diary



2012/03/20 (Tue) 151

.□ QUITO (キト)ECUADOR  □.

QUITO (キト)ECUADOR 2011年5月11日〜16日

キトはエクアドルの首都。アンデス山脈の谷間にあり、標高2800mの南北に細長い大きな街で赤道が通っている。北の端から南端までバスで2時間弱かかるが、東西は歩けるくらいの距離。ちなみに、エクアドルの名前の由来はEcuador terrestre(赤道)からきているそうだ。

5月11日モハンダのLa Lunaを出て乗り合いトラックで、オタバロ市外を通るパンアメリカンハイウエイまで出る。
Katyに教えてもらったバス停で待っているとすぐにキト行きのバスが来た。2時間ほどで、キトに到着。
キト市街の道路はバス専用レーンがあって行き先によって、バスの色が違う。
エコビアバスという、2両連結のバス。
エコビアに乗って新市街に行き、何軒か見てまわってLORO VERDE(緑のオウム)というホテルに泊まる。ここのホテルで久しぶりに日本人と会う。

近くにおいしい中華屋があって、そこでもキトで暮らしているという日本人と出会う。
新市街は治安が良いほうだと言われていたが、このあたりは治安があまり良くないそうで、ホテルで会った日本人は、夜ホテルの前で強盗に追われている人を見かけたそうだ。そういえば、このあたりはちょっとささくれた感じがする。
ホテルの値段のこともあったので、翌日旧市街に近いのHostal Melanieに移る。

スリがたくさんいるらしい
 

エコビアバスは混んでなければ大丈夫だが、混んだら半端じゃないので、バックパックを持って混んだバスに乗るのは大変だ。

混んでいるのでバックパックを背負うわけには行かず、床に置いて両足の間に挟み、もうひとつのショルダーバッグを胸の前で抱え、たくさんいるらしいスリから守らなくてはいけない。
どこもつかむところがないほど混んでいるときは、とても緊張する。

企業の駐在員らしいここに住んでいる日本人から、エコビアにはスリが多いので乗らないほうが良いと言われた。1回も乗ったことがないらしい。
乗ったことないのにどうして分かるんだろう。どこの国でも、現地に住んでいる日本人からは交通機関や地域には気をつけるようにとよく言われた。日本人の情報網で実際被害の情報が流れているのだろう。
「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」というように、過度に心配していたらテンション下がって楽しめない。ジレンマ・・
たぶん、エコビアに日本人で乗っているのは長期貧乏旅行者だけかもしれない。


実際被害に遭った

上でのんきに書いていたところが、実際に被害に遭うとは・・。
まあ、被害と言っても未遂だったけど、こういうことに遭うとその街がイヤになる。
たぶん、街の印象は「良かったこと」と「悪かったこと」とを天秤にかけて決まるものだ。
キトはどちらかというと、「悪かったこと」が強烈だったので印象がよくない。
被害は、旧市街(セントロ・ヒストリコ)で遭遇した「ウンコかけられ事件」。

キトの旧市街のメイン道路から一本はずれた道を相棒と歩いていると、いきなりぼくの首に液体がかかったので、触ってみると黄色い液体が指につき、なんだかとても臭い。
一瞬何だか分からずボーっとして何か付いてるか?と相棒に聞くと、驚いた様子で「背中一面に黄色い液体が付いている!!」と。
相棒の背中も見ると、とばっちりで同じ液体が付いている。
そのうち、前を歩いていた男がティッシュを持ってきて拭いてくれようとして、「ここでは無理なので、近くのレストランに行こう」という。
ぼくは以前、こういう同じ経験をスペインのバルセロナでして、カードのスキミングに遭ったことがあるのだ。
 
それとあまりにも同じ手口なのを思い出し、咄嗟にその男に向こうに行け!と怒鳴って追いやった。
手持ちのトイレットペーパーで拭き取ろうとするが、ズボンまで付いていて間に合わない。おまけに不快な臭いがするので、たまらない。
 
相棒は、目の前の建物の2階の窓がちょうど開いていたので、上から降ってきたと思いそのビルの押しボタンを押したら、バルコニーから兄ちゃんが顔を出した。「お前がやったんだろう」と怒鳴るも、彼は「知らない」と言い張る。
冷静になって考えてみると、まあ、そうだろう。犯人はそんなところでゆっくりしている分けはない。
後でそのときの周りの状況を思い浮かべると、かけられる寸前後ろを歩いている男が、何かを避ける奇妙な行動をしたのを思い出した。たぶん、その男とティッシュ男はグルなんだろう。
ほんとは、おいしいと言われているアイスクリーム屋に行くつもりだったところだったのだが、宿に帰ることにした。旧市街には、観光ポリスがいるはずなんだけど、帰る途中で被害を訴えるつもりで探すがいない。必要なときにいないなんて!!やはり旧市街は気をつけなければいけない。

宿に帰って、オーナーのおっちゃんに事件を説明して、湯量が多く出る部屋のシャワーを使わせてもらう。3階の部屋のシャワーは、湯がすぐに水になるので、寒いキトでは耐えられない。
ここの宿は家族経営で、家族が使うキッチンも貸してくれて親切だった。
キッチンと言っても建物の外にあって、屋根がトタンになっている。家族が使った食器や鍋、残飯がそのままほったらかしになっていて、使うたびに洗っていた。
大家族の上、日本のように水も豊富じゃないので、仕方ないのかもしれない。これまで、すでに7ヶ月以上旅してきたので、こういう光景にすっかり慣れてしまった。
ここのオーナーのおっちゃんは気がつく人で、外出中にとんでもない大雨が降り出して、干していた洗濯物は濡れてるだろうなあと諦めていたが、何とおっちゃんが雨のかからないところに移してくれていた。

まあ、キトでは事件に遭遇したりしてあまり良い感じがしなかったが、旧市街は世界遺産に登録されていてさすがに美しい。特に、夕方高台に上がると明かりで下の市街地から南の市街地まで、そしてずーっと山の上まで家々が続いているのが分かる。でもあまり遅くなると危険。







2012/03/20 (Tue) 150

.□ Mojanda Otavalo Ecuador(モハンダ・エクアドル) □.

Mojanda Otavalo Ecuador(モハンダ・エクアドル)
2011年5月2日、エクアドル入国。

国境の街TulcanからバスでIbarra(イバラ)で1泊し、5月4日Otavaloに到着。他の人のブログにちょっと高いけどお勧めと載っていたLa Lunaというホテルにタクシーで行く。

タクシーはオタバロの市街地を抜けて急坂をどんどん上がって行く。
道路は車がぎりぎりすれ違えるくらいで、一部コンクリートであったり丸石が敷いてあったり地道になっていたりして、おまけにデコボコなので、タクシーに乗っていると縦にかなり揺れて乗り心地が悪い。

標高2500mのオタバロから30分ほど走ると遥か下にオタバロの街がきれいに見える。
丸石の道が切れ地道になり、周りに放牧された牛が見えてきてようやくLa Lunaという看板が見えてきた。入り口でタクシーを降りた。
運転手が声を掛けてくれると、赤ん坊を抱いた白人女性が我々を迎えてくれた。

La Lunaは標高2800mのところにあり、高山に囲まれていていて広い谷の底オタバロから見て山の中腹にある大変のどかなホテル。
広い敷地には、食堂もあるメインの建物とそこから少し上がったところにある、ドミトリーと
その並びにある個室の建物2つの計4棟がある。どこからも見晴らしがよく
ずっと下のオタバロの街が見え、視線を上に上げて行くと遥かかなたまで高山が続いている。すり鉢状の谷の周りの何重にも重なった丘には黄緑の牧草地が続き、そのところどころには泥レンガで造った民家が点在している。
目をすぐ下の敷地に移すと、La Lunaで飼われている馬たちが草を食んでいる。
そういう、とてものんびりしたところで、我々もいっぺんにここが気に入ってしまった。
 

さて、そのなかでどの棟にとまろうか?まず、一番安いドミトリーを見る。
ここは入り口の部屋に共同キッチンがあって、その奥は大きなガラーンとした部屋で2段ベッドが3つ並んでいる。
ドミトリーはちょっと寒そうだったので、
メインの部屋を見せてもらう。
1階は食堂とシングル部屋が3つあり、2階にはふたつ部屋があり一方はベッド2つ、もう一方はロフト付きの寝室と気持ちの良いソファーと暖炉がある応接室がある部屋。
このロフト付きの部屋が気に入ってしまって、1週間泊まるのでマケテと(ここのオーナーだと思って)白人女性Katyに交渉したところ、「自分はオーナーではないので、オーナーに尋ねる」とのことで、それを期待してこの部屋にした。部屋が決まり、ホッとしてKatyにコーヒーを頼んだ。

 
1階のシングルルームには、社会福祉士をしてるというドイツ人女性Dorotheaが先客で滞在していて、暇なときはいつもハンモックで寝そべってオタバロで買ってきたケーナを練習していた。

コーヒーを飲んで人心地つきお腹も減ってきたので、ドミにある共同キッチンで何か作ろうと思っていくと、Dorotheaも来て、自分もこれから昼食で作るので一緒に食べようということになり、彼女が炊いたごはんがたくさんあるのでそれを奢ってくれることになった。

