Once Upon a Time・・・



この物語は、友人のチャーリーひのもとさんの絵 「メガエラの思い出」から
着想を得てつくりました。
「メガエラの思い出」は「ファイブスター物語」をもとにしていますが、
私は「ファイブスター物語」のことを全く知らず、読んだこともないので、
この物語は「ファイブスター物語」とは完全に別物です。


悲しいことがあると、メガエラは一冊の本を取り出す。
普段は引き出しの奥深くしまわれていて、人の目にふれることはない。
兎の絵が描かれた表紙を開いて、好きなページをめくると、
悲しみがほんの少しやわらぐ気がする。
あの人はどうやって悲しみを癒すのだろうかと、ページをめくりながらメガエラは思う。
そうしてどこにいるかわからない彼に思いをはせる。
遠い昔、別れのとき、その本をくれた人に。


メガエラは一人っ子で、両親の愛を一身に受けていた。
父親はその土地の領主で、屋敷は大きかった。
メガエラが学校に行く年齢になったとき、両親は家庭教師を頼むことに決めた。
家から通える距離に学校がなかったからだ。
そして両親が選んだのが、マスターだった。
マスターは土地の者ではなかったが、なんでも知っている賢者だとの評判が高かった。
彼はメガエラの家庭教師になることに乗り気ではなかったが、
それでも引き受けてくれたのは、メガエラの両親が熱心に頼み込んだからだろう。
秋のはじめに、マスターは屋敷にやってきた。
「こんにちは」
マスターはやわらかい声でそう言うと、かすかに微笑んだ。
メガエラは恥ずかしがって母親のスカートの後ろに隠れていたが、
マスターを一目見て、心が惹きつけられるのを感じた。
「きみがメガエラだね。今日から私と一緒に勉強しようね」
マスターはメガエラの側に来て、そう言って頭を撫でた。
「ほらメガエラ、マスターにご挨拶なさい」
母親にうながされて、ようやくメガエラは「こんにちは」と言った。
「今日はいろいろお話しよう。勉強は明日からだよ。私と握手できるかい?」
マスターは手を差し出した。メガエラはおずおずとその手を握った。
マスターはやさしくメガエラの手をつつんだ。
その手はあたたかだった。


マスターは毎日、昼過ぎに来て、陽が落ちるころに帰っていった。
両親は屋敷に住むように勧めたが、マスターはそうしようとはしなかった。
「申し訳ないのですが」
マスターは静かな声で言った。
「人と一緒に住むのは性に合わないのです」
では、せめてお食事でも、とメガエラの両親は言ったが、マスターはやはり断った。
「人と一緒に食事をするのも性に合わないんですの?」
メガエラの母親は少し気を悪くしていた。
「いえ」
マスターはほんの少し笑みを浮かべた。淋しげな笑みだった。
「私と食事をしても、楽しくありませんから」
そう言って一礼すると、いつものようにメガエラの頭を撫でて帰っていった。
「おかしな人」
母親がつぶやいた。父親は何も言わなかったが、同じことを考えているのはメガエラにもわかった。


マスターがおかしな人などではないことは、メガエラにはよくわかっていた。
「私は人が苦手なのだよ」
マスターはある日メガエラに言った。
「みんな私をよけていくのだ」
そして淋しげな笑みを浮かべた。
「メガエラは?」
「メガエラは違うよ。大事な私の生徒だからね」
マスターはそう言ってメガエラの頭を撫でた。
メガエラがもう少し内気でなかったら、きっと言ったことだろう。
マスターが大好きだと。
でもメガエラには言えなかった。
頭を撫でてくれているマスターの手に、そっと自分の手を重ねただけだった。


マスターの周りには、他の人とは違う空気が漂っていた。
それはメガエラが初めて感じる空気だった。
メガエラはそれに強く惹かれたけれど、何であるかはわからなかった。
ただマスターが微笑むときでさえ、それが濃厚に漂うのを見ると、目が離せなくなるのだった。
メガエラとマスターは少しずつ仲良くなっていった。
マスターは多くを語らなかったし、メガエラも口数の多い方ではなかったが、
マスターと一緒にいるのは大好きだった。
初めはほとんど表情を変えなかったマスターだったが、
しだいにメガエラに向かって微笑んでくれるようになり、少しずつ自分のことを話してくれた。
ずっと遠くの国から来たこと。
15のとき、家を出たこと。
兄弟は多かったが、何故か自分だけ、家族の輪に入れなかったこと。
昔から、一人で本を読んでいることが多かったこと。
家を出てしばらくしてから旅を初め、諸国を遍歴していること。
いつしか「賢者」と呼ばれるようになったこと。
「私が欲しいのは賢者の称号などではないのだが・・・」
マスターは視線を落として言った。
「人間は嫌いではないのだよ」
メガエラが心配そうに見つめているのに気づいて、マスターはにっこりと笑おうとしたが、
笑顔にならなかった。
それはあるいは、子供に聞かせる話ではなかったかもしれない。
でも、メガエラは、マスターが自分を対等に扱ってくれているのを感じた。
マスターの話はわからないところもあったが、彼が言いたいことは理解できた。
淡々と語るマスターの顔が、どこか泣き顔のように見えて、
メガエラは何か言いたかったが、言葉にならなかった。
「マスターは、またどこかへ言ってしまうの?」
マスターの話が終わり、しばらく沈黙が続いた後、そう尋ねるのがやっとだった。
マスターは黙って微笑んだだけだった。


