Tiny,tinyのあらすじ
幼なじみの奈美と大森は現在高校生。なんとなくメンバー募集の紙などはってバンドを始めた。そこへ隣のクラスの山崎が応募してきた。これで男二人、女一人のバンドが完成。山崎は二人と違って楽器が上手い。奈美は楽器の上手い山崎をつかんで離さないつもりだったし、大森は幼なじみで話をしやすいのでこちらとも仲良くしたい。でも、大森と山崎が口をきいているところは見たことがないし、大森は無口な山崎をよく思ってない。
三人でバンドをしているとき、奈美がいないと無口なのに、奈美が入ってくると、山崎は急に愛想が良くなる。練習を終えて家に帰るとき、山崎はいつまでも大森の後をついてくる。山崎は「好きなんだ」と言って大森の額にキスをした。大森にはその気はなかったが、純愛ということにしておけば山崎を都合よく使えると思い付き合うことにする。
山崎はコアラが好きだ。コアラは木にしがみついたままほとんど動かない。オーストラリアにしかないユーカリがもし絶滅してしまったらコアラも死んでしまう。肉食獣のように狩という労働をすることもなく、ユーカリしか食べないナマケモノが山崎は好きだ。山崎は陣さんも好きだ。髪とひげが伸び放題のヒッピーで、反原発とか沖縄問題とかやっているが何で生計を立てているのか分からない人だ。
大森はキレやすく、暴力沙汰の多い人で有名だ。大森は自分を「好きだ」と言う山崎を利用したいと思っている。利用できる人間なら誰でも良かった。そんな大森を甘やかしキレやすくし、めちゃくちゃにしたいと思って山崎は大森に近づいた。山崎は大森や奈美と違って貧乏な母子家庭出身だ。山崎の母は水商売で稼いだお金で山崎を育てた。夜のバイトで稼いだお金でブランド物を買ったりする母の生き方は山崎の趣味じゃない。そんなことをしても土地持ちの奈美や大森のような金持ちにはなれないからだ。山崎はボランティア活動をしている。大森はますます駄目になる。山崎は奈美にキスをする。奈美は今のを大森が見ていたら面白いことになっていたのになぁと思う。
Tiny,tinyの売り
Tinyは、形容詞だと、小さい・ちっちゃな、名詞だと赤ん坊・幼児の意味である。タイトルは登場人物たちの幼児性を非難する内容になっている。書き方としては一人称で章ごとに、奈美・大森・山崎と視点を代えて書いている。最初バンドが組まれたとき、奈美の視点で「奈美の取り合いをする大森と山崎」という内容に見えたのが、次に大森の視点に変わり「山崎に慕われている俺」となり、さらに山崎の視点に変わると「わがままな金持ちの破滅を待つ俺」へと変化する。そして最後、奈美の視点で、どうして山崎は大森を甘やかしているのだろうと思いながら、山崎といちゃつく。視点が変わるたびにどんでん返しがあり、皆自分の都合のようにしか世界を解釈しておらず、基本的に完全な善人はどこにも居ず、皆それぞれにうぬぼれ、醜さをさらしながら生きている様子が書かれている。
笙野氏は「主人公に流れるコモン・センスも、無頼派気取りの人々をむかつかせて良だ。」と読者を怒らせるセンスをほめている。読者を不快にさせるフレーズをちょっと引用してみると、奈美がゴキブリを見つけたシーン。
やだやだこっち来んなよわたしは耐え切れず指でそいつをつまんで押し潰した。白い油みたいなのが出たけど死なずに逃げようと羽を出した。わたしは怖くて気持ち悪くて食べてしまった。そうすれば失くなってしまうのを知っていたから。飲み込んだのでそいつは目の前から消えた。
(1999年文藝冬p32上段より引用)
女の子がゴキブリを怖がって、つい食べてしまうシーンである。これなど読者を不快にさせる最たる例だろう。男性が書いた花嫁修業本のような物を批判するフェミニズム文学の旗手笙野氏にとって、上記のような女性の描写は、男性の考える理想的女性からずいぶんとかけ離れた物になっておりその辺りがプラスに作用したと思われる。
他にも山崎がボランティアをするシーンで、ボランティアを行う人々の醜態をいちいち描写しようとする。「よし子ちゃんが自己顕示欲を充たすためでユリさんが自分探しのためにここに来てる」「ほかにもやたら議論好きでここに来てる人たちを組織化したがる(中略)神大生の菊池くんとかもいるけど」このようなあらゆる人に対する悪口、攻撃性というのが、審査員笙野頼子氏の趣味嗜好と深いレベルで合致したのだと思われる。この小説はすべての人に喜ばれる物だとは思えないが、コンテストにおいては審査員の作風や感性を調べ上げそれにあった物を提供するのも大事な戦略だと思われる。
一九九九年度第三六回文藝賞
応募総数1596編 選考委員 笙野頼子 長野まゆみ 久間十義 松浦理英子
受賞作「Tiny,tiny」(一〇五枚)濱田順子(はまだ よりこ)一九七四年兵庫県生まれ。受賞時二五歳。
選考委員の言葉
落選作二作はともにセックス・ドラッグ・ヴァイオレンスが題材となっているが、こうした題材が既に手垢に塗れているという自覚が作者にあるのかどうか。実際、二人とも二十代とのことだが本当は五十歳近いのではないかと疑わせるほど感覚が古めかしい。「カワイコちゃん」などというのはいつの時代のことばなのか。(松浦)
「HELL YHAH!」
横書きの必然性はあってもそれがプラスにはならない。(笙野)
この人は文句なしに才能のある人だと思う。しかし、松浦委員からこの作品の持つゲイ差別の側面について強硬な意見が出て、残念な結果となった。(久間)
HELL YHAH!を推した。女が男を主体として書くことの意味を常々考えている立場から読めば、この作品の殺戮で、作者が最も殺したかったのは書かれていない人物、つまり「自己」だろう。自分を殺さないために書くという姿勢が見えたので、同類の私はこれを否定できなかった。しかし、選考会で議論となったのは、差別的だと思われる表現が作中にあったことだ。小児性愛による殺戮を扱い、その犯人を同性愛者として書いてある。小児性愛の殺人者の多くは同性愛者ではない。(長野)
作者はこれが最も無自覚な差別小説であることを理解してから書き始めるべきである。(松浦)
シェークスピアのベニスの商人で悪役にユダヤ人の金貸しが出てくるのだが、それがユダヤ人差別にあたるのか?という問題に近い話だと思う。物を書くとき悪役にマイノリティーを持ってくると受賞しにくいということだろうか。
また、長野氏の「同類の私はこれを否定できなかった」の一文。通常どのようなコンテストでも、審査員の芸風と異なる物の方が受賞しやすいと言われる。同じ芸風では審査員の商売敵になってしまう。さらに、同じ方向性ではキャリアのある審査員の方が優れていることが多く新人のあらも目立つ。けれど、長野氏は同類を評価した。もちろん、少年愛ファンタジーを描く長野氏とゲイの小児殺戮を描くHELL YHAH!では芸風が違うのだが、芸風の違いがこのぐらいの距離感の場合、長野氏の琴線に触れるというデータは持っていて損はない。
「ガキを犯って殺ってると思いこんでる大人たちには、おれたちガキに犯って殺られる資格なんてないわけよ」の一文が際立っている。本作はここから再構築されるべきだろう。(長野)
「Tiny,tiny」
ともかく書きたい事があるように見えた。反権力ぶって甘えたおとなに向ける若い女性の批判、これは永遠の流行と言える。(笙野)
とはいえどうしようもないのは、地の文に現れる他者への慣用句的無神経だ。(笙野)
全体に面白いのは長野氏と久間氏の二人が強固に推し、松浦氏が強固に反対したHELL YHAH!ではなく、笙野氏がやんわり推したTiny,tinyが受賞しているという事実だ。笙野氏も強く推したわけでなく、批判も入れている。長野氏久間氏ともに、選評のほとんどをHELL YHAH!に割く力の入れようで、Tiny,tinyにはほとんど触れていない。まして松浦氏も強く推している文章ではない。セックス、ドラッグ、ヴァイオレンスを扱わなかったところが、松浦氏にとってマイナス要因にならなかった程度だ。二人が強く推しても一人が反対すれば通らない。誰も反対しなかった物が結果的に通る。コンテストとは難しいものだと思う。