La Lunaの近くには商店(Tienda)が全くなく、我々もオタバロで買ったパンしかなかったので、彼女の申し出をありがたくいただくことにした。
彼女と一緒にご飯でシーチキン焼き飯を作り、それとアボガドペーストサラダの昼食。

ハイキングで遭難しかけた


La Lunaの周辺にはいくつかのハイキングコースがある。どれも、2〜3時間周回コース。起伏にとんでいて、緑の牧場がずっと続いていて遠くには不思議な形をしたインバブラ山(4630m)がそびえている。
午後からそのうちのひとつ、2時間のコースにドイツ人女性Dorotheaと相棒と3人で行くことにした。2時間のコースだから、簡単だろうと思ってLa Lunaに置いてあった手書きの地図を持って出かけた。後に起こる出来事も知らずに・・(この地図がくせものだった。おおまかな目印だけが書いてあるだけ)
 
La Lunaから出てすぐの道を30分くらい歩くと、数軒の人家があり素朴な小さい教会もある。家もとても素朴で、どこも土レンガ(土を固めて天日で干したレンガ)で造っている。
我ら3人が歩いていると、小学生くらいの少女がふたり遊んでいたので「写真を撮って良いか?」と尋ねて写真を撮らしてもらった。

余談だが、マヤの人々を撮ろうとすると今までフレンドリーに話していた人が急に怒りだしたり、あわてて逃げ出す人がいた。
メキシコのチアパス州、サンクリストバルの近くの村サンファン・チャムラでは特にそういう人に出会った。後で聞くと、写真を撮られると「魂が抜かれる」という言い伝えがあるらしい。
 
ふたりの少女は、とても人懐っこくいろいろ話しているうちに、「一緒に行って良いか?」と聞くので家の人に言わずに行って良いのかな?と思ったが、まあ、2時間くらいだし彼女たちは土地勘もあるので案内してくれるだろうと
いうことで、5人と彼女たちの犬2頭で行くことになった。
 
村の中の道路は丸石が敷き詰めてあるが、一歩それると細い土の道が続いていて、ときどき小川が流れている。遥か向こう左下にはオタバロの街が見え、
我々の行く手にはインバブラ山が見えている。これを目印に歩けば迷うことないなあと歩く。
少女たちは、ときどき崖に登ったり谷に下りたりして、野の花を摘んで女性ふたりにくれたり、「この草はとても良いにおいがするよ」と教えてくれたりした。
 
地図には左に水源の建物が見えてきて、そこを越えたところを右に行くと書いてある。
小さい小屋の絵が描いてあったが、どれがその水源の建物か分からない。2、3小屋があって、やっとそれらしい建物を見つけた。
右に行く山道もあるので、間違いないだろう。もうひとつ下にも車1台通れる道もあるが、たぶん山道を登れば、そのもうひとつの道と合流するだろうと考えて山道を登る。しばらく登ると、やはりその道に合流した。
 
地図では、もうしばらく歩くと右に入る道があると描いてある。次はその道を探しながらどんどん登って行く。
後ろにはインバブラ山と湖とその間を走るパンアメリカンハイウエイがきれいに見えている。ときどき右に入る道もある。
 
何しろ標高が高いので我々はすぐ息切れしてしまって、右に入る道を見つけたら休憩という具合。これだ!と分かる道はわからずそんな調子でどんどん登っていくうちに、この道をずっと行けばモハンダ湖に行ってしまうと気がついた。
モハンダ湖は4000m近い標高で、10キロちかく歩かねばならない。
 
ふと気がつくとインバブラ山は夕陽で赤く染まっている。少女たちに道を聞いても、初めて来たところのようで要領を得ない。
これは行き過ぎていると気がついた。今まで、のんびり散歩気分だったのがだんだん暗くなってくるし、さすがに慌ててきた。
ひょっとして・という分かれ道がいくつかあって、とにかくそこまで戻ろうということになった。
 
辺りはすでに薄暗くなってしまった。道路の横の1メートルの高さの崖の方から声が聞こえたので、道を聞こうと思って上がると少年2人が牛を追っていた。彼らにHOLA!と声をかけるが、なぜか逃げてしまう。
仕方ないので、これかもしれないという道を行くことにした。遥か下のオタバロの街は電気が点っている。周りはもう暗くなってしまった。
 
しばらく歩くと、小さい集落があってそのうちの1軒にひとがいたので、
この子たちを知ってるか?この子たちの村の教会に行きたいと言っても、全く通じずただにこにこ笑っているだけだった。我々はかなり焦ってきた。
ドイツ人女性Dorotheaは、少女たちにドイツ語なまりの英語で「よく思い出して、あなたたちしか知ってるひとはいないんだから」と言うと、年少の少女も不安だったらしく「ミ・カサ〜ミ・カサ〜」(Mi casaわたしの家)と突然泣き出した。
もうひとりの少女はさすが、年上で「ここの場所は知ってる」とやっと思い出したようだった。ちょっと不安だったが、道は彼女しか知らないので任せることにした。
 
あたりはもう真っ暗。幸いドイツ人女性がヘッドランプを持っていたので、
彼女が二人の少女の手をつなぎ、前を歩く。
ぼくと相棒はその後ろを歩くが暗くて足元が見えず、しかも泥土で滑る。
前の3人は明かりがあるので、どんどん先に行ってしまう。「ちょっと待って!」とDorotheaに言わなければ、少女たちのことを心配している彼女はどうしても早足になる。
 
しばらく歩くと、見覚えのある小川を見つけほっとした。ほっとしたと同時に周りを感じる余裕が出てきて、あたりを見るとホタルの群舞の中にいることに気がついた。とても信じられない光景!
 
 滑ったりこけたりしながら歩いて、少女たちの村が見えてきたときはほんとにホッとした。年少の少女のお父さん?たぶん、が家の前に立っていてかなり心配してた様子。
我々は平謝りにあやまるしかなかった。次は年長の少女を送りに家まで行った。彼女のお父さんが出てきたが、こちらはあまり心配していない様子だった。
ふたりを送り届けて、我々はホッと一息つき村の教会の横で一服した。
時間を見ると、すでに午後9時前だった。La Lunaに着いたら、もう10時前になっていた。2時間の予定がだいぶ延びた。
二人の少女にはとても感謝している。








2012/03/20 (Tue) 149

.□ GUANAJUATO(グアナファト) MEXICO □.

GUANAJUATO(グアナファト) MEXICO
2010年10月27日〜11月6日

10月27日ZACATECAS 9時30分発のバスでLEONで乗り換えてGUANAJUATOに到着。アメリカ・ロスに着いたときからひいてた風邪もやっとすっきりしてきた。

GUADALAJARA(グアダラハラ)で知り合った韓国人のヨンオに教えてもらったホテルに行くがおしゃれなホテルでさすが高く500ペソ(3500円)とのことで、別のホテルを探す。割合近くに手ごろなホテルが見つかった。
 
ホテルの名前はCASA SCHOENSTATTとドイツ語のようだが、経営者はメキシコ人。手ごろな値段と言ってもシャワー、トイレ共同でここも300ペソもする。メキシコはホテル代も高いと他の国に行って気がつくのだ。
ホテルに荷物を置き、早速メルカドに行って食事をする。
メキシコのティファナに着いたときに食べた海鮮スープ(Sopa de Mariscos)に嵌って以来、どこの街に行っても飲んでいた。今日もやはり海鮮スープとえびフライ!

GUANAJUATO


GUANAJUATOはメキシコで一番美しいコロニアルの街と言われている。
そのとおり、美しい街だ。メインの道路から狭い路地が迷路のように入り組んでいる。再度行きたい場所があっても行くのに苦労する。おまけに地下道が街の下に通っていて、主に車が走っている。
地下道にバスも走っているので、バス停も地下にもある。
バス停は地上と地下と両方あるのでややこしい。この地下道は複雑に出来ていて、1本の道路が途中でフォークのように分かれているところもある。そういうところは信号もあり、歩道も端にある。ただ、排煙装置がないため、排気ガスが充満していて歩くのには辛い。


死者の日

我々がグアナファトに滞在した期間は「死者の日」と重なった。
色をつけた米や豆で道路や個人の家に骸骨の絵を描いている。ある喫茶店では
ミイラ?が椅子に座っていてコーヒーを飲んでたりしている。
市場(メルカド)にも、祭壇が作ってあり亡くなったひとの遺影が骸骨と一緒に飾ってあったりする。11月2日は死者の日の本番で、メルカドからバスでしばらく乗ったところにある教会の墓地に行った。バスに乗ると、多くの人々が色とりどりの花を抱えて乗っていた。皆、それぞれの教会の墓地に行くようだ。花束を持った数人が降りたので、我々もついて行く。
教会前の道路には、様々な屋台が出ている。皆家族単位で墓の前に座り、花とろうそくに火を灯してお祈りをする。
まあ、日本のお盆と言っても良いかもしれないが、とても陽気!


