4月の問題解答・解説
A
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◆ 解 答 < >内は、問題文の事件の起きた日を表しています。
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1.ルメール <1641年4月2日>
2.高村光太郎(たかむらこうたろう) <1956年4月2日・没>
3.十七条憲法(じゅうしちじょうのけんぽう) <604年4月3日・制定>
4.藤原時平(ふじわらのときひら) <909年4月4日・没>
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◆ 解 説
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三重:1番は、何なのですか?
佳代:そうです!こんな問題、わかるわけありません(怒)。
藤原:ごめんごめん、ちょっと4月の上旬は問題不足で(笑)。マニアック
すぎたね。
佳代:そうですね。でも、オランダが出島に移ったことは重要ですね。
藤原:そう、実質上の鎖国の完成とも言える。
佳代:これで、ヨーロッパとの貿易は、出島に一本化されました。
藤原:うん、これにより、貿易の利益は幕府が独占することになる。キリ
スト教の禁止とともに、幕府の大きな狙いが実現したわけだ。
三重:そうですね。それから、高村光太郎は、知ってます。有名です。智
恵子抄も、どっかで見ました。
佳代:試験に出たよね。
三重:そうね。国語だったけど。
藤原:確かに、試験などには良く出る人だね。特に詩が。覚えておいてほ
しい人だ。それから、聖徳太子はいいね。
三重:ハイ、大丈夫です。憲法十七条っていうこともあります。
藤原:うん、どちらもあるね。これは、憲法という名前はついているけど、
内容はどうだったの?
三重:ハイ、役人の心得を述べています。
藤原:よろしい。最後は、道真のライバルというか、政敵の時平。実際は、
時平の方が、ずっと若く身分も高く、左大臣だから、ずっと上のな
のだけど、道真を嫌って、左遷したらしい。その辺は、疑問がいっ
ぱいあるけど、そんな話になっているね。
佳代:ええ、どちらにしても、道真の祟りを恐れて、後に太政大臣を贈っ
たり北野神社に祀ったりしたわけですから、いろいろあったと思い
ます。
藤原:そうだね。平安時代は、静かな時代のように見えるけど、陰謀も多
かった時代だ。意外に、面白いところだよね。
佳代:そう思います。先生、今日はありがとうございました。
B
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◆ 解 答 < >内は、問題文の事件の起きた日を表しています。
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1.高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ) <1827年4月5日・没>
2.板垣退助(いたがきたいすけ) <1882年4月6日・襲撃受ける>
3.徳川秀忠(とくがわひでただ) <1605年4月7日・将軍職委譲>
4.ルイス・フロイス <1569年4月8日・信長に謁見>
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◆ 解 説
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三重:高田屋嘉兵衛?聞いたことありませんねぇ。
佳代:わたしは、テレビでチラッと見たことがあります。
藤原:うん、有名な廻船業者だね。ゴローニン事件の解決に尽力したこと
でも知られる。
三重:あっ!ゴローニン事件なら、聞いたことがあります。確か、ロシア
人がつかまった事件でしたよね。
藤原:そう、江戸時代、北のほうが少し騒がしかったころの出来事だね。
ゴローニンは、ロシアの軍人だ。その釈放に高田屋嘉兵衛が努力し
たんだ。
佳代:自分も捕まったことがあったからですね。
藤原:そうだろうね。それから、2番は簡単だろ。
三重:ハイ、超簡単です。一番早い(1881)自由党!
藤原:そう、1881年だったね。その退助が、襲われたことがある。
佳代:有名な、板垣死すとも自由は死なじと叫んだと言われているやつで
すね。
藤原:そう、作り話の可能性も大きいけどね。それから、秀忠は、地味な
将軍だけど、幕府の設立に大きな役割を果たした。
三重:それにしても、家康は、何で、早々に将軍を譲ってしまったのです
か?
藤原:それはね、まだ、豊臣家に秀吉の子供がいたからだ。
佳代:秀頼ですね。
藤原:そう。そして、将軍職は、ずっと徳川家がやるんだということを示
したわけ。
三重:なるほど、そういうことですか。
藤原:うん、この時点では、まだまだ天下が定まったわけではないからね。
佳代:最後は、フロイスですね。
藤原:そう。日本史を書いたことでも知られている。これも、当時を知る
貴重な史料の一つになっている。
佳代:わかりました。先生、今日はありがとうございました。
C
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◆ 解 答 < >内は、問題文の事件の起きた日を表しています。
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1.旭姫(あさひひめ) <1586年4月11日・婚家より離別される>
2.巌流島(がんりゅうじま) <1612年4月13日・決闘>
3.江藤新平(えとうしんぺい) <1874年4月13日・処刑>
4.塵芥集(じんかいしゅう) <1536年4月14日・制定>
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◆ 解 説
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三重:えーっと、秀吉の妹が家康の妻になったのですか?
藤原:そうだね。典型的な政略結婚だけど、かわいそうなのが、旭姫。無
理やり離婚させられて、嫁がされたのだからね。
佳代:いくら政略結婚といってもひどすぎますね。
藤原:うん。しかも、旭姫は、当時44歳。
三重:えーーー!44歳ですか!それで姫なのですか!
