だったのですか?

まあ、理由はいろいろあるけど、その一つとして、旧来の氏姓制度を崩壊させ
て、中央集権を目指したことと関係があるだろう。

・・・つまり、改革ってことですか。

そう。それも国家体制にかかわるハードな改革。当時の氏姓制度は、豪族の連
合政権だった。だから、氏によって神様が違っていた。

・・・すると仏教は?

仏教は、身分制度や部族制度を超越した宗教だから、氏姓制度にはそぐわない
宗教だった。

・・・仏教を取り入れて一気に改革って感じですか?

そんな感じだね。それに、当時は、仏教を信じている渡来人もたくさんいたか
ら、彼らを味方につける目的もあった。そのため、蘇我馬子の力は、ますます
大きくなっていったんだ。

・・・単に新しい宗教が入ったというだけではないのですね。

そうだね。崇仏派の勝利は、その後の日本の行く道を決めたといっても過言で
はないほど大きな出来事だった。そして、日本の歴史に仏教は、切っても切れ
ないものになっていったんだ。


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