「死者の日 (メキシコ)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
死者の日、墓地の装飾死者の日(ししゃのひ、スペイン語: Día de los Muertos、英語: Day of the Dead)はラテンアメリカ諸国における祝日の一つ。特にメキシコにおいて盛大な祝祭が行われる。アメリカやカナダ等に在住する同地域出身者の間でも同様の習慣が継続されている。メキシコでは全土で行われ、特にパツクアロ湖に浮かぶハニッツィオ島とオアハカがよく知られる。
死者の日には家族や友人達が集い、故人への思いを馳せて語り合う。祝祭はカトリックにおける諸聖人の日である11月1日と翌日2日に行われる。地域によっては、10月31日の晩も前夜祭として祝われる。
市街地はマリーゴールドの香りに包まれ、公園には露店が立ち並ぶ。11月1日は子供の魂が、2日は大人の魂が戻る日とされ、供え物がチョコレートなどのお菓子からメスカルなどの酒に変わっていく。日本のお盆に近い位置付けであるが、あくまで楽しく明るく祝うのが特徴である。
墓地にも派手な装飾が施され、夜間にはバンドによる演奏なども行われる。カボチャを飾り仮装をしてパーティを行うなど、ハロウィンとも共通する点が多くあり、実際にルーツは近似している部分がある。」引用おわり


日本人レストラン

死者の日の教会墓地からは歩いて帰った。
市街に入って路地を探索していると、
小さいメニューに何だか見覚えのあることば「Sopa de Miso」えっ??
みそスープ!と書いてあるやんけ!と思わず京都弁。他によく見るとヒジキとも書いてある。
ここで日本食食べられるんだろうか?
でも、待て待て喜ぶのは早い!こういうところは中国人が経営しているのかもしれん。よく看板にだまされて入ってがっかりしたものだし、と恐々店をのぞく。中の人は何だか日本人っぽい。
思い切って「日本人ですか?」と日本語で尋ねると、「旅行中ですか?」と日本語で返ってきた。あー、これは本物のみそ汁が飲める。ひじきも食べられる!
ととてもうれしくなった。日替わり定食を頼み、みそ汁も飲んで一息つき、オーナーとしばらく話す。店の名前はDelica Mitsu。
オーナーのミツさんの実家は滋賀県大津で、親は日本料理店を大津しているとのこと。
最初は店を継ぐつもりでいたが、このまま楽に人生を過ごしたくないと、親の反対を押し切ってここで、レストランを始めたと教えてくれた。
偶然は続くもので、この日の夕方も「SAKURAさくら」と書いてある店を見つけた。その日は閉まっていたので、翌日行くとオーナーがいたがしばらく休んでいるとのこと。
オーナーはバイクで中南米を旅していて、グアナファトでメキシコ人女性と出会い結婚したそう。2ヶ月前に開店したばかりと言っていた。ここは、丼物や麺類が主なメニューで大衆的な店のようだ。
それにしても、グアナファトで2軒も日本料理店を見つけた。骸骨のおかげだろうか?


コンサートに行く

朝、地下道を探索してからフェスタの一環でコンサートがあるのを思い出しインフォメーションで場所を聞いた。
かなり遠いので、タクシーで行ったほうがよいとのことで、タクシーで行く。レオン方面に行く方向にある大きなレストランが会場。アルゼンチンから来たミュージシャンのギターとチャランゴの演奏。
チケット売り場の場所をそばにいた人に聞くと、1枚チケットが余っているとくれた。
相棒もチケットを買おうと行ったが、なかなか帰って来ない。やっと帰ってきたと思ったら、お金が足らなかったと。確かに200ペソは高い!
ぼくひとりで見てと相棒は帰ってしまった。

帰りはバスに乗ろうと思ったが、歩いているうちにグアナファト市街が見えてきたので、そのまま歩いて帰った。
排気ガスが充満している長いトンネルや地下道を通らなくてはならなかった。朝は寒かったのだが日差しがきつくなり暑く、おまけに排ガスで苦しく、歩いて帰ることを後悔した。でも、ここまで歩いたのでしかたない。2時間ほどで、やっと知ったところに出てほっとした。

ミイラ博物館

メルカドの近くの旧駅舎跡から入り組んだ路地を息をきらせて上がっていくと、偶然にミイラ博物館に出てしまった。ミイラ博物館には、ほんとは全く行く気がなかったのだが、来てしまった。これもなんかの縁かなと思って見学した。
ここのミイラの由来はグアナファト独特のシステムらしく死んで3年間は無料で墓地に埋葬されるが、5年過ぎたら、埋葬税を収めていない死体は掘り起こされて、「出来のいいもの」は博物館のショーケースへ行き、それ以外は火葬されるというものらしい。
各ミイラの生い立ちを書いたものが、横に貼ってあった。
それも「私は」と1人称で語っているところがおもしろい。ミイラは遺体だかし、「私は○○で何年に生まれ」と話すミイラに驚いた。何だかふざけているのか、その展示の感覚に驚いた。
皆が歩く通路の下に埋葬時の展示があり、そこにミイラが横たわっている。その上にアクリルの蓋がしてあって、皆その上を歩くのだ。ぼくは、ちょっと歩けなかった。遺体の扱いに関して、どうもメキシコは日本と全く違う。
魂は天国に行き、ミイラは単に物体だけという考えなんだろうか?
陽気な「死者の日」とつながっているような気がした。日本では怖い存在の幽霊でも、こちらではアミーゴ(友達)なんだよな。これは、吹っ切れるよ。

(ウイルマとスティーヴ)

前述のGUADALAJARA(グアダラハラ)で知り合った韓国人のヨンオに教えてもらったホテルの1階はレストランになっている。ここに、ぼくはコーヒーをよく飲みに行った。
 ある日のこと、ここでコーヒーを飲んでいると、中年の白人女性が目の前のトルティジャの屋台の少年をスケッチしていた。少年を前に座らせて、ペンをすごいスピードでササーっと動かしている。
彼女は少年にモデル代を払うのだろうか?と興味を持って眺めていた。しばらくしてスケッチが終わり、そのトルティジャの屋台の母親からトルティジャを買って、少年にもあげていた。そして、出来上がったスケッチを少年にあげて行ってしまった。
彼女はスペイン語は堪能のようで、旅行者にも見えないしここで暮らしてるのかな?などなど考えながらコーヒーを飲み終えた。

数日後、地下道を散歩してからそばにあった小さい公園で休もうと行くと、
スケッチしている彼女に出会った。思い切って声をかけ、自己紹介して、先日サンフランシスコ教会の近くの喫茶店で、あなたがスケッチしているのを見ていたと話すと、とても喜んで彼女が描いたスケッチを見せてくれる。
スケッチは主に人物で一瞬の動きなど的確にとらえている。とても上手い。
彼女の名前はWilma(ウイルマ)。アメリカ人でグアナファトに友人の家があり、
その一部を借りて夫と滞在していると。
アメリカのマサーチュセッツの自宅とここを行ったり戻ったりの生活をしているとのこと。

夫スティーヴは大学の教員だったが、今は詩を書いていてその朗読会をしているとのこと。
 別れ際に、明日の夜食事行かないかとさそわれた。場所はTRUCO7というレストラン。通りの名前がTRUCOで番地が7にあるレストラン。
通りと番地がそのままレストランの名前になっている。
そしてその翌日、Delica Mitsuで昼食を食べて散歩してフェルナンド広場を歩いていると、また、ウイルマとスティーヴに出会って、午後3時半に彼らの家にお茶に招待された。ほんとによく出会うものだ。これも、骸骨のお導きなのかな?
 手持ちの日本茶(徳島祖谷のお茶)を持って、途中まで迎えにきてくれたスティーヴと自宅に行く。彼らの友人の家は敷地が広大で由緒ありそうな数軒貫禄のある建物が建っていて、庭に巨大な樹木がそびえている。そのなかの1軒を借りている。
ウイルマとスティーヴは持って行った日本茶を気に入ってくれた。お茶とケーキの後、ワインをご馳走になり、ウイルマの絵や画材を見せてくれた。そのあと、彼らはコンサートに行くが始まるまで時間があるので、食事に行かないかと誘われ今度はメキシコ料理店に行った。
 我々はグアナファトの次どこに行くか決めてなかったので、彼らはパツクアロを推薦してくれ、宿(ポサダ・マンダラ)も紹介してくれた。

ウイルマは少し元気がなくどうしたのだろうと思っていたが、スティーヴからウイルマのお姉さんがガンと分かってショックを受けていると聞いた。
ぼくの経験をすこし話出すと、ウイルマも話しだしてすこし気がまぎれたようだった。



 



2011/12/26 (Mon) 148

.□ パツクアロ patzcuaro □.

