他者の在処――芥川の言語論

要約

芥川の小説「藪の中」の中で、七人の証言者が出てきて、事件の場に居なかった四人の証言はすべて一致し、当事者三人の証言はどうやっても収束できない。三者三様で食い違うもの、ニ対一に分かれるものもあるが、真相にはどうやってもたどり着けないよう、はじめから仕組まれている。

黒澤明が小説「藪の中」を映画「羅生門」に翻訳したとき、小説では死体の発見者でしかなかった木こりを事件の目撃者にした。真相を目撃したにも関わらず、映画の中の木こりは「わかんね」とつぶやき続ける。小説の読者が分からないと思ったのが事件の真相であるとすると、事件の真相を目撃した木こりがつぶやく「わかんね」は、何故当事者三人の証言がこんなにも食い違うのかが分からないという「わかんね」である。

小説では最初の五人の証言者はみな同じ場所にいて、それなりに真相が一致するのだが、当事者である残り二人が異なる場所にいて、三人の当事者の発言が食い違う事に成る。映画では七人の証言者がみな一ヶ所に集められる。この変更は重要な意味を持つ。藪の中の表層的不条理が解決されないまま許されたのは、証言の場所が異なるという一点においてのみだからだ。同じ風景でも三人の異なる画家が描けば三つの異なる絵ができる。同じ出来事に関して複数の人間から異なる内容の話を聞くのは日常的なものだ。

事件の当事者三人の証言はすべて告白である。芥川は告白=私小説を信じていなかった。芥川はルソーの「懺悔録」にもトルストイの「わが懺悔」にもうそを見出してしまう。ウィトゲンシュタインはアウグスティヌスの「告白」を疑うところから「哲学探求」をはじめた。

柄谷は「探求T」の中でソクラテス=プラトンを他者が居ないという理由で批判している。伝達不可能な絶対的他者をプラトンは見逃していただろうか。処女作「弁明」においてソクラテスはの弁明は五百名居る裁判官たちに拒絶され死刑の判決が下る。ソクラテスの真意は伝わらない。その後の対話編で他者が居ないとしても当然の事だ。ソクラテスに死を与えた他者をプラトンは憎んでいたに違いない。芥川にとっても他者は暴力としてあった。芥川の母は芥川の生後八ヶ月で発狂し、「いきなり頭を長煙管で打」つような暴力として現れるような他者であった。

ソシュールもウィトゲンシュタインもコミュニケーションをチェスに例えたが、現実にはゲームを楽しめる対等な二者はありえない。実際には歴然とした力の差があり、柄谷は「教える/学ぶ」「買う/売る」という非対称の関係を例に出す。しかし力に歴然とした差のある二者だけの関係なら、コミュニケーションではなく、芥川の恐れた暴力だけがあるのではないだろうか。教育ではなく、ムチ。売買ではなく強奪。完全な支配/被支配の関係において、コミュニケーションは存在しない。力に差のある二者のコミュニケーションを成立させるのは、二者のやり取りを横から眺める第三者の存在である。ルールを超えた暴力が生じるとき介入してくる第三者の存在を前提としたモデルとして、チェスよりも法廷・演劇モデルが正しい。

「歯車」で主人公は精神病院に向かう。それは近代の法廷における言語ゲームから逃れる唯一の手段だからだ。狂人は罪を問われない。

売り

批評の文章になっている。芥川を再読してみようと思わせる力がある。(加藤典洋)

いま芥川を論じなければならない理由が何なのかを、著者は明らかにしていない。(高橋源一郎)

安定した筆致で書いている。(藤沢周)

完成度の高さを買われた受賞作と逆の評価だったのが、落選作の「優雅で感傷的な高橋源一郎」でこれを押した藤沢氏は「捉え所のない現代文学を取り上げた冒険は評価」し、高橋氏は「一般に評論の対象にしにくい作家について書いている。また、いわゆる評論の『固い』文体から遠ざかろうという意欲も見える。要するに、著者は冒険を試みたのだ。」としている。「量子力学のお勉強と文芸批評とは、ひとまず無関係である」という川村湊氏の発言「物理学を文学に当てはめる・やがて破綻。」という笙野氏の発言をみても、ちょっと読んでみたいという気にはなる。が、この場では実験や冒険よりも完成度を求められるのだろう。

文学を扱う手段として物理学を持ち出した落選作に対して、他者の在処は「無媒介に映画と小説作品を並列して論じているのにもちょっと危うさをかんじたが、立論として無理がなく」という川村湊氏の発言にも見られるように、せいぜい小説に対する映画化作品を並列するぐらいの危うさがここでは適度なのだと思われる。

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いやらしいことをいうと、この批評はよく読むと柄谷行人氏に批判的であり、選考委員の加藤典洋氏も柄谷氏に批判的であり、そして加藤氏に押されて出てきた批評だという、文壇政治的なうがった見方もできる。

コミュニケーションにはチェスのような明確なルールはなく、どのような手段(Ex告白・うそ・フィクション・ノンフィクション)を用いても、そしてどのように伝わっても、その結果責任のみが本人に問われるという著者のモデルは川村湊氏が言うように「『言語論』というべき内容の物ではない」が言語論を見慣れた目で見たとき新鮮に映るのも事実だったりする。

今回批評で賞を取った伊藤氏貴氏が大学講師で、安藤礼二氏が出版社勤務ということを考えると、そのぐらいの基礎教養がないと通用しない世界なのだということを感じる。

著者:伊藤氏貴(いとう うじたか)1968年10月千葉生まれ。早稲田大学卒業、日本大学院芸術学研究科修了。受賞時、大学講師東京都在住。

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