秋の終わりに、マスターはメガエラを自分の家に連れていってくれた。
マスターの家は、人里離れた、森の入り口にあった。
赤や黄色に色づいた葉が、風もないのに、ひらひらと舞い落ちていた。
メガエラは立ち止まって見とれた。
「メガエラ、寒くなるよ」
どれくらい見とれていたのだろう。メガエラはマスターの声で我に帰った。
「綺麗なところね、マスター」
家の鍵を開けるマスターの側に走り寄り、メガエラは声を弾ませて言った。
「淋しいところだけどね」
マスターはそう言って微笑んだ。
(気に入ってくれて嬉しいよ)
マスターの笑顔がそう言っているようにメガエラには思えた。


家の中は質素なものだった。
すみに台所があり、窓の横に箪笥、反対側にベット、その横に机と椅子、それだけだった。
「メガエラが初めてのお客さんだ」
マスターはそう言って、たったひとつの椅子をメガエラに勧めてくれた。
「何か飲むかい?」
メガエラはうなずいた。マスターは台所に立って、温めたミルクを白いカップに入れてくれた。
メガエラはミルクを飲みながら、じっとマスターを見た。マスターも黙ってメガエラを見つめていた。
静かな午後だった。
窓の外では色づいた葉が音もなく散り、地面を赤や黄色に染めていた。
「綺麗ね」
「そうだね」
マスターはベットに腰掛けて、窓の外を見た。落葉はいつ止むとも知れなかった。
「ここに座って、一日、葉が散るのを見ていたことがある。
静かな一日だった。ちょうど今みたいに」
「メガエラはチューリップを育てていたことがあるの。散ってしまったときは悲しかった」
「だけど散り際が美しいときもある」
メガエラはうなずいた。そして散ってしまったチューリップを思い出していた。
花びらの落ちたチューリップには「悲しい」という言葉がぴったりだった。
決して美しくはなかった。マスターと一緒に眺める、この落葉のようには。
「もう帰ろうか。遅くなるとご両親が心配する」
メガエラはうなずいて椅子から立ち上がった。
「また来てもいい?」
「いいよ」
「明日もあさっても、ここに来てもいい? ここで勉強してもいい?」
「私はいいけれど・・・。ご両親がなんと言うか・・・」
マスターの瞳に、ふと影が宿った。


マスターの不安は的中した。マスターに屋敷まで送ってもらい、
その足で両親に頼みに行くと、両親は猛反対した。
「とんでもない」
母親は声をとがらせて言った。
「どうして? メガエラはマスターのおうちがとっても気に入ったの。
だからそこで勉強したいの。どうしていけないの?」
珍しく反抗したメガエラに母親は戸惑ったが、「とにかく、だめです」と言い放った。
「メガエラを家に連れていったことなど聞いていないよ」
父親が言った。
「そういうことをされては困るのだが」
「私はお手伝いの方に伝えましたが」
「ふたりが出かけたことしか聞いていない」
「どうしてお父様はそんなこと言うの? せっかくマスターがおうちに連れていってくれたのに。
メガエラが初めてのお客さんだったのに」
メガエラは父親に喰ってかかった。
「初めて? 君は家に客も呼ばないのかね」
父親はメガエラを相手にせず、その言葉尻をとらえた。
「いったいどういうつもりでメガエラを家に上げたのだね?」
「もうやめてよ!」
メガエラが叫んだ。気まずい沈黙が流れた。
「よくわかりました」
乾いた声で、マスターが言った。
「明日からこちらへはうかがいません。私は信用されていないようですから」
メガエラの両親はさすがに言い過ぎたと思ったようだった。
「きみ、それは困るよ。きみの他に、メガエラの教師が務まる者はいないのだから。
今までどおり、こちらに来てもらえれば・・・」
「お父様のバカ!」
メガエラの声はもう泣き声だった。なぜこんなことになったのかわからなかった。
「じゃあね、メガエラ。お別れだね」
マスターはいつものようにメガエラの頭を撫でると、両親に一礼して去っていった。
「お別れなんていや! 明日も来てよ、きっと来てよ!」
メガエラはその後ろ姿に向かって泣きながら叫んだ。


