クチュクチュバーンあらすじ
母親のわき腹から余分な腕が六本生えてくる。最初はイボかと思ったが、皮膚を突き破って出てきて手足のように動く事が分かった。六歳の慎一はそんな母春江に「母ちゃん、怖くないか?」と聞く。このような変化はここ二年の間にあちこちで起こっていた。生命体の進化情報が爆発し、個々の個体が勝手気ままに進化を始めたのだ。顔が何冊かの本に埋まっている者、何かの廃材を集めた塊となって産業廃棄物としか見えない者などいて、無機物との間にも同化作用は起こっている。シマウマと同化した男の顔はピカソの絵と似ている。中央政府は機能停止状態で、通りでは自警団が炊き出しを行っている。
このような変化の影響をほとんど受けてない地域に住む達夫は、最近工場労働よりも党集会の方が忙しい。党から支給された石鹸、人の死体から作った石鹸などを家に持ち帰る。妻の佳枝は達夫の同僚前山と出来ている。けれどそのことは夫にも世間にも内緒だ。いまの厳しい社会規制の中では、不道徳は処理施設送りになる。死体処理によって食べているのが今の時代なのだ。
春江が寝ている間に慎一は自警団の配る雑炊を食べた。雑炊の中に変な匂いを感じた春江は慎一の口に指を入れて雑炊を吐かせる。毒物の混ざった雑炊を食べた人たちが、突然ドミノのように倒れて痙攣し、弓反りの状態で硬直する。自警団の連中はこの光景を楽しみながら酒を飲む。死ぬ直前人は様々なものと同化し形状を変える。ときには、何人もの人が鉄骨のような形状となり、塔のようなものを形成し始めた事もある。
変化の影響が比較的少ない地域に住んでいた前山も処理施設に送られる。ここでは、化け物化した人間が大勢送られてくる。その化け物化した人間を部屋に監禁しハンマーで頭を叩き割るのが前山の仕事だ。一日十二時間の作業を終わると入れ替えで独房に入り残飯のような飯を食らって寝る。ここでの働きが悪いと最前線に送られ、怪物化した人間を生け捕りする仕事につかされる。地域への汚染をくい止めるのは彼らの仕事だ。独房の中で前山は自分の顔に手を触れるが顔がない。目や耳が無いためか周囲の闇は濃く、作業場の機械音もしない。独房の壁を手探りするが壁に手が触れない。狭い独房の中にいたはずが、数歩歩いても壁はなく、床も消え、宙に浮いた状態で一切の外界からの刺激が消えうせる。自分の体を触ると確かに体はある。ところが、腕が消え、脚が消え、胴体もあるのかどうか分からない。やがて前山は全部消え、意識は普遍的な宇宙の大きさに成ったかに感じた。でも、実際には前山は極小化していき独房の片隅で芥子粒ほどの大きさになっただけだった。
地平線にある四つの太陽に向かって人々は走り出した。そして人々は巨大な集合体の中に溶け込んで行く。集合体はあらゆる物を吸収し、すべての生物を吸収するとバーンと爆発した。そうして新しく生まれた人類は虫のようなものだった。
クチュクチュバーンの売り
とにかく面白かった(辻原登)
こうなればやけだ(浅田彰)
私はこの作品のアニメ化を希望します(島田雅彦)
これって、なーんにもかんがえてないみたいでそこが良かった(山田詠美)
奇想に徹した凄み(奥泉光)
と、絶賛されているわけですが、どこがすごいのか?
このテの作品は、繰り出される奇想だけが頼りである。奇想が途切れたら駄目なので、だからたいていは「物語」を導入する事で、小説の構造を支えることになるのだが、そうしてしまうときわめて陳腐なものになる場合が多い。ところがである。吉村氏はさして長くない一編とはいえ、最後まで奇想を途切れさすことなく、ソロで吹ききってみせた。たいしたもんである。神話的原型や物語のパターンを隠喩的に引き寄せず、奇想に徹して書ききったところは偉い。(奥泉光)
母が巨大化し父が微小化するといった一見オイディプス的なテーマも見られるとはいえ、父殺しがドラマ化されるどころか、「きうっ」という泣き声で気がついてみたら扉で父を挽き潰してしまっていたというアンチオイディプス的な展開でスピーディーに処理されるところなどは、読んでいて爽快感さえある。こうしてウェットな意味の発生を避けながら、ドライな幻想をとめどもなく紡いでゆく想像力と筆力は、端倪すべからざるものと言えよう。(浅田彰)