藤原:まあね。姫は姫だよ。
佳代:そうですね。家康も同じぐらいの年でしたよね。
藤原:うん。家康は、当時45歳。この時期は、小牧・長久手の戦いで和睦
を結んだけど、まだまだ、秀吉との関係がしっくりいっていなかっ
たころだ。
三重:それにしても、44歳ですか・・・。
藤原:宮本武蔵と佐々木小次郎の対決は有名だね。
三重:ハイ、そのぐらいは知っています。
藤原:対決した島は、舟島という小さな島だ。
佳代:あれっ?先生、巌流島じゃないのですか?
藤原:うん、それは、後から付けられた名前だ。当時、佐々木小次郎は、
巌流という派を名乗っていた。もちろん、小次郎が作った流派だ。
この敗戦で、以後、巌流島と呼ばれるようになったというわけだ。
三重:えっ!負けた人の名前を付けたのですか?
藤原:日本史には、負けた人間の鎮魂のために、いろいろするということ
を「逆説の日本史」で有名な井沢先生も述べている。その辺が理由
かもしれないね。
佳代:それから、3番の江藤新平は、かわいそうでした。
藤原:そうだね。ものすごく頭の切れる人だったようだ。しかし、佐賀に
帰って、佐賀の乱の首謀者に担ぎ上げられた。
佳代:佐賀の乱は、不平士族の乱でしたね。
藤原:そのとおり。この時代、武士の特権がどんどん失われて、不満が、
ピークに達していた。そこに、征韓論で敗れ、佐賀に帰った新平が
ピタリとはまってしまったようだ。
三重:最後は、教科書にも載っています。
藤原:うん、分国法の代表的なものだね。伊達政宗で有名な伊達家のもの
だ。どちらにしても、戦国時代は、戦国大名が、独自に法律を作る
必要もあったということだね。
佳代:たくさんありましたね。甲州法度之次第とか。
藤原:そうだね。その中でも、最大のものが、この塵芥集ということだね。
佳代:わかりました。先生、今日は、ありがとうございました。
D
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◆ 解 答 < >内は、問題文の事件の起きた日を表しています。
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1.古今和歌集(こきんわかしゅう) <905年4月18日・編纂命令>
2.斎藤道三(さいとうどうさん) <1556年4月20日・敗死>
3.若槻礼次郎(わかつきれいじろう) <1930年4月22日・調印>
4.ドイツ <1895年4月23日・干渉行う>
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◆ 解 説
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三重:えーっと、万葉集は違うのね。
佳代:そうよ。万葉集は、勅撰和歌集じゃないわ。
藤原:そうだね。天皇の命令で編纂されるのが勅撰和歌集。第1号は、古
今和歌集で、以後、たくさん作られることになる。
三重:斎藤道三は知っています。まむし・・・だっけ?
藤原:うん、まむしの道三とか言われる下剋上の代表的な人物だね。
佳代:その道三も、長男との戦いで敗れ、死ぬことになります。
藤原:そうだね。それから、話は、一気に変わって、ロンドン会議。こち
らはちょっと難しかったかな?
佳代:ハイ。難しかったです。
藤原:ロンドン会議自体は、有名だね。イギリスのマクドナルド首相の提
唱で行われた。
佳代:補助艦の保有量を、アメリカ、イギリスが10に対し、日本は、7で
妥協しました。
三重:最後は、知ってます。三国干渉は、ロフド、つまり、ロシア、フラ
ンス、ドイツです。
藤原:おう、覚えていたね。大国に干渉され、屈辱を受けた。それが、ロ
シアと戦う動機の一つにもなった。日本人も、ここは我慢したんだ
よね。
佳代:そうですね。先生、今日はありがとうございました。
E
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◆ 解 答 < >内は、問題文の事件の起きた日を表しています。
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1.藤原秀郷(ふじわらのひでさと) <940年4月25日>
2.以仁王(もちひとおう) <1180年4月27日・頼朝令旨受け取る>
3.毛利輝元(もうりてるもと) <1625年4月27日・没>
4.藤原泰衡(ふじわらのやすひら) <1189年4月30日・義経没>
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◆ 解 説
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三重:えーっと、朝廷に献上したということは、首を京都まで運んだので
すか?
藤原:そのとおり。平将門の乱は、関東の乱だからね。
佳代:そして、この秀郷の子孫が、4番の泰衡なのですね。
藤原:うん。秀郷の子孫が東北に根付き、結果的に奥州藤原氏になって、
隆盛を極め、最後は滅びることになる。
三重:すごいですね。やっぱり歴史はつながっているのですね。
藤原:まあ、このぐらいのつながりはどこにでもあるよ。
佳代:2番は、読み方が難しいですね。
藤原:そうだね。でも、この以仁王の命令から、本格的に源平合戦が動き
出しているわけだから、よく覚えておこう。
三重:3番の関ケ原の総大将は、石田三成ではないのですか?
藤原:実質はそうだけど、三成は、信望がないということで、名目的に輝
元になってもらったらしい。その辺は、よくわからないけどね。
佳代:確か、そんな話を聞いたことがあります。しかし、輝元は、大坂城
から動くことはありませんでした。
藤原:その辺も、当時の様子をあらわしているね。どちらにしても、関ケ
原は、天下分け目とは言っているけど、実際は、豊臣家内部の争い
のような形になっている。豊臣恩顧の大名の多くが東軍だからね。
佳代:そうですね。三成対家康というよりも、豊臣家の武将派対文吏派と
いう感じがします。
藤原:うん、淀殿派と北政所派の戦いという見方もある。単純に、天下分
け目とは言いづらい戦いだね。
佳代:ホントですね。先生、今日はありがとうございました。