次の日も、その次の日も、マスターは来なかった。
メガエラはとうとう決心した。
マスターの家に行くのだ。
誰にも内緒で。
誰かに知られたら、反対されるに決まっているのだから。


朝食を終えてすぐ屋敷を出たものの、
メガエラはマスターの家に行く道をはっきりと憶えていなかった。
たった一回行っただけなのだ。
人に訊いて、道を探して、また人に訊いて、メガエラは必死に歩いた。
マスターと一緒のときはそれほど遠いと思わなかったのに、
独りで道を探しながら行くと、いつ着くともしれない遠いところに思えた。
メガエラは泣きそうになるのを懸命にこらえた。
泣き顔でマスターのところへ行くわけにはいかない。
どれくらい歩いただろうか。
ようやくマスターの家が見えた時にはもう、日暮れになっていた。


メガエラの姿を見て、マスターはひどく驚いた。
「マスターに会いたかったの」
メガエラはそれだけ言うのが精一杯だった。
「とにかくお入り」
マスターはメガエラを招き入れると椅子に座らせ、急いでミルクを温めて渡してくれた。
「独りで来たの?」
メガエラがミルクを飲み終わるのを待ってマスターが言った。
「うん」
メガエラはうなずいた。
「どうしてもマスターに会いたかったの」
マスターの顔はなんだか泣きそうに見えた。
「ごめんなさい、マスター」
「よくあることだよ」
マスターは微笑んだ。メガエラはふいに胸がいっぱいになった。
「マスターは泣かないの?」
「メガエラ・・・?」
「メガエラは泣くわ。悲しかったら泣くわ。でもマスターは泣かないの?」
メガエラはマスターにしがみついた。
(泣きたいときは泣いて。泣きたいときは泣いてよ)
メガエラの両親にひどいことを言われて、どんなにか傷ついているだろうに、
それでもマスターは微笑むのだ。
マスターが泣かないなら、それなら。
メガエラはマスターにしがみついたまま、声を上げて泣いた。
マスターは黙ってメガエラを抱きしめていた。


メガエラがようやく泣きやんだときには、だいぶ時間がたっていた。
「会えてよかった、メガエラ」
マスターはメガエラの髪を撫でながら言った。
「私はほかの町に行こうと思っている。本当は今日発とうと思っていた。
でも明日にしてよかった。メガエラが来てくれたのだもの」
「行っちゃうの? マスター」
メガエラは体を離して、マスターを見つめた。
「この町には長居しすぎたようだからね」
マスターは立ち上がって、机の引き出しから、一冊の本を取り出した。
「これをメガエラに。発つときに家の人にことづけようと思っていたのだけれど」
それは子供向けの絵本だった。表紙には兎の絵がついていた。
メガエラはそっと最初のページを開いた。前扉に、マスターの字で、
「メガエラへ  マスターより」と書いてあった。
「ありがとう、マスター」
メガエラは本を抱きしめた。
マスターはそんなメガエラを見て微笑むと、ぽつんと言った。
「メガエラに会えてよかった」
マスターからいつも濃厚に漂っていたものが、ほんの少し薄らいだようだった。


それから何年もたった。
メガエラはすっかり大人になったが、時々マスターと最後に会った時のことを思い出す。
マスターに迷惑をかけるからと、メガエラは独りで帰ると言い張ったが、
夜道を心配するマスターに、結局、家の近くまで送ってもらったのだった。
どこへ行っていたのかと問いただす両親には沈黙を守ったのは言うまでもない。
時の流れに、マスターからもらった本はボロボロになったが、
メガエラの一番の宝物であることに変わりはなかった。
本のページをめくりながら、マスターを思い浮かべ、メガエラは心の中でマスターに話しかける。
(マスター、今頃どこにいるの? いつかまた、この町に来てくれる?)
別れのとき、「またこの町に来てくれる?」と尋ねたメガエラに、
マスターは黙って微笑んだだけだったが、メガエラは大人になった今こそ、
マスターに会いたいと思うのだった。
マスターから濃厚に漂っていたもの、その名が今ならわかる。
それは孤独という名の影だった。
(ねえ、マスター、私は大人になったの。 孤独を知って、大人になったのよ。)
もう一度、マスターに会いたい。マスターに会って、語り合いたい。
マスターのあの微笑みを見て、あのやわらかい声を聞きたい。
きっと今なら、マスターの魂を理解することができるだろうから。


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