二匹のあらすじ

 高校生で幼なじみの妻城明と藤田純一。教室の席は七人が七列で、五十人学級。一人後ろにはみ出した席に明で、真ん中の席が純一だ。真ん中に座る純一はクラスの人気者で、はみ出した席に座る明は嫌われ者。休憩時間になると純一の周りに人が集まる。純一は愛嬌のあるお馬鹿な奴だ。みんなの人気者であるためお昼は誰もが喜んで純一のパンを買いに行く。純一はおハシを使うことすら出来ないお馬鹿な奴なので、お昼はお弁当ではなくいつもパンなのだ。

 ある日、保健室で明は純一にかみつかれて指から血を流す。保健室の先生から明は説明を受ける。純一は狂犬病で物忘れがひどく、日常の細かいことが出来なくなっていること。人間の生活に適応できないため保健所で死ぬことを望むこと。明にはすぐにはその症状が出ないことなどだ。

 純一がトイレで弁当を食べているとき、明とばったり出会う。純一はおハシが使えないため素手でお弁当を食べている。おハシが使えないのをバレたくないため、トイレに隠れて食べていたのだ。明にみつかった純一は手に付いた米粒を取ろうと手をズボンにこすり付けるが中々取れない。それを見た明は純一の手に付いた米粒を取ってやる。でも、純一は米粒を取って欲しくなかった。米粒を取ろうとしている姿を見て見ぬ振りをして欲しかったのだ。

 明は純一の代わりに掃除当番をしようとする。純一の代わりにパンを買いに行っても良いと言う。出来ないことは何でも代わりにやってやるから、クラスの奴らに道化を演じて見せる必要はないのだと明は言う。そして、純一あての女の子からのラブレターを明は破り捨てる。「女となんか付き合ったって、また何か出来ないところを見付けられて恰好悪い思いするだけだぞ。」と明は言う。あるとき、純一が言うことをきかないので、明は純一に犬の首輪をつけようとした。けれど明は首葉を締められない。純一は言う「何分かかってんの?首輪するのに」明の病気も徐々に進行している。保健所に行きたいか聞かれた二人はそれを断る。

 首輪を付けるものと、付けられるもの。座席の真ん中と端っこ。そういった座標を決定する見えない大きな手から逃れるために二人は走り出した。

二匹の売り

退屈な駄洒落の連続。クズのような言葉のみで書ききるということは普通はできないことだ。と松浦氏に評された文章を少し引用すると、

「ハハめちゃウケ!」

そう言って明はベッドの上で笑い転げた。

「ウケるだろ?ハハハ・・・・・・ウケまろだぜ」

「ウケまろ?」

ウケまろってなんだ?

二人は考えた。

「平安時代の貴族かなんかだろ」

そして大合唱が始まる。題して「999Zのテーマ」

「時はドンドンハルマゲドーン

だからこの世はファイナルさー

最後の数字は? もちろん9だぜ

最後のローマ字! そいつはZだ

最後の力を身に付けた、その名も999Z」

 このような文体のみで最後まで書き切っているのがすごいといえる。狂犬病という実際にある病気を使って、管理された社会のシステムから病によって逃れていくというテーマ自体はよくあるものかもしれない。ただ、それをシリアスにならずに最後までふざけたノリで書くのは作者の力量だろう。

 一見親切のように見えて、実は自分より病の進行した純一に優越感を感じたいだけの明の行動をこと細かく暴いていく書き方は、人間の醜さを描いたTiny,tinyを推薦した笙野頼子氏の好みに合ったテーマだと思われる。

 気持ちがいいぐらい個人が特定されず、意識は常に身近な存在や、視野に入るだけの同じ教室の生徒などと浸透しあい、共有されていく。と評された意識の流れですが、具体的には地の文が視界に入るすべての人間の心理を描写していくんですね。

第三五回文藝賞
応募総数1572編。選考委員 笙野頼子 長野まゆみ 久間十義 松浦理英子。

受賞作「二匹」(百四ニ枚)鹿島田真希(かしまだ まき)一九七六年東京都生まれ。受賞時白百合女子大学文学部仏文科在学、二一歳。

選考委員の言葉

「二匹」

 二匹は読むたび欠点が目に付きます。狂犬、アンネ・フランク、生の言葉がいちいち引っ掛かります。ただ捨てがたいのは、自分の体内感覚を本能的に信じて、文章のジャンプを一心に繰り返す点。(笙野)

 冒頭、きわめつきの陳腐な表現、退屈な駄洒落の連続に脱力感を見舞われるのであるが、読み進むうちに、どうやら作者は意図的にクズのようなことばばかりを使っているのではないかと思い当たる。百四十二枚もの枚数を、一定のテンションを保ちながらクズのような言葉のみで書ききるということは普通はできないことだし、ただのクズにしては、この作品は幼いなりに考え詰められた構造を持っているからだ。(松浦)

 面白いのは松浦氏・長野氏ともにほめているのが、登場人物の意識が別の登場人物にも共有され共振・浸食されている点です。

 本来一人の登場人物が担うべき役割が、テクストに強いられるまま複数の登場人物に転移して行く。作者が小説という形式の暴力性に敏感であることは確実であろう。(松浦)

 個や自己を求め、特定の人物であると明かすことに意味のあった時代は、気づけばとっくに終わっていた。だから世紀をまたいで書くはずの新しい書き手が「私はこんな人」というのを書いていても仕方がない。(長野)

 ここまではおそらく最終選考に残った「トーキング・アバウト・ミー」について書かれたもの。そしてその後こう続く。

 その点、「二匹」は、気持ちがいいぐらい個人が特定されず、意識は常に身近な存在や、視野に入るだけの同じ教室の生徒などと浸透しあい、共有されていく。性別も種も関係なく、誰も意識を所有しようなどと、無茶なことは考えない。(長野)

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