「パツクアロ patzcuaro」


 ミチョアカン州(Estado de Michoacan)
11月5日金曜、グアナファトからパツクアロに移動する。パツクアロでのホテルはグアナファトで知り合ったアメリカ人夫妻、ウイルマとスティーブの紹介してくれた「ポサダ・マンダラ」に泊まる予定。
中南米の長距離バスターミナルは、たいがい街の中心にはなくて少し離れたところにある。

「散々な初日」

 
 最初の予定では、朝の7時50分のバスでグアナファトを出発し、途中モレーリアでパツクアロ行きのバスに乗り換えて、午後3時には楽々パツクアロに着くはずだった。

グアナファト発モレーリア行きの1等バスは順調に12時過ぎにモレーリアの1等バスターミナルに着いた。
ここで、パツクアロ行きのバスに乗り換えるのだけど見ると、12時過ぎのバスがあったので、手元の時間を見ると12時15分。
バスの出発はたいてい遅れて当たり前なので、大丈夫だろうとチケット売り場に行くとその時間のバスチケットを売ってくれた。

「さあ乗るぞ!」と重たいバックパックを背負って乗り場に行って、「どのバスがパツクアロ行き?」と聞くと人々は皆勝手に「あれがそうだ」と言う。知らなくても教えたがる、いつものことだ。
でも止まってるバスの運転手に聞くと皆「違う」と言う。まだ来てないのかなと思って、バスターミナルの職員に尋ねると「もう出発した」・そうだ。
 結局、チケットを買った時点でバスはすでに出た後だったことが分かった。バスチケット売り場に戻って、売り場のおねえちゃんにこのことを言うとあちこちに電話をかけてくれて、バスが戻ってくるのでもう少し待ってという。
「一度出発したバスが戻ってくる?」
そんなことがあるのかと半信半疑だったが、別の職員が来て次のバスに乗るようにとチケット代金を返してくれた。次のバスは15時半。それまで待てない。
 
 ここから少し離れたところに2等バスターミナルがあり、ちょうど出発するバスがありそれに乗った。
1等バスと2等バスの違いは、エアコンがなくボロいなどバス自体の設備とすべてのバス停に止まる違い、特急バスとローカルバスの違いなのだ。
 2等バスの車体は、後に行くグアテマラのチキンバス(アメリカのスクールバスの払い下げのバス)よりはマシだが、運転はかなり荒っぽいし、バス停に出ている屋台で買った昼ごはんのトルティジャなど、物を食べながら運転するところがグアテマラと共通している。
 
 少し走ってはバス停に止まる。そして急加速して他の車をどんどん追い抜いて行く。
乗客がひとりしか降りない場合など、停車せずに徐行したまま客を降ろす。こんなこと日本ではありえない。
パツクアロにいつ着くのかわからないので、運転手と前でものを食べている車掌に「アベセメ・クアンド・ジェガーモス・ア・パツクアロ (着いたら教えてね)」と伝えてちょっとホッとしたら睡魔が襲ってきた。
ふと眼をさますと、大きな街に着いていた。停車した場所がバスターミナルではなく、道路だったので一瞬ここがパツクアロかなと思ったけど、パツクアロは大きな街でバスターミナルに着くはずで、車掌も何も言わなのでここは違うと思い込んだ。これが、大きな間違いだったと気付くのが遅すぎたのが第1の間違い。
このあと、1時間ほど乗っていると大きなバスターミナ
ルに到着。「ここはパツクアロ?」と他の乗客に聞くと「違う」と。街の看板など見ていると、「ウルアパン」と書いてあるのが読めた。この後がパツクアロかなと勝手に思い込んでしまったのが、第2の間違い。

 運転手と車掌が交代してバスはどんどん走って、急な坂道を下ったり上がったりして小さい村に止まるが、ちっとも大きな街に着かない。時計を見ると午後4時をまわってしまっている。さすがしびれを切らせて、次に止まったバス停で車掌に聞くと「パツクアロはとっくに過ぎたよ」と言う。前の車掌に「着いたら教えて」と言ったと強行に抗議した。抗議した結果、バス停の切符売りの女性に車掌が話してくれて、無料でパツクアロまで乗せてくれることになった。
このまま乗っていたらほとんど太平洋近くまで行ってたかもしれない。
あたりは夕方の気配になってきた。反対行きのバスを待っているあいだ、切符売りの女性は我々を気遣ってくれて、フルーツをくれたり、自分の親戚は日本に行ったことがあるなどと話かけてくれたり、ずいぶん心をほぐしてくれた。
やっと来たバスの運転手に、事情を説明してくれて我々をパツクアロで降ろしてとも伝えてくれた。さっき通ったウルアパンでしばらく停車して、バスはもと来た道を走る。
車窓からは綺麗な夕陽が見える。やっとのことで、パツクアロに入る道に来た。車窓からは、下の方にオレンジ色の街灯や家々の明かりが点ったパツクアロの街がきれいに見える。
 「やっとパツクアロだ!」とホッと一安心したのもつかの間、いきなりバスが徐行し止まったりまた動いたりしているうちに、完全に止まってしまった。前を見るとずっと下のほうまで、車が数珠繋ぎになっている。
運転手がエンジンを切って降りて様子を見にいったきりちっとも戻って来ない。外はもう真っ暗だ。バスの乗客も次々降りて様子を見に行くものもいて、ぼくも外に出た。たぶん標高2500mくらいでとても寒い。
ふと空を見上げると、空一面に無数のつぶの星々。星が球体に見える。そして、真上に天の川がパツクアロの向こうの山からぼくの立っている高台の後ろ、ずっと向こうの方まで続いている。こんな美しい天の川を見たのは初めてだ。すぐ横を見ると、暗闇に無数の蛍が群舞している。
夜に初めての街に着くのは危険でイヤだなと思っていたが、おかげでこんなうつくしい景色を見られたことで、今までの「災難」が吹っ飛んでしまった。
 バスはここで2時間ほど止まっていたが、ようやく動きだした。しばらく走ると、道路に大型バスが道路を封鎖するように横向けに止まっていた。これが、渋滞の大元だったのだ。
ここまで来て、全員このバスから降りるように言われた。降りてしばらく待っていると、道路を封鎖しているバスをよける応急の道が作られ、下から小型のバスが上がってきた。
バスの乗客はこの小型バスに乗り換えて、ようやくパツクアロのバスターミナルに到着した。時計を見ると9時半になっていた。午後3時の予定が6時間以上もオーバー。
人気のないバスターミナルに3,4台のタクシーが止まっていた。どの車もボロで運転手の雰囲気も白タクのようだったが、かなり疲れていたので値段を聞いてその中の1台に乗った。
「ポサダ・マンダラまで」というと、運転手のにいちゃんはオーケーと言って車を走らせた。
バスターミナルの近くの道路は舗装されているが、旧市街(セントロ・ヒストリコ)に入ると、道は丸石が敷き詰められていて、そこを猛スピードで飛ばすのでとても乗り心地が悪い。
ポサダ・マンダラのオーナーのエンリケには、前々日にメールで泊まりたい旨を伝えていたが、返事がなかった。
ここを紹介してくれたスティーブが、エンリケは英語が少ししか話せないので、自分もスペイン語でメールを送っておくと言ってくれていたので安心していた。
 セントロにあるソカロ(メキシコの街の中心には必ず立派な教会があって、その前にある公園広場をソカロという)を通ってしばらく行ってポサダ・マンダラ前に着いた。ソカロもほとんど人が歩いていない。タクシーのにいちゃんが、ホテルのドアーをごんごんたたいてくれた。
しばらくすると、横の窓が開いて車椅子に乗ったエンリケが窓を開けて顔を出した。
エンリケは身体障害者だったのだ。彼にぼくが送ったメールは届いてるか?と聞くと
届いてないと。しかしスティーブからはハポネスが来ることは聞いていたと言いながら、木の棒を窓から渡してくれて、この棒をドアに差し込んで鍵を開けるようにと言った。
 今日は安い部屋は空いてないが、値段が高い2階の部屋なら空いているとのことで、見に行く。
2階には3つの部屋があり、ふた部屋続きの部屋ともう一つがバルコニーでつながっている。そのふた部屋続きの部屋しか空いてないとのこと。
バルコニーには、テーブルと椅子、そしてロッキングチェアがあり、ふた部屋続きの部屋にはツインベッド、それぞれシャワー、トイレがついていてとても良い部屋。疲れていていまさらホテルを探すのも億劫だったので、高いがここに泊まることにした。朝もパンだけで、昼食もバスの中に売りに来たもので済ませていたので、荷物を置くとさっそく閉まりかけのレストランに行った。
レストランで食事をしてビールを呑んで帰ると眠気が襲ってきた。今日はとても長い1日だった。

「パツクアロ」 


 翌日、朝パンを買いに行く。そして下の共同キッチンでコーヒーを入れてバルコニーで朝食。ここから眺めるパツクアロは薄オレンジの丸瓦の屋根が続き、サグラリオ寺院の塔がとても美しい。遠くには低い丘が見え、盆地になっているのがよく分かる。
 朝食後、街を散策に出る。古い教会がたくさんあり、本当に中世の街に来たようだ。
ソカロ(Plaza Don Vasco de Quiroga)に座っていると老人の仮面をつけた一団がダンスをしていた。後ろではさまざまなギターやバイオリンなど楽器を演奏していて、ダンサーは5人ほどがそれぞれおじいさん、おばあさんの仮面をつけている。
腰を曲げて、一方の腕を前の人の肩に乗せ、サンダル履きで皆パタパタと音をたてて音を合わして、ぐるぐる回るように踊っている。そして、急に反対に方向を変えまたぐるぐる回る。それを何度か繰り返す。そしてソロの踊りもある。とても単純な踊りでおもしろい。
少しスケッチしていると休憩になり、彼らをぼくがスケッチしているのを見つけてよってくる。ぼくの周りに集まり、仮面を取ると少年や少女や大人が混じっていた。少年に兄弟か?と聞くと従兄弟だとのこと。
この踊りは、Danza de los Viejitos(老人の踊り)というらしい。
 ホテルに帰るとエンリケがいて、下の部屋が空いたので見るか?というので見るが、上の快適な部屋とずいぶん違い、何だか薄暗くひんやりする。
パツクアロの朝晩はかなり冷えるが、昼間は暑い。この部屋で風邪ひいたら困るなあと思って、エンリケに2階の二部屋続きの一部屋で良いので、同じ値段でお願いと交渉する。5日間滞在するのでまけてというのもコツのひとつ。そしたら、エンリケはすこし考えてから、OK二部屋続きの今の部屋を同じ値段で良いと言う。
ウイルマ&スティーブと友人ということもあったとおもうが、太っ腹エンリケ!グラシアス!!!
 エンリケは小説を書いていて、下の広い部屋でときどき数人の仲間と小説の合評会をしていた。合評会の後、皆で酒盛りをして遅くまでしていた。キッチンには良い食器、鍋があり、それを宿泊者にも使わせてくれた。

「Tzintsuntzanツィンツンツァン」

 
 パツクアロはパツクアロ湖の湖畔の街で、市内はミニバンのバス(コレクティーボ)が走っていてそれが市民の交通機関になっている。
ツィンツンツァンにはマヤの遺跡があるのと、この村の教会にはオリーブの古木の庭があるので、ぜひ見たら良いとウイルマに勧められたので行くことにした。
 
 コレクティーボでバスセンターまで行く。バスセンターといってもターミナルはなくて、道路に2等バスが止まっている。
あー!ここだったのだ、モレーリアからの2等バスが止まったのは。これではわからんよ!長距離のバスターミナルは別にある。
 
 遺跡は、バスを降りて徒歩で20分ほどのところにある。ここも紫外線が強く、朝あれほど寒かったのがウソのようにとても暑い。
小高い丘に遺跡はあり、ずーっとフェンスで囲ってあってそのフェンス沿いを歩いていくと、入り口のゲートがある。ここも入場料を取る。
シニア料金も書いてあったので、サカテカスのラ・ケマダ遺跡も半額になったこともあって、ぼくは言うのがイヤだったが相棒が言ったら半額になった。何だか複雑な気持ち・・。本来はメキシコ人のシニアのみの適応らしいが。
払って中に入ると、規模も小さくずいぶん整備されていて、あまりおもしろみがなかった。ただ、ここから見渡せるパツクアロ湖はすばらしい。日陰ですこし休んで、早々に出た。ウイルマから湖畔に魚料理のおいしいレストランがあると聞いていたので、それを目的に村を散策することにした。
 村の商店には葦で作った素朴な十字架やツリーが売っていた。もうクリスマスのシーズンなんだなあと感慨深くなったが、ここは真っ青な空と強烈な日差しなのでかなり違和感がある。結局目当てのレストランは分からず昼食は屋台のトルティージャで済ますことにして、オリーブの古木の庭がある教会を見つけたのでそちらに行くことにした。

 「Janitzio島ハニッツィオ」


ハニッツィオ島はパツクアロ湖に浮かぶ小さい島。「死者の日」で有名で11月2日前は大変混雑するらしい。「死者の日」は日本のお盆の習慣と似ていて、あの世から霊が帰ってくる日(ほぼ時期が同じハローウインとも似てる)。
でも、メキシコ人は日本人と違って死んだ人に対する考えが違う。お墓の前で歌ったり踊ったりして盛大に酒盛りをしたり、ずいぶん陽気。そして、街の中はこれでもかというくらい骸骨の人形が氾濫していて、喫茶店の椅子に骸骨の人形が座ってコーヒを飲んでいる。こどもたちも骸骨のTシャツやズボンをはいていたりする。道路に色をつけた米や豆を使って、骸骨の絵を描いたりして、幽霊と仲良く遊んで騒いでる。日本みたいに「幽霊やおばけが来るぞ」とこどもを脅かすことはできないだろうな。
ということで、ハニッツィオ島。パツクアロの桟橋から船で30分ほど乗ると島に着くので、桟橋からもよく見えている。島はきれいな三角形の形で一番上にメキシコ革命の英雄の巨大なモレーロスの像がそびえ立っている。
ここは大きな網で魚を採る漁法も有名で、島に近づくと船からもよく見える。が、船から写真を撮り始めると、今までボートで休んでいた漁民が急に網を湖につけて魚を採りはじめる。そして、我々の船のほうにボートを漕いでやってきてお金をせびる。今や、観光客のための漁法になってしまっている。
 
 島は迷路のような急階段が張り巡らされて、ちょっと日本の尾道のようだ。どの階段を上がってもてっぺんのモレーロスの像に行き着く。
島の民家はとても貧しいが、その中で教会だけはとても豪華。きっと熱心なクリスチャンが多いのだろうな。
中米に言えることだが、カトリックの教会と言ってもちょっと違うところがある。元からあった宗教とキリスト教が混じっている感じを受ける。
昔、田舎の祖母の家に行ったとき、仏壇に位牌と一緒にキリストの磔の十字架が置いてあったのと似ている。



2011/12/26 (Mon) 147

.□ メキシコ、オアハカ州シポリテ雑感 □.

メキシコ、オアハカ州シポリテ雑感

「シポリテへ」 


 11月28日、オアハカOAXACA21時30分発のバスで太平洋側のシポリテZIPOLITEに向かう。
バスは高原地帯のオアハカからヘアーピンカーブが続く坂道を一気に下ること7時間午前5時ポチュートラPOCHUTLAに到着。
バスはポチュートラのバスターミナルではなく、ポチュートラの町の入り口の分かれ道に停車した。午前5時はまだ薄く暗く、あたりには数台のタクシーが客待ちをしていた。
バスの運転手が「着いたからここで降りろ」という。まるでヒッチハイクでトラックに乗せてもらったときのように。
「ここがシポリテなのか?」と尋ねると、「Si」と。
ここで降りたのがわれわれ二人だけで半信半疑だったので、客待ちのタクシーの運転手に聞くと、シポリテはここからまだ先で、シポリテ行きのバスはないとのこと。
寝不足とヘアーピンカーブ連続の道路で乗り物酔いで頭がぼーっとしている。

午前5時とはいえバスから降りてバックパックを背負って歩くと、空気が暑く汗が噴出す。わずか7時間ほどのバスの旅で、冬の服装が必要だったオアハカから一転してここは真夏だ!
着ていたものを脱ぎ、Tシャツ1枚になる。ズボンは厚手だったのだが、これを脱ぐわけにはいかないのでガマン。
さて、ここからどうやってシポリテに行きゃいいんだ!後で分かったことだが、もともとシポリテ行きのバスは無く、乗り合いトラックか乗り合いタクシーしかない。

乗り合いタクシーは定員オーバなど当たり前で、人間を荷物のように助手席に2、3人、後ろに4、5人、まだ足りないときは後ろのトランクを開けてそこにひとりと詰め込む。そんな状態で猛スピードで走る。
運転手としたら、客をたくさん乗せると儲かるのだ。道交法なんてあるのかないのか全く関係ない。こんなことは、この後旅したグアテマラ、ホンデュラスでおもいっきり経験することになったのだ!

話はもどって、われわれは仕方なしにタクシーの運ちゃんと値段交渉。とは言っても初めてのところなので、適正な値段って分かる分けない。仕方なしに、運転手が言った値段でシポリテに着いた。村に入ってから運転手がホテルはどこだ?と聞くが、いつものことで決めてない。一応村のメインストリートで降りた。

われわれは二人なので、いつものように一方が荷物番をして一方が宿探し。こういうときがふたりのいいところだ。

「Las Casitas(ラス・カシータス)」


早朝の村は、誰も歩いていないし、ホテルの呼び鈴鳴らしてもだれも出てこない。
村のメインストリートの突き当たりの川(道路が川になっている)に置いてある飛び石を越えて森に入ってしばらく歩いたところにある、Las Casitas(ラス・カシータス)というイタリア人経営のバンガローに泊まることにした。
経営者のダニエーラとブルーノ夫妻は英語も話せて、3週間滞在したがとても良い感じのバンガローだった。
ラス・カシータスの土地は丘陵になっていて、下の道路からの入り口を入るとすぐにカフェがある。その上に数軒のバンガローがあり、一番上がオーナーの自宅になっている。

オーナーの自宅からは美しい海岸が見渡せとてもいい眺め。カフェではダニエーラが自家製のケーキを焼いていて、そのケーキがとてもおいしい。
  
シポリテはピンク、赤、黄色の南国の花々が咲き乱れ、マンゴ、パパイアなどフルーツ、不思議な蝶が舞い、リス、きつつき、ハチドリなどいろんな種類の動植物があって、皆ノアの箱舟から降りてきたようなところ。夜、バンガローから外に出ると、空一面の星々。流れ星が何度もシューッっと音を立てて流れる。そして、蛍の群舞。まさにここは楽園だ。
犬や猫も自由気ままにうろうろしていて、吠えたり噛み付いたりしない。とてものどかな暮らしをしている。
このあたりのバンガローは、屋根が葦で葺いてあり、窓は枠だけで戸もなく、上げ下げできる板が戸の代わり。

朝起きると、まず板の窓をつっかえ棒の木の棒で押し開けて、その木の棒で板が落ちてこないようにつっかえ棒をする。あっそうそう、ベッドは天井からのロープでベッドの端4点が支えてあって、そのベッドに蚊帳がかかっている。ここから出入りするときにはちょっとしたコツがいる。夜には蚊が多く、蚊が入ってこないように慎重に行動しなければならない。
われわれの部屋は2階で、シャワー、トイレは下にある。たまに停電するので、そのときにトイレに行くのは大変だ。懐中電灯が必需品。

「にゃんことわんこ 」


カシータスにはにゃんこ2匹、わんこ3頭がいる。わんこは雑種2頭とシェパード1頭。
われわれが下のキッチンで食事を作り始めると必ず雑種のわんこ2頭と、少し離れてにゃんこ2匹がやってきて「何もちょうだいと言ってませんよ〜」という顔して座っている。
いざ食事が出来て食べようとすると、わんこが横にやってきて上目使いに「ちょうだい〜」と言い出す。知らん顔して食べだすと、前足でわれわれの膝を突いて「くれ〜〜!」と催促する。それでも無視してると、一番汚いみじめなわんこは眼光するどく「クレ〜クレ〜!!!」と督促する。
それに負けて少しあげると、交代にもう1頭のわんこ、そしてにゃんこと来る。日によっては、先ににゃんこの場合もある。全員そろうのが当たり前になってきて、たまにそのうちの1頭が来なかったりすると、どうかしたのか心配するようになった。
最初、雑種のわんこがあまりにも汚かったので近所の自由犬かなと思っていた。
ある日の朝、下のカフェーに朝食を食べに行くと、3頭のわんこが体を伸ばして寝ている。一瞬チラっとこちらを見るがオーナーがいるためか「わたしら、くれ〜とはな〜んにもゆうてまへんでー」と常日頃の態度とはまったく違う白々しい態度。
ダニエーラに聞いてこの汚いわんこたちは、彼らの飼い犬だと判明した。最初はこの汚いわんこ2頭だったが、後でシェパードが増えたそうだ。シェパードは忠犬でいつもオーナーに従っているが、ある日やっと本性を現し、汚いわんこの仲間入りをしてやってくるようになった。シェパードが一番若く体格もおおきく毛並みもつやつやしているのだが、一番汚い眼光するどいわんこが一喝すると「シュン」とする。犬序列があって、一番汚い眼光するどいわんこがトップ、次が2番目に汚いわんこ、3番手が若いシェパードとなっている。
 にゃんこは黒いペルシャねこの雑種2匹。このうちの毛の長い方のにゃんこが、相棒のベッドに入ってくる。夜中に蚊帳を蚊が入ってこないように開けて入ってくるので、相棒も朝起きたらにゃんこが横で寝ていたのでびっくりしていた。吊ベッドを揺らさないように入ってくるので、全く気がつかなかったそうだ。そういえば初めてここの部屋を案内されたとき、コヤツが相棒のベッドにいたので、ここが自分の寝る場所だと思っていたのかもしれない。

このあたりのホテルはどこも水シャワーのみ。いくら暑いといっても、夕方からはひんやりする。こんなときの水シャワーはちょっときつい。
出来るだけ、陽が高い時間にシャワーを使わなくてはいけない。
でも、隣の部屋にいたイタリア人男性は夜でも平気でシャワーを使っていた。
彼が出て行った後に来たイタリア人女性は、やはり水シャワーはつらいようで、下のキッチンで湯を沸かしてそれを使っていた。耐えられなかったのか、彼女はすぐに出て行った。
中米は乾燥しているので、毎日シャワーに入らなくてもあまり気にならなかった。
 下の部屋には、イタリア人のおばあさんと彼女の息子が滞在していた。
われわれが、下のキッチンで食事を作っているうちに話すようになって彼らと仲良くなった。

彼らはイタリアのヴィチエンツァから来たとのこと。おばあさんはさすがイタリア人女性で、声も大きく話すときのジェスチャーも豊かで、昔イタリア映画で見た田舎のおばあさんという感じで、とても素朴な人だった。
息子はとてもシャイなひとで、いつもニコニコしていてあまり話さず物静かなタイプで、おかあちゃんとえらい違う。彼もとても素朴で好感をもった。

すぐ近くのバンガローに、ノルウエーに住んでいるという彼の弟カップルも泊まっていて、
よく遊びに来ていた。弟は英語が話せるので、今回の旅行のいきさつなどを聞いたら父親が亡くなり、母が落ち込んでいたので家族で旅行しようということになったようだ。

昼間は海に出かけ、夕方になるとおかあちゃんと息子は交代で部屋の前に吊るしてあるハンモックに寝そべり、イタリアの歌を歌ったりして過ごしていた。
12月8日に彼らはイタリアに帰った。母親思いの兄弟だった。良い家族に出会えて良かった。彼らが帰ってしばらく寂しかったが、しばらくして代わりに今度はイタリア人の若者数人が来た。彼らはロックバンドで、今休暇中でここシポリテに来たそうだ。
日本にも公演に来て、東京、大阪、福岡でライブしたそうだ。わずか10日だったので残念だったと言っていた。

彼らのうちの一人が「Joy Division」のレコードジャケットのTシャツを着ていたので、聞くとジョイ・ディヴィジョンは大好きでこんなTシャツを作ったそうだ。
でも、よく見ると下に自分たちのグループの名前が書いてあった。ユーチューブに彼らの演奏が出てると聞いて見たが、なかなか良いバンドだった。(残念ながら、バンド名は忘れた)彼らは、いつも朝、海に出かけて夕方遅くまで帰ってこない。若い!!

「シポリテのビーチ」


ある日、海に行くと彼らと会った。メンバーにひとり女性もいたが、彼らは真っ裸になって、海で遊んだり浜辺に寝転んで体を陽に焼いていた。さすがシポリテはヌーディストビーチといわれるくらいあって、真っ裸のひとが多い。かえって水着を着ている方がおかしく思うほど、皆あっけらかんとしている。でも、ヌードになっているのは、地元の人はほとんどいなくて白人ばかりだが・・。

シポリテの砂浜はとても広く、朝は水平線から太陽が出て、夕方水平線に太陽が沈む。
ここの海岸はとても波が高くてとても泳げない。高さ1メートルくらいの波が押し寄せてくるのでとても危険で泳げたものじゃない。また、波の引きも強く油断していたら足元をすくわれる恐れがある。たぶん、日本だったら遊泳禁止と出るような場所。波をよく見ていると、大きな魚が波の中で縦に登っていくのが見えた。そう、ここはサーファーのメッカのひとつ。
 
 ここで、砂浜に座って海を眺めているとラスターヘヤの若者がやってきて「にいちゃんドラッグいらんか?安うしときまっせ」と関西弁では言わないけど、商売しにきた。
「いらんでー」というとあっさり引き下がったが、ここはドラッグのメッカでもある。
 ビーチにいると、ドラッグ以外に、ハンモック、アクセサリー、ココナッツなど地元の人が色々売りに来る。毎日砂浜に座っているうちに、彼らと顔なじみになって声をかわすようになった。一応「ハンモックはどう?このアクセサリーはいらんか?」などと商売するのだが、「売れても売れなくてもどっちでも良い」という感じで、まったく商売っけが感じられない。それより、ぶらぶら歩いてわれわれのような旅行者と会話を楽しんでいる感じがする。ココナッツ売りは「ココ〜ココ〜ココはいらんかね〜」とネコ(一輪車)に満載のココナッツを積んで砂浜を歩いてきて、その場でなたでココナッツを割ってストローを差し込んで手渡してくれる。これが冷たくてとてもおいしい。ここは太平洋の東側。
夕陽を見ながら「遠くへ来たものだ」と遥かかなた向こうにある日本を想像しながら飲むココナッツは最高だ!

シポリテは、以前は観光地ではなかったが、60年代の終わりにヒッピーが住み始めたころから、外国人が多くなったそうだ。中でもイタリア人が多く住み着いている。われわれが泊まったバンガローのダニエーラとブルーノ夫妻もそうだったかもしれないと思うが、
彼らに聞いてもお茶を濁してはっきりとは言わない。

このビーチでほぼ毎日夕日を描いていると日本語を話す女性とメキシコ人のカップルが話しかけてきた。ここに日本人が来るのは珍しく、特に日本語を話す女性は日本で英語を教えてたことがあるそうで、それでわれわれと数日前から話したいと思っていたと言って話しにきた。

彼らは人懐っこくその日、われわれが宿泊している場所を言うと、知らないうちに後から彼の車でついてきて、ラス・カシータスで一緒に夕ご飯を食べた。ぼくがそのとき画用紙が足らなかったので欲しがっていることを言うとポチュートラまで行けば買えるので、明日車に乗せて連れていってあげるという。
そして、彼らが泊まっている「親戚に借りている家」で今度食事しようと誘われた。

彼ら帰ってから、相棒は、彼らはひょっとして警察かもしれない。警察は麻薬などわざとぼくのポケットなどに入れて逮捕すると言って脅し、金を巻き上げるかもしれないので断ったほうが良いというのでだんだん心配になってきた。確かにここは「売人」が多く、そうかもしれないので、断った。(その過程ではいろいろな手を使ったのだが省略)
 後日、何日か相棒が早朝に浜辺を散歩していると、ジョギングしている彼と彼女に出会ったので取り越し苦労だったかもしれないと言っていたが、分からない。相棒は旅で百戦錬磨なので危ないと勘が働くので、まあ良かったのかもしれない。
余談だが、日本人は目立つようで、後日、エルサルバドルのエル・ソンテという村の海岸で日系メキシカンの青年に「シポリテにいましたね」と声をかけられた。

「シポリテの町」


ここのビーチで一番古いバンガローは、ラス・カシータスから丘を登ったところにある
「シャンバラ」というところ。(「シャンバラ」なつかしいなあ、京都にもあった)
今では「シャンバラ」も普通のバンガローになっていて、客も多く流行っている。
シポリテのメインストリートを夜歩くと、呑んだくれたオールドヒッピーに多く出会う。彼らはいったいどうやって暮らしてるんだろう?と疑問がわいて来る。
若いヒッピーたちは、路上や浜辺でアクセサリーを売って生活をしている。若ヒッピーはアクセを売りながら、中南米を転々として生活しているようだ。中には、赤ん坊をつれたヒッピーもいる。なかなか大変な生活だと思うが、彼らは彼らなりに楽しんでいるように見える。シポリテはイタリア人が多いので、イタリアンの店が多くメインストリートにはピッツア屋さんが多くある。
ラス・カシータスで知り合ったスウェーデン人から、良いピッツア屋さんがあると聞いて行った。パン、ケーキ、ホットチョコレートがおいしいと。初めて行ったとき、経営者の作ったホットチョコレートはとてもおいしかった。
別の日に行くと経営者はいなくて、従業員の地元の女性が作ったのだが、経営者の作ったのとはまったく違った。ぼくは、まあ飲めんこともないと思ったのだが、一緒に旅してる相棒は許せなかったようで一口飲んで、ダメだしをして返した。
後で、勘定をしてもらったら今日のホットチョコレートの分はいらないとのこと。まあ、これまで中米を旅しておいしいと思って入った店に別の日に行くと味がぜんぜん違ったということばかりなので、きっちり金は取られるかなと思っていたがこの店は違った。返ってあっけに取られた。
そして、今度はオーナーのイタリア人がいるときを見計らっていくと、彼は前回のことを聞いていたようで、今度はめっちゃ濃いホットチョコレートを出してくれた。
これはこれでおいしかったのだけど、やはり最初が一番だった。なんだか、適量がなくてその都度適当に作っているのかもしれない。

「障害者施設(CASA DE JAPON カサ・デ・ハポン)」


ピッツア屋さんを紹介してくれた、スウェーデン人からシポリテの村の入り口に障害者施設があると聞いた。日本が建てた家もその施設にあるそう。
彼女は何度もシポリテに来ていていて、この施設と関係あるようだ。
道理で、夕方メインストリートを歩いていると車椅子に乗った人や、白杖をもった視覚障害者によく出会ったものだ。彼らはバーで軽く食事をしたりビールを呑んだりしていた。
 早速われわれも行ってみた。入り口で「見学したい」というと、アメリカ人の青年が施設を案内してくれた。かなり広い敷地にバンガローが点在していて、いろいろな障害をもった人が暮らしていた。障害の程度も様々で、24時間介護が必要な人もいた。
ここでは牛乳パックから紙をつくったり、木工などいろいろな作業工房があった。
利用者の数以上にボランティアがいて、ボランティアは主にスウェーデン人が多く、ここでボランティアをしたあと、旅行するというタイプが多いようだ。(そのうちの一人と偶然にグアテマラのアンティグアで再会した)

以前は日本人も数人ボランティアでいたそうだが、現在はいないとのこと。
入り口に小さくカサ・デ・ハポンと書いてあり、その看板のようにほんとに小さい家がポツンと建っていた。中心メンバーで車椅子に乗った障害者(彼は車椅子バスケットボールの選手)からカサ・デ・ハポンのことを聞いた。
カサ・デ・ハポンは建物が古くなって危険になったので、日本大使館の援助を求めて出来たそうだ。日本財団がお金を出したようだ。
夕方に彼らはボランティアと一緒に浜辺に出て、ストレッチをしたり視覚障害者はボランティアとジョギングを暗くなるまでしていた。

「昆虫アレルギーになった」

ここに滞在して9日目くらいから両腕、両足が赤くなってかゆい。最初は蚊に多く刺されたので、そのためかなと思っていた。ある日、浜辺にいたにいちゃんから魚、貝など買って食べた。その2日後、ぼくのかゆみも増してかゆくてたまらなくなり、水泡も出てきた。
相棒にもジンマシンがでたので、これは貝にあたったのかなとダニエーラに相談して、従業員の地元の女性にも見てもらったら、これは貝毒ではなくて砂浜にいる小さい黒い虫が原因かもしれないという。
ダニエーラに紹介してもらって、となり村に住んでいるグアテマラ出身の女性がホメオパシーの治療をしているので乗り合いトラックに乗って、となり村に行った。
 
 彼女の家に行くと一緒に暮らしているドイツ人がいて「彼女は明後日まで帰ってこない、
もし急ぐならマスンテに診療所があるので、そこで診てもらったほうがよい」とのことで、また乗り合いトラックでマスンテの診療所に行った。
 
 ドクターはたぶん貝毒ではないと思うがと言って、貝毒の怖さを書いてあるパンフレットをくれ、ここでは分からないのでポチュートラの病院を紹介してくれた。
やれやれ、毎年海外で病院に行っているのでまた病院か!でも仕方ない。
またまた乗り合いトラックでポチュートラの別れ道まで行き、タクシーで病院に行く。
 
 ここのドクターは貝毒専門のようで、これは貝毒ではなく昆虫アレルギーと診断された。
相棒のジンマシンも貝毒ではないと言われてホッとした。
メキシコの病院がぜんぶ同じなのかよく分からないが、ここの病院の診察料と薬代を払うときは、まず処方箋と診察料を書いた紙を持って受付に行き、お金を払って番号札をもらう。そして、その番号札をとなりの窓口で渡すと薬を出してくれる。ぼくはシステムがよく分からなく、先に薬をもらう窓口にならんだので隣の窓口に先に行くように言われた。隣の窓口に行くと職員は誰もいなくしばらく待っても誰も出てこない。
ふたつの窓口は部屋が同じで後ろで職員が暇そうに座っているのに・・何だか嫌がらせされてるのかと思うとだんだん腹がたってきた。

飲み薬と塗り薬が処方されたが、ここでは飲み薬はのみ。塗り薬は院内にある売店で売っている。なぜか売店の塗り薬は診察代と飲み薬代より高い。
時間をみると、もう午後2時になっていた。

「ラグナ・ヴェンターニャ Laguna Ventanilla」

乗り合いトラックでVentanillaヴェンターニャにある自然公園に行った。
乗り合いトラックから降りて30分ほど歩くと、ビーチに面している村がある。ビーチで自然公園のツアー案内の数人の呼び込みがいた。
砂浜をしばらく歩くと、350ヘクタールのうっそうと繁るマングローブのジャングル。その中を水路が通っていて、30ペソで手漕ぎボートでそこを案内してくれる。ここは様々な動物がいる。ワニやイグアナ、日本では見かけない亀、鷺、トキ、ペリカンなどなど・・

案内人の青年は英語が話せたので、不思議に思ってどこで勉強したのか?と尋ねると、欧米人の観光客を案内しているうちに憶えたそうだ。
彼は目ざとく、ワニを見つけて「あそこのマングローブの根っこを見て、下にいるよ」とオールを指して言ってくれる。
慣れてくるとあちこちに寝ているワニが見つけられるようになった。彼は、近寄ってオールの先でワニの頭をコンとたたいてワニを起こすと、ワニはあわてて水にもぐって身を隠す。
昨年の雨季にはラグーンの水があふれて、海に水が流れてしまって多くのワニが海に入って大変な騒ぎになったそうだ。彼にとって日本人の案内は初めてのようで、しきりに「ワニは、日本語で何て言うの?」と聞かれ、早速クロコダイル=ワニを憶えてしまった。

案内が終わってビーチを歩いて事務所に戻ってからも「ワニ・ワニ」と独り言のように繰り返していた。事務所に帰って「ワニ・ワニ」と同僚に言っていたので、同僚も分けが分からず「ワァーニ・ワァーニ」と彼をからかっていた。
クモ猿もいて、猿は何て言うと聞くので、発音がスペイン語の乾杯の意味の「サルー」と似ているので「サルーのサルだよ」と教えるとスペイン語訛りで「サル・サル」と繰り返していた。このようにして外国語を少しづつ憶えるのだなあと感心した。案内することで生活しているので真剣だ。
特に先生に習うわけではなく、言葉を覚えるということはこんなものかもしれない。彼は生活のためと言っても全く悲愴な感じはなく、適度にサボったりむしろ案内を楽しんでいるようだ。
ひょっとして今度行ったら、日本語をペラペラ話していたりして・・人懐っこい勉強熱心な素朴な青年だった。

「マスンテMazunte」

マスンテはヴェンターニャのとなりにあるビーチ。ここは海亀で有名なのだがそこには行かずに、ただただ歩いて海の見渡せる丘に行くことにした。
昔ヒッピーのコミューンらしきバンガローの横から草や木が覆い茂っている山道を歩いて行くと、急に視界が拡がってビーチを見渡せる断崖絶壁のところに出た。ここからみるビーチは人っ子ひとりいない広大な砂浜が延々と続くのみ。ふと下を見ると、葦葺きのバンガローが点在している。
紫外線がかなり強烈で、空と海の色が同じでプルシャンブルーからコバルトブルー。その手前が真っ白な砂浜。ほんとにだーれもいない。
何だか頭がクラクラして、崖から落ちそうだ。
こりゃヤバイ熱中症かな?日陰に入ってミネラルウオーターとナランハを食べる。
ほっと一息ついてまた崖っぷちのトレイルを歩いていると、地元のおっちゃんが歩いてきてすれ違い、慣れた足取りでひょいひょいと断崖絶壁を降りていく。しばらく見ていると、彼はあっと言う間に砂浜に降りて誰もいない砂浜を歩き続けている。
いったいどこへ行くのだろう?

「プエルト・アンヘルPuerto Angel」

プエルト・アンヘルはシポリテの隣にある漁村。近くの村で唯一銀行がありATMもある村。
野菜や魚、肉、日用品も売っている商店もあって、乗り合いタクシーで買出しに行った。さすが、漁港だけあって、浜辺には漁船がたくさん陸揚げされている。

ここには学校があり、ダニエーラとブルーノ夫妻の子もここまで通っている。彼は高校生くらいに見える。彼らにこんな若い子がいるのが不思議だった。ダニエーラとブルーノはぼくと同じくらいの年齢かなと思っていたが、いったい何歳なんだろう?


「シポリテZipolite 」
 
 このあたりに3週間ほど滞在したが、何〜にもしないひたすらボーっとするだけ。
朝起きて何かしようとか全く考えない。気の向くまま起きて食べて、ぶらぶら海に行きまた昼寝して晩御飯は何を食べようかと考えるのみ。ここはほんとにボーっとできるところ。
宿のブルーノが海で魚を採ってきておすそ分けをしてくれた。ひらまさのさばいたものを。われわれはそれを刺身で食べた。でも、キッコーマン醤油は持っているけどワサビがない。それだけが唯一残念なことだった。

ヴェンターニャやマスンテ、シポリテは楽園のような環境だからとも言えるかもしれないが、地元の人々はとてもおおらかで人懐っこい。
道で会っても「Hola!」と声をかけあうと、
初対面でもいきなりいろいろ話かけてくる。こっちが理解してようがいまいが、おかまいなしに早口のスペイン語で話してくる。そういう彼らと接していると、こちらまで気分が楽しくなってきてとても救われた。
このような人懐っこさはメキシコや他の中米や南米の国に共通している。細かいことにまったくこだわらない。悪く言えばいい加減ともいえる。

みんながそうではないが、ちょっと油断すればボラれるので油断もすきもない。ある程度は緊張していなくてはいけないが、緊張しているばかりではつまらないので、少々のことは目をつぶるくらいの気持ちでなければやっていけない。
最初に値段交渉をすれば、良い話なのだが、もちろん相場を知っておく必要がある。相場を知るには、地元の人がいくらで買っているかを見るか、相手の言い値の半分くらいの値段をまず言う。
こちらの提示がとんでもない値段だったら、相手にされないのでだいたいわかる。
地元の人からよく聞かれたことは、日本まで(日本がどこにあるのか知っているかどうかは、はなはだ疑問だが)飛行機でどのくらい時間、お金がかかるのかということ。我々がいくら貧しい旅をしているかと言っても、日本からはるばるここに来られるくらいのお金は持っているということなのだから。でも、ボラれるのは気分が悪い。






2008/11/02 (Sun) 146

.□ 内から噴き出る □.

東北秋田県玉川温泉に行ってきた。
原始の地球を感ずるところだった。
塩酸がどくどく湧き出ている緑がかった入れない温泉や、硫黄が混じった蒸気がごうごうと音を立てて有毒ガスが噴出している噴口。
「穏やかな青い地球」とは思えないところ。
ここは、まさに地球のPassion。

「Passion」を辞書で引いてみた。
まず、苦しむ(Pass)こと(ion)キリストの受難、が出てきて、(激しい)感情・熱情・情熱、(怒り・憎しみなどの)激情、かんしゃく、熱、熱中、愛着、(男女間の)(激しい)愛情、情欲などなど。
こういう感情は本来人間が持っているものだ。
地球の本質と同じで、それを見せてくれているように思った。ここから一歩離れると紅葉が見ごろの穏やかな地球だ。

「毒」という本質を見る必要があるのかもしれない。


多くのがん患者が湯治に来ていた。



2008/10/02 (Thu) 145

.□ 表現手段 □.

何か表現手段を持っているということは、良いですねとよく言われる。
その手段に自己顕示欲など複雑に混じっているぼくとしては、そうですと言い切れない。

表現には、ウソつきな面もあってそう「良いです」とはとても言えない。特に絵画表現というものは、ウソをつこうと思えばいくらでもつけるのだが、そんなことばかりでは表現は続かないだろう。そんなことを言ってるのは、生真面目過ぎるのかもしれないが、100%のうちに10%の真実があれば充分のような気がする。
その10%を大事に抱えて続けている。
そして苦悩と。



2008/09/29 (Mon) 144

.□ 絵を描くことなど □.

9月7日から12日まで、長野県戸隠に軽い知的障害がある絵描きのあふるさんと行ってきた。
ほぼ毎日違う温泉に入り、そして一緒に絵を描き楽しい時間を過ごせた。
しばらくスランプで絵を描くことから離れていたぼくにとって、絵を描くことの楽しさを再発見した旅だった。それは、あふるさんに負うところが大きい。
あふるさんは何の構えもなく、自分の気持ちのまま思った通りに線を描く。とても自由な線と色で楽しそうに描いているのを見ていると、こちらまで楽しくなる。頑なな自分も解放されて、のびのびと描ける気分になるのが不思議だ。
そして、そのような気分になって描いていると
元気が出て「やはりぼくは絵を描くことが好きだ」と確信した。

このことと関係あるかどうかは定かでないが、同じおもいがある気がしたのでちょっと長いが引用したい。

2008年9月27日朝日新聞の土曜日の美術作家やなぎみわさんのコラム「風知草」の最終回「再び人に出会う夢願い」というタイトルで最終を締めくくっている。
以下引用


「スランプというのはスポーツ選手や作家などに限らず、なんらかの成果をあげ、結果を出さねばならない職業人が陥ると言われる。
成すべきものを成せなくなる状態をいうのなら、何かを成して自己形成していると思い込んでいる人間にとっては己の存在そのものの存亡の危機である。
ただスポーツと芸術の不調に違いがあるとするなら、その成果が目に見えるか見えないか、他者と共有できるか出来ないかだろう。
芸術には、他者から絶賛されつつ、作り手は絶不調という事態は大いにあり得る。

先日、20数年ぶりにフェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」を観た。この映画には、涙をさそうようなドラマも感傷もない。あるのは、葬式のような暗さを内包する喜劇、行き詰まった人気映画監督の苦悩と逃避、撮影が頓挫し、解体寸前の大仰なセットで繰り広げられる饗宴だ。
そのラストで涙が止まらなくなった。

自分には表現すべき何かがあると信じて広げた大風呂敷の収拾に困り果て、結局その上で滑稽なダンスを独りで踊ることを、恐れない芸術家はいない。と同時に、しょせん芸術なんてそういうものだと何度も腹をくくる。
受注製作や職人的精進や、モノを作る動機はさまざまだ。
そんな中、この情報社会で不遜にも新しいものを作りたい、純粋な個人創作として「ゼロからの出発」を目指すというと、ずいぶん志は高く聞こえる。
しかし現実には、社会や他人の役に立たない無用の長物、無価値の存在として、周りのあらゆる人間に劣等感を抱き、いたたまれない日々を過ごすことは覚悟しなければならない。
かけがいのない個性などというのは無根拠な幻想で、何の救いにもならない。
だからこそ、この映画は今なお古典にならず、多くの表現者に勇気を与え続けている。
学生時代、全能感を残した若い頃には、この映画が宿す人生と芸術への絶望と希望、そして40代のフェリーニの老いと若さは、決して理解出来なかった。
わたしもまた、この映画のように、年相応に複雑化した環境、家族やら無責任に広げた大風呂敷やらを背負い、混乱がなにひとつ解決しないまま、人の役に立つのかどうかも定かでない作品制作の見切り発車をし、ゼロ地点に舞い戻ったところである。

それにしても、願わくば、時代を経て再び人に出会うような作品をいつか作りたいと、夢見ずにはいられない」

以上引用。




2008/09/04 (Thu) 143

.□ ときどき観る □.

トン・コープマン指揮のマタイ受難曲のDVD。



2008/08/19 (Tue) 142

.□ 西の魔女が死んだ □.

今日は、ほんとに久しぶりに映画館で、タイトルの映画をみた。
梨木香歩原作の映画。
英会話教室の先生の勧めもあったので、観に行こうと思ったのだが、原作も知らなかったので正直あまり期待はしてなかった、が、良い映画だった。
「おばあちゃん、人は死んだらどうなるの?」
「そうですね。おばあちゃんが信じている話をしましょう」・・
まるで、亡くなった妻が質問と答えとを両方してくれているようだった。
妻は生前、「死んだらどうなる?」という質問ばかりだったが、今はこのおばあちゃんのように
答えを見つけて、ぼくに伝えてくれているように思う。
おばあちゃん役のサチ・パーカーがとても素敵だ。
彼女のお母さんがシャーリー・マクレーンだとは!!
彼女がスピリチュアルの世界に関心があったことが、娘であるサチ・パーカーと結びついてしまった。


 

--+-- >>>


HOME



